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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

カテゴリ:算命学の仕組( 322 )

アフガニスタンの復興に半生を捧げた中村哲医師が先日、銃撃を受けて亡くなりました。73歳でした。私は数年前にドキュメンタリー番組で中村医師の活動を知り、奇特な人がいるものだと感銘を受けました。非常に残念です。ご冥福をお祈りします。
その活動内容の詳細や功績は各自調べて頂くとして、大まかに言えば、医師として現地の医療支援を始めたら、そもそも清潔な水がないことを知り、その解決のため各地に井戸を掘り、やっと水が確保できたと思ったら今度は栄養不足が問題だと気付き、その解決のために灌漑を整備して農業を教え、獲れた作物で栄養を補強することから経済的自立まで教え、気が付いたら弘法大師かマザーテレサのようになっていた。そういった活動をした人でした。

アフガニスタンといえば世界の最貧国として長年の不名誉に甘んじ、その復興を妨げるテロ事件はもはや日常茶飯事です。ソ連軍によるアフガン侵攻はもう40年も前の1979年。その十年後に軍は撤退しましたが、数年後に襲ったソ連崩壊は、このアフガンでの泥沼のゲリラ戦によるソ連兵士の甚大な被害と莫大な戦費が、時の政権の求心力を失わせたことにより引き起こされたと考えられています。
そのソ連軍が撤退したアフガンには、地雷を埋め尽くした大地と焼き尽くされた禿山が残り、そこに芽吹いたのは近代化の悪徳を呪う復古主義でした。時代を逆戻りしたため社会インフラは江戸時代まで後退し、国民生活は医療どころか飲み水にも事欠く水準にまで落ち込みました。

そういう国情の地域に中村医師は乗り込み、非業の死を遂げるまで留まり続けたのです。彼の掘った井戸の数は千を超え、水の流れる大地には農耕の緑が広がりました。まさに現代の花咲爺さんです。凡人のできることではありません。彼の活力と英知、人道支援という献身はどこから来たものなのでしょうか。
今回の余話は、そんな中村医師の稀有な人生とその宿命を見比べてみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「壬騎龍背を考察する」です。「算命学余話 #R116」で検索の上、登録&冷酒1杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-12-13 01:16 | 算命学の仕組 | Comments(0)
クリスマスの季節が近づいてきました。クリスマスは本来キリスト教徒の宗教的イベントであり、日本の文化とは関係がありません。その日本でクリスマスが広まったのは商業的利益のためです。クリスマスの装飾や食卓、音楽や各種イベントはきらびやかで上品だし(少なくともハロウィンよりは)、プレゼント交換もあることから、大人から子供まで楽しむことができ、財布の紐も緩みます。日本固有の文化である正月に並んで経済効果が高く、経済人はこういう年間行事を廃れさせるわけにはいきません。だから毎年あれこれ趣向を凝らして商品やイベントを更新するのです。
逆の見方をすれば、経済効果のない年間行事というのは衰退を余儀なくされます。この世に陰陽があるように、物事には発展と衰退がある。クリスマスやハロウィンといった外来の行事が幅を利かせると、相対的に日本の伝統行事が勢力を弱めます。節分や雛祭り、端午の節句、七夕などはまだ生きていますが、五節句つながりでは重陽の節句はほぼ姿を消しました。季節柄、栗ご飯を食べるくらいしか一般向けの形態としては残っていません。(まあ五節句自体が平安時代に中国から輸入した風習ではありますが。)

なぜ重陽の節句だけ消えたかを考えるに、どうも子供が関係しないことが原因のようです。重陽の節句は9月9日に邪気を払うために菊酒を飲んだり、菊を鑑賞して詩を詠んだりといった、平安貴族が好んだ大人のイベントでした。今でも華道の世界では重陽の節句は重要ですが、それは菊の花が関係しているからです。
現代は花屋に行けば菊以外の花も買えますし、バラとかランの方が華やかで人気です。つまりまず菊の人気が外来種によって下火になった。次いで酒は大人の飲み物だけど今はワインもシャンパンもあるし、即興で詩を詠める教養人もいなくなったし、ということで大人もやらなくなった。そもそも子供向けイベントでもなかった。豆撒きのようなアトラクションもないし。子供が喜ばないなら親も敢えてやらない。すると経済効果もない。だから廃れた、ということではないでしょうか。

親が子に注ぐ費用は膨大で、他の出費を抑えてまでもここへ注ぎ込もうとする。親の愛情としては健全ですが、子供の将来を考えるのなら同時に忍耐をも教えるべきです。子供の要求するままに何でも買って与えるのは、商業主義にまんまと乗せられた親馬鹿のすることです。商業主義は禄ですから、禄に強く支配される人は考える力(印)を弱めます。子に対する親の愛情は本来無償でなければならず、これは印の愛です。しかしその無償の愛が商業主義に支配されてしまっては、本末転倒です。禄に惑わされない親の愛とはどういうものか、せっかくの年一回のクリスマスを機会に考えてみて下さい。(『算命学余話#R110』参照)

ところで、肝心のクリスマス当日である12月25日は、キリストの誕生日ではありません。この日はキリストの誕生日を祝う日だというのに、キリストの誕生日は実は不明なのです。ではなぜこの日がキリストの誕生日として世界に知れ渡っているかというと、まあ商用が始めだったとは言いませんが、キリスト教を利用したい政治的思惑の結果だと思われます。なにしろキリスト教は、気にくわない奴に異端者のレッテルを貼って火炙りにしてきた乱暴な宗教です。人民を支配するために、不明のままだったキリストの誕生日を適当に設定することなど何でもなかったでしょう。
なおなぜ12月25日にしたかといえば、この日は元々西洋にあった冬至祭りに当たっています。キリスト教以前の当地の土着宗教が、春の訪れの最先端である冬至を祝って雪の屋外に針葉樹を立てたのが起源です。これが現在のクリスマスツリーの原型であり、大して寒くもない中東出身のキリストとは何の関係もありません。そもそも土着宗教の祭りを上書きするようにキリストの誕生日をバッティングさせるという行為が、マウンティングのような邪な意図を感じさせます。
土着宗教の痕跡を消し去るために敢えてこの日をクリスマスにしたという動機を考えれば、西欧人ご自慢の「文明性」にも大いなる疑いの目を向けなければなりませんし、日本の文化とは何の関係もないこうしたクリスマスを日本人が無邪気に祝ったり騒いだりする世相に対しても、距離を取って冷静に見つめる態度が求められるでしょう。

さて今回の余話のテーマは、こうした視点を踏まえて、宗教と学問についてです。こう聞くと堅い話と思われるかもしれませんが、算命学の学習者の中には、算命学を宗教のように信奉している人がたまに見受けられます。算命学の実践が占いであることから、そういう方面に流れていくのもやむなしとは思いますが、本来算命学はその名の通り学問なのであり、陰陽五行で宇宙の様相を解き明かそうとする思想科学です。或いは、暦の作成のために天体観測もしていますから、自然科学と言ってもそう外れてはいませんし、「人はなぜこの世に生まれてくるのか」という永遠の命題に取り組んでいることを考えれば、哲学という括りにもなります。とはいえ、世間一般の自然科学や哲学とは何となく一致しないような印象もまた拭えません。
算命学は宗教ではないので信仰の対象にはならないし、うっかり信仰すると却って目が曇ります。では算命学を追求するとはどういうことなのか、どういう姿勢で臨むべきなのか。そういった「算命学に対する心構え」の話をします。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「算命学の目的」です。「算命学余話 #R115」で検索の上、登録&抹茶ラテ1杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-12-04 22:30 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ソ連時代のロシア人は、世界で一番読書をする国民は自分たちであると自負していました。実際、平均的なロシア人家庭には文学全集がひと通り揃っていたし、街中のベンチや地下鉄の車内で分厚い本を熱心に読むロシア人は、老若問わず日常的に見かけられたものです。ソ連時代は娯楽が少なかったという事情も、こうした読書熱を後押ししていました。
現在はスマホの普及で日本同様、ロシア人の読書時間も減少傾向にありますが、世界的には依然として高い読書時間を誇っており、特に文学作品に割く時間が多い。トルストイやドストエフスキーといった古典的大著は勿論、現代作家の新作も幅広く読まれ、大きな文学賞を獲ったりノミネートされたりした作家の作品はベストセラーとして店頭に並び、外国語にも翻訳されています。また日本を含む海外の人気作品もロシア語に翻訳されています。

ソ連時代を含むロシア人が自らを世界一読書する民族だと豪語するのには、当然知的水準が高いという自負が込められています。ソ連という国は最終的には経済(=禄)の衰退により立ち行かなくなりましたが、宇宙技術や核開発で知られるように学術レベルは非常に高く、そのレベルを維持するだけの教育や研究に、国家が予算を割いていました。国を動かす立場にある人間が、それだけ知性(=印)を重視していたということであり、その下で暮らす一般庶民もそういう意識で読書をしていたということです。
知的栄達が金儲けに結びつかなかった国でしたから、知性は経済からは独立していました。印が禄に剋されない位置に立つためには通干する官(=名誉)が必要で、知的水準が高いという国民の自負はそのまま名誉に繋がるものだったのです。

旧ソ連の構成国キルギスに暮らし、キルギス人の読書習慣のなさに驚き呆れていますが(学校に図書室がない、町に図書館がない、本屋もない、首都でさえ本屋が数軒しかない!)、そもそも僅かな口承文学しか持たなかったキルギス人には、歴史の積み重ねとしての文字文化がなく、それが歴史に対する意識の希薄さに繋がっているようです。
端的に言って、キルギスには語るべき歴史がいくらもなく(歴史は勿論あったはずですが、文字にしたためなかったことで伝承があやふやになり、資料がなさすぎて学術的検証もできない)、いくらもないから敢えて反芻しない。要するに、過去を振り返らない国民性が形成されている。キルギスの学校の歴史の授業が事実上ロシア史になってしまっているのは、既に公用語として定着しているロシア語の話者としての基礎知識であるからという事情以上に、学ぶべき歴史、より正確に言うなら、「学ぶことのできる歴史」がキルギスにないからなのです。

文字で記録するという作業をしなかったキルギス人にとって、歴史とは伝説や昔話といくらも差がないので、そんなフィクションじみたモヤっとした絵空事をわざわざ学ぶ必要はないし、人生の中で時間を割くことでもない。だから歴史を顧みないし、歴史の部分的な証人である本も読まない。こういうことではないかと、私は推測しています。こういう話は、それこそロシア人の知識人が嬉々として乗ってきそうなテーマです。
というわけで、今回の余話のテーマは歴史についてです。しばらく思想的な話から遠ざかっていたので、上述のような堅い導入に続き、算命学的に考えた場合の歴史の意味について考察してみます。鑑定技法の話ではありませんが、歴史という目に見えない概念が人体図にどう反映され、それをどう解釈するかというお話です。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「歴史と先祖」です。「算命学余話 #R114」で検索の上、登録&カプチーノ1杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-11-25 00:21 | 算命学の仕組 | Comments(0)
華麗な文章で知られる作家の佐藤亜紀はインタビューの中で、大きい数字が数えられないというようなことを言っています。勿論立派な学歴なので、そこに至るまでの数学の試験は繰り返しの作業として難なくこなしてきたけれど、実生活では二桁以上の数字を数えられないか、数える気にならない。確かそんな内容だったと思います。
驚くべき発言ですが、実はかく言う私も似たようなもので、私の場合は割り算で割り切れない数がよく判りません。勿論分数の計算など繰り返し練習すれば難なくこなせますが、頭の中ではモヤっとしたまま明快な図を描けていない。また負の数というのも苦手で、温度でもないのに数字にマイナスが付くと、具体的な物体が目に浮かばず、気分がすっきりしないのです。他にも円周率や素数、数学のくせに数字が一つもないローマ字ばかりの数式とか、わけが判らないまま及第点だけを取って学校を終えました。
ちなみに、数を数えられないと言えば、私は人間の数を数えるのが苦手です。なぜなら人間の頭数ではなくオーラの数を数えてしまうので、オーラの出ていない印象の薄い人はカウントしないからです。ひどいものです。

なぜ自分はこうなのか、単に数学が苦手というだけではない原因を、算命学の中に見出すことができました。それが天禄星です。私の宿命には天禄星がありますが、天禄星は十二大従星の中でも屈指の現実主義を誇る星です。端的に言えば、絵空事に背を向ける星で、物事を物質から始めて理解し、その次に精神が入ってくるという順番です。その逆はあり得ません。そういえば、私は子供の頃そろばんを習っていたので暗算は得意なのです。そこには実数しかないので、モヤモヤなく安心して正解を導き出せます。こうした感覚は、天禄星にありがちのものなのです。
というわけで今回の余話は、基礎から考えるシリーズの天禄星です。人生年齢に比定すると40~50代の壮年で、人生のピークである天将星の一歩手前です。しかし天将星は陰星ですから、陽星の中では天禄星は最大のエネルギーを誇ります。そこに揺るがぬ現実主義が加わっている。ひとつ前の天南星の若さや危うさに比べて、粗忽や未熟とは無縁の大人の星ですが、地味でつまらないという評価も付きまとう天禄星の、その由縁について考えてみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「天禄星を基礎から考える」です。「算命学余話 #R113」で検索の上、登録&秋の和菓子1パックの料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-11-12 20:29 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の余話#R111で取り上げたN国党党首立花孝志氏は、本人の予想通り埼玉補欠選に落選しましたが、その落選戦略により次の海老名市長選とその先の衆院選に向けて「思うがまま」に邁進しているようです。立花氏の最終目標は「NHKをぶっ壊す」ことではなく、日本全体の既得権益をぶっ壊して正直者が馬鹿を見なくて済む社会を作ることだそうですから、果たしてその本望が最終的に成し遂げられるのか今後の推移を見守っていきたいと思います。

今回の余話のテーマは、前回に引き続き「天干連珠格」についてです。前回は立花氏の命式に係るポイントに絞りましたが、せっかくなのでもう少し掘り下げて考えてみます。なぜなら、五柱で天干連珠格が成立するということは、五行が揃うということだからです。五行は算命学の基本中の基本ですが、あまり深く考える機会がありませんから、この機会に天干連珠格と絡めて五行についての思考を進めてみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「天干連珠格と五行」です。「算命学余話 #R112」で検索の上、登録&アーモンド1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-11-04 13:12 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の余話#R110は、引力を以って人を魅了する種類の愛がどういう弊害をもたらすかについて触れました。勿論悪いことばかりではありませんが、何事も嵩じれば害となります。算命学はバランスを重んじる思想体系ですから、一方向への過度の偏りを危険視し、その過度な集中を生みやすい愛と金銭の力に対して注意を呼び掛けているのです。
さて今回の余話は、そんな注意喚起を算命学とは無縁の人が行っている昨今の出来事について取り上げてみます。

私は自身が印星偏向の命式のせいか頭のいい人が好きですが、頭が良すぎて出過ぎたために嫉妬を買って前科者となり、それでも知恵の駆使をやめずに世間に物申し続けるタイプの知的闘士が更に好きです。典型例としては佐藤優氏や堀江貴文氏ですが、その堀江氏が最近仲良くしている立花孝志氏にも注目しています。
立花氏はNHKから国民を守る党党首として半ばお笑いタレントのように世に登場しましたが、今年7月にはまさかの参議院選挙当選、そして10月の現在は参議院議員を辞職して埼玉の補欠選挙に立候補しています。なんだか順番がめちゃくちゃです。上位の参議院を辞めてわざわざ下位の埼玉議員になろうとしている。これは単なる売名行為なのでしょうか。

賢い堀江氏でさえ「初めはバカだと思ってた」と立花氏自身に吐露するほど、彼の登場は漫画のようにコミカルでした。しかしネットでその主張を聞くに、内容は筋道が通り、目指しているものは至極まっとうです。それは嵩じた既得権益に対する問題提起と打破であり、この思想は算命学が危惧する禄の集中と通底しています。
それにしても、彼は高卒でありながら、NHKの下位職員から実力一本で中央まで上り詰めた男です。まるで草履取りから関白にまでのし上がった豊臣秀吉です。しかしその言葉は理屈が通り、芯があり、理論で闘う覚悟と能力があり、人々の共感を得ている。その人の数が多いのか少ないのかは、今月27日の選挙で明らかになるでしょう。

というわけで、今回の余話は立花孝志氏の命式の特異性について論じてみます。いや実際見てみて驚きました。これはひょっとしたら、27日も当選するかもしれない。そんな星並びなのです。だから敢えて選挙日前にこの余話を公開することにしました。特殊な格法に入格しています。勿論、存命の人ですから人生全体を論じることはしません。N国党を立ち上げてから今日までの波乱の軌跡と、彼の命式から読み取れるその思想にスポットを当ててみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「物事が思いのまま」です。「算命学余話 #R111」で検索の上、登録&クルミ1パック分の料金をお願い致します。登録は無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は現在パブーでも再掲載し、今後は双方で購読できます。)

by hikada789 | 2019-10-24 00:35 | 算命学の仕組 | Comments(0)
(システムトラブルにより2019年10月16日現在、運勢鑑定は有料・無料ともに停止中です。復旧次第再開します。)
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 昭和の時代の東京五輪は、スポーツの季節として相応しい10月に開催されました。スポーツの秋という表現は日本独特のものだそうで、海外では必ずしも秋がスポーツに適した季節だとは見なしていません。また十月十日が体育の日として祝日になったのは、東京五輪からだそうです。運動会という学校行事も、外国にはないことがしばしばです。
 では令和の時代の東京五輪は、どうして夏真っ盛りの8月に行われるのでしょうか。出場選手は勿論、観客だって場合によっては命懸けになるほどの猛烈な暑さなのに。答えはカネです。判りやすいところでは、8月は長期休暇の取れる国々が多いため、彼らの海外旅行の行き先に五輪が見られる日本を選んでもらって、経済効果を上げようという目論見。でもこれはそれほど大きな利益にはならない。もっとあるのは競技の中継放送とそれに伴う広告費。この辺りで莫大な利権が動くので、少しでも多くの利益を上げるべく、都合のいい真夏に競技日程を組んだというわけです。まあ私はこうした利権の話には疎いので、興味のある方はご自分で調べて憤って下さい。
 どうしてこんな話を算命学余話の前座に持ってきたかというと、我々一般人は、スポーツといえばルールに則って行われる公平な身体競争として爽やかなものを連想するし、そうしたプレーをアスリートに期待しています。海外ではチェスもスポーツの一種として考えられていますし、昨今ではEスポーツも流行っておりますが、これらが五輪種目にならないのは、五輪がもともと古代ギリシャの行事で、原始的な肉体鍛錬とその成果を競うという思想が根底にあるからです。尤も、古代ギリシャの五輪も回を重ねるごとに利権が膨れ上がり、五輪に出場する選手は純粋なスポーツ目的ではなく、ここで有名になって近い将来選挙に出馬するためだったと研究者は語っています。あまりに現代人と同じ感覚なので、人類の進歩のなさに呆れます。
 話を元に戻すと、現代のスポーツなり娯楽なりファッションなりは、そこから生じる副次的で莫大な経済効果に着目した商人連が、これを最大限に拡大させて儲けるために、スポーツや娯楽やファッションの当事者自身の好みや期待を無視して、経済効果の高い方向へ、金儲けに都合のいい方向へ、彼らの好みや期待を誘導・宣伝しているということです。
 これは何も新しい説ではありません。かくいう私ももう何年も前に読んだ記事から引用しています。私は流行のファッションに興味がなく、飽きの来ないデザインで質の良いものを長く着る方向で衣類を選んでいますが、そういう人間から見れば、毎年流行が著しく変わるファッションには違和感を覚えるし、何よりも、雑誌や広告で宣伝される文句に全然共感もしなければ、毎年変わるファッションが素敵だと思ったことも一度もない。いやそれどころか、「ダサいな、こんなのが今年は流行りなの?」「一年後には古くなっている流行に何か価値があるのかしら?」と思うことの方が多いくらいです。つまり「この秋はコレ」という宣伝の根拠が全然見えない。全然いいと思わないから納得いかない。だから買わないし耳も傾けない。しかしなぜ自分はそうなのかといえば、自分がおかしいのではなく、天邪鬼なのでもなく、単に自分を含む消費者が本当に欲しい物・似合う物などそっちのけで、売り手の儲け第一に捻出された誘導ファッションだったからなのです。
 いつ頃からそうなったのかは興味のある方に調べて頂くとして、これはファッションに限らず、食べ物や家電、映画やアニメ、ゲームといった、元手は大したことないのに一度流行ると元手の何十倍もの利益を生むタイプの商品によくある事例です。昔はこういう商品はある日何の前触れもなく突然ヒットし、その生産が需要に追いつかなくなって、せっかくの儲けを取りこぼすという事態がしばしば起こっていました。
 これに目を付けた商人連が、儲けを取りこぼさずに済むよう、予め商品を用意しておいて、流行そのものを計画的に作り上げ、万策整えた上でコンテンツを世に出すという風に順番を変えた。その結果、消費者が本当に求めているわけではないコンテンツが世に出回って(まあ多少市場調査はしているでしょうが)、「これが今売れてます」という宣伝文句に否応なく消費者が従うという、順番の狂った消費活動が常態化したというわけでした。
 私のように、自分の欲しい物が明確に判っていて、それ以外の物は欲しくない人間は、こういう誘導には乗らずに済みます。乗ってしまうのは、自分の好みや欲しい物が判っていない、つまり自分についてよく考えたことのない人なのです。自分に何が似合うのか、何を見ている時が楽しいのか、自分で自分が判っていない。そういうボンヤリした人を、商人連はネギカモにしているのです。そしてスポーツや五輪もそうなってしまった、だから8月という劣悪な季節に開催されることに誰も文句を言わないのです。
 アスリートたちこそもっと文句を言うべきでは? ベストの環境で最高のパフォーマンスをしたいだろうに。そう思いますよね。でもだめなんです。なぜならスポーツ選手に向いてる人というのは大体車騎星・牽牛星が機能しているため、自己犠牲とか献身とか身を削る行為にウットリする人たちだからです。そうでなくては、日々の厳しい訓練に耐えたりはできません。そういうアスリートの健気な心を利用して儲けようとしている人たちがいる。鬼畜です。
 さて今回の余話のテーマは、愛についてです。それも、見返りを期待する愛と、そうではない愛との比較です。恋愛をダシにしたコンテンツ商品も世に溢れていますが、お若い皆さん、自分が気付かないうちに誰かが造ったデートスポットへ誘導されていませんか。何かいらないものを「カワイイ」とかいって買わされたりしていませんか。真の愛の何たるかを知らずに結婚費用などに頭を悩ませてはいませんか。
 算命学余話は恋愛談義などしませんが、昨今の商業主義的恋愛誘導術について算命学からどのように見えているか、その辺りについて考えてみます。かつて東西に世界を二分していた資本主義と社会主義に対する算命学的な見方にも触れます。 (この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「禄の愛、印の愛」です。「算命学余話 #R110」で検索の上、登録&梨ゼリー1パック分の料金をお願い致します。登録は無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は現在パブーでも再掲載し、今後は双方で購読できます。)

by hikada789 | 2019-10-16 17:03 | 算命学の仕組 | Comments(0)
算命学余話#R106で取り上げた書道家の見解を再び引用します。
肉筆という言葉がありますが、毛筆を使って字を書く習慣の薄れた現代人にとっては、鉛筆やペンの方が肉筆としてイメージしやすいかもしれません。しかし書道家にとっては鉛筆やペンでは肉の情報が不十分であり、活字に至っては論外だそうです。
肉の情報とは何ぞやということを説明するために、肉声という単語を引き合いに出します。肉声は人間の声であり、録音してあっても肉声と呼びます。肉声でない声とは機械音声のことであり、私も常日頃から気持ち悪いと思っている留守電や駅のアナウンスに多用される、あの合成音声のことです。
機械音声には「肉」がないので味も素っ気もなく、文章の内容以外に伝わってくるものは何もありません。しかし人間の肉声は十人十色で、一つとして同じものがないばかりでなく、その日の体調や心境、相手との距離感、高揚や焦燥、鬱屈や憤慨といった諸感情、その言葉遣いからは性格や生い立ち、周囲に対する好悪や価値観まで、話の内容には必ずしも必要ない情報がぎっしり詰め込まれています。つまり情報量が圧倒的に多い。

肉筆もこれと同じで、人間の手によって書かれた文字は活字に比べて情報量が圧倒的に多いということです。その肉筆を見れば、例えば手紙であれば、その手紙を書いている時の筆者の健康状態や心理状況、書いている時に急いでいるかとかゆっくり時間をかけているかとか、嬉しそうだとか苛立っていそうだとか、文面からは汲み取れない、或いは文面には敢えて書かれないその人の本心や性質を、肉筆は、その微妙な歪みや勢いによって何らかの情報として伝えている。活字にはそれがなく、筆圧の影響を強く受ける毛筆はその情報量が最も豊富だというわけです。
ちなみに、この書道家の見解では、歴史上の人物、特に思想家や宗教家の肉筆を見ると、その人物の社会との距離感が判るそうです。太い筆跡の人は筆を紙に押し付けているので、紙を社会と見立てた場合、その人が社会に対して肉迫するような生き方をしていることが推測できる。逆に細い筆跡の人は、筆を立てて紙に押し付けずに書くので、社会とは一定の距離を取って冷静に見つめる姿勢を堅持している。そのような情報が読み取れるのだそうです。

このような話を聞くと、急に肉筆でものを書きたくなってきます。毛筆はさすがに敷居が高いですが、せめてペンで日記でも書こうかという気分にはなりました。それは、その日記なり手紙なりが誰かに読まれることを前提としています。まあ数年後に自分で読み返しても面白いでしょうが、肉筆も肉声も、第三者が聴いてこそ、読んでこそ、その価値が上がります。要するに人間関係が前提なのです。
算命学余話でこのような話を取り上げたのは、算命学が気の交流を重視しているからです。気の交流とは人間関係そのもののことであり、人間関係が希薄な人は気の交流が滞りがちです。逆に人間関係が複雑すぎても人にとっては負担になります。宇宙の気が流れる程度に、程よい密度と距離感が肝要です。
運勢を上げたり宿命を適切に消化していくためには、他者との交流が不可欠です。それは社会との関係性をどうこなしていくかということです。書道が紙を社会に喩えるように、算命学も宿命内に社会とのかかわり方を暗示しています。そして肉筆が膨大な情報量を誇るように、宿命にも限りない情報が盛り込まれています。

今回の余話は、基礎から考える十二大従星シリーズのうちの、天南星です。天南星は強星です。強星は、宿命にたった一つしかなくても身強になります。それほど威力がありますが、便利な現代社会においては身強の出番は少なくなるばかりです。その膨大なエネルギーを消費できる現場が、便利な世の中には少ないからです。そんな身強が現代を生きるにはどうすればいいのか、その辺りも考えてみます。

天南星のエネルギー値は10点。その上を行くのはもう天将星と天禄星しかありません。天将星と天禄星の異常なエネルギーとその性質の違いについては、算命学余話の記念すべき第一回、#U1に述べた通りです。この両名に比べれば天南星はまだ可愛い方かとは思いますが、一般に天南星の性格はキツイです。なぜなら天将星・天禄星に比べて個性が強く、且つ老成はしていないからです。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「天南星を基礎から考える」です。「算命学余話 #R109」で検索の上、登録&蜂蜜一瓶分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は現在パブーでも再掲載し、今後は双方で購読できます。)

by hikada789 | 2019-10-05 19:18 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の基礎編#7までで、陰占と陽占の算出からその読み方の説明が概ね済みました。これでいわゆる「宿命」を読み込む最低限の情報は得られたわけです。
今回の基礎編は、更に一歩進めて後天運について話を広げます。後天運は別の呼び方では「運命」とも言いますが、一般的に知られる運命の意味と区別するため、算命学では「後天運」と呼びならわしています。後天運とは、持って生まれた宿命(先天運)ではなく、その後の人生を生きる上で巡ってくる外的作用のことで、具体的には大きい方から「大運」「年運」「月運」「日運」の四種類があります。

このうち月運と日運は作用する期間が短いため、実際の鑑定ではほとんど考慮されません。重視されるのは期間の長い大運と年運の二つです。大運は十年、年運は一年のスパンで人間つまり宿命に外的作用を及ぼします。こういう期間に怪我をしたり病気になったりすると、星並びによっては回復に長期間を要するようになることもあるので注意が必要です。
一ヶ月しか続かない月運や一日限りの日運による影響はもとより微力で、その短い期間を過ぎると解消しやすいことから、鑑定では重視しないのです。重視するのはより長期にわたって影響し続ける大運と年運であり、とりわけ十年という最長期間を影響し続ける大運は人生全体を揺るがすほどの威力があるため、見落とすことはできません。
今回はこの大運の理論と、それに関連する二十八元について解説します。

(この続きは「フォークN」と「ブクログのパブー」に公開しました。副題は「基礎編#8 二十八元と大運法」です。「算命学余話 #R108玄」で検索の上、登録&水出しコーヒー一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-09-24 17:47 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ZOZOTOWNの成功により長者番付に躍り出て一躍有名人となった前澤友作社長が、自ら創設して育て上げた会社を売って辞任しました。私は経済にも芸能界にも関心が薄いので、彼の資産総額やら会社の売却金額、女優との交際などには興味がありません。
しかし数年前にその半生を特集した経済番組を見た時、彼は元ミュージシャンであり(バンドのドラマー)、その関係でレコードやCDの輸入事業を始めたのが実業界へ足を踏み入れるきっかけだったと聞き、その後のアパレル通販業界での躍進を考えると随分かけ離れた人だったのだと知りました。

そして、その番組では当時の最新情報として「ZOZOSUIT」を新規事業として紹介していたのですが、その時の彼の言葉に違和感を覚えました。というのは、まだ音楽をやっていた頃の前澤氏が学生時代に早々に将来設計からサラリーマンの道を外したのは、毎朝通勤電車に乗る彼らの顔が疲れきっていて魅力がなかったからだと言っていたからです。
その彼が開発を進めるZOZOSUITはセンサー付きボディスーツで、センサーによって精密に体のサイズを測り、その情報に基づいた服をカスタマイズするというものですが、その主たるターゲットはサラリーマンのスーツでした。市場は大きく、成功すれば巨大な利益を得られます。

私の印象では、学生時代の彼のサラリーマンに対する感情は憐憫よりも嫌悪や軽蔑に近く、そんなお気の毒でイケてないサラリーマンに対して自分のイチオシのアイデアであるZOZOSUITを提供し、今よりカッコ良くしてあげましょう(サイズの合った服というのはそれだけで見栄えがします)、といった上から目線の態度が気に障りました。営利目的とはいえその動機が非道義的で、辻褄の合わないもののように感じられたのです。同じ実業家でも、ロケット事業に大枚をはたいている堀江貴文氏の方が清々しく、スケールもずっと大きいと、その時思いました。そしてこの人物は人間としては大成すまいとも思いました。

そんな前澤氏が破竹の勢いだったZOZOを突然のように売却したので「それ見たことか」と思ったのですが、一部では既に傾き始めたZOZOを高額で売却できて幸運だったという意見もあり、賛否は分かれています。例によって私は売却額の是非については関心がありません。関心があるのは、彼の急激な躍進と凋落、転身やその行動原理が宿命に出ているかどうかです。
というわけで、今回の余話は前澤友作氏の命式を眺めつつ、曲直格という格法に言及します。曲直格は非常に珍しい命式なので滅多にお目にかかれませんが、条件を一つ二つ欠くくらいの準じる命式はたまに見かけます。前澤氏はそれに当たっているので、まだ存命中の人ではありますが、例題として取り上げてみます。

(この続きは「フォークN」と「パブー」に公開しました。副題は「曲直格に準じる事例」です。「算命学余話 #R107」で検索の上、登録&マサラティー1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。なおブクログのパブーは2019年6月末で閉店予定でしたが、運営会社を変更してサービスが継続されることになりました。7月からフォークNのみに掲載していた新規記事は現在パブーでも再掲載し、今後は双方で購読できます。)

by hikada789 | 2019-09-15 14:17 | 算命学の仕組 | Comments(0)