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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

偽りの親切 (No.1186)

昨日は友人の注文カバンの制作に没頭して選挙に行かなかったが、これでよかったと思っている。現状に大きな不満はないし、選挙カーによる騒音にも腹を立てていたし、街の景観を損ねる選挙ポスターにもウンザリしていたし(京都の観光名所などはセブンイレブンでさえ景観を壊さぬようトレードカラーを茶色に塗り替えているというのに、当地の選挙ポスターはどんな色指定を受けているのだろう)、特に応援している候補者もいないし、何より興味が湧かなかった。興味もないのに興味のあるふりをして投票するのは間違っている。それは嘘だ。嘘はいかん。それが誰かの強制であるなら尚更いかんのだ。
カバン作りで凝った体をほぐしに、選挙の前日の夕方散歩に出掛けたら、駅前に人だかりが。みだりに停まってはいけない選挙カーを下りた候補者が広めの路上で、勿論マイクを使って「最後のお願い」演説をしている。駅前は演説をしていい場所だから違反はないが、周囲はマンション群だから住民は迷惑しているはず。よく苦情が出ない、しかも聴衆まで40人ほどもいるなと思いながら脇を通り過ぎようとしたら、候補者が公明党であることが判った。つまり人だかりは信者だ。道理で。だってその40人ほどの聴衆は、子連れも含めて、何というか直立不動に近いのだ。行儀よく立って、拝聴している。よそ見もおしゃべりもしない。要するに通りすがりではない。サクラだよ。訓練された。

そこで好ましからぬ記憶を思い起こす宇宙人。昔ロシアに暮らした頃、留学仲間に創価学会の学生がいて、羽振りのいい人だったので色々お世話にはなったが、最終的に気味悪くなって付合いを辞めた。気味悪さの原因は、偽善だ。最初すごくいい人で、あれこれ親切をしてくれるので元々そういう人なのだと思って接していたが、だんだん本性が現れて来て、その親切が誰かに命じられた作りモノであることを知った。イヤイヤやっていることが露呈してきたのだ。
というのは、親切というのは受け手が慣れるものなので、親切に対する期待値はどんどん高くなっていく。あれこれ頼るようになるからだ。すると親切する側がだんだん損をしていくようになる。その学生は、恐らく教団の指導で誰にでも親切するよう仕込まれていたが、それは自己鍛錬でもあったかもしれないとはいえ、教団としては自分たちの評判を高める意図があったはず。オウムみたいな扱いは受けたくないだろうからね。それでその学生はほとんど無差別に、日本人に限らず出会う人すべてに親切の大盤振舞いを振舞っていたのだが、お蔭で次第に窮乏してきた。でも親切された人たちはこの人が色々骨を折ってくれるだろうと期待して問題を持ち込むので、当人は遂にキャパを越えてブチ切れてしまった。それが本性だったのだ。修行が足りなかったのかもしれないが、実に見苦しかった。そんなに苦しいのなら、最初から偽りの親切などしない方が誠実で良かったのでは? 誰に対して点数を稼ぎたかったのだ。そうやって本性を見破った人たちはその学生信者とは距離を取るようになったのだが、こうして付合いの途絶えたかつての「友人」のことを、その学生信者は方々で中傷するのだった。教祖様はお嘆きではないのかね。
その頃にはもうこの人に耳を傾ける人間は随分少なくなっていたが、疎遠になった元「友人」の一人である宇宙人は、ある日モスクワの創価学会の集会に偶然居合わせた。日本人の集まる情報交換の場だと思っていたら、信者主催の集会だったのだ。なので適当に挨拶だけして帰ろうとしたのだが、そこは宇宙人、タダでは帰らない。土星アンテナを頭上に振り立てて信者たちを観察する宇宙人。観察したのは主に目だ。知性はありや? 自分の意志で親切する人か否か? 人に言われたことしかできないロボットではないか? 命じられたことならイワシの頭でも信仰するタイプの人間の目をしていないか? そしてそれを他人にも強いることを布教と称する輩ではないか? 結論は、その目に知性の光はないということだった。

そうしたわけで、宇宙人は個人的に創価学会の信者も公明党も信用しない。偶然通りかかった駅前の演説でも、聴衆の顔をそれとなく覗いて見たが、何十年も前にモスクワで見た信者と同じ、操られた喜びに輝く狂気の目をしていたよ。人に言われたことを自分の意志だと錯覚した目だ。この種の目は、実は創価学会に限らない。信者でなくとも我々の周囲にしばしば見受けられる。自分で考える習慣が身に付いていない、ママとパパの言う事を聞いてご褒美を貰う幼児と同じ目だ。
子供たちよ、こういう目を見極められる大人になるのだぞ。政教分離が聞いて呆れる現代日本であるが、実際は世界のどこを探しても政教分離できている国などありはしない。米国はどうだ。欧州はどうだ。イスラム教徒の国々を非難できるほど政教分離しているか。ソ連時代のロシアでさえ「無神論」という信仰を国民に強要していた。自分の属する集団の正当性を妄信するということは、他者の集団を見下すということなのだよ。その心の卑しさが目の輝きに現れるのだ。「他者に寛容な態度」を心掛けるという発想自体、最初から他者を自分より下位の者として見くびっているのだよ。本当に寛容で親切な人は、そんな自覚もなしに自然にそれができるものだ。そういう人の目は澄んで美しい。
子供たちよ、誰にでも親切な人には何らかの下心があることを念頭に置いておけ。自分の得になるから親切をするという人間からは距離を取れ。本当に親切な人は損得抜きで行動するし、親切でなくとも頭のいい人ならば、自分のできる範囲内で人を手助けすることは何でもないはずだ。合理性から出た行為なので、お礼さえ求めないだろう。そういう人と付き合うのだぞ。

by hikada789 | 2019-04-22 16:14 | その他 | Comments(0)

by 土星裏の宇宙人