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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

排水口のような演出の妙 (No.774)

私が能『邯鄲(かんたん)』を初めて観たのは、今は亡きお師匠様のお供で都民のための能楽鑑賞会に出掛けた時だったから、かれこれ7年ほど前になる。シテは金春のお家元で、お師匠様の息子である今の私の先生も出演していたから、身内用招待券でも貰えそうなものだが、どういうわけかお師匠様は新聞広告のペア席プレゼントに応募し、見事当選した上、その正体がバレて中央前列の特等席をせしめたのであった。そしてどういうわけか同伴者を探しあぐねた末に弟子の宇宙人に行き着いたのである。「先生、クジ運いいんですね」「ウフフフ」。多数の弟子を抱えるお師匠様がなにゆえ年季の浅い宇宙人を同伴者に選ぶに至ったかについては、ここでは語るまい。彼女はその後臨終間際に医師の許可を得て最後の能舞台鑑賞に出掛けるが、その時も宇宙人を同伴者に選んだのであった。そのような舞台は、普段一人で出かける舞台に比べて印象が鮮やかである。

しかしこの時の『邯鄲』が印象的だったのには他にも理由がある。演出に特徴があったのだ。初めて観る『邯鄲』だったのでその時の演出がスタンダードなのかと思ったのだが、その後観た『邯鄲』はいずれも演じ方が違い、期待した感動を得られず肩すかしを食らった。更に歳月が流れてつい先日、同じ家元のシテの『邯鄲』がかかったので期待して観たのだが、やはり初回の時の感動を再現すること叶わず。この件について、先生に尋ねてみた。

宇宙人:「初めて観た時は、盧生(シテ)が夢から覚める直前に、臣下たちがサーッと早足で切戸口に駆け込んで行ったんです。囃子のテンポもそれに合致して急いていて、一気に戸口へ吸い込まれて行ったんです。まるで排水口に流れ落ちる水のようで、それが夢から叩き起こされて覚める実際の感覚(めまいに相当)にすごく合っていたので、これは素晴らしい演出だと昔の人のセンスに感動したのですが、その後一度も同じスピードのものは見られず、臣下らは慌てずゆっくり退場なのです。残念であります。あれが普通なのでしょうか。それとも特殊な演出でも?」
先生:「そうね。特に演出は変えてないです。その時の出来の違いだけでしょう」
宇宙人:「でも囃子のスピードがぜんぜん違いましたよ。以前のはバタバタと駆け込んでる感が出ていたんですよ(勿論、すり足なので音はしないが)」
先生:「今回の地頭の本田(光洋)先生は、あの場面であまりカカらない謡い方をするから、そのせいかもしれない」(註:カカるとは、場面や心境が盛り上がっていることを表す表現技法のこと。素人には情緒不安定を表現しているように聴こえる)
宇宙人:「じゃあやっぱり偶然の産物だったんですかね。今思えば、もしかしたらあれは事故だったのかもとも思います。だって臣下が退場する時、先頭は子方(こかた。子役のこと)だから、さんざん座って待たされた子供が立ち上がるタイミングを逸して、慌てて気付いて立ち上がり、大急ぎで切戸口へ向かい、それに大人の臣下たちが一列にくっついて全員ドタバタと走り去ることになった結果、ああいう演出になったのかもしれないと」
先生:「そういうこともあるかもしれない」
宇宙人:「じゃあもうあの排水口演出は二度と見られないのかもしれませんね。残念です」

宇宙人はよく貧血を起こすので、めまいや立ちくらみの主観については造詣が深い。人が目を回している時は眼球が制御不能になっているそうだが、私はその制御不能な眼球が地球の中心に向かって引っ張られるような感覚がいつもあるので、それが排水口に吸い込まれる水流を連想させ、最初に観た『邯鄲』の臣下たちが夢の出口たる切戸口へ否応なく吸い込まれていく様子に、意識と無意識の狭間のリアリズムを感じたのである。事故だったのかあ。そうかあ。舞台芸術はハプニングが付き物だし、映画やTVドラマなどやり直しが利くものとは違った醍醐味があるものだ。
かくして幻の『邯鄲』は亡きお師匠様との思い出と共に記憶の蔵へと保管されるのであった。
by hikada789 | 2015-11-23 17:56 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)

by 土星裏の宇宙人