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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

カテゴリ:算命学の仕組( 285 )

国際ニュースでは、南米からの移民がキャラバンを組んで米国へ向けて北上中という報道が連日続いています。当時者である米国の大統領は世界中の「良心」から嫌われているようなので、この移民集団を応援し物質的にもサポートする人々の活動なども同時に好意的に報道されています。しかし移民たちの行為の是非については誰も論じていません。
去年・一昨年辺りはこの種の集団移民がアフリカから欧州へ北上して、ゴールのドイツはともかく、通過地点にすぎない東欧諸国などは露骨に迷惑顔を見せていました。通り過ぎるだけの移民らの行儀がお世辞にも良いとは言えなかったからです。よく躾けられて、「ご迷惑おかけして申し訳ありません。静かに通ります。汚しませんから通過をお許し下さい」という態度だったら、東欧の市民らも嫌悪を示さなかったのではないでしょうか。そこに人種差別はないように思われます。あったのは他者に対する礼儀と気遣いの欠如だったのでは。
日本の「もったいない」という言葉はその精神と共に国際語「モッタイナイ」としてアフリカなどにも浸透していると聞きますが、日本の工事現場によく掲げられる「ご迷惑おかけして申し訳ありません」看板とお辞儀のイラストも世界に広めることはできないものでしょうか。これをプラカードにしてデモ行進したら、周辺住民も唾を吐いたりしない気がします。どうして現在使われているプラカードは「死ね」だの「反対」だの「〇〇しろ」だの、礼儀も気遣いもない険悪な言葉ばかり連ねているのでしょう。こんな不作法な人々の要求する姿を、デモが批判している対象者はもちろん、無関係な第三者が見て、同情を寄せてくれるとでも思っているのでしょうか。方法からして間違っている気がします。

以前、日本と海外を比較するテレビ番組で、どうして日本人はデモをあまりしないのかが議論されたことがありました。その時の日本人の反応は、歴史的に学生運動における挫折や敗北でデモの無力を知っているからであるとか、やってもいいけど効果が期待できないからやる気も起きないからだとか、社会人らのそれらしい回答にまじって、学生が「デモはイケてないから」と言い放ったのが印象的でした。
この回答は素直だと思います。要するにカッコ悪いと思うからやらない。デモ好きな国の外国人は反発していましたが、国はそれぞれ歴史が違うのだから、価値観が一致しないのは当然です。或いはこの学生は、盆踊りなんぞカッコわりぃから参加しねえ、と言い放つ類の生粋の江戸っ子だったのかもしれません。デモと盆踊り。拡声器とプラカード。街の真ん中で自己主張を叫ぶ。何やら似ている気がします。

私はかねてより意見表明している通り、移民には反対の立場です。それは日本についてだけでなく、世界のどこの移民についても同じです。その根拠は算命学にあります。
今回の余話のテーマは、日本の将来にとっても他人事ではない移民についてです。とはいっても、算命学が移民という行為・現象を100%否定しているわけではありません。場合によっては肯定しているのですが、ではどういう場合に反対だったり賛成だったりするのか、その根幹にある理屈は何なのかを考えてみます。なお、移民については過去に『算命学余話#U94』で総論を述べていますが、今回の内容はそれを掘り下げたものになります。

算命学の認める移民は小さくは転居であり、中くらいでは家系からの脱出、大きくは国からの脱出です。そしてそうした転居なり脱出なりが正当性や妥当性を帯びるには、いくつかの条件が必要です。
まずは宿命天中殺。特に生月中殺は家系から中殺を受けているため、生家に留まることは自他ともに無理を生じます。川の流れに棹を差して生きるようなもので、こんな細い棹にしがみついて生きるよりは、流れに身を任せて流れていき、流れ着いた先で新生活を始める方がよい、というのが算命学の考え方です。小さな転居や大きな移民も、基本的にはこの考え方に当てはめることができますが、ここでは中間をとって家系で話を進めます。後で大きな移民につなげます。

宿命天中殺が次男三男であったり娘であったりするなら、さほど問題にはなりません。独立するなり嫁ぐなりして家を出れば済むことだからです。しかし長男だとすれば、それは少々問題です。長男がすんなり家を出てくれて、次男が家を継ぐというのなら、まあ穏便ではありますが、長子相続であった歴史が長い場合は気の流れ方が変わるため、その転換点から何らかの支障がしばらくは生じるようになります。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「故郷を捨てる行為」です。「算命学余話 #R79」で検索の上、登録&栗ぜんざい一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-11-10 22:15 | 算命学の仕組 | Comments(0)
宇宙人の運勢鑑定は恋愛相談お断りだが、およそ物事を深く考えない類の人種が愛だの恋だのを声高に叫んでウットリしたり、偶像にすぎないアイドルを追っかけては奇声を放って理性を喪失したりしているのを、公道で下半身を露出する変質者とほぼ同格に見做している。なに、厳しすぎる? 同じ部類だよ、どちらも理性が吹き飛んでいる状態なんだから。算命学で言えば知性の喪失、つまり印や人体図頭部の阻害や障害であり、寿及び人体図腹部の肥大である。図式は簡単だ。下半身の活動がゼロになれとは言わない。生殖を担っている部位だから。でもそこは頭部(北方)に適切に制御してもらうべきなのだ。生殖器の暴走は見苦しく、何より将来(南方)への害になる。

ところで宇宙人が下半身以前に愛や恋に対して概ね懐疑的な目を向けているのには、幼少期の個人的経験によるところが大きい。そのうちの一つが、確か小5の時の教室での出来事である。
宇宙人は生まれた時から地球人に化けて暮らしているので、どうすれば地球人に見とがめられずに好意的に接してもらえるか、間違っても正体がばれて捕獲され、刑務所や病院に閉じ込められたりしないよう、処世の術は幼少時から磨いてきたつもりだ。尤も成人後は面倒臭くなってせっかくの技術を放棄して暮らしているが、子供の頃は立ち居振舞いに注意し、涼やかな優等生で通していた。勿論あくまで見た目がである。根性は今も昔も変わりはしない。しかし幸いお勉強はできたし、タコ・クラゲ型だから色白でスリムだった。だからクラスでは人気があったらしいのだが、宇宙人は自己本位に生きているので他人が自分に好意を持っていることにあまり関心がない。関心があるのは他人が自分を攻撃して来るかどうかである。その場合は全力で迎え撃たねばなるまい。小5のつたない頭はそれでいっぱいであった。
そんなある日、遠足だか林間学校だかに行くので男女に分かれてそれぞれグループを3つ作れと教師が言った。その意図するところは、普段仲のいい友達同士でざっくりくっつき、概ね同じ人数の3組に分かれろというものだった。宇宙人はいつもの顔ぶれの友人らと塊りになり、塊りはひと組の定員を満たした。これで課題は終わりのはずだった。

ところがである。普段の遊び仲間ではあるが特別親しいというわけでもないMが、その親友Yと二人であぶれていた。MとYは引き離されるのが嫌だったので、二人一緒に入るには既に形成された3つのグループのうち、人数の少ない組に入るのが妥当だ。ウチのグループは人数が多く、空きはないからここへは来れない。そう思っていたら、Mが真っ直ぐにこの宇宙人を目指して、当然のようにグループに同化しようとした。宇宙人は驚き、まず定員の観点から、次に「親しいかどうか」という点から、無言で「それは無理だよ」という顔をした。するとMの表情はみるみる歪み、自分の正当な権利が阻害されたとばかりに糾弾のひと言を宇宙人に吐いて背を向け、Yと共に他のグループへ向かったのであった。
糾弾は、自己本位に生きる宇宙人には身に覚えのないものであったが、クラスの全員が聞いた。そしてその糾弾の内容は、Mが宇宙人に対して抱いていた一方的な愛情の深さに比べ、それに全く見合わない宇宙人のMに対する冷淡さを非難するものであった。宇宙人はこれを、自分の愛情の押し付けを正当化する身勝手な人間の態度と見て、その後Mとは距離をとるようになった。そして、相手の気持ちを尊重しない一方的な愛というものを恐ろしいもの、醜いものと認識し、同時に自分の立場を危うくする脅威として愛そのものを警戒対象と認識するようになった。なぜならクラスメイトたちはこの事件により、宇宙人を何か非情な人、少なくともその見た目ほどには優しくもないし、自分に向けられた愛情に対して謝意を抱かない人だというふうに認識又は態度を変えたからだ。
いや、実はその通りなので、その認識自体に文句はないのだが、いやいやより正確に言うのなら、宇宙人にだって好みがあり、好みの相手に対しては愛情を返しているし、その人の好意を嬉しく思っている。決して非人情ではない。かといってマザーテレサのように博愛主義では断じてない。好きでもない相手に対しておべんちゃらの愛情は示せない。それが正直というものだ。
だが、宇宙人であることを隠すあまり優等生を演じてきたのが災いしたのは否めない。クラスメイトは宇宙人を何でもできる、何でも解決できる神様の一種のように思っていたらしく、これは宇宙人の誤算であった。そしてここが肝心なのだが、かように集団が誰かを崇めていた場合、その崇拝が何かのきっかけで間違いだったと自覚されると、今度は一転して崇拝対象を貶し始めるのだ。それまで崇めていた自分が間違っていたという自責を軽減するために、責任を誰かに転嫁する。誰に。元の崇拝対象にだ。こっちにしてみれば寝耳に水だ。崇拝してくれなんて頼んだ覚えはないし、そもそも崇拝されるよう振舞った覚えもない。しかしこちらは一人で、あちらは集団だ。こちらの声などかき消えてしまう。民主主義の原理である。

そんなこんなで、宇宙人は小5にして相手を考慮しない一方的な愛情及び恋情というものと、集団における崇拝とその容易な逆転現象に対し、最大限の警戒を向けて臨むようになった。どんな小5なのだ。だから同級生の「小5の頃までサンタクロースを信じていた」とかいうホニャララな話を聞いて、絶句するのもやむなしなのだ。痛かったのだよ小5の身には。
立派なトラウマだが、損をしたとは思わない。だって世の人間関係トラブルといえば、大体このテーマに集約されるではないか。要するに「勝手な思い込み」。そこに客観的視野が欠落していることで起きる現象なのである。Mの一方的な愛情も、優等生を演じていれば万事安泰だと油断していた宇宙人も、別の角度から見た自分がどう見えるかを考えていなかった。物事を正しく判断するには、主観だけではだめなのだ。視点を増やさないと。
この種の痛い教訓は、実はこれ一回ではない。その後宇宙人は子供時代に類似の教訓に何度か鞭打たれることになる。お蔭で現在のような人間に対する厳しい視点をもって世の中を眺めることができるようになったのであるが、同時に恋愛相談には応じられない体質となった。宇宙人は恋愛を否定はしないが、上述のような一方的な恋情・愛情は災いしかもたらさないと確信しているし、世に溢れる恋愛の悩みは突き詰めればこうした災事を愛だと勘違いしていることから発しているものと断定している。だから相談の余地はないのだ。相手を考慮しない愛情など、災厄であって愛ではない。災厄を愛だと言って押し付けられる側がどれだけ迷惑しているか、考えてから愛を語れ。そう、考えて、つまりやっぱり頭(印)を使えというオチになるのだ。

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by hikada789 | 2018-11-08 19:48 | 算命学の仕組 | Comments(0)
先日、日本にホスト文化を根付かせ広めた「ホストの帝王」が亡くなりました。78歳でした。この人がいなければ日本のホスト業界はこれほど発展しなかったと言われ、同業者には神様と呼ばれ、勿論女性たちからは大いに愛され、華やかな夜の世界によりひと財産を築いたユニークな実業家でした。しかし晩年は脳梗塞に倒れると同時にアルツハイマー型認知症に罹り、社長退任後は瞬く間に資産を失い、最期は見る影もなかったと伝えられています。
脳梗塞に倒れたのが2011年の辛卯年で、この人の天中殺に当たっています。この人は宿命天中殺ではないので、後天運による天中殺は特に強く作用することが予見されますが、翌年2012年からは大運天中殺も始まります。
このように老年に達している人が天中殺の期間に脳梗塞など後遺症の出る病を発症すると、ぐずぐずと後を引いて回復が遅れることが多いのですが、その上畳みかけるように大運天中殺に突入すれば、出口の見えないトンネルのようなもので、年齢から考えるとこの期間のうちに寿命を迎えたのは自然と見てよいでしょう。日本男性の平均寿命から見ても、特に早逝とは言えない一生でした。

ではこの人が幸せな人生であったかどうかを考えてみると、算命学では、前半生がどんなに華やかで成功した人生であっても、晩年が寂しく不幸であったのならば、人生全体は不幸であったと見做します。算命学は、人の人生は終わってみるまで評価できないと考えているので、終わった時のその人の至福度なり充実度が決め手になります。
この人の場合、認知症により自分の一生が幸せであるのか不幸せであるのか、自ら省みることもできませんでした。こういう人生の終わり方は、気の毒ですが、算命学はやはり「不幸だった」と総括せざるを得ません。築き上げた財産を失って晩年を過ごしたことも、やはり幸福とは呼べません。彼の勇名や事業や資産をどれほど多くの人が称えようとも、その称賛と彼一個人の幸福とは別物なのです。称賛や栄誉は五徳のうちの官(金性)であり、幸福は福(木性)です。両者は金剋木の相剋関係にあり、融和は難しい。

さて今回の余話は、このホストの帝王の宿命です。といっても人生の総括はもう述べてしまったので、宿命のほんの一部分、日干支だけに注目してみます。というのは、この日干支がいかにもホストにぴったりで、大勢の女性に愛された男の命式として思わず頷くものであったので、そのあたりに着目してみたいと思います。勿論、日干支は男に生まれる場合と女に生まれる場合とで差異が生じます。ホストにぴったりな命式は、果たしてホステスにもぴったりなのでしょうか。その辺りを考察してみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「ホストの帝王」です。「算命学余話 #R78」で検索の上、登録&秋刀魚の塩焼き一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-10-29 18:22 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ウラジーミル・メグレ著『アナスタシア』シリーズが面白い。読めば読むほど合点がいき、且つ算命学の神髄とする本質論に非常に近い世界観が見て取れる。正しい子育てや理想的な男女関係を模索されている方はとりあえず読んでみて、心に響くものがあったら是非実行して下さい。決して損はありません。
子育てというと「育児」という限られた家庭及び期間限定のテーマに聞こえますが、この作品は自らの過ちに気付かないまま老年に達してしまった人々にも救済策を示しています。というよりそもそも世代別の対処法ではなく、人間の営みが連綿と受け継がれていくことを前提に話が展開するので、普遍的に親が子へ与えるべき手本とは何か、そうすることでどれほどの問題が解決へ向かうのか、そういう処方が万人に向けて掲げられております。

とはいえ、この作品を読んだ万人が己れの非を認めて方針転換するかといえば、そんな人はほんの僅かかもしれません。その証拠とばかりに、第四巻『共同の創造』にはこんな文章が綴られています。

――美しさと共鳴するためには、自分自身の内に同じものを持っていなければならない。

つまりどんなに正しい解決策だろうと、金言だろうと、受け取る人間がそれを理解するレベルに達していなければ何の役にも立たない、ということです。どうですか、前々回の余話で「恋愛は低級か」と嘯かれて気分を害された皆さん。あなたの恋が実らないのは、あなたが追い求める恋愛対象ほどには、あなたが美しくも賢くもないからだということに、多分あなたの本能は気付いているはずですが、あなた自身はどうしても認めたくない、だから堂々巡りをしている、ということをいい加減自覚しませんか。
そして、当方の運勢鑑定を受けて逆ギレされた少数の方。当方は誠心誠意で最善策を提示しているのですが、それを受け入れられないのはあなたの問題であり、こちらの責任ではありません。さほど難しくもない解決策を、難しくてとても採用できないと思うのは、あなたのオツムが弱くて簡単な判断もできないからであり、あなたの半生が幼稚で、物事に対して責任を以って対処する経験を怠ったことによるツケなのです。

『共同の創造』には、そうした内面の美しさや賢さを磨けぬまま人生を終えつつある老人もまだ手遅れではない、と改善を促しています。詳しくは本編を読んで頂くとして、ここにはいくつかの気になる部分だけを読みやすく簡略して抜き書きしておきます。抜粋だけだと語弊が生じるかもしれないので、興味のある方、また算命学の技術を上げたい学習者は、是非本編を一巻からじっくり読んで下さい。陰陽論の反映がよく見受けられます。

(1)偽りやまやかしは長く存続できない。魂がそれを受け入れないから。それゆえに多種多様な教義や思想が人々に投じられている。偽りは(長続きしないがために)常に新しくなければならず、目新しさ、新奇な見せかけを必要とするもの。人類が社会構造を次々と変えていくのはそのためだ。そうやって失われた真理をそこに探し求めながら、却って真理から遠く離れていく。

(2)嘘には常に限界がある。しかし真理は無限だ。真理はひとつであり、常に人間の魂の自覚の内にある。

(3)相反するエネルギーたちを、まずは自身の内で調和させること。確信のエネルギーもある。確信と疑念。これらが等しい時、未来の創造が正確で美しくあるための助けになる。

(4)(掃除機や洗濯機といった)人工物による労苦の軽減は、錯覚に過ぎない。人間はそれらの対価として日々人生を短くし、苦しまなくてはならなくなった。魂を宿さない物体を手に入れるために、好きでもない仕事に一生、奴隷のように従事しなければならない。周囲を取り囲む魂の無い物質が増えていくことは、大宇宙における人間の存在意味に対する無理解のレベルを表する尺度なのだ。周囲をよく見れば、一連の機械や道具を手に入れるために、工場が建てられ、死をもたらす悪臭を放ち、水は死んでしまった。人間はそんな不要な道具を手に入れるために、自分の一生を歓びの伴わない仕事に費やさなければならない。物が人間にではなく、人間が物に仕えているのだ。

(5)現代人の墓は、便所に似ている。誰にも必要のないものを捨てるための。このような場所に親を葬る子供や、親を忘れて家を去っていく子供に責任はない。なぜなら彼らは親の嘘、そして行き場のない自身の希求を、直感的に察知して家を出るのだから。弔いは儀式を通じてではなく、心からの誠意によって行うべきだ。

(6)悲しいことに、現代は人がわが子の教育を他人に任せてしまうことが習慣になっている。どこかの誰かの教えがどのような世界観を子供に注ぎ込むのか、子供にどんな運命をもたらすのか知りもしないで、自らが知らないものを自分の子供に与え、自ら子供を失っている。そういう子供たちは母親を忘れる。自分の子供を他人に与えて教育を放棄した母親を、成人した子供が見向きもしなくなるのは当然のことだ。

仏教用語に「因果応報」というのがありますが、これを単純な道徳に結びつけるのではなく、陰陽論的に理解した方が鑑定の助けになります。上述の抜粋は、その理解を促進するものを集めました。この作品にはもっと重要なテーマもあるのですが、それは別の機会に紹介しましょう。
今回の余話は、この『共同の創造』の上述の抜粋の、算命学的解釈になります。既に(1)~(6)を読んでピンときた方には、重複になるので購読不要です。ピンと来なかった方向けの噛み砕いた解説に過ぎませんので、ご了承下さい。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「『共同の創造』との比較」です。「算命学余話 #R77」で検索の上、登録&松茸おこわ一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-10-20 18:51 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の余話#R75では、結婚は人生の大事だが恋愛はそうではない、という話を突き詰めてみました。陰陽論から男女の性差は決定的であり、男女性差をゼロにしようと奮闘する現代社会の目論見が無意味であることを、算命学の学習者人は知っておかなければなりません。類似の話は既に過去の余話#U13と#U14で取り上げているので、そちらも参照下さい。

なお「気の濁った子供が生まれる」という話については、こんなイメージが適当です。永らく掃除していない部屋や物置に入ると、ホコリがたまって綿のような塊になっています。その色は灰色ですが、実はホコリそのものが灰色なのではありません。ホコリを形成する塵あくたはそれぞれ赤や黄色や緑や黒など、そのホコリがホコリになる前の衣類の繊維や、人間のまき散らす角質の色をしたままなのです。顕微鏡で見れば、その色とりどりの塵あくたが確認できます。
しかしそうした塵はあまりに微小で肉眼では見分けられず、結局綿ボコリというひと塊のサイズに成長しないと、我々の目は物体として把握できない。すると、色とりどりの塵たちは、あくまでも見た目上ですが、まるで絵具を混ぜたように互いの色を反映し合い、つぶし合う結果として、全体的に灰色の綿として人間の目に捉えられるのです。「気の濁った子供」とはこれに似ています。
では逆に気の濁らない子供を考えるなら、赤なら赤の、黄色なら黄色の、その色の塵あくただけで形成されているホコリということになります。他の色の塵が混じっていないのだから、そういう単一の色目になります。

単一の色目でも、混色による灰色でも、ホコリはホコリです。でもまあ、ホコリという例は適切でなかったかもしれません。その先の使い道がありませんから。これを人間の子供に当てはめた時、どのような印象を皆さんは受けますか。強さ、弱さ、美しさ、醜さ、生命力やしぶとさ、儚さ、平凡、珍奇。おそらく多くの人の受ける印象は概ね同じだと思いますが、その印象が「良い」か「悪い」かは、人それぞれだと思います。それは人それぞれで価値観が異なるからです。
毎度くどいようですが、算命学は陰陽を論じるだけであり、良し悪しは論じません。良し悪しを決めるのは、その人本人がする作業です。鑑定者が決めるものではありません。

今回の余話は、前回のテーマの一部を受けて、夫婦について取り上げます。最近大物女優が亡くなり、その夫との奇妙な夫婦関係が話題になりました。結婚後、同居していたのはたったの二年で、あとは死ぬまでずっと別居。夫の方は離婚を望んだ時期がありましたが、妻は拒否し続け、結局往生するまでこの状態でした。夫婦の間には激しい家庭内暴力の応酬もあったと、妻は公に語っております。つまり妻もやり返していた。それでいて、人生が終わってみれば、夫婦は結局仲が良かった、という伝えられ方をしております。果たして真実はどうだったのでしょう。
下世話ではありますが、妻の方がもう亡くなっているので、ここは心置きなく命式を判じてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「離婚しがたい夫婦」です。「算命学余話 #R76」で検索の上、登録&栗ごはん一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-10-07 13:31 | 算命学の仕組 | Comments(0)
アインシュタインの脳は死後、天才の脳がどういう作りになっているかを解明する手立てとすべく取り出され、今日まで保管されているそうです。ただ脳みそ丸ごとではなく、小分けにして複数の科学者がそれぞれの思惑で保管しているので、一部は既に散逸し、元の形に復元することはできないようです。
それでも現段階で導き出せるデータによれば、アインシュタインの脳は知的活動を司る部位の肥大発達が見られる以上に、左右の脳の間の激しいやりとりの痕跡が顕著だということです。一般に理性を司る脳は左脳とされており、優秀な科学者なら当然左脳の発達が予測されたのですが、アインシュタインの脳は左右の脳をバランスよく発達させ、何よりその右脳と左脳の間をつなぐネットワークが飛び抜けて発達していた。従って、天才とは脳の片側だけではなく、両側ともに一体となってフルに活用していることが条件であるらしい。そういう例をアインシュタインの脳は示しているということです。なるほど。

算命学の理屈からすれば、陰陽論に基づき、左右どちらかの脳だけが過剰発達した人間が天才になり得ないことは明白です。天才というのは自分の生まれ持った宿命を無駄なく遺憾なく発揮している人のことなので、何かの一部分だけ突出したバランスのとれていない人間は、秀才や有名人であったとしても天才には当たらない、というのが算命学の考え方です。
まあ世間一般はバランスのとれない人であっても、周囲を驚かせるような行為を成し遂げた人を容易に「天才」と呼ぶかもしれません。そしてそんな上辺だけの天才たちは、数年後には身を持ち崩して捕まったり、薬物に頼って今はなきかつての栄光を取り戻そうとしたりして、人々の嘲笑を買ったりしています。

このように、その評価が天才という「称号」にすぎない場合、それは単なる名誉運の突出です。名誉は五行のうちの一つ(金性)にすぎないので、ここだけが飛び抜けても残りの五行とのバランスがとれなければ、本当の天才とは見做さない。算命学はこのような立場なので、誰かを簡単に天才呼ばわりすることはないし、その人が死なないうちは、安易にその人生を総括しません。
たまに、天才の宿命を教えてほしいとかいうガッカリな質問を寄せる人がいますが、天才の宿命なんかありません。もしあったら、その同じ生年月日の人すべてが天才として世間に騒がれていなければ辻褄が合いません。そんな話は古今東西聞いたことがありません。そうではなくて、生まれた瞬間に自然から頂いた宿命がまず先にあって、それを完璧に全うした人が天才なのです。だから本来は誰だって天才になれるはずなのです。なれないのは宿命のどこかがお留守になっていたり、とんちんかんな人生を送ってせっかくの宿命を台無しにしているからです。

アインシュタインの話に戻ると、彼が宿命を完全燃焼したかどうかは各自判断して頂くとして、彼はいわゆるガリ勉型の秀才ではなく、ユーモアの欠片もなかったのでもなく、世捨て人のような孤高を貫いたわけでもなく、マッドサイエンティストでもなかった。人間としてバランスがよくとれており、それは即ち、人間の矛盾する側面を持ちながら自然と調和していた、ということです。
圧倒的頭脳を誇る彼の、子供っぽいおちゃめな写真やエピソードはよく知られていますし、原子爆弾を発明しておきながら後になって大後悔し、核兵器廃絶運動に参加するなど、何やら正反対な顔をいくつも持っている。それでいてその人物評は「矛盾している」とか「破綻している」とかではなく、「人間性が豊かだ」というものでした。矛盾した内面を持ちながらもこういう評価に落ち着くのが、自然と調和した人の特徴です。自然と調和しているということは、宿命に沿って生きているということですから、突き詰めればその先には天才が待っています。

繰り返しますが、算命学が注目したいのは、アインシュタインの脳における、左右の脳の緊密なやりとりであり、陰陽回転の高速と情報伝達の膨大さです。算命学は停滞を嫌いますが、われわれ一般も頭の悪い人間について「あいつは頭の鈍い奴だ」と言ったりします。同様に頭の良い人間を「あの人は頭の回転が速い」と言ったりします。これに比べて、学校の成績がいいとか資格を持っているとかは、人の頭の良し悪しを判断する材料としては定着していません。むしろ嘲笑の的になることさえあります。
つまり、アインシュタインの脳を解剖するまでもなく、われわれは本能的に、頭のいい人の頭は「すばやく回転している」ことを知っているし、その動きが一方通行ではなく相互往来であり、速いがために大量の情報を載せてあっちにもこっちにも連絡できることを知っている。当然脳の遠くの端っこの方にも情報を届けているから、脳はまんべんなく活動している。お留守になったままぼんやり衰微していく部位はない。脳のどこにも無駄がない。その風景は、天才が宿命を余すところなく完全消化した人生と同じです。
天才になりたいのなら、自分の宿命を見て、星々を余すところなくフル活用し、相互に刺激を与え合うこと、更には外界との接触を密にして、外界から新たな刺激や情報を次々ともらい、同時に自分からも刺激を返し、「豊かな人間」になること。それが近道です。

前段が長くなりましたが、今回の余話のテーマは恋愛についてです。「恋愛相談お断り」の看板を掲げている私としてはどうでもいいテーマですが、世の人、特に多くの若い女性にとっての関心事といえば恋愛です。男性はそうでもないのに、どうして女性ばかりがそうなのでしょう。
ところで先日テレビ番組で、妊娠後にできるアフターピルが海外で普及してことを紹介していたのですが、ある若手女性弁護士がこれに賛同し、日本での普及を「安易な性交を促す」として阻もうとする「年配の人たち」を批判、「少子化なんだからもっとセックスしまくったらいいのに」と豪語していました。弁護士というのはそれなりの教養や論理性を備えているものと考えていましたが、そうではないらしい。上述の「資格だけ」「学業だけ」の見せかけ先生だな、と私は嘲笑しました。レイプされた女性のためのアフターピルは必要でしょうが、少子化対策のために「しまくったらいい」とは論理的思考も品性も欠いた発言です。

少子化の原因は性行為の数が減ったからではありません。現代の日本人が子孫繁栄や子育てとは別の価値に目を向けているからです。そもそもAIが人間にとって代わろうという現代において、人口増加は本当に必要でしょうか。むしろ徐々に減った方が自然に則しているのでは。
なお、少子化の原因については、欧米人が白人社会の繁栄のために、有色人種の人口減少を目論んでおかしな遺伝子組換え食品を世界にばら撒いており、日本もその売り先の一つであるからという寒い事実も関係していますが、この点は苫米地英人氏その他の有識者の見解を当たって下さい。

算命学では、恋愛という事象そのものを軽んじています。恋愛重視の人は、恋に敗れると「死にたい」とか「死にそう」とか安易に口にしますが、失恋くらいで人間は死なない、というのが算命学の見解です。それに「死にたい」と口に出して訴える人ほど、自殺には至らないものです。逆に黙っている人の方が危ない。口に出すということは、周囲へのアピール行為であって、自己破壊行為とは別物なのです。
ではなぜ算命学は恋愛を軽視するのか。今回の副題はずばり、「恋愛は低級か」です。具体的には、男性と女性の陰陽差が、恋愛観の相違を生んでいるという内容です。算命学学習者には、鑑定技法として知っておいた方がいい思想の話になります。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「恋愛は低級か」です。「算命学余話 #R75」で検索の上、登録&月見団子一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-09-29 19:29 | 算命学の仕組 | Comments(0)
先日カンボジアを取材した番組を見ていて、ポル・ポトの死因が未だに謎であることを知りました。自殺とも他殺とも言われているそうですが、真相は確かにありますし、誰かが知っているはずです。しかしカンボジア国内でも公表されておりません。それどころか、ポル・ポトが引き起こしたカンボジア内戦や虐殺についても、当地では学校教育で教えないということです。
その番組の解釈によれば、ポル・ポトによる恐怖政治の言いなりになるしかなかったカンボジア国民は、多くが圧政や虐殺の加害者でもあり、そのいちいちを糾弾していたら既に激減している人口を維持して国を再建していくことができないため、被害者は復讐心を抑えてかつての加害者と共存せざるを得ないのだということです。決して赦したわけではないけれど、今は黙っていることにした。その状態を続けた結果、学校の教科書にはポル・ポト時代の内戦の事実が記述されず、子供達は自国で何があったのかを知らぬまま、戦争があったことなど知らぬまま、平和に日々を送っているというわけなのでした。
どこかで聞いたような話です。日本の子供達も戦後70年を経ては、もう先の戦争を遠い過去の出来事としてしか認識しないのが一般的です。学校の教科書では学ぶけれども、もはや壬申の乱や桶狭間といった歴史上の一事件としてしか把握しておらず、実感はない。そうした現状を見て、戦争の生き証人である老人たちが危機感を感じたものか、今まで口をつぐんできた自らの加害体験や、性的被害といった思い出したくない事実を、自分が死ぬ前に伝えておこうとする活動が細々と行なわれています。勇気のある活動です。

算命学の観点から言えば、こうした活動は大いに意義があり、また自然な行為です。算命学学習者にはご承知のように、実際に起きてしまったことは事実として後々まで影響し、隠したところで決してなくなりはしないのです。どんなに都合が悪くて隠蔽しようが、皆が口裏を合わせて歴史を改竄しようが、法律で無罪と認定しようが、焚書しようが、事実は事実です。その後の歴史は、その事実の上にしか積み上げられない。
それを、その事実がなかったかのように振舞い、その上で歴史書を上書きし続ければ、その歴史は自ずと辻褄が合わなくなるものです。繰り返しますが、事実を積み上げたものが歴史なのです。嘘を積み上げたものは歴史ではなく、誰かに都合のいい物語、つまり虚構に過ぎません。

困ったことに、人間は事実で出来上がった歴史よりも、物語の方を好む生き物のようです。そして物語の辻褄が合わないことを認めながら、「昔の話だから細部までは伝わらないのだ」と不明点に疑問を差し挟まず許容してしまいます。謎を謎のまま放置してしまう。
しかし事実はやはり物語とは違うのです。誰かが都合の悪い部分を削除したり嘘で塗り固めたりした結果、一貫した歴史の筋道の中に意味不明な穴があちこちに穿たれ、その穴のせいで我々は過去を正しく辿ることができなくなっているのであり、事実が消えてなくなったわけでは決してないのです。

算命学の効用の一つは、こうした穴に嵌まることなくまっすぐに過去への糸をたぐり、一貫した歴史を再現することです。その手がかりは自然が示してくれています。算命学は自然思想でできていますが、自然は嘘をつきません。そして自然の法則は宇宙の運行と同調しているので、宇宙の運行にそぐわない事件はこの世に起きません。
従って、算命学を正しく認識し熟練することで、宇宙の法則に反した事件を炙り出し、人間がどこかで始めた嘘や虚構、自然に反した行いを暴くことができるのです。学習者には、そうした側面にも目を向けて鑑定技術を向上させてほしいと思います。

今回の余話は、前回の特殊な星並びの話につなげて、宿命の消化がどうして重要なのか、果ては宿命未消化が社会全体に与える影響について、巨視的な視点を鍛える内容です。もちろん狭義的にも、運勢鑑定における助言の出し方の方向性について考えを深める内容でもあります。その導入に、天災を例に挙げてみます。
今年は天災の多い年ですが、大きな地震によってしばしば液状化現象というのが起きます。あれは地面の奥に水が砂と一緒に溜まっていて、それが地震の揺れによって上下左右にシャバシャバと揺すられた結果、重い砂が下に沈み、軽い水が上に上がり、その上に来た水が地上に浸み出して周囲を水浸しにするという現象です。それを知らずに家を建ててしまうと、地震で地盤が水浸しとなり、家が傾いて住めなくなるというわけです。
このメカニズムは、上述の穴の空いた偽りの歴史に似ています。どうして家は傾いたのか。それは水の溜まっている地面と知らずにその上に家を建てたからです。どうして人間は同じ失敗を繰り返して痛い目を見るのか。それは嘘という穴ぼこだらけの歴史が正しい歴史なのだと勘違いして、その上に安心して生活していたからです。地盤は崩れるべくして崩れたに過ぎない。算命学ではこのように見えています。

実践的な話に移ります。前回#R73では、周囲を同じ星で囲まれた命式について論じました。算命学余話を以前から読み続けている読者にはお気付きかと思いますが、この星並びは、同時に「八相局」に準じる形です。「八相局」は余話#U108を皮切りに、#U110、111、112で五性を個別に考察しました。また#U119では、星並びによる同化について論じましたので、合わせて再読して頂ければ理解が深まるかと思います。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「宿命未消化と災厄の関係」です。「算命学余話 #R74」で検索の上、登録&水出しアイスコーヒー一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-09-18 12:37 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ロシア文学が誇るドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』に今も議論の的となっている「大審問官」問題というのがあることを、以前の記事にも書きました。ごく端折って言うと、人間は自由とか尊厳とかよりも腹いっぱい食べられて快適な生活が保障される方を望むのだから、いっそ自由や自己決定権といった煩わしい権利は放棄し、万事うまくやってくれる王様なり将軍様なりに献上して差し支えない、実際そういう国や社会はいつの時代も存在しているではないか、という「人類ガッカリさん」説です。どうですか、皆さんはガッカリすると感じましたか、それとも「それの何が悪いの」と何かを食べ続けながらスルーしましたか。

私は算命学の立場から、一日の起きている時間の大半を食べているか食べ物のことを考えるかして生きている人の人生を、寿(算命学で寿は「食」とも言います)の異常偏重と見做し、対極にある印(知性)を著しく欠いた低級人間だとバッサリ斬り捨てておりますが、残念ながら寿に心地よく束縛される人々は物質的に豊かな社会ほど多く存在し、世の関心事は食べ物に尽きるとばかり食い物の話題が横溢する現代社会は、「大審問官」の人類ガッカリ説を裏付ける見本市といったところです。
私などは、日常会話に食べ物の話しか出て来ない人をもうはっきりと軽蔑していますし、そういう基準で人をランク付けすることを躊躇しません。そうしないとストレスになるからです。彼らの話に相槌を打つことすらもう我慢できないくらい、ウンザリしているしガッカリしている。

もちろん食事は大事です。食べずに人は生きられない。でもそれは他の五徳も同じです。人間は福寿禄官印という五種類の本質のうち、どれを欠いても人間ではいられないのです。寿と印は「水火の激突」により特に激しく対立する五徳ではありますが、どちらにも偏らずにバランスのとれた者が人間と呼ばれるのです。
残りの福・禄・官も同じで、どれかに偏った人間は人として奇形であるか、そもそも一人前の人間扱いすべきでない。算命学による運勢鑑定では、これくらいの気概でアドバイスする姿勢を鑑定者に求めたいものです。でないとこの世にガッカリさんが充満して、陰陽五行のバランスが取れない人類を自然がさっさと淘汰してしまうでしょう。

このように食べ物で頭がいっぱいな人たちの非難は判りやすいのでちょいちょいやっておりますが、昨今は自由や自己決定権を放棄したがる人たちも目につくようになりました。私に運勢鑑定を依頼してくる人の中にも、以前はいなかったタイプが最近多い。その人たちの特徴は、おかしな依頼文を寄越すことです。
どうおかしいかというと、自分の命式を鑑定するよう依頼しているはずなのに、「よかったら鑑定お願いします」と鑑定する決定権をこちらに放り投げてしまう文言が並んでいるからです。もちろん鑑定には料金がかかるので、支払うのは依頼人の方です。私は鑑定という技術を駆使した作業をする代わりに報酬をもらう側です。

私はこの作業を天職だと思っているのでイヤイヤ鑑定しているわけではありませんが、正直言って、見ず知らずの赤の他人の命式に対する興味はほとんどありません。人生にお困りの人が、料金を払ってでもアドバイスが欲しいというので、それはお気の毒だと思って料金分の鑑定をしているに過ぎないのです。でもそもそもが知らない人なので、その人の人生に積極的に係わろうという意欲はもとよりなく、よほど特異な経歴の人でもない限り命式に興味は湧きません。
そういう人たちが「よかったら鑑定してくれ」と言ってきても、興味はないから鑑定したくない、する必要がない、というのがこちらの本音です。嘘を並べても役に立たないので本音を述べますが、自身の命式に興味があるのは依頼人本人のはずです。鑑定者ではありません。だから依頼をしたいのなら「これこれこういう事情なので是非鑑定してくれ」と頼むべきなのです。そのための料金だって自分が払うのだから、料金に見合った作業をしてくれと、対等な立場で取引を打診するべきなのです。

それを「よかったら」とはどういう了見なのか。自分がお金を払うのに? 払った後で「やっぱりやりたくないので鑑定しません」と言われても構わないということですか。日本語がヘタとかいう問題ではないです。上述した「自己決定権」もしくは人としての尊厳を放棄している以外の何ものでもありません。五徳で言えば、福と官と印の欠如です。五つのうち三つもなくしてしまっては、人として淘汰寸前の末期症状と言わざるを得ません。
こういう文章を寄越す人はもうすみからすみまで判断力が利かなくなって、「俎板の上に寝そべるから煮るなり焼くなりご自由に」という気分になっているわけでしょうか。そんな人に与える有効なアドバイスなど見つかるのでしょうか。あ、もしかして、この人自殺したい人なのかしら。死ねって言われたら、言う通りに死ぬ人なのかしら。やあねえ、死にたいなら勝手に死になさいよ。他人に決めさせて、自殺も他人のせいにしようって魂胆ですか。いやらしい。どこまで責任放棄すれば気が済むのだ。今すぐ人間やめちまえ。

私はこんな風に考える鑑定者ですから、依頼人の皆様にはくれぐれも軽蔑されないよう配慮した依頼文を書くことをお勧めします。難しいことではないはずです。年齢に見合った分別ある大人でありさえすればいいのです。アンチエイジングとかに血眼になっている幼稚な人には難しいかもしれませんが。
余談まで、最近『発達障害と言いたがる人たち』という本が出て、中身を読んではいませんがタイトルを見てにやけました。内容も何となく判ります。まさにこういう依頼人も増えていて、面倒臭い人たちだなと辟易していたところです。発達障害と診断されることが人生の免罪符になるとでも考えているのでしょうか。精神障害と診断された殺人犯が無罪になるのと同じように。
彼らには是非この本を手に取って読んでもらって、宿命や成育環境や病気(そもそも発達障害とは病気なのでしょうか。医者が金儲けのために勝手につけたネーミングに過ぎないのでは)に原因を見出すよりまず自分自身の生き方、具体的には、悪いことは全部他者が引き起こしたことで、自分に責任はないという間違った姿勢から改善することをお勧めしたい。PTSDだって自己克服できる人とできない人がいますが、その明暗を分けるのは結局のところ、その人の生き方・考え方なのです。
他者に責任を押し付けようとする人に開運の見込みはありません。この点を算命学は譲りません。自分の人生は自分で責任を持って下さい。他者に預けたり、自分は悪くないと責任逃れするのはやめましょう。大人げなく、みっともない行為です。(大人げない行為は印=知性の欠如、みっともない行為は官=名誉の欠如です。参考まで。)

さて長口上になりましたが、今回の余話のテーマは上述の話に関連して、思い込みや責任転嫁について考えてみます。人間には自己決定権があり、それを行使せず放棄する人は責任逃れを望んでいる人なのですが、例えば独立独歩を旨とする貫索星から見れば、こうした無責任で他人任せな人間はヘドが出るほど耐えがたいし、そもそも理解できないでしょう。貫索星だって本質からいえば思い込みの激しい人ですが、そこには自分の意志を貫こうとする姿勢が必ずありますから、他人任せでよいという考えにはなりません。
では石門星はどうでしょう。石門星は柳のように柔軟で、強い意志を前面に出して突き進むタイプではないところが貫索星との差異ですが、その実、右に左にしなりながら自分の目的を最終的に完遂させようとする本能はあります。但し、最終的な目的をただ「生き残る」ことに定めた場合には、自己決定権を強者に委譲して放棄し、集団に紛れることで責任逃れをしようという考えに至ることもあります。
しかし今回はそうした石門星なり特定の星についてではなく、星並びから見た思考傾向について考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「自己決定できるか」です。「算命学余話 #R73」で検索の上、登録&生ビール一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-09-09 13:30 | 算命学の仕組 | Comments(0)
(※土星の裏側は夏期休業します。運勢鑑定もお休みし、9月のブログ再開と同時に受付を再開します。)
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算命学余話基礎編の第5回です。第4回では算命学の特徴である陰占と陽占という二本立ての鑑定方法について、極微と極大の理論と合わせて説明しました。以前もどこかで申し上げましたが、鑑定者によっては陰占の方が陽占より得意だとか、その逆だとかいった傾向はしばしば見られます。陰占と陽占に限らず、算命学が抱える数々の技法についても、鑑定者が得意としていたりいなかったりといったことは普通にあります。しかし、陰占だけしかできないとか、陽占だけしか知らないとかいった算命学鑑定者はいません。その理由は、第4回で解説した通りです。

今回はその陽占を進めます。陽占は別名「人体図」とも言いますが、呼び方はどちらでも構いません。陰占と比較するときは陰陽の関係から「陽占」と呼んだ方が判りやすいこと、「人体図」と呼ぶ時はずばり人体に関わる用語を使うからその方が判りやすいこと、そのような理由で区別されるに過ぎません。今回は便宜上「人体図」の呼称で進めます。

前回述べました通り、宿命(=陰占)は日々変動する宇宙の気を表したもので、人体図(=陽占)はその宇宙の気を吸い込んだ人間が吐きだす気です。そして前者は受動的なものなので自分の意思で変えることはできませんが、後者は能動的なものなのである程度アレンジが可能だとも述べました。
宿命が宇宙であるなら、人体図は人間の姿を借りた小宇宙です。我々人間は、宇宙の中の塵から生まれたので、その性質は宇宙の縮図、ミニチュアであるはずなのです。従って、宿命から導き出された人体図を見ることによって、その人物がどのような姿の小宇宙としてこの宇宙の小さな一角を占めているか、つまりはその人の宇宙における役目であるとか、存在意義であるとかが見て取れるのです。その作業を我々は一般に「性格診断」と呼んでいるのですが、人体図でできることは性格診断だけではありません。人間関係の傾向や、得意分野、苦手分野、思考や判断の傾向、見た目やアピールの傾向、価値基準、家系にまつわる過去や未来なども、腕のいい鑑定者ほど細かく正確に読み取ることができます。

ではどうして人体図から、そのような目に見えない数々の事象が読み取れるのでしょうか。ともあれ人体図を算出し、その基本的な意味付けを知らないことには始まりません。今回はその人体図の算出方法から場所の意味づけ、五本能と星の関係について解説します。

◆人体図のマス目の意味◆
人体図を描くには、まずタテ3マス、ヨコ3マスの合計9マスになる格子状の図面が必要です。マルバツゲームの要領で、漢字の「井」の字を書きます。初心者の方は大きなマスを準備すると、後でいろいろ書き込めます。このマス目にはそれぞれ名称があるのですが、ここでは便宜上、以下のような人体の名称を当てておきます。この名称は人体図を説明する際に多用されるので、覚えておくとよいでしょう。(なお数字を用いた名称もありますが、混同を避けるためここでは省きます。)

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「基礎編#5 人体図の算出」です。「算命学余話 #R72玄」で検索の上、登録&しらす丼定食一膳分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-07-19 12:55 | 算命学の仕組 | Comments(0)
落語家の桂歌丸師匠が亡くなりました。81歳ですから大往生といってよいかと思います。私が子供の頃はまだ『笑点』が確か40分番組で、お笑い番組も今ほど多くはなかったので日曜のこの時間はいつも見ていた記憶があります。大喜利が終わった瞬間にチャンネルを変えて、大相撲の最後の取組みを見るのが常でした。
その頃の歌丸師匠も他のメンバーもまだ若かったですが、しばらく番組を見ないうちに急に全員年を取ってしまいました。それでも各人の芸風が変わっていなかったので、落語家とはこういうものかと妙に納得しました。お笑い芸人が一時のブレイクの後消えてしまうのとは対照的に、落語家は人気が下火になっても芸風を堅持し続けるのだな、そうするとシニアの聴衆がついてくるのだなと感心しました。近年ではアニメにもなった人気漫画『昭和元禄落語心中』による落語再評価もありました。

最近わが家の近くに八代目橘屋円蔵師匠の自宅を一般公開した「ひらい円蔵亭」なる施設を発見し、円蔵師匠ゆかりの品々の展示の他、日曜にはアマチュア落語会が開かれていることを知りました。以前は落語にさして興味はなかったのですが、無料ビデオなど拝見させてもらうにつけ、落語は話が長くて時間のかかるものであり、そもそも時間に余裕のある人、つまり生き方に余裕のある人のための娯楽なのだとつくづく思いました。落語の魅力がちょっとはわかってきた自分は、シニア寄りになり、比較的余裕のある時間の過ごし方をしているということなのでしょう。皆さんはどうですか。まだ忙しくて、30分もかかる噺を聴くヒマはありませんか。

今回の余話は、桂歌丸師匠を哀悼して師匠の命式を読み解いてみます。
『笑点』を見ていた子供の頃の私の目にも、歌丸師匠は他の大喜利メンバーとは違った雰囲気がありました。クールで知的なキャラで、おバカ担当メンバーを白目で眺めてはくさす役回りでした。それでいて嫌味がなかった。声が高くて硬質なのが良かったですね。歌丸師匠は色事の噺を得意としていたそうですが、あの声だと嫌らしく聞こえない気がします。
晩年は鼻に吸引チューブを入れたまま高座に上がる姿が番組に取り上げられたりして、こうまでして落語をやるのかと驚きました。死の数日前まで周囲に小言を言っていたそうです。師匠の命式から、ボケることなく生涯現役を貫いた仕事ぶりを探ってみたいと思います。前回の「余話#R70」の二連星とも関連します。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「生涯現役を考える」です。「算命学余話 #R71」で検索の上、登録&氷あずき一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-07-10 06:50 | 算命学の仕組 | Comments(0)