人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

沈黙より不快な献身 (No.442)

No.437で触れた対談集『沈黙より軽い言葉を発するなかれ』にこんなエピソードが書かれている。戦争などで疲弊した貧しい国に行ってボランティア活動をする日本の青年たちを取材したドキュメンタリー番組製作で、青年たちになぜボランティアをするのかを鋭く問い掛けたところ、彼らは現地の人々をかわいそうとしか思っておらず、善行をしている自分を自他共に認めていると信じきっているため、本当に現地の人のためになっているのかという厳しいツッコミに反発し、取材班は最後まで青年たちと対立したままだったという。

ほらほら、陶酔だよ陶酔。この番組見たかったな。対談は東北の震災についても同様だと語っているのだが、本当の善意・善行とモドキとは区別しなければならない。困っている人を助けるのは善行だが、困ってない人を困っている人だと決めつけてそこに助力するのは善行ではなく自己陶酔なのだ。
貧困国というと、いい大人が飢えた子供を抱えて衣食もままならない生活に耐えているというシーンばかり強調されるが、それほど困っていたら人間はとっくにばたばた死んで民族は丸ごとなくなっている。実際そう簡単に絶滅しないのは、彼らには未だ活力と知恵があり、貧困なりに活路を見出してしぶとく生き残っているからである。困難な時こそ人間力が威力を発揮するのだ。一時的な支援は有難いかもしれないが、いつ途絶えるかもしれない他人の援助にすがって何十年も生きていくわけにはいかないから、それより確実で継続的な解決策である自助努力に頼った方が幸福への近道であることが、彼らには判っているのだ。そうした生命力漲る貧困集団の中で、やわな環境に育った日本の若造らが役立つ場所などあるのか。却って足手まといになっているだけではないのか、と対談は問い掛けている。

昔イラク戦争の頃に、やはり現地で活動する日本人ボランティアが武装勢力に拘束されて日本政府に助けを求め、救助された後に世間から猛烈にバッシングされた事件があった。渡航禁止地域に指定されている場所にわざわざ行って、案の定危険な目に遭い、その救出のために税金を使わせた恥知らずだというのだ。この時のこうした世論は概ね肯定されて、ボランティア青年らの軽率さと自己満足が招いた迷惑を非難する風潮が一時的に広まったのだが、事の本質について議論されることはなかったように思う。つまりボランティア活動とはどうあるべきかとか、どういう覚悟で臨むべきかとか、支援しているつもりで実はという事態もありうることについてとか、真面目に論ずることなく事件は忘れられていった。
あれから20年以上経って、自国に震災が起こり、日本人同士で支援するのされないのという段になっても、多くの若者たちは同じ過ちを繰り返している。先人が過去の過ちを伝えないからだ。自己陶酔のための活動ではないのかという厳しい問い掛けをする大人がいないのだ。

イラク事件の被害者の中に女性が一人いたが、この人はその後大層苦しんだ末、遂に生涯をイラク支援に捧げる覚悟を決めた。単なる自己満足のためにやっていたという世論に押し潰されないために、再びイラクに赴き本当に現地の人々に必要な支援を模索して活動しているようである。私が知る限りではあるが、事件前は孤児らの生活と教育支援のような保母さん的な「手ぬるい」活動をしていたのを、現在は劣化ウラン弾の後遺症で流産や奇形児出産に苦しむイラクの女性支援や人道告発といったハードな活動にシフトしている。女性ならではの戦争告発は、善行を通り越してもはや闘争である。ここまで突き抜けると、それこそ安全な場所にぬくぬく暮らしている世論ももはや非難はしない。この女性はあっぱれな例だと思うが、他人を支援するということがいかに切実か、どういう罠に陥り易いか、若人たちはその重みについて真剣に考えてから現地に赴いてほしいものである。

かくいう私も、若い頃に旧ソ連の小国でボランティアに近い日本語教師をしていたが、現地滞在早くも1ヶ月目くらいには、貧困と報道されるその国に支援や同情など必要ないことを痛感した。彼らは自力でなんとかやっており、各国の支援を大して有難がってもいないからだ。それどころかその国は欧州人としてのプライドが非常に高く、大した根拠もないのにピノキオのような鼻を持つことが内外に知られていたため、謙虚さに人の美徳を感じる宇宙人の心の琴線を逆撫でし、1年で隣国の素朴な熊の国ロシアへ脱出したのであった。その後知り合ったロシアの友人らに当時の私の感想を語ったところ、「小国の人はプライドが高いものですよ。そうやって自分らしさを強く意識して誇示しなければ大国に押し潰されてしまうから」と寛大な答えが返ってきたので、私は益々ロシア人の株を上げたのであるが、同時に当時の若い自分は、欲のない献身的な活動というものに何らかの自己満足を求めていたのだなと恥ずかしく思い、以後は軽率で嘘っぱちな善行は慎むようになったのである。

自己を犠牲にして他人を支援する行為は称賛に値するとは思うけど、その犠牲が本当に役に立っているかどうかは相手が判断することである。相手が助かっている、感謝している、とこちらが思うのは勝手な驕りなので、そういう見返りを期待しない活動こそが称賛されるべきなのだ。ボランティア活動は、世界中から非難を浴びてもこれをやりたい、という強い意志の持ち主のみがやるべきで、同情といった薄っぺらい動機で行っても却って迷惑になったり、相手のプライドを傷つけたりするものなのである。
by hikada789 | 2013-08-20 09:50 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)

by 土星裏の宇宙人