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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

極限状態における知性 (No.1017)

金持ちではなく時間持ちになって久しい宇宙人は、日々それなりにやる事があるのでそれらをこなしているうちに1日が過ぎていくのだが、急ぎの課題がなかったり集中力が乗らない時などは、ぼんやりして過ごすので時間の経つのが長く感じられ、そういう時は腹が減っているわけでもないのに食べ物を求めてしまう。もともと食に対して関心の薄い宇宙人であるし、何かに熱中している時は寝食を忘れて没頭する習慣があるため、かように食い物のことを考えること自体非常に珍しいのだが、このような実体験から、人間は頭を使っていないと相対的に食べ物にいじきたなくなるのだと思い至った。
さもありなん、算命学陽占では知性は頭部、食欲性欲は腹部が司っており、両者は互いに相反する対立項なのだ。知性が活性化すれば食欲性欲は減退し、知性が減退すれば食欲性欲が活性化する。食事の時間でもないのに食べたくなるということは、知性が減退している証拠なのだ。見よ、巷に溢れるグルメねたの多さを。グルメ番組の食レポにおける知性の欠如を。こんな話題ばかり振り撒いているメディアなりネットなりの業界が知的なはずもない。
ちょっと前に食い物の話題しか会話に出てこない人たちと同席したのだが、実に苦痛であった。宇宙人は空腹よりも知的刺激の欠乏状態の方が身にこたえるからだ。こうした我が訴えを聞いた地球人の友人は、宿命に印星がないにもかかわらず大いに同意してくれた。ほら、宿命に星がなくても、生き方次第でいくらでも知性は磨けるのだよ。地球人よ、もっと頭を活性化させるのだ。頭を使っていれば認知症も予防できると、そろそろ世間にも知られるようになってきているのだぞ。

この話題、ロシア的に進めると結構究極のテーマに迫ったりする。例えばドストエフスキーの提示した一大難問とされる「大審問官問題」。ロシア通なら誰でも知っているが、知らない人のために平たく言うと、人間は所詮腹が膨れさえすれば文句はないのでは、という実もふたもない真理の一端から、毎日の食事(つまり安定した生活)が確保されるのなら、政治形態は独裁でも構わないし、その独裁者に人権やら自由やらを進呈してしまっても一向に不都合はない、という極論のこと。人間の権利や自由といったものはどこまでが正当でどこからが行き過ぎなのか判断が難しく、だから世の中裁判だらけになるのだが、こうした煩わしい権利や自由をいっそ独裁者様にごっそり明け渡し、代わりにおいしいグルメを毎日満喫できるならそっちの方がいいや、と考える人間が確かにこの世にはわんさかいるではないか、という厳しいツッコミがドストの『カラマーゾフの兄弟』に提示され、未だに解決されていない難問となっている。
人間は自由など本当は欲しくないのではないか。欲しいのは食い物(及び生殖)だけだろう。こうした人類の知性に対する侮辱的問題提起に知識人は激しく反発するのだが、彼らも実際に飢えに直面すると自らの信条を曲げ、食い物の前にひれ伏してしまうのが実情だ。スターリンの時代にシベリアの収容所に送られ何十年もそこに暮らしたシャラーモフは『極北コルィマ物語』の中で、飢えがいかに人間の頭を鈍くさせるかを体験を以って語り、まず思考などという高等な活動は飢え始めの頃に停止してしまうこと、あらゆる細やかで繊細な脳内活動は跡形もなく消え去り、しかし最後の方まで残っているのは感情であること、それは例えば怒りであることなどを綴っている。なんだか認知症の症状に似ているではないか。
しかし注目したいのは、知性と食欲が互いに反比例する間柄であるにもかかわらず、食欲が激しく満たされないと知性もまた機能不全に陥るという事実である。もちろんこれは極限状態の話である。置かれた状況が通常モードか極限モードかによって、知性と食欲の関係も真逆に作用するわけだ。算命学の真逆論がこんなところで傍証を得てしまった。
ともあれシャラーモフはドストエフスキーを「甘っちょろい」と酷評している。ドストも帝政時代に政治犯として逮捕され、四年間の囚人生活を過ごし、その驚くべき獄中体験を小説に発表しているが、囚人生活が量的にも質的にも何倍も上回るシャラーモフに言わせれば、欠乏による人間の堕落がどん底まで達すると、小説として余人が読み得る内容になどならないと断言している。そこには感動や共感の入り込む余地がないというわけだ。

『コルィマ』は短編の寄せ集めなので全体像を把握するにはやや読みづらく、解説を先に読んだ方が背景が判っていいと思います。良書です。特に自分のささやかな不幸にウットリしがちな人には、自分の悩みがバカらしく思えて前向きになる勇気、というかムチを与えてくれましょう。読む時間のない方のために印象的なエピソードを3つ挙げておきます。

1つは、囚人生活の初め頃に知り合った元船長の話。勇敢で磊落な好人物で、厳しい囚人生活に直面してもその大らかな性格のまま難局を切り抜けていく姿に著者は憧れていたが、その後離れ離れになり数年後に再会した時には、元船長は見る影もない臆病で脆弱な小者になっていた。激しく執拗な暴力によって元船長の人格は破壊され、生き延びるために強者に媚を売る人間に変わってしまったのだ。

2つ目は収容所の新任医師の話。囚人の集団移送に初めて立ち会った医師が、その船に乗って到着した囚人の三千人という多さと、医師として手の施しようのない惨状に打ちのめされ、その後その部分の記憶を喪失したというもの。「ちなみにアナトール・フランスに『ユダヤの太守』という短編があるが、ポンティ・ピラトは17年後にキリストを思い出すことができない」。ピラトはキリスト処刑を指示した行政官で、彼を主人公の一人に据えたブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』では、心ならず処刑命令を出したことを二千年間悔やむ姿が描かれている。

3つ目のタイトルは『奇術』。収容所で著者が仕えた作業部長の話。大量に移送される囚人に仕事を振り分ける作業を任されていたが、この部長は疲れ切って一様に表情のない囚人の行列を見て、瞬時に職業を言い当てる。例えば大工が必要な時は「お前とお前、お前も、そっちの奴も」とランダムに引き出しているように見えて、実際に大工経験者を引き当てるのだ。著者は言う。「私はひどく驚いたが、当の本人は自分の不思議な能力を無邪気に喜んでいた。…このゲームが始まると、私はいつも眺めて楽しんだ。このゲームは残忍さや他人の血によって生きることとは無縁だった。人の知識の深さに感嘆した」。また著者はこの部長をこう評している。「この部長とは仕事がやりやすかった。囚人につらく当たることもなく、頭がいい。高尚な話は決まって独特の乱暴な言葉に言い換えてしまうが、本質は突いている」。
そうなのだ。本当に頭のいい人とは、性格もいい人なのだ。だから人は頭のいい人と一緒にいたいし、自分の子供に頭のいい人間になってほしいと願う。頭のいい人は無駄なことはしない。無駄に他人を傷つけることに意味を見出さない。頭の悪い人間は無駄なことばかりする。無駄なことに気を取られているから仕事ができないのだ。
by hikada789 | 2017-12-01 14:28 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)

by 土星裏の宇宙人