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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

レザークラフトに思うこと (No.821)

いくつになっても新しい事始めは心浮き立つものである。レザークラフト教室の初回講座に行ってきた。随分小さなお教室である。定員は四人。くたびれた愛用の革カバンを休ませるためにもう一個欲しいと思っていたカバン製作が目当てだが、初回はパスケースを作って基礎を教わる。革の扱いや刻印の仕方、染色手順、裏面の処理から縫い方まで、初めて尽くしで飽きることがない。現場で初めて見る道具や技法により、当初予定していた表地デザインを急遽変えたため、あ、やっぱりというか、失敗しましたね。まあ初回だからね、当然だわね。
というわけで、とても人様に贈れる代物ではなくなったので自分使いとすることにした。しかも染色(の乾燥)に思わぬ時間がかかったので一日で完成しなかった。糸と針をつけたまま持ち帰り、仕上げは次回持越しである。なので今自宅にあるのだが、失敗作とはいえ既に愛着が。やはり手作りは違うなあ。本革だからかな、妙に愛らしい。合皮と違って重みを感じるよ。命の重みというやつだろうか。
講師の先生は初老の女性で、定員が少ないのは指導の目が届くようにとの配慮から。革製品を究極のエコと呼び、食用などで肉を取ったら捨てられてしまう皮や骨を最後まで活用することに道義的価値を見出している方である。宇宙人とは意見が合って早くも意気投合。次回は早速カバン製作に入るので、材料の牛革を買ってこいと店を紹介してもらった。下見に問屋街に行ったが、これも初体験。革ってこういう風に売っているのだな。色とりどりで、厚みも値段もさまざま。ハギレなんて叩き売りだし。ああいろいろ作れたら、とあれこれ想像して舞い上がる宇宙人。モノ作りって素晴らしい。本物って素晴らしい。

これまで経済的に本革製品を選べずやむなく合皮製品に頼ることもあったのだが、合皮が嫌になった理由は、経年でベタベタ溶けてくることと、修理がきかないことである。日本で売られている合皮カバンは軒並み中国製で、デザインは豊富だし縫合もそこそこだが、あのチープ感はやはりどんなに頑張っても合皮がフェイク革でしかないからである。そもそもが偽物なのだ。原料は油だから自然に溶けるのも頷ける。対して本革は動物の皮であり、生きていた細胞である。
生命のあったものが本物だという真理は、皮革に限らずこの世の全ての事象に通底することに気付かされる。例えば食べ物は本来天然であるはずだが、食糧需給を満たすために添加物や疑似食品が開発された。その多くは既に生命とは無縁であるから、生命と無縁なものを食い続ける現代人は現代病を発症するという仕組みだ。実に理に適っている。
本革は合皮に比べて品質にばらつきがあると言われるが、生き物だったのだから当然だ。むしろどこまでいっても画一の質が続く合皮の方が不自然である。卸売りされる牛革の値段がまちまちなのは、生前の牛の生き方が一様でないからだ。痩せたのもいれば太ったのもいる、シワのあるのもいればキズのあるのもいる。より平らで均一な面の広いものに高値がつくが、合皮はこれにならって均一性を重視して作られる。しかし所詮まがい物であるから、機械的な均一性が災いしてニセモノ感を高めてしまう。
何よりニセモノは寿命が短い。本革は最低限その動物の命が尽きるまではもつようにできているが、合皮は「多売」が目的だから長もちするような工夫は主眼でない。消費者も耐久性を求めてはいない。壊れたら捨てるのが当たり前の現代に生きる現代人は、モノのみならず人間関係さえも簡単に捨ててしまう習慣が身に付いてしまった。だから現代人は心を病むのである。

わが家にもまだ合皮のカバンがあるが、持ち手は早くも割れており、本体はまだ使えるのだが持ち手の傷みを理由に捨てる方法へ頭が向いている。クラフトの先生も「合皮は修せない。本革なら部分修理できる」とバッサリ。かくいう宇宙人もこれまでに見限った人間関係はあまたあるが、見限る予定のない長い交友関係もいくつか残っている。自分の人生に価値のあるのは断然後者である。後者は私にとって本革カバンなのだ。手作りパスケースなのだ。傷んだら修理して長く使うのだ。だってそれが本物の付合いというものなのだから。
by hikada789 | 2016-03-22 19:45 | その他 | Comments(0)

by 土星裏の宇宙人