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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

ヒューマニズムを疑う (No.389)

去年リメイクされたアニメの『宇宙戦艦ヤマト2199』が今月からテレビで放映されている。あの名曲を作曲家の息子がほぼそのまま再構築して使用しているので、懐かしくも心ときめくメロディーにうっとりだ。ただ残念なのはメインテーマの大合唱に女声が入ってしまい、力強さと重みが失せたのはいただけない。一応戦争がテーマの作品なので、男臭い生真面目さは保持してほしかった。しかし本筋のアニメについては、もはや興味は湧かない。きれいな宇宙画像は見たいけど、物語はともかく判りやすい人間描写が素直に受け取れない。つまり年をとってしまったのだ。
これに比べたら新作アニメ『進撃の巨人』の方がイヤーな現実を直視する点において卓越している。なんて恐ろしい作品なんだ。巨人が小人のような人類を捕まえて、幼児のように知性のない顔で喰うのだよ。しかも恐怖に打ちひしがれて逃げてきた人々を、避難先の人々は歓迎せず邪魔者扱い。食糧不足解消のために避難民を巨人討伐に送り出し、しかし人類は巨人に太刀打ちできないので思惑通り人類の間引きに成功するというリアリズム。震災の後だというのにいいのか、こんな際どいアニメ作って。いやいや、芸術とは本来こうしたものだ。間違いなく真実を描いているのだから。原作の漫画はまだ連載中だというからアニメがどう完結するのか知らないが、放映中止になったりしないことを祈ろう。

ヤマト絡みでこんな本を読んでます。佐藤健志著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』。もう二十年程前の本なんだけど、先日著者が西部邁と対談していてこの本を宣伝していたから、二十年経った今も本人の主張は変わっていないらしい。執筆家は年月と共に思考が変わって自分の昔の著作を羞じたりすることがあるが、この人はそうでないのだ。というのは、宇宙人が読んでも著者の若気の至りを感じるからなのだが(26歳の頃の執筆)、ユニークな観点から日本のアニメや特撮映画を論じているのでちょっと紹介してみる。

著者はゴジラやヤマトを論じるくらいだからその方面のオタクであり、基本的にアニメ類が好きなのだが、その嗜好を脇にどけて戦後日本人のイデオロギーを大真面目に論じるほどの論客だ。著者より世代がやや下の宇宙人は、十代の頃楽しく読んだり見たりした『ヤマト』なり『ナウシカ』なり『沈黙の艦隊』なりを、子供の無邪気なときめきや正義感から離れて冷ややかに見つめた時に、どういう評価が相応しいのかなどと考えたこともなかった。ただ以前記事にも挙げたように、『ガンダム』の制作者が学生運動で挫折した世代でその鬱屈が作品の中に色濃く見えるというのは納得している。『ゴジラとヤマト』はそれをもっと幅広く国家レベルで俯瞰している肉厚な論説集である。

著者の舌鋒は鋭く、要するに戦後の日本人が好んだ娯楽作品からそのお粗末で矛盾したイデオロギーが分析できるという。その一つがヒューマニズムの扱いで、『ナウシカ』を槍玉に上げ、ヒューマニズムというのはそもそもヒューマン=人間至上主義という意味であり、過酷な自然を制御して人間の住処を広げるという思想、環境破壊の思想を是としているのが本筋であり、虫やら腐海やらの保護や共存が「優しいから」ヒューマニズムというのは間違いだ、環境保護という思想はそもそもヒューマニズムに反するものなのだ、だから虫の立場に立つナウシカは非人道的なのだ、とバッサリ。作者の宮崎駿に対しても「人を殺すのは良くない、という最も浅薄なヒューマニズムを持ち出すことで、何とかクシャナ(ナウシカと敵対する女傑)を悪役に仕立て上げた」「環境保護=ヒューマニズムという欺瞞的な綺麗ごとに拘った」と作品の主旨を真向から否定する論を展開する。
全文読めばその論旨も筋が通っているのが判るのだが、宇宙人が「若気の至りだな」と感ずるのは、日本語が母国語である日本人がヒューマニズムの西洋言語的意味を正確に把握せず、独自の(カタカナの)「ヒューマニズム」の歴史を築いて今日に至るという文化ギャップを置き去りに論を展開しているところだ。しかしここに焦点を当てると話が一向に前に進まないので、著者の主張を極めるにはそこは無視して論を進めるのが正しい。そう思って読むと成程と頷ける部分は沢山あるし、実際楽しめる。

いずれにしても日本人が論じているというよりは、「正月もクリスマスも祝う日本人はモノの本質がわかっていない」と批判する欧米人の視点から論じた読み物のように感じられる書物である。彼は「矛盾している」のが生理的に嫌な人のようだ。しかし日本人でありロシア文化や算命学にも染まっている宇宙人は、人の世の矛盾にそれほど強い嫌悪感を抱かない。だって矛盾は方々に溢れており、いちいち潰していくのは大変だから、人の不幸に大きく係わるものくらいは潰したいけど、それ以外は残しておいたって害はないし、どうせ根絶などできはしない。清潔に拘って消毒ばかりしている人ほど免疫力が低くなる道理である。

算命学は天中殺理論でズレや異常を例外として認めているし、ロシアは「知性では理解できない、割り切れないものがある」と詩人が歌ってしまっているし、能舞台では生きている人と死んでいる人が平気で語らっている。勿論これらは例外的な「少数派」であり、現実の大勢を重視するならカウントから外して考えてもいいのだが、それは大勢であって絶対ではない。
宇宙人が西洋文化を疑問視するのは、彼らが絶対から外れる「あそび」をあまりにも軽蔑し、排除したがるからだ。彼らは福島原発事故の後で脱原発を掲げても、不足した電力を「貧しい」東欧諸国の原発から賄うことを是としており、原発が事故を起こさなくてもいずれは廃炉となってその処理過程で環境が汚染されることを熟知した上で、「貧しいんだからそういう選択になっても仕方ないじゃん」と自国の土地がきれいなら余所は構わんという徹底した個人主義を唱えて堂々としている。日本人の多くはこの「堂々」に唖然とするのが普通だと思うし(「忸怩として」だったら理解できる)、それがまともな情緒というものだ。

結果的にこうした将来像を覆すことができないとしても、どうせそうなるんだからと最初から受け入れるのが是か、無駄な抵抗と判っていても一縷の望みに懸けて足掻くか。大勢に与して埋もれるか、例外となって活路を開くか。両者のせめぎ合いが止むことはないし、優劣は常に逆転を繰り返す。ヒューマニズムの定義もいずれ反転するか、或いは別の言葉にとって替わられることになるかもしれない。
by hikada789 | 2013-04-18 14:54 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)

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