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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

これでもか、これでもか、と塩を塗る (No.546)

ゲルマン監督の「これでもか」手法というのは、何もこの人の専売特許ではないかもしれない。以前友人が初めてシンクロナイズドスイミングのロシアチームの演技を見て「これでもか、これでもか」な畳み掛ける連続技に驚愕したと感想を洩らしていたが、どうやらこれはロシア文化を貫く共通項であるらしく、エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』の有名な階段シーンも時間をかけた重複表現でリアルな緊張感を醸していたし、黒澤明の『デルス・ウザーラ』でさえ雪原で草を刈るシーンは同じく反復動作を延々と撮影して、その刻々と時間が過ぎる焦りを巧みに表したものだった。

総じてワンカットが長いのがロシア映画の特徴だが、『道中の点検』ではカットの長さもさることながら、例えばドイツ軍襲来に驚いて逃げ出す村人達が本物の雪に足をとられながら真剣に走るシーンがあるが、雪が深くていくらも前に進めないちまちました様子や、片足のない不具者がやはり大急ぎで松葉杖を突いて逃げて行くその危なっかしい動作を映すことによって、こんなに命を懸けて急いでいるのに思うように進まない、まるで人生そのもののようなもどかしさを表現する手法が巧みで、これは何となくロシア人ならではの本能的表現であるように思われるのだ。
時間的表現以外にも、主人公が仲間を守るために機関銃をメッタ撃ちするシーンでは、撃ち終わった後に機関銃を取り落とし、それが雪の上に落下するとジュッと音を立てて雪が溶ける。その音でいかに銃身が熱くなっているか、つまりどれだけ必死で連射したかということを表現しているのだ。こういう間接的な表現方法が、「視界の端っこ」に目が届くロシア人の得意技なのである。

更に付け加えるならば、『道中』全編を通じて「これでもか」な表現として、傷付いた者を更に痛めつけるといった手法が冴えている。いたわるべき身障者を助けもなく一人で走らせているシーンもこれに当たるが、戦争で夫を失った未亡人が幼い子供らの手を引き、本当は暖かい家の中で慰められるべきところを出たくもない雪の戸外に飛び出て逃げなければならないシーンや、戦争がすぐに終わると思って気軽に捕虜になったのに、その一回の軽率が仇になっていつまでも裏切者扱いされる主人公の無念。自殺を図ったのに助かってしまった更なる無念や、遂に身の潔白を手柄で示した時には既に絶命している手遅れ感。こういうのがゲルマン作品の得意種目であるのだが、黒澤明が指摘したドストエフスキーの視点の特徴もまた、こうした傷口に塩を擦り込む人間の所業に肉迫しているから、やはりロシア人の遺伝子に組み込まれた必須項目なのだろう。
『フルスタリョフ』は暴力シーンが際立った作品なので、その怖さは塩どころか唐辛子を擦り込むグレードで、見ている方まで痛くて息が詰まってくる。ハリウッド映画なんかでは暴力や痛さの表現のために特殊メイク技術をせっせと磨いているようだが、『フルスタリョフ』はメイクどころか画面さえ暗闇でほとんど何も見えないからね。音声だけで恐怖を延々と表現してくれるからね。この長さが怖いのだ。いくら時間が経っても暴力が終わらないという恐怖、時間が凶器になるという恐怖は、やはり長い歴史のない国や歴史を尊重しない人間には思いつかないに違いない。

西部邁曰く、「歴史とは単に時間が続くことではない。歴史は大事だ、と思う人々の気持ちがどれだけ長く続いたかこそが歴史なのだ」。日本は歴史の長い国のはずだがその歴史を尊重している人間は刻々と減り、歴史の浅い文化をもてはやしたり、如何に時間を短縮するかばかりを追求した社会風潮に押されているから、ゲルマン監督作品を最後まで見続けるために椅子に座っていることさえも試練になるかもしれません。
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by hikada789 | 2014-04-25 16:41 | ロシアの衝撃 | Comments(0)