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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

前回は良書と言いつつもくさしている書評じみた私見を述べたが、もっといい図書があるのでそちらを紹介しよう。書き手の熱意や偽りない率直な言葉がぎっしり詰まっていて、金儲け臭を気にせず読める『クマにあったらどうするか~アイヌ民族最後の狩人 姉崎等』。2002年刊を再編集して2014年に文庫本になったものだが、表紙がかわいい。姉崎等氏の体験談を片山龍峯氏が聞き書きするという体裁の共著なので、会話形式で読みやすく、子供にもお勧めだ。
表題に掲げたクマに遭遇した際のサバイバル法のほか、クマの生態を知り尽くした猟師の知恵や人間力、戦前戦後の北海道事情からアイヌの風習まで細やかに語られている。聞き手がいいのだ。聞き手に是非知りたい、記録として残したいという強い熱意があり、その熱意に語り手も共感して出来上がった本なので、その志が行間から滲み出ていて清々しい。なにより聞き手が予備知識を持って聞き取りに臨み、「クマにあったらこうすべし」という巷の諸説を目の前のクマ猟師にぶつけて真偽を問うと、猟師の答えは白黒はっきりしているのだが、それは「自分の経験ではこうだからこう思う」という言い方であって、巷の説を頭ごなしに否定はしないところに好感が持てる。「その方法は逆効果だと思うけど、こういう特殊なケースならばあり得るかもしれない」という1か0ではない物言いに、猟師の深い洞察や論理的思考が見え隠れするのである。前回記事の本の印象と比較してみて下さい。

例によって読書の時間のとれない方の為に、姉崎猟師の有難い教訓名言をかい摘んでいくつか。
――(猟で山に入ったら)ずっと1日二食で、ご飯一膳と味噌汁だけで10日ほどもつ。私は山に入っても入らなくてもあまり食べないようにしている。あんまり食う人だと体力が持続しない。大食する人は元気が出るかといったら、絶対に出ない。胃袋だけが大きくなって、少しでもお腹がすいたら全く、グダーッとゆでた菜っ葉のように弱いです。
――(アイヌがしばしば山のカラスと共働するという話で)山ガラスというのは町にいるカラスとは違う。町ガラスは人にばっかり頼って暮らすけど、山ガラスは人に頼らず山の中で虫を獲ったり(自力で)生活している(ので人間と対等の意識がある)。ハンターがクマを獲ると肺臓だけを残し、カラスが食べやすいように細かく切って木の枝に丁寧に刺しておく。するとそれぞれのカラスにひと口ずつでも当たるようになる。カラスたちは、ハンターについていくと必ず恩恵があるものと学習して、クマ猟に同行するようになる(クマがいる所ではカラスは集団で鳴く習性があり、猟師はこれでクマの居場所をつきとめられる)。
――(アイヌの魂送りの思想に触れ、クマを獲っても)獲ったという喜びではないんです。この肉の部分を持って帰る、ここは捨てていく、ということをしないで皆で大事にしてやろうと考えて、カラスにあげる部分以外はどの部分も持って帰る。(スポーツハンターがクマを倒すことに喜びを見出しているのとは違い、)クマを倒したらその後まで私らは責任を持ってやるんです。クマを獲れば獲るだけ、責任は重たくなります。

姉崎猟師はクマを山の師匠と仰ぎ、山における知恵はすべてクマの習性を模倣することで身に付けたという。口で言うのはやさしいが、他の猟師に聞いてもこんな手法は普通の人間はまねできないそうだ。「俺たち人間だからさ」。
ところで、クマが賢いことはよく知られているが、どれほど賢いかを示したエピソードをひとつ。研究目的で野生のクマに電波発信機をつけたところ、クマは人里近くの道筋すぐそばにいても、近くを通りかかる人間の目には触れない場所を選んでいることが判った。藪や高低差で人間の視界には入らないので気付かれることはない。しかし距離的には目と鼻の先である。クマは人間に気付かれると面倒になることが判っているので静かにしてやりすごしているのであり、人を襲う意志はない。姉崎氏曰く「クマは平和主義であり、人間との無用な争いを避けようとする」。
昨今は『新潮45』の杉田論文擁護云々の話題で、またぞろ差別だ、謝罪だ、何だと多くの人が首を傾げる権利の主張がメディアを賑わせているが、この種の権利は「表現の自由」をつきつめれば結着のつかない話であることをいい加減人間は悟って、クマのように無駄な争い事を避けて静かにやりすごしたり、人間(=意見の異なる他者)と平和に住み分けする知恵を磨いたりするべきではないのかね。クマよ、愚かな人間を熊パンチで諫めてくれ、なのだ。

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# by hikada789 | 2018-09-25 15:55 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
山小屋での肉体労働の利点として、坐骨神経痛の改善を上げておこう。土星裏の執筆も含めPCワークの多い宇宙人は三年程前から坐骨神経痛となり、15分も座っていると尻が痛むので立ち上がらねばもたない。椅子でも床でも同じだ。座布団を工夫してもだめなので、ここはもう加齢と観念して、総体的な健康維持も視野にちょいちょい立ち歩くようにしている。読書も立ってしたり。でも立ったままも結構疲れる。
ところが夏の山バイトを始めたところ、当初はあまりに座る時間のない就労に辟易していたが、いつの間にかすっかり慣れて、もう何時間歩きっぱなしでも大丈夫な体になった。お蔭で今や登山も座り休憩なしで日没まで歩ける。そしてついでに坐骨神経痛も治っていた。やはり自宅では座り過ぎていたのだ。
そんなわけでこの夏も山バイト中は坐骨は好調だったのだが、帰宅して半月も立つとまたぶり返した。PC作業を短くすることはできない。そこで思い切ってスタンディング・デスクにしてみた。いや、家具を新調したのではない。書籍ラックの天板の上のモノをどけてPCを置いたのだ。そして今立ったまま作業している。よさげではないか。背丈を合わせるために健康竹踏みをしながらなので、無意識に足踏みを強いられて血行も滞らない。これで何時間作業が続けられるか、しばらく様子を見よう。

暑さ寒さも彼岸まで。最近は涼しい日も増えて読書も億劫でなくなった。色々並行して読んでいるが、気付くことがあった。しごく真っ当な論理で展開した流暢な文章であるにも拘わらず、鼻につく文章というのがある。石平著『結論!朝鮮半島に関わってはいけない』がそれだ。これは日本に帰化した中国人研究者が日本人向けに朝鮮史を紹介し、その伝統文化としての血みどろの内部闘争や、儒教一辺倒による思想的弊害、政敵を倒すために外国を引き込む習性といった、必ずしも新しい話ではないが朝鮮の歴史を通じて「常にこうだ」という論証を積み重ね、朝鮮民族の国民性を明快に分析した読み物なのだが、著者は大学院までを中国で修了し、その後来日して帰化した割には、日本文が上手すぎる。訳者の名は出ていないが、おそらくリライトしている編集者に文才があるのだ。表現に単調さがなく、多彩な言い回しで言いたい内容がはっきり伝わり、説得力がある。
そう思って最初はスイスイ楽しく読んでいた。南北朝鮮には気の毒だが、宇宙人はどちらの国も嫌いだ。嘘ばかりで誠実さを示すエピソードが見当たらない。フィクションであるドラマや映画でさえも、話の論理性に全然納得がいかないので、最後まで見ていられない。その原因を、この図書は歴史を順番に紹介しながら提示してくれるので、大して明るくなかったかの国の歴史がわが頭の中ですっきりと整理され、その根幹を貫いている国民性やその国民性を形成した環境要因などが今日の国際政治にも脈々と受け継がれていることを納得できた。そういう意味で良書だと言っておこう。

しかし何が気に入らなかったのか。簡単に言えば、上から目線の文体なのだった。日本人編集者にリライトされているから中々気付けなかったが、いま半分ほどまで読み進んでペースが落ちて来たのは、著者が自説の正しさを信じきって悦に入っているのが鼻についてきたからだ。日本人の感覚として、研究者には自説や通説に埋没することなく常に研究対象に疑いの目を向け、その繰り返しによって疑う余地のない真実に迫っていくという、学術道ともいうべき姿勢が求められるのだが、それがない。しかもリライトしている人がそれを何とか隠そう隠そうと奮闘し、日本人の読者に気付かれまいと配慮しているのさえ感じ取れるほど、読めば読むほど著者の浅薄さが読み取れる、そういう不思議な文体なのだった。まあ試しに読んでみて下さい。買わなくてもいいから図書館ででも。朝鮮通史として読む分には手軽な本です。

ところで私はかつて中国に二年も滞在していたくせに、中国も中国人も嫌いである。中国語は話せるのだが、これを武器に仕事を探すとストレスフルな職場に当たるため、知らないふりをしている。嫌いな理由はあまたあるが、その中の一つはやはり上述の浅薄さだ。彼らは自分を省みるという習慣が全くないから自分が一番正しいと思い込んでいるし、そのため他者を貶める発言ばかりする。反省しないから同じ間違いを何度も繰り返すし、その過ちを認められないのですぐ人のせいにしたり、人のアラを探して自分への批判を逸らそうとする。最低な人間だね。よく中国人が先の戦争を日本人が反省していないとかほざくけど、あれは中国人自身が反省する習慣を持たないので、外国人もみな自分達と同じと思ってほざいているに過ぎないということを、二年の滞在で痛感した。日本人よ、世界でこれほど自省する国民は、私が知る限り日本人以外にはおらぬ。心配するな。

この種のエピソードはなにも中国に渡らなくとも日本でも味わえる。先日仕事で整体の覆面調査をした時、そうと知らずに中国人整体師の店に入った。そこでは整体の他に健康食品として蜂蜜を売っているのだが、整体師は施術中しきりにその効用を語って、こちらが自発的に買うよう誘導するのであった。しかも笑えることに、「日本の蜂蜜は農薬のせいで品質がよくない。中国は農薬の心配がないからこの値段はお買い得だ」だと。ばかめ、中国の野菜を買った現地の消費者が洗剤で野菜を洗わなければならないほど中国では危険な農薬を使っていることを、日本人が知らないとでも思っているのか。勿論調査報告書にはありのままを書いた。
もうひとつ最近はこんなこともあった。近所に豆をその場で焙煎してくれるコーヒー豆チェーン店ができたので行ってみたら、店員一人だけでやっており、大変流暢な日本語ではあったがわずかな訛りで中国出身と知れた。見た目では判らなかったが訛りに加えてトークでばれた。自分の勧める豆や淹れ方が世界で一番正しく、あとは全部間違っている、という口ぶりだったからだ。宇宙人はコーヒー好きなのでお気に入りの店が近くにできたら嬉しいと思っていたが、もう行くつもりはない。話しているだけで不愉快になる。日本人だったら自分の豆や淹れ方を自慢することはあっても、他者のやり方を否定するような発言は下品で逆効果だと判るので、自然に避ける。ネガティブキャンペーンを米国選挙でいくらお目に掛かろうと、日本人は体質としてそれを歓迎しないし、居心地悪く感じるのだ。そういう作法ひとつで国民性、いや思い切って品性と言おう、品性は露呈するものなのだ。

本の話に戻ると、いや実に不思議な文章だが、そこに私が見出した違和感は、おそらくリライトしているネィティブの日本人が、中国人である著者に100%賛同しているわけではないことによるのではないか。つまり原文のままでは日本人が中国人の浅薄さを嗅ぎ取って売れないと判断し、売るためにマイルドな日本語に仕上げた。けれども編集者は売るためにこの本をリライトしているのであり、著者に同調しているわけではないから、著者の原文ほどには熱意のない文章になってしまった。そう、これほど明快で、一般読者向けに奇をてらった感のある表現を散りばめた朝鮮人論であるにも拘わらず、そこに本を書く人の熱意が感じられないのだ。熱意でなければ誠意といってもいい。要するに金儲け第一の文章が、こういう風になるわけなのでは。
私もソ連時代のヘンテコなロシア語を読んで頭を悩ませた経験がある。当局が真実を隠すために書く難読の声明文や、知識人が検閲を恐れて駆使する回りくどいレトリック、或いは心の叫びを暗喩であちこちに散りばめている謎めいた評論文など、「もっと判りやすく言えばいいのに」と呆れる文体とは知らぬ仲ではないが、この本のような熱意に根っこがないというか、或いはリライトの横槍で熱意が微妙に削られている文体には初めてお目にかかった。まあ事実とはいえ研究対象の民族をディスる内容なんだから、内側から輝くような文章にならなくて当然かもしれない。No.1102の『ダーリの辞典』と参考まで比較下さい。

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# by hikada789 | 2018-09-23 18:45 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
テニスの大坂なおみが大人気との一律報道に疑問を感じている。自分がそうではないからだが、テニスに全く興味がないわけではない。錦織圭の試合はチャンスがあればTV観戦してきた方だ。日本人らしい体格の彼が、海外の大型選手にパワーでなく技術で打ち勝つ姿が痛快なのだった。彼が欧米人並みに大柄で、強力なサーブばかりで点を取るタイプだったら見ていない。そういう意味で、一番好きなテニスプレーヤーといえばロジャー・フェデラーなのだ。宇宙人は単調な力押しでなく、上手さや技の多彩さに感動するタイプなのだからしょうがない。

女子テニス界は永らくパワー押しのウィリアムズ姉妹の天下だったので見てこなかった。プレーが単調でつまらない。せめて細身のシャラポワを応援したかったがドーピングで引っ込んだし、眺めて気持ちのいい選手が見つけられぬまま、遂に日本人にはとても見えぬ外貌の大坂の登場となった。武器は錦織より速い強烈なサーブ。ああ、それは日本人の特技ではなかったはず。大柄な海外選手の十八番ではないか。それでは、やはり日本人の繊細さを押し出した技の力では世界一にはなれないということだろうか。そうしたわけで、大坂選手の活躍には何やらガッカリした気分にさせられるのであるが、皆さんはそんなことないですか。

唯一の救いは、彼女のコメントが非常に日本人的感性でできているということくらい。そのコメントさえも、「謙虚だ」という評価が多いけれども、それはジャイアンみたいな態度を30過ぎても取り続けて平然としている幼稚な米国人ウィリアムズと比べればの話でしょ。ああいう女性をリスペクトしてきたということ自体、大坂の人を見る目の無さを露呈しており、白けた気分になるのだが。尤も、錦織圭も誰をリスペクトして真似たものか、自分のミスをラケットに八つ当たりする性癖があった(大坂も以前はしょっちゅうやっていたという)。伝統行事として針供養さえしている日本人一般の感覚として、ああした行為はありえないことだ。活躍している人を持ち上げるのは結構だけど、その人が誰を手本とした結果何を真似てしまったのか、その真似た所作は果たして褒められたものなのか、という辺りを人間性を測る尺度として指摘する人がいてもいいはず。いないみたいだから宇宙人がやろう。繰り返すぞ。自分の至らなさを棚に上げてモノに当たるなど、低級な人間のすることだ。子供達よ、ここに明記しておくぞ。

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# by hikada789 | 2018-09-20 15:30 | その他 | Comments(0)
先日カンボジアを取材した番組を見ていて、ポル・ポトの死因が未だに謎であることを知りました。自殺とも他殺とも言われているそうですが、真相は確かにありますし、誰かが知っているはずです。しかしカンボジア国内でも公表されておりません。それどころか、ポル・ポトが引き起こしたカンボジア内戦や虐殺についても、当地では学校教育で教えないということです。
その番組の解釈によれば、ポル・ポトによる恐怖政治の言いなりになるしかなかったカンボジア国民は、多くが圧政や虐殺の加害者でもあり、そのいちいちを糾弾していたら既に激減している人口を維持して国を再建していくことができないため、被害者は復讐心を抑えてかつての加害者と共存せざるを得ないのだということです。決して赦したわけではないけれど、今は黙っていることにした。その状態を続けた結果、学校の教科書にはポル・ポト時代の内戦の事実が記述されず、子供達は自国で何があったのかを知らぬまま、戦争があったことなど知らぬまま、平和に日々を送っているというわけなのでした。
どこかで聞いたような話です。日本の子供達も戦後70年を経ては、もう先の戦争を遠い過去の出来事としてしか認識しないのが一般的です。学校の教科書では学ぶけれども、もはや壬申の乱や桶狭間といった歴史上の一事件としてしか把握しておらず、実感はない。そうした現状を見て、戦争の生き証人である老人たちが危機感を感じたものか、今まで口をつぐんできた自らの加害体験や、性的被害といった思い出したくない事実を、自分が死ぬ前に伝えておこうとする活動が細々と行なわれています。勇気のある活動です。

算命学の観点から言えば、こうした活動は大いに意義があり、また自然な行為です。算命学学習者にはご承知のように、実際に起きてしまったことは事実として後々まで影響し、隠したところで決してなくなりはしないのです。どんなに都合が悪くて隠蔽しようが、皆が口裏を合わせて歴史を改竄しようが、法律で無罪と認定しようが、焚書しようが、事実は事実です。その後の歴史は、その事実の上にしか積み上げられない。
それを、その事実がなかったかのように振舞い、その上で歴史書を上書きし続ければ、その歴史は自ずと辻褄が合わなくなるものです。繰り返しますが、事実を積み上げたものが歴史なのです。嘘を積み上げたものは歴史ではなく、誰かに都合のいい物語、つまり虚構に過ぎません。

困ったことに、人間は事実で出来上がった歴史よりも、物語の方を好む生き物のようです。そして物語の辻褄が合わないことを認めながら、「昔の話だから細部までは伝わらないのだ」と不明点に疑問を差し挟まず許容してしまいます。謎を謎のまま放置してしまう。
しかし事実はやはり物語とは違うのです。誰かが都合の悪い部分を削除したり嘘で塗り固めたりした結果、一貫した歴史の筋道の中に意味不明な穴があちこちに穿たれ、その穴のせいで我々は過去を正しく辿ることができなくなっているのであり、事実が消えてなくなったわけでは決してないのです。

算命学の効用の一つは、こうした穴に嵌まることなくまっすぐに過去への糸をたぐり、一貫した歴史を再現することです。その手がかりは自然が示してくれています。算命学は自然思想でできていますが、自然は嘘をつきません。そして自然の法則は宇宙の運行と同調しているので、宇宙の運行にそぐわない事件はこの世に起きません。
従って、算命学を正しく認識し熟練することで、宇宙の法則に反した事件を炙り出し、人間がどこかで始めた嘘や虚構、自然に反した行いを暴くことができるのです。学習者には、そうした側面にも目を向けて鑑定技術を向上させてほしいと思います。

今回の余話は、前回の特殊な星並びの話につなげて、宿命の消化がどうして重要なのか、果ては宿命未消化が社会全体に与える影響について、巨視的な視点を鍛える内容です。もちろん狭義的にも、運勢鑑定における助言の出し方の方向性について考えを深める内容でもあります。その導入に、天災を例に挙げてみます。
今年は天災の多い年ですが、大きな地震によってしばしば液状化現象というのが起きます。あれは地面の奥に水が砂と一緒に溜まっていて、それが地震の揺れによって上下左右にシャバシャバと揺すられた結果、重い砂が下に沈み、軽い水が上に上がり、その上に来た水が地上に浸み出して周囲を水浸しにするという現象です。それを知らずに家を建ててしまうと、地震で地盤が水浸しとなり、家が傾いて住めなくなるというわけです。
このメカニズムは、上述の穴の空いた偽りの歴史に似ています。どうして家は傾いたのか。それは水の溜まっている地面と知らずにその上に家を建てたからです。どうして人間は同じ失敗を繰り返して痛い目を見るのか。それは嘘という穴ぼこだらけの歴史が正しい歴史なのだと勘違いして、その上に安心して生活していたからです。地盤は崩れるべくして崩れたに過ぎない。算命学ではこのように見えています。

実践的な話に移ります。前回#R73では、周囲を同じ星で囲まれた命式について論じました。算命学余話を以前から読み続けている読者にはお気付きかと思いますが、この星並びは、同時に「八相局」に準じる形です。「八相局」は余話#U108を皮切りに、#U110、111、112で五性を個別に考察しました。また#U119では、星並びによる同化について論じましたので、合わせて再読して頂ければ理解が深まるかと思います。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「宿命未消化と災厄の関係」です。「算命学余話 #R74」で検索の上、登録&水出しアイスコーヒー一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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# by hikada789 | 2018-09-18 12:37 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回続き。イーゴリ・マルケヴィチの古い音源にかくも衝撃を受けた宇宙人といえども、密度の濃い話なり音楽なりに常に過敏に反応するわけではない。日常的に聴いていれば感動も薄れる。しかし今回は40日間を山中に暮らし、山らしい無音であったのなら良かったのだが、そうではなくて、くだらない人間のくだらない会話(他者への中傷を含む)をそこにいるというだけで聞かねばならず、くだらない人間が好む騒音のようなざらついた音楽をそこにいるというだけで聞かねばならなかったので、わが耳はすっかり疲弊して、きれいな音や美しい言葉、魂の込められた高尚な音楽を強く欲する状態にあったというわけなのだった。
宇宙人は都会で疲弊した肺と魂のクレンジングのために登山をする習慣があるが、俗世から離れた山は耳にも威力を発揮していたのであった。そういえば宇宙人はもうすっかり一人登山が定着しているが、静かな山を堪能するためには同行者はいない方がいいからなのだ。喋っていたら山のざわめきや鳥獣の鳴き声も聞き逃してしまう。どうですか皆さん、あなたの耳が喜ぶような言葉や音を、それなりの間隔で聴かせてやっていますか。それとももうとっくに麻痺して、味噌もクソも同じようにしか聞こえませんか。
耳が喜ぶロシア文化関連イベント9月のお知らせです。

(1)ロシア国立交響楽団(スヴェトラーノフ・オーケストラ)
◆日時:平成30年9月17日(月・祝)14時開演
◆場所:東京オペラシティコンサートホール
◆演目:ストラヴィンスキー/交響詩「火の鳥」、ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番、チャイコフスキー/交響曲第5番
◆入場料:B席7,000円~(全席指定)
◆見どころ:指揮はストラヴィンスキーの血縁者であるマリウス・ストラヴィンスキー。ピアノは神童としてキーシンと並び称されたリリヤ・ジルベルシュタイン。

(2)セルゲイ・レーディキン ピアノリサイタル
◆日時:平成30年9月15日(土)14時、17日(月・祝)14時
◆場所:15日=浜離宮朝日ホール、17日=川口総合文化センター・リリア
◆演目:バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ストラヴィンスキー
◆入場料:3,800円(全席指定)
◆見どころ:チャイコフスキー・コンクール3位の実力で売出し中の若手演奏家。古典から前衛まで幅広くこなす正統派ピアニストです。

(3)ユーラシアフェスタ2018
◆日時:平成30年9月16日(日)~17日(月・祝)11~19時
◆場所:東京ロシア語学院 (小田急線経堂駅より徒歩5分)
◆内容:旧ソ連諸国の食品や民芸品の販売、カフェ、映画(11時)、コンサート(15時。要予約)、ワークショップ等。入場無料。

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# by hikada789 | 2018-09-14 14:17 | ロシアの衝撃 | Comments(0)