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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

カテゴリ:算命学の仕組( 313 )

ZOZOTOWNの成功により長者番付に躍り出て一躍有名人となった前澤友作社長が、自ら創設して育て上げた会社を売って辞任しました。私は経済にも芸能界にも関心が薄いので、彼の資産総額やら会社の売却金額、女優との交際などには興味がありません。
しかし数年前にその半生を特集した経済番組を見た時、彼は元ミュージシャンであり(バンドのドラマー)、その関係でレコードやCDの輸入事業を始めたのが実業界へ足を踏み入れるきっかけだったと聞き、その後のアパレル通販業界での躍進を考えると随分かけ離れた人だったのだと知りました。

そして、その番組では当時の最新情報として「ZOZOSUIT」を新規事業として紹介していたのですが、その時の彼の言葉に違和感を覚えました。というのは、まだ音楽をやっていた頃の前澤氏が学生時代に早々に将来設計からサラリーマンの道を外したのは、毎朝通勤電車に乗る彼らの顔が疲れきっていて魅力がなかったからだと言っていたからです。
その彼が開発を進めるZOZOSUITはセンサー付きボディスーツで、センサーによって精密に体のサイズを測り、その情報に基づいた服をカスタマイズするというものですが、その主たるターゲットはサラリーマンのスーツでした。市場は大きく、成功すれば巨大な利益を得られます。

私の印象では、学生時代の彼のサラリーマンに対する感情は憐憫よりも嫌悪や軽蔑に近く、そんなお気の毒でイケてないサラリーマンに対して自分のイチオシのアイデアであるZOZOSUITを提供し、今よりカッコ良くしてあげましょう(サイズの合った服というのはそれだけで見栄えがします)、といった上から目線の態度が気に障りました。営利目的とはいえその動機が非道義的で、辻褄の合わないもののように感じられたのです。同じ実業家でも、ロケット事業に大枚をはたいている堀江貴文氏の方が清々しく、スケールもずっと大きいと、その時思いました。そしてこの人物は人間としては大成すまいとも思いました。

そんな前澤氏が破竹の勢いだったZOZOを突然のように売却したので「それ見たことか」と思ったのですが、一部では既に傾き始めたZOZOを高額で売却できて幸運だったという意見もあり、賛否は分かれています。例によって私は売却額の是非については関心がありません。関心があるのは、彼の急激な躍進と凋落、転身やその行動原理が宿命に出ているかどうかです。
というわけで、今回の余話は前澤友作氏の命式を眺めつつ、曲直格という格法に言及します。曲直格は非常に珍しい命式なので滅多にお目にかかれませんが、条件を一つ二つ欠くくらいの準じる命式はたまに見かけます。前澤氏はそれに当たっているので、まだ存命中の人ではありますが、例題として取り上げてみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「曲直格に準じる事例」です。「算命学余話 #R107」で検索の上、登録&マサラティー1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は現在パブーでも再掲載し、今後は双方で購読できます。)

by hikada789 | 2019-09-15 14:17 | 算命学の仕組 | Comments(0)
子供の頃は教養として字がきれいになるよう書道を習わされていたのですが、楷書がある程度モノになってしまうとそれ以上やっても意味がないような気がして、小六で早くもやめてしまいました。ただお手本を真似て書けという指導の仕方にも問題があったと思います。というのは、最近一流の書道家が思想としての書道を語るのを聞き、そうした思想や書道ならではの世界観を子供の頃に知っていたなら、もっと面白みを感じて続けていたのではないかと思ったからです。その思想とは以下のようなものでした。

「書道は、余白が作る風景を楽しみながら書くものであり、ただ墨で黒い筋を書いているのではない。だからゆっくり書かないと風景が見えてこない。書きながら随時、余白は幅も形も変えていく。従って、書というのはどういう風景を描きたいのかを予め考えて、予測しながら書くものである。
 また、例えば「口」という漢字を書く時は、一画目と二画目に空間を作るが、こうしないと中央の余白が真っ白になって浮き上がってしまう。空間を空けることで気が通り、周囲の余白との間に交流が生まれる。しかし今日一般化している活字にはこうした空間がなく、隙間なくぴったりくっついているので、閉塞感・逼塞感があり、そこに書の趣はない。
 ちなみに、日本人は毛筆を「紙や短冊」に書くようにサラサラ書くし、それに適した筆の持ち方をするが、中国では「石」に彫るような持ち方・書き方をする。昔の画像で宣統帝溥儀が筆で文字を書いている様子を見ることができるが、ああした持ち方は日本人はしない。日中の文化の違いであり、書に対する感覚の差も、筆の持ち方一つで見て取れる。」

趣深い話です。余白について考えて書けなどと指導された覚えはありませんし、気を通すためにわざと離して書くという思想も初耳でした。
算命学余話でわざわざこの話を取り上げたのは、勘のいい方はもうピンときたかと思いますが、隙間なく空間を閉じるのではなく少し間隙を空けて気を通す、という部分が算命学の気流思想と合致していたからです。書道も算命学も共に出所を同じくする東洋の文化ですから、思想的に通底しているのは当然といえば当然ではあります。

算命学は宇宙の気を人間に透過して占う占術ですから、東洋の「気」の思想が根本にありますし、典型的なところでは、天中殺の成立理論がそもそも時間と空間との間に生じたズレ(間隙)をどう処理するかというものです。
というわけで、今回の余話のテーマは天中殺についてです。天中殺にまつわる話は多岐にわたるため、既に何回か記事にしましたし、『基礎編』でも詳しく説明するつもりですが、今回は書道が間隙を故意に作っているという話にちなんで、天中殺がなぜこの世界に存在するのか、その存在意義について考えてみます。天中殺と聞くと恐ろしくて忌避したい印象を受ける方も多いかと思いますが、実際は恐れることはなく、この世界にとって必要且つ有意義なものだというお話です。

(この続きは「フォークN」に公開しました。副題は「天中殺の意義」です。「算命学余話 #R106」で検索の上、登録&ジャスミン茶一パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は順次パブーでも掲載し、今後は双方で購読できるようにします。ご了承下さい。)

by hikada789 | 2019-09-04 09:41 | 算命学の仕組 | Comments(0)
海に棲むタコの足というのは、トカゲの尻尾のようにちぎれてもまた生えてくるのですが、ストレスなどで自ら食いちぎった場合にはもう生えてこないそうです。タコのストレスって何でしょう。ともあれ非常に示唆的な話ではあります。
算命学でも、外的なストレスよりも、内面というか自分自身にそもそも問題を抱えている人の方が、事態の打開や改善が難しいと考えています。

この辺を頭に入れつつ、今回の余話は干合と虚気について考えてみます。前回余話#R104では、暗合について述べました。暗合も干合も、基本的には同じ理屈で生じる現象であり、たとえ宿命になくとも後天運で必ず巡ってきます。干合・暗合すると人は虚気を帯びやすくなります。その最たるものが結婚です。結婚の何が虚気に関わるのか。その辺りを考えてみます。
干合の組合せについては既に別の余話の記事で掲げたので、ここでは繰り返しませんが、干合という組合せが成立した場合、その干は五行が変わります。例外は己土(土性のまま)と庚金(金性のまま)ですが、この己土・庚金であっても、干合したからには虚気を帯びます。他の八干は、いずれも五行が変わる上に虚気を帯びます。言ってみれば、本来持って生まれた自分の姿とは別の姿を取るわけです。
例えば日干が丁火の人は、壬水と干合することによって木性の乙木に変わってしまい、あたかも日干が乙木の人かのように振る舞います。しかしそれは本来丁火の人のやる振る舞いではないので、その振る舞いは虚気を帯びているということになります。
虚気については前回提示したように既に記事を上げているので、詳しくはそちらを参照下さい。今回は干合(及び暗合)に焦点を絞ります。

(この続きは「フォークN」に公開しました。副題は「夫婦の失敗を考える」です。「算命学余話 #R105」で検索の上、登録&水出し緑茶一パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、サイトの都合により現在も購読可能のようです。しかし今後はフォークNのみ新規記事を掲載しますので、ご了承下さい。)

by hikada789 | 2019-08-23 17:38 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の余話では、ブラックホールがその本体の暗さと、周囲に集めた光熱のため、視覚情報に頼る我々がブラックホール本体ではなくその周りの明るい可視情報を見て、それがブラックホールだと勘違いしてしまう可能性について触れました。そしてそれは取りも直さず、宇宙に生きる我々が陥りがちな習性にも反映されていると。見た目や持ち物のきらびやかさで人を判断したり、地味な努力や縁の下の力持ちに目を向けなかったり、といったことがその例です。
我々の耳には人の成功体験ばかりが聞こえてきますが、なぜ失敗体験が聞こえてこないかといえば、語る方も自分の恥を曝すことになるから積極的になれないし、聞く方もまた心浮き立つ話ではないから敬遠する、そういう心理が働くために、知らず知らずのうちに情報そのものを埋もれさせてしまうからです。その結果、耳に心地よい誰かの成功体験を聞いて、その通りに自分も行動すれば成功できると錯覚してしまう。本当は失敗体験の話も聞いて、陰陽両方の側面とその奥にある本質を見定めてから行動すべきなのに。
算命学の陰陽論は、こうした戒めを判りやすく語る知恵として日常に活用できるものだと思います。

話は変わりますが、先日日本通のフランス人男性がギターをかき鳴らしながら、尾崎豊を歌っているのを見かけました。世代的に尾崎氏生前からのファンではなさそうでしたが、世代と国境を超えても何か心に響くものがあるのでしょうかね。私は生前の尾崎氏の歌声に耳を傾けた記憶はなく、ただ情報として若くして自殺したことや、熱狂的なファンに支持されていたことを知っていたくらいでした。
ところがいつだったか、算命学者の間で尾崎氏が「宿命全天地暗合」であるとの情報が流れ、俄に興味をそそられました。非常に珍しい命式です。改めて尾崎氏のプロフィールを調べてみたら、彼の人生からその歌の内容、ファン層に至るまで、お手本のように符号していました。キーワードは「昏さ」と「虚」です。虚業については余話の別の回で取り上げたので、そちらを参考下さい。
というわけで、今回の余話のテーマは全天地暗合です。暗合が何かを知らない人にも判る内容です。

(この続きは「フォークN」に公開しました。副題は「昏いカリスマ」です。「算命学余話 #R104」で検索の上、登録&小豆茶一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、サイトの都合により現在も購読可能のようです。しかし今後はフォークNのみ新規記事を掲載しますので、予めご了承下さい。)

by hikada789 | 2019-08-14 14:39 | 算命学の仕組 | Comments(0)
最近、史上初の視覚化されたブラックホールの画像が公開されて話題になりました。視覚化されたというのは、ブラックホールが光さえ呑み込んでしまう性質を持つために、そもそも視覚で捉えることの出来ない対象であるのを、電波データ等を解析することでその形態や熱量を推量して目に見える形に画像化したということです。
その画像は暗黒の宇宙に浮かんだオレンジ色のドーナツ型で、ドーナツ穴の暗黒がブラックホールの本体中心、オレンジのドーナツ部分がブラックホールの重力によって引き寄せられている光や熱ということです。視覚化されても我々の目に見えるのは周辺の副産物ともいうべき光や熱であり、肝心のブラックホール本体を見ることは結局叶わないわけです。
このことは非常に示唆的で、宇宙を投影している算命学においても、人々の耳目や行動の動機を集める引力の中心には、よく判らないものが往々にして存在し、作用しているものだと考えています。そしてそんな風によく判らない、よく見えないものだから、その周辺に見える、輝くドーナツ部分を引力の中心だと錯覚してしまうのです。錯覚は錯覚であり、間違いであるので、人間は往々にして間違った認識のまま引力に引き寄せられてしまう。自分が本当は何によって動かされているのか、判らないまま行動してしまう。そのように算命学は見做しております。

ところでもう一つブラックホールについて判ったことがあります。以前の説では、ブラックホールは光さえも吸収するほどの巨大な引力天体で、その中に落ち込んだ光や物質は二度と出て来れないし、或いは時空を歪めてそこから別の次元に送り出されているのかもしれないといった想像が語られていました。この想像が間違いであるかどうかはまだ判明しておりませんが、判明しているのは、ブラックホールは光や物質を吸収するだけでなく、放出もしているということです。
ブラックホールがあまりに巨大な場合、引き寄せられる光や物質が多すぎて飽和状態になり、パンクして周囲にまき散らされるからです。この放出現象をジェットと呼び、ブラックホールの中心から上下へ筒状に噴き出していることが、どうやら判ってきました。
この説も、以前の説に比べて算命学的に辻褄が合います。算命学の陰陽五行説では、宇宙にあるものがどこかへ消えるとか無くなるということは、理論的にあり得ません。姿を変えることはあっても、或いは見えなくなることはあっても、存在そのものが消えるということはなく、どこかに必ずあるはずなのです。
「ブラックホールに落ち込んだ物質が別の次元に」という説は陰陽論からあり得るかもしれませんが、「落ち込んだまま二度と出て来れずにそこに留まる」というのは、算命学の気流論に合いませんし、「ブラックホールが一方的に吸収するだけで放出しない」という考えにも同意しかねます。しかし今後は「ブラックホールも放出している」説が通説として定着しそうですから、算命学の視点からはこの説の整合性に満足するところです。

ブラックホールの話はこのくらいにして、今回の余話のテーマは十二大従星を基礎から考えるシリーズです。天恍星を取り上げます。天恍星は少年の星であり、年齢的には中高生に当たります。大人でもなく子供でもない。しかし本人は自分が大人だと思っている、そういう年齢です。性的な関心も高まる時期であり、肉体が成熟に向かう一方で精神はまだ幼く脆弱です。そういう星を宿命に抱えたり、或いは後天運で巡って来た場合、大の大人はどういう行動を示すのか、基礎に立ち戻って考えてみます。

(この続きは「フォークN」に公開しました。副題は「天恍星を基礎から考える」です。「算命学余話 #R103」で検索の上、登録&レモネード一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、サイトの都合により現在も購読可能です。しかし今後はフォークNのみ新規記事を掲載しますので、予めご了承下さい。)


by hikada789 | 2019-08-04 11:40 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の算命学余話#R101で激辛好きの人に対するいささか私的な苦言を呈したら、わが余話の読者にはおるまいと念を押したにも拘わらず、激辛好きの人から反論と思われるコメントが寄せられました。思われる、というのはそのコメントを私が読まなかったからです。ちらっと数行見ただけで低俗な主張であることが判ったし、既に何度も念を押している通り、激辛好きの人の意見に耳を傾ける価値はない、こちらが求めるような中身の詰まった話などこの人種には吐けない、という強い固定観念に囚われている私であるため、つまらぬ文章を読む時間の浪費を回避したかったからです。
そもそも余話でも言及している通り、算命学者の視点では、無暗に自己主張する人、頼まれてもいないのに意見を述べたがる人というのは、およそ賢くありません。なぜなら伝達本能を司る寿は、「水火の激突」により印とは相反するからです。印は知性。寿が正しく発動するためには、人体図タテ線の法則により、そこに印の裏付けがなければなりません。

無暗にとか、お呼びでないのにとか、ネットで匿名の嫌がらせでとか、気まぐれでとか無責任にとかいう冠をつけた状態で発せられる伝達行為は、独りよがりの自己主張にすぎず、印を含まないため根拠薄弱であり、それだけで愚かしさを露呈します。人はなぜ沈黙するのか? それは自分の意見が取るに足らないものである可能性を考慮して、そんな意見を他者に開陳することで自分の愚かしさを露呈するより、黙っていた方がマシだと思うからです。この沈黙の行為は既に思慮深さの表れです。沈黙は賢さの一部なのです。

最近読んでいるヴォドラスキン『聖愚者ラヴル』に、賢者の言葉としてこのような文言がありました。「大アルセーニーは、自ら発した言葉に対して後悔したことはあったが、沈黙したことを後悔したことは一度もなかった」。どうですか、このロシア聖人の文言が心に響いた方は、やっぱり激辛なんか食べませんよねえ。
こうした種類の、お呼びでない寿がしゃしゃり出てきたようなコメントはたまに寄せられますが、つまらないコメントにはつまらない返信しかできないため、返信はしておりませんし、掲載承認もしておりません。こうしたコメントを排除するためにいっそブログを「コメントを受け付けない」設定にしようかとも考えましたが、中には有難くも余話の記載ミス、しかも鑑定技術に関わるミスを指摘して下さる読者もいて(脱帽)、こういうコメントは是非とも寄せて頂きたいので、依然としてコメントは受け付ける状態にしております。
でもせっかくなので、私が好ましいと思うコメントの例を挙げておきます。とはいえ以下の例はいずれも見知らぬ読者からのコメントとして届いたものではなく、親しい友人との対話の中で聞かれた言葉であり、こういう文句をわがブログに文字として残しておきたいと思ったので、この機会に文字にすることにしました。

【例1】
 以前記事に、ロシア語文法が複数形を2~4と5以上で異なる格変化を要求するというテーマで、結局人間の脳が瞬間的に4までしか数えられず、5以上になると漠然と「多い」扱いになることが原因らしいという研究者の講話を掲載しました。そして猿の脳は実験により、人間より1つ少ない3までをひとくくりとし、4以上からは脳の別の部分を使って認識していることが判っているということも併記しました。
この件で友人は、勿論ロシア語など一語も知らない人ですが、すぐさま「朝三暮四は正しかったのだ」と反応しました。こういうコメントが寄せられたなら、文句なしで掲載承認させて頂きますのに。なに、朝三暮四が何だか判らない? だから激辛は辞めて青魚を食えというのです。

【例2】
イスラム圏の中で圧倒的文化力を誇るのはペルシャだという通説を経験則からも実感している私は、ある友人にこんな話をした。アラブやトルコが遊牧文化であるのに対してペルシャは農耕文化であり、都市文明を紀元前から永らく担ってきた。移動生活でないため腰を落ち着けて工芸や文芸を洗練させる環境にあり、イスラム化してからも神秘思想に傾倒しがちな国民性もあって(サファヴィー朝は特にそうだ)、その芸術活動には神のまします完璧な世界に近付きたいという明確な意志が込められている。それがペルシアン・ブルーのタイル建築や細密工芸等に現れるため、素人がぱっと見ても「おお!」と思わず感嘆する。
しかし隣国トルコはそのペルシャ芸術の後塵を拝して模倣したにすぎず、オスマン帝国時代に定住化したとはいえ、宮殿を彩る装飾はペルシャの亜流だ。富は絶大でもそこには装飾に込められた意志がなく、オリジナルをそれらしく真似たといった浅薄なものしか感じられない。少なくとも私の目にはそう移り、見ても驚きを感じない。
こうした意見に対し、友人は最近観に行ったトルコの宮廷宝飾品展覧会を思い出し、残念ながら余り感銘を受けなかったと洩らしました。そしてその原因が、今の話を聞いて腑に落ちたというのです。この友人は美術畑の人なので、私の方でも説得力を感じました。こういうコメントならいつでも掲載したいです。中身詰まってますよね。

さて今回の余話のテーマは、嘘についてです。昨今では、反社会勢力に与する営業を行ったとして世間の批判を浴びた一部の芸人らが、最初は金を受け取っていなかったと釈明したのに、その後受け取っていた事実が判明し、益々評判を落としたという報道が世間を賑わせています。初めから正直に言っていた方が傷口は浅くて済んだかもしれないのに、という意見が一般的です。嘘はつかない方が良かったという典型例です。
算命学は、嘘がいけないと明言してはいませんが、因果の法則と、殺傷の因縁が何代目までに清算されるかを明確に示していることからも判る通り、嘘はいずればれるもの・清算されるものと考えているようです。それも何代も待たずに、結構すぐです。すぐばれるから、敢えて技法や思想に取り上げなかったのかもしれません。従って、今回は技法とは関わりのない、算命学の一般論から見た嘘について考えてみます。

先に挙げた『聖愚者ラヴル』にはこんなフレーズもありました。「ピリッポス王がある男を裁判官に任じたが、その男が髪やひげを染料で染めていることが分かった時に、その任を解いて言った。髪に誠実でない者が、どうして人々や法廷に誠実でありえようか」。
一度でも人間は嘘をつくと、それが露呈した時に、それまでの何倍もの信用を失います。その痛手の大きさを知る人は、敢えて嘘をつくというリスクを冒さない。それが賢明というものです。大ボラを吹くことは簡単だし瞬間で済みますが、信用を積み上げるには忍耐が必要で、時間も掛かるものです。皆さん、トレンドに従って髪を染めていらっしゃる? どうもその行為は誠実ではない証となるようです。

(この続きは「ブクログのパブー」及び「フォークN」に公開しました。副題は「嘘を考える」です。「算命学余話 #R102」で検索の上、登録&桃ゼリー1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおパブーでの購読は2019年6月末で終了となります。7月以降はフォークNのみの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-06-29 19:25 | 算命学の仕組 | Comments(0)
独自の視点と強気な発言でキワモノ扱いされている感もある哲学者の摘菜収が、以前自著の中で「激辛好きは頭が悪い」と豪語しているのを読んだ時、思わず笑ってしまいました。実は私もそう思っていたからです。しかし自分の中でこの説には根拠がなく、せいぜい身の回りの賢い面々には激辛好きは一人もいないことと、友人とは見做していない知合いの中に激辛好きがたまにいて、それらがいずれもお粗末な頭の持ち主であるといった経験則ぐらいのものでした。そのモヤモヤをこうもはっきりと明文化、しかも高い教養と知見を備えた人間(高潔とは言えないかもしれないが)が断言しているのは、実に清々しく痛快に思われたのです。聡明なる算命学余話の読者の皆さんは、勿論激辛好きではありませんよね。

摘菜氏がその時どういう根拠を並べていたかは忘れてしまいましたが、最近立て続けにその根拠となる科学的見解を耳にしました。要は、味覚における「辛さ」とは「痛さ」と同義であるので、激辛料理を食べると「痛み」を感じた脳がこれを和らげる緩和物質を出す。いわば脳内麻薬です。それが多幸感を生むため、激辛料理がやみつきになるというわけです。結論としては、辛い物好きはそもそも薬物依存の素質があるということ、過度の刺激による多幸感を欲するほど実生活がイケてない不幸な人であるということ、自力ではなく他力によって至福感を得ようとする人であるということ、こんなところです。これらを総合して、摘菜氏は「激辛好きは頭が悪い」と一刀両断したのでしょう。

算命学的に言い換えれば、幸せだけを求めて不幸を人生から完全に排除しようとする人は陰陽論が判っていないし、概ね利口な人というのは、急激な成功や一時的な上昇が幸せにとっての蓄積にはならないことに薄々気付いているし、他力よりも自力で獲得した幸せの方が遥かに堅実で価値が高いことも知っているからだ、ということになります。
首を縦に振っている皆さん、勿論激辛なんて食べませんよね。というのは、私の所に運勢鑑定を依頼される方の中に、たまに「自分の今後の人生をすべてコーディネイトしてくれ」と言ってくる人がいるからです。自分がやると失敗するかもしれないので、算命学で成功だけする完璧なロードマップを作ってくれ、自分はその通りに生きるから、というわけです。
こういう人には本当にガッカリさせられます。せっかく自然が与えてくれた自分の人生を自分で構築するチャンスを、みすみす他人に譲り渡して自分はその結果だけ欲しいというのですから。そんな他人任せで得られた成功が至福感を約束してくれると思ったら大間違いです。そんな成功はあなたの功績ではなく、他人の功績です。その功績によって他人の宿命の輝きが増すことはあっても、あなたの宿命は輝かないままくすぶって一生を終えるだけです。
あなた、激辛好きでしょう? 唐辛子が与えてくれる多幸感は違法薬物の効用と同じです。長続きしないどころか、心身を蝕んで老化を早めるだけです。激辛よりも、頭の良くなる青魚をもっと食べなさい。その方が幸せへの近道になります。

今回の余話は、守護神の続きです。丙火もこの冬で最終回です。守護神の記事は今までのところ人気のないテーマで、あまり読者が増えていません。算命学の技法を欲している少数の人しか購読していないということなのでしょう。それは言い換えれば、算命学の技法でなくても読むに値すると見做してくれている読者が多いということです。そうした読者を見込んで、上述のような発言をわざわざ紙面に残してみました。責任を持って発言している言葉なので、撤回はしません。読者の皆さんは勿論激辛など食べない人だ、という前提で執筆しております。

(この続きは「ブクログのパブー」及び「フォークN」に公開しました。副題は「守護神#12 丙×冬」です。「算命学余話 #R101」で検索の上、登録&水ようかん1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおパブーでの購読は2019年6月末で終了となります。7月以降はフォークNのみの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-06-16 19:33 | 算命学の仕組 | Comments(1)
昨今世間では、ひきこもりの扱いに困っているようです。五十がらみのひきこもり男性が無差別殺傷事件を起こし、それを見た元エリート官僚がひきこもりの、これまたいい年こいた長男を刺殺しました。長男の家庭内暴力が戸外へ飛び出して無差別殺傷事件に発展するのを阻止するため、というのが殺人の動機でした。
後者の事件を解説する日本語が滑稽に聞こえます。「中学の頃から家庭内暴力をしていた〇〇さん(長男の名前)」「長男に暴力を振るわれ危機感を強めた××容疑者(父親の名前)」。日頃暴力を振るっていた長男が「さん」付けで、それを止めようとしていた真面目な父親が呼び捨てです。殺人は悪だという短絡で、深く物事を考えずに済ませる習慣に馴染んでいる人たちは、猫も杓子も殺害された人に「さん」をつけて安心しようとしています。しかしそんな薄っぺらな人間よりも歴史ある日本語の方が遥かに利口なので、単語のおかしな組合せ並べると「間違った日本語」に自然と聞こえてきます。
「さん」は敬称です。その人間性を敬っていない相手に対して敬称をつければ、敬意そのものがウソになります。それとも、日頃からウソに馴染んだ人や、相手に敬意を払う習慣のない人にとっては、もはや感覚がマヒして、こうしたおかしな日本語の並びに違和感を覚えないというわけでしょうか。
とはいえ、世間ではこの父親の「義挙」を称える声が上がっています。そして逆にそれを戒める声も上がっています。どちらの正義が正しいのでしょう。どちらかが正しいとすれば、世の中には「間違った正義」というのが明確に存在していることになります。

算命学は良し悪しを論ぜず、陰陽を説くだけです。そして殺人に至るまでには、おそらく先祖の因縁があると考えます。その因縁を清算するために、身内や近親者に犠牲を出すことはままあります。それが殺人という形を取るかどうかまでは断言できませんが、いずれにしても、世間がおかしな日本で唱えるように「殺した方が一方的に悪であり、殺された方には非がない」という単純な線引きは算命学には通じません。
今回の余話は、昨今連続したひきこもり関連の殺傷事件について、算命学的視点で考えてみます。宿命は見ませんし、こういう命式だからひきこもるとか、無差別殺人に至るとかいうことは論じません。ひきこもりが現代人特有の現象だとも考えません。自然思想と陰陽五行論だけで、これらの現象をある程度分析することが可能だ、というお話をします。

(この続きは「ブクログのパブー」及び「フォークN」に公開しました。副題は「ひきこもりについて」です。「算命学余話 #R100」で検索の上、登録&アイスカフェラテ一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおパブーでの購読は2019年6月末で終了となります。7月以降はフォークNのみの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-06-08 19:12 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の余話#R98で「胎元」を取り上げるに当たって引き合いに出したアイドルが身強だったと知り、驚きました。通常身強はそのエネルギーの大きさにより悪目立ちすることがあり、実際学校などでいじめを受けるのは身弱よりも身強の方が多いとされていますが、同時に身強は痛みに強い(又はニブイ)ので、いじめを受けても気付かずうやむやに過ごして終えることしばしばです。
例えば身強は骨折しても「痛いな」くらいにしか思わず、医者にも行かずに放置したまま自然治癒を待つため、体のあちこちに大きな傷痕を残していることがよくあります。もしこれが身弱なら痛いどころの話ではなく、大騒ぎして病院に駆け込み、徹底的な治療をしてもらって傷を治しますから、結果的に傷痕は薄いものになります。健康管理について日頃ケアに勤しんでいるのは、明らかに身弱の方です。身強は良く言えば豪快、悪くいえばずぼらなのです。これは持って生まれたエネルギーの量による差異です。

そんな身強と生まれた者が、「顔を触られた」くらいで「暴行」被害を訴えるのは辻褄が合いません。そう算命学者は考えます。ではこの身強のずぼらセオリーを覆してまで被害者ぶるには、他にもっと大きな原因があるはず。もちろん宿命にです。そこで宿命を見てみたところ、ああこういうことかと納得がいきました。というわけで、今回の余話のテーマは被害妄想についてです。
被害妄想の命式というのはいくつか考えられ、この命式だから必ず被害妄想になるということではありません。人生は宿命だけが決定しているのではなく、その人の実際の生き方も大きな決定権を担っています。今回の事例はアイドルなので、職業としては珍しい部類に入ります。通常の生き方とは当然異なります。しかし、もしこの人がアイドルにならなかったら、どういう生き方が自然に則していたでしょうか。身強でありながら小さな被害(「胎元」と比べてみて下さい)を大声で訴えるという事態になったでしょうか。命式から読み解いてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」及び「フォークN」に公開しました。副題は「被害妄想を見定める」です。「算命学余話 #R99」で検索の上、登録&水出しコーヒー一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおパブーでの購読は2019年6月末で終了となります。7月以降はフォークNのみの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-05-26 18:01 | 算命学の仕組 | Comments(0)
少し前に、アイドル女性が自宅に押し掛けたファンの男性に「暴行」された責任を所属事務所に訴えるという事件がありました。報道によればその暴行の内容とは「顔を触る」というもので、もしかしたらアイドルという立場を守るため敢えてソフトな表現にとどめたのかもしれませんが、間違っても強姦ではないし、殴る蹴るの暴行でもなかった。そこまでしたらもっと大ごとになっているはずですから。そんなわけで私は、「顔を触られたくらいで暴行だ? 仮にキスされたって妊娠するわけじゃなし、大袈裟な」とバッサリ斬り捨てる思いで報道を聞き流しました。アイドルという職業柄も、この種のリスクは当然折り込み済みで、むしろそうしたファンの心理を利用して儲けている業種なのだから自業自得だ。そのリスクを想定できない脳ミソを持ってアイドルをやっている方が悪いのだ、くらいに考えました。
そして、「こんな些細な事で騒ぎ立てる人間は、きっと身弱に違いない」とせせら笑いました。実際に身弱かどうかは知りませんが、算命学の理屈では、こうした言動は精神鍛錬の足りない身弱の特徴です。精神鍛錬のできている身弱ならこういうことは言わないし、身強なら通常、骨の一本や二本折れるほどの明らかな暴行を受けた場合でも被害意識を覚えないほどメンタルは頑丈です。鈍いとも言えますが。いずれにしても、このアイドルの言動から算命学は「修行の足りない未熟な愚か者」という判断を下しますので、算命学者である私が同情を寄せる余地はないのでした。

なぜこの事件を取り上げたかというと、算命学をやっていると、想像を絶する不幸不運の命式というのが理論上存在することが判ってきます。そしてその命式は男に生まれるか女に生まれるかで差があって、ものによっては女性が圧倒的に不利だということです。それは常識と照らし合わせてもそうですが、男女の肉体的な差の表れであり、男性の受ける暴力と女性の受ける暴力は種類が違うということです。それは名誉や未来にも深刻に関わっています。
今回の余話のテーマは、前回余話#R97で解説した一気成生格について、九種類のうちの別の一つを取り上げます。前回の「凡夫入城」を読まれた方が一気成生格を軒並み幸運な命式だと勘違いしないよう、今回は大難に部類される「胎元」です。どうしてこの命式が大難なのか理屈と合わせて考えてみますが、これを見れば、冒頭のアイドルの被害など訴えるに値しないことが判るでしょう。

(この続きは「ブクログのパブー」及び「フォークN」に公開しました。副題は「胎元を考える」です。「算命学余話 #R98」で検索の上、登録&山菜御飯一膳分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおパブーでの購読は2019年6月末で終了となります。7月以降はフォークNのみの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-05-18 13:28 | 算命学の仕組 | Comments(0)