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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

『欠落ある写本』 (No.1171)

テレビアニメ『どろろ』が回を重ねるごとに神秘性を失っていく。放映開始時は顔面の皮すら作りものだった主人公の百鬼丸も、鬼神を次々に倒して聴覚や声帯を取り戻し、だんだん普通の人間ぽくなるにつれて魅力が薄れてきた。当初のヘレン・ケラー状態の方が超然としていて良かったな。俗世と一切関わらずに生きている感じが非日常を醸していたし、無言で表情の乏しいところがソクーロフの映画みたいにこちらの想像を掻き立てていたのに。(ソクーロフ特集、まだ上映中です)
というわけで、想像を掻き立てる大型海外文学を紹介しよう。日本にはまだ馴染みのない現代アゼルバイジャン作家、カマル・アブドゥッラ著『欠落ある写本 デデ・コルクトの失われた書』は和訳が2017年に刊行されていたが、一度本屋で見かけて気になり、図書館にあったら読もうと思って探したら置いておらず、再び同じ本屋で見かけた時に思い切って買った。マイナーな国の作品なのでお値段高めだったが、充実の内容に満足している。訳者あとがきを引用しつつざっくり紹介すると、こんな話である。

この作品は『デデ・コルクトの書』という15世紀に纏められた中世アナトリア語の民族叙事詩を素材にした現代小説であるが、単なる歴史小説ではない。いうならば虚構の中世叙事詩を文学的想像力によって現代に蘇らせた、一種の歴史心理推理小説だ。
物語は、著者自身を投影した現代人作家が、古文書館で未知の写本を発見する場面から始まる。その写本はデデ・コルクトという中世の語り手が一人称でオグズ族の内乱寸前の状況をリアルに語る内容だった。この写本に語り手として登場するデデ・コルクトは、中世アナトリアに伝えられた実在する叙事詩『デデ・コルクトの書』の登場人物であると同時に、この叙事詩の作者に擬せられる吟遊詩人であり、シャーマンである。
実在する『デデ・コルクトの書』はアゼルバイジャンと中央アジアのオグズ族の間で生まれた史詩で、現在のトルコ、イラン、アゼルバイジャン、ジョージアに跨る地域が主な舞台である。15世紀末に東アナトリアで古アナトリア・トルコ語で書き記されたが、その起源は十世紀まで遡れる。トルコ文学史上の傑作と言われ、ドレスデンとヴァチカンの図書館に本物の写本がある。

この史詩に描かれたオグズ族の内紛については、その原因がはっきりせず、故意に記述を避けた気配もある。『欠落ある写本』本編はその謎を文学的に解明しようとする試みなのである。そもそも元ネタである『デデ・コルクトの書』は民族叙事詩の常として登場人物の心理描写は描かれないため、『欠落ある写本』では逆にこうした人間のナマの心を推理しながら細やかに描くことで、「真相はこうだったのではなかろうか」という可能性に信憑性を持たせている。
しかも一人称の語り手はシャーマンで、夢と現実の間を行ったり来たりしながら世界を鳥瞰し、このオグズ内紛事件の審議に書記として参加しながら、同時に世紀を跨いでサファヴィー朝ペルシャの創始者イスマイール一世の影武者事件をフラッシュバックさせるという、念の入った重層構造をしている。

サファヴィー朝といえば知る人ぞ知る、イスラム神秘主義(スーフィズム)の雄である。イランを代表する世界遺産の都イスファハーンを彩るペルシアン・ブルーの建築群は、当王朝の神秘主義が生み出した精神世界の具現化なのである。アゼルバイジャンは現代イランの北西部に接し、言語的にはトルコ語圏だが文化的にはペルシャの色濃い地域だ。イスマイール一世が王朝を建てたのもタブリーズというイラン北西部の街で、当のイスマイールはアゼリー語で詩を書くほどアゼルバイジャンに近い人だった。
ともあれ王朝自ら神秘主義を掲げている摩訶不思議なサファヴィー朝なので、その存在そのものが神秘に包まれており、シャーマンである吟遊詩人が幽体離脱して浮遊するからには避けて通れない世界の裂け目と映ったのかもしれず、イスマイール一世も実に神秘主義というか意図不明な描き方で小説に登場している。

表題の通り、この発見された写本は「欠けて」おり、ところどころ読めない箇所があるという設定なので、部分的に話が通じなくなっていたり結局真相が判らないままになっていたりするのは織り込み済みである。それが巧みに神秘性を高めている。会話も、繰り返しかと思えばちょっとずつ変わっていて、油断ができない。読み手に緊張を強いる文体なのだ。ズィクルなのだ。(※ズィクルとは、イスラム神秘主義でお馴染みの周回歩行というかダンスみたいなもので、神と交信するために念仏を唱えながら同じ円をグルグル回るという、トランス状態に入るための基礎動作のこと。)

この本を読んでいて、手前味噌ではあるが自作小説『メタフォーラ・ファンタジア』を思い出した。あれは中央アジアを舞台にした歴史小説とも音楽小説ともとれるホニャララ小説であったが、この『欠落ある写本』と手法が図らずも似ていた。虫食いのように欠けた地方史を「こういう可能性もある」という程度に補足して一枚の絵を推理構築していくが、結局のところ想像に過ぎない、真相はもっと別のところにあるのでは、という堂々巡りの終わり方になるのは、かの地域と文化を題材とした小説のさだめなのかもしれない。これを機に『メタフォーラ』も再読してみるのもいいかもね。あの作品は、ほぼ40日間トランス状態で書ききった奇跡の産物なのだよ。どう考えても、毎夜毎夜何かが降りて来て私の体を使って誰かが書いた気がするのだ。夜しか書かなかったし、40日間あまり寝ていなかった。『算命学余話』と一緒にパブーに掲載してあるので、興味のある方はご購読下さい。でも『欠落ある写本』の方が断然読み応えあります。また『デデ・コルクトの書』は和訳が出ております。図書館にないから、また買おうかなあ。

by hikada789 | 2019-03-12 15:39 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)