ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

カテゴリ:宇宙人の読書室( 170 )

平野啓一郎著『マチネの終わりに』を読んだ。映画にもなったと記憶しているが、この小説の内容では映像化しても陳腐な恋愛悲劇にしかならないような気がする。映画と小説の両方を知っているという方、如何でしたか。
小説の方は前半があまりに素晴らしかったせいもあって、後半が苦痛でならなかった。主人公の恋路を邪魔した卑劣な女が気持ち悪くて、しかしこの女が報いを受けることをテーマにしては三文小説になってしまうから、そうしなかった作家は立派だが、やっぱり納得のいかない話だった。自分が算命学者だからかもしれない。だってこの卑劣な女はどうあっても幸せにはならないよ。子供に影響が出ないわけないから。勿論作品は子供の成長後まで描いていないからこういう終わり方でもアリだけど、算命学者はこうした子孫に対する影響については結構シビアな因果を織り込んで、起こるべき未来を分析的に眺めてしまうものなのだ。一種の職業病である。
卑劣な女の気持ち悪さについては本編を読んで頂くとして、前半のどこが素晴らしかったのか、宇宙人のウキウキアンテナが那辺にあるのか、以下の引用から皆さんに知って頂こうと思う。というのは、最近腹立たしい出来事があり、その腹立たしい事件の原因となった人物(突き詰めれば先の「卑劣な女」と似ている)と、以下の引用にかかる人物像とが、きっかり真逆だったからだ。「以下の引用と自分は真逆だ」と思ったなら、宇宙人に話しかけてはいけない。地雷を踏むことになるからな。

――そんなふうに、誰かと一緒にいること自体を、人に自慢したいと思ったことなど、これまで一度もなかった。

――他の誰と喋っていても、あんなふうに笑みが絶えないということはなく、彼との会話のどこを探してみても、自分が心から話したいこと、聴きたいこと以外には、何一つ見つからなかった。

これは主人公の男女が互いから受けた感銘の大きさを描いた箇所なのだが、別に相手の見た目とか名声とか財力とかでこういう感銘を受けたのではないし、いきなり恋に狂ったから我を失ってそう思い込んだというのでもない。ただ相手から受ける知的刺激によってこのように感じたのである。要するちょっと話しただけで相手の力量――知性や経験、思考の深さ、感性の豊かさ、清涼さなどが自分の内面と共鳴し、その共鳴や刺激があまりに心地いいので、どんな話題で話していても無駄と思われる瞬間は一瞬たりともなく、従ってただ一緒にいて受け答えをしているだけで、話が澱むことなくどんどん先へ進み、思考は深まり、新たな発見に歓びが湧き起こり、二人でどこまでも上昇していくような幸福感に浸れる。そういう状態を描いている。
私はこういう気分にさせてくれた人物と過去に出会っているので、コレだよコレ! と膝を打って共感したのだが、皆さんはどうですか。こういう人に出会っていますか。ただ一緒にいただけなのに無駄な瞬間は一秒もなかったと断言できる人に。それはきっと運命の人というやつなのだ。

そして、その真逆の人とは、ほんの数分しか一緒にいなかったのに、一年くらい拘置所に入れられていたかのような苦痛を覚える相手のことだ。そんな相手と望まぬ会話をし、聞きたくもない話を聞き、言いたくもない受け答えをした。その時間は人生の中の無駄な時間――人生を浪費した時間なのである。同じく『マチネ』から、主人公の男女が結局破局し、女性は別の男性と結婚してその伝手で米国財界人のパーティに出席し、金持ち達の自慢話にウンザリするシーンを引用しよう。

――要約すればそれだけの話で、三分で聞かされれば興味深い話も、三十分以上も口を挟む間もなく続けられると、さすがに耐えられなかった。

つまり、後半の何が苦痛かって、主人公の男女が相思相愛のまま結婚していればその後の人生は隅から隅まで無駄のない充実と内的上昇が約束されていたのに、破局したばかりに二人とも人生の浪費、鬱屈と停滞の時間をあまた過ごすことになった、という点なのだ。もうずっと拘置所に入っている気分なのだ。しかも破局の原因は二人にはなく、外的要因のためだったので、彼らの上昇を阻んで足を引っ張る輩に腹を立てながら読み進めなければならなかった。
勿論、この小説の主眼はそこではなく、そんな状態の二人がどうやって鬱屈と停滞から脱出するかを細やかに追った経緯こそが本論なのだが、私は人の足を引っ張るのも自分が足を引っ張られるのも嫌いなので、読んでいていい気分にはならなかった。いや、しかし名作です。さすがの平野作品です。世に溢れる恋愛小説とは比べものにならない類の恋愛小説です。最後に偽物ではない、本物の恋愛とは如何なるものかを論じた部分を紹介して終わりにしよう。

――なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。(略)人はただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを(いつしか)忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体何だろうか?

宇宙人は常々、一方的な愛情を押し付ける人間を手前勝手で未成熟な奴と見做してまっすぐ軽蔑し、そのような態度で応じているが、そうした手前勝手な感情は単なる私欲であって恋ではない。そのことをこの引用のように言語化してもらえて嬉しい。共感者がいてくれて嬉しい。孤独ではないという勇気をもらったので、これからもせっせと地雷埋設に努めるとしよう。

by hikada789 | 2019-01-26 22:50 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
ここ数年、正月は人ごみを恐れて初詣もすいた頃を見計らって出掛ける宇宙人は、三が日を自宅で大人しく過ごす習慣になっており、朝は寝起きからあてどもなく駅伝を眺めているのだが、CM中に裏番を物色していたら昨年の流行語にノミネートされていたドラマ『おっさんずラブ』が一挙再放送されていたので、箱根駅伝と掛け持ちでこれまたあてどもなく眺めてしまった。1クールの短い作品だったので展開が速く退屈はしなかったが、世の書店に溢れるBL漫画の平均値を知っている我が目には何とも少女趣味というか、清く正しい宝塚的な男子恋愛に拍子抜けした。正直リアリティは1ミリも感じなかった。昨今はこういうのが流行るんだ。ふーん。
リアリティといえば、ロシアドラマ『エカテリーナ』のリアリティはまた度が過ぎていた。「王冠を被った娼婦」というコピーのエカテリーナ二世は、愛人筆頭のオルロフ伯爵の男性機能の低下を知って、早くも次の獲物ポチョムキン少尉に狙いを定める。ポチョムキンは純朴で一途な教養ある青年軍人として描かれており、オルロフの教養のなさも女帝を興ざめさせたという動機付けを担っている。女帝は啓蒙君主なので知的水準が高く、こういう女性は得てして精神世界の乏しい男に冷淡なものなのだ。とはいえポチョムキン役に起用された俳優はラグビーのフォワードと見紛うようなガタイの持ち主で、見るからに絶倫なのだった。実にあけすけなリアル恋愛表現なのだ。日本のドラマとはえらい違いだ。

正月早々シモな話になってしまったので、口直しに読書の話題。サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』から楽しく笑えた辛口な真理をいくつか抜粋しよう。興味が湧いたら是非本編をお読み下さい。読み応えあります。悪童ものとして佐藤亜紀の愛読者には楽しいと思います。

――財産が人間にランクを与え、富が徳と同等視され、情欲が男女の唯一の絆となり、虚偽が成功をもたらす時代(こんな時代にあっては、私の善悪の観念が混乱してしまうのも当然かもしれない)

――正気の人なら誰でも他人の解釈を自分の解釈ほど信用しない。

――学をひけらかすことによって、また純粋なアクセントで話すことによって、私は相手を恥じ入らせ、自分達には到底この人を指図する資格はないと感じさせた。あまり立派なやり方とはいえないが。…とはいえ私は一つの戒めを大切にしていた。自分の考え方を他人に押しつけようとするのは危険だということを。

――確信しきった男というのはひどいことをするものだ。女だって同じさ。

――彼らの頭は、両親、金銭、食べ物、土地、財産、名声、権力、神といった平凡な事柄でいっぱいだった。

by hikada789 | 2019-01-04 16:34 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
年の瀬が迫って参りました。皆さんの支援のお蔭で、宇宙人は今年も無事に年を越せそうです。合掌。冷蔵庫には頂き物の食料が宇宙人の正月を支えるのだ。この冬は初めてゆずがごろごろと届き、せっかくなのでマーマレードにしてみた。ネットで検索したらレシピが見つかったのだ。材料は砂糖と白ワインだけというから簡単だ。刻んで煮詰める時間くらいいくらでもある。
お勤めの皆さんは28日が仕事納めでしょうか。お疲れ様です。宇宙人は特に出掛ける用事もないので、年末は例年通りボクシングとRIZINのテレビ観戦で締めくくろう。那須川天心は本当にメイウェザーとやるのかね。結局ルールはどうするのかな。那須川君は11月のキックの試合で久しぶりに1ラウンドKOしたが、あれは多分相手が弱かった。強い相手だとちゃんと苦戦するのだよ。

格闘技一色ではさすがに単調なので、この年末年始も図書館で用立てた読書を進めよう。ラインナップは以下の通り。
・サルマン・ラシュディ『真夜中の子どもたち 上・下』
・杉山隆男『兵士を見よ』
・杉山隆男『デルタ』
・所功ほか『元号 年号から読み解く日本史』
・ガルシア・マルケス『百年の孤独』
・イヴァーノフ=ラズームニク(佐野努・洋子/訳)『ロシア社会思想史 インテリゲンツィアによる個人主義のための戦い 上・下』

サルマン・ラシュディはあの『悪魔の詩』で死刑宣告された事件で有名。『真夜中』は随分前に一度読み挿して、何かの事情で読了できなかったのを再チャレンジで読み始めているのだが、今読んで正解だった。なぜなら宇宙人は去年インドを旅行して、インドの事情が以前よりは判っているからだ。当地のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の微妙な共生事情とか。
『兵士を見よ』も既に読み始めている。文字でぎっしりの充実のノンフィクション。航空自衛隊の日常ドキュメンタリー。就職に悩む若者よ、これを読んで自衛官を目指してはどうだ。大卒してからでもイケるぞ。『デルタ』は最新刊なので今なら本屋ですぐ買える。対中国の国防を扱っている。
『ロシア社会思想史』の訳者は宇宙人の今は亡きロシア語の恩師で、やはりロシア研究者となった娘さんが共訳として近年出版したもの。訳文であっても独特の語り癖の記憶が甦り、魂が若返るのだ。恩師はアナーキストであった。だから宇宙人もこんななのだ。
去年の年末に掲げた同様のラインナップから興味のあるものを読んでみた、という読者の声がいくつか寄せられた。読書仲間が増えるのは嬉しいのだ。

by hikada789 | 2018-12-27 23:16 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
急に寒くなりました。今朝起きぬけにガラケーを開いたら画面が結露で濡れていた。日中晴天なら暖房要らずのわが家もこう曇天続きではかように底冷えするので、例年より早く湯たんぽと電気ストーブを稼働させた。エアコンは眠くなるのでつけない。室内着には二束三文で買った古着の羽織を愛用。薄いのに実に暖かい。
肉の薄いタコ・クラゲ型宇宙人は、昔からセーターとか手袋といった毛糸の編み物で体が温まらない体質だ。低体温のせいやも知れぬが、網目の隙間から冷気が突き刺すので、従来はウールややダウンの上着を部屋で着て寒さをしのいでいた。しかしこのところ気の毒な和服がリサイクル屋で叩き売りされているので、部屋着目的でサイズも見ずに数枚買ったら、思いがけず暖かかった。生地の目が細かいからだろうか。柔らかいからコート類より肩が凝らず重宝している。勿論品質は安心の日本製だ。
最近着付けを習い始めた友人によれば、リサイクル和服は今が買い時だ。着物を新調する世代の人口が年々減っているため、このままでは将来的に需要は激減し、それに伴い供給側も事業縮小を余儀なくされるため、今後しばらく箪笥に眠った和服がリサイクルに出回った後は売れ残りが海外へ流出し、その後新しい古着は在庫が底をつくことが予想されている。だから古着でも品質の良い和服がリサイクル屋に並ぶ今がチャンスなのだ。これを逃すともう次はない。さあ日本人よ、とりあえず今買っておけ。そして自分や周囲が着ない場合は、外国人に高く売れ。それだけの価値はある品々なのだ。

ところで受験シーズンだからというわけでもないが、佐藤優が自身の高校時代を綴った自伝でこういうことを言っている。彼が卒業した男子進学校では、授業以外の活動がやたらと多かった。文化祭や体育祭、部活とその朝練や生徒会活動その他高校にはよくある課題が山積みで、そうした受験科目と関係のない活動の手を抜くことは許されなかった。それは教師らからそう言われたからではなく、生徒らがそのように自覚している、要するに校風であった。つまり「できる学生」というのは、早朝に朝練をし、ホームルームで当番をこなし、授業の合間に飯を食い、突然の教師からの手伝い要請に手際よく応じ、放課後の部活や課外活動の前や後ろの空いた時間で宿題や予習復習をし、下校時は青春に悩む友人の話を聞いてやり、家に帰れば家族と人並みの交流をし、食事や風呂の合間にテレビやラジオで世間の情報を取り入れ、寝る前に教養書を数ページは読んで就寝する。そんな過密スケジュールの隙間の僅かな時間でも参考書を開いて集中して勉学に勤しみ、且つ結果を残せる学生なのであり、こういう日々のマネージメントをこなせる人材を育成することを是とした学園カリキュラムであったというのだ。

それはつまり、受験に合格するためだけに一日を使うような、受験科目しか勉強しないでそれ以外は何もやらないというような高校生活はダメだということだ。そういう学生はなるほど東大に合格するかもしれないが、社会に出ると使い物にならない。なぜなら社会人がこなす一日の課題は多彩で、不測の事態もよく起こる。受験科目しか勉強しなかった学生はそれ以外に取柄がないため、社会に出ても自分の狭い範囲の仕事しかこなせず、「それは私の仕事ではない」と平気でのたまわって顰蹙を買う大人になってしまうし、不測の事態が起きても立ち往生するか、それに注力している間に自分の本分を疎かにしてしまう。なぜなら、あれこれの課題に正しく優先順位をつけて首尾よくこなすマネージメント能力が鍛えられていないからだ。
そういう使えない大人にならないためにも、たとえ受験に直接役に立たない活動であっても山ほど生徒らに課題を課す高校が、結果的に有能な人間を作るのだ。だから生徒らもこうした活動を軽んじて避けてはいけないし、親御さんたちも「そんな活動を子供にさせるな」とごねてはいけない。佐藤氏はこのように提言しております。

全くその通りだ。宇宙人も高校時代はやたらとイベントの多い学校に通っておったが、今思い出す事といえばその種のイベントばかりで、授業の内容など自分の興味のある科目しか覚えていないし、身に付いてもいない。しかし隙間の時間を使って進級進学に必要な学力は保持していたし、社会に出る頃にはすっかり要領の良い人間に出来上がっていた。見よ、宇宙人の土星裏生活がいま一体どうやって成り立っているのかを。謎ではないか。でもちゃんと健康に生きているのだよ。これを生活マネージメント力と言わずして何と言うのか。
興味のある方は佐藤優著『埼玉県立浦和高校 人間力を伸ばす浦高の極意』や『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートとの対話』をお読み下さい。何の為に受験勉強しているのか見失っている中高生にもお勧めです。

by hikada789 | 2018-12-12 18:45 | 宇宙人の読書室 | Comments(4)
ロシア語学習書の著者である黒田龍之助氏が『寝るまえ5分の外国語』という語学書だけの書評を書き連ねた本を読んだ。当人はロシア語が専門だが他言語にも関心が高く、メジャー・マイナーを問わず語学の入門書や会話集を買いこんでは読んでしまい、せっかくだから書評にまとめたという。こういう気分はよく判る。宇宙人も学生時代はペルシャ語やらアラビア語やらウクライナ語やら、大学を出たら一生縁がないであろうレア言語の取れる授業は取っていた。習得までいかなくとも構造くらいは知りたかったのだ。一方で英仏独のメジャーな欧語には今も昔も心が動かない。メジャーすぎて新奇性がないのと、多分人間中心の文化が好みでないからだろう。言語の構造はそれが支える文化に強く反映する。
黒田氏はプロの言語屋なので仏語や独語も結構やっている。そういう人から見ると、例えば東南アジアの諸言語などは仕組みからして全然違うので魅力的に映るらしい。どう魅力的なのかは本編を読んで頂くとして、ここでは宇宙人が思わず頷いた言語学者たちの心の声を少々抜粋しておこう。

――「著者は、語学の勉強はやがてはその歴史的研究に進まねば本格でないとも信じている」(神田盾夫著『新約聖書ギリシア語入門』より)

――「英語を読むな、英語で読め」。つまり英文の内容を読めという意味。最近の高校の英語教育みたいに、英語だけで授業が進めば内容は低くてもいいというのとはワケが違う。[黒田氏の見解です]/「日本語に直さず英語のまま読め」「書かれた順に左から右へ理解する」(藤田悟『辞書なしで英語が読める』より)

――(ドイツ語学者の愚痴から黒田氏の感想)固有名詞はちゃんと発音してほしい。わかるなあ、その気持ち。Herbertはハーバートじゃなくてヘルベルトだと、いくらいっても一向に直らない人にガッカリする。そうそう、私もロシア人のイーゴリを「イゴール」と発音されると虫唾が走るのだが、相手は決して訂正してくれない。

そうそう、宇宙人も、ロシア人のウラジーミルを「ウラジミール」と発音されると虫唾が走っているのだよ。アレクセイを「アレクシー」だの、ピョートルを「ピーター」だの、いい加減にしろなのだ。わかるわあ、その気持ち。

by hikada789 | 2018-11-05 18:08 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
前回は良書と言いつつもくさしている書評じみた私見を述べたが、もっといい図書があるのでそちらを紹介しよう。書き手の熱意や偽りない率直な言葉がぎっしり詰まっていて、金儲け臭を気にせず読める『クマにあったらどうするか~アイヌ民族最後の狩人 姉崎等』。2002年刊を再編集して2014年に文庫本になったものだが、表紙がかわいい。姉崎等氏の体験談を片山龍峯氏が聞き書きするという体裁の共著なので、会話形式で読みやすく、子供にもお勧めだ。
表題に掲げたクマに遭遇した際のサバイバル法のほか、クマの生態を知り尽くした猟師の知恵や人間力、戦前戦後の北海道事情からアイヌの風習まで細やかに語られている。聞き手がいいのだ。聞き手に是非知りたい、記録として残したいという強い熱意があり、その熱意に語り手も共感して出来上がった本なので、その志が行間から滲み出ていて清々しい。なにより聞き手が予備知識を持って聞き取りに臨み、「クマにあったらこうすべし」という巷の諸説を目の前のクマ猟師にぶつけて真偽を問うと、猟師の答えは白黒はっきりしているのだが、それは「自分の経験ではこうだからこう思う」という言い方であって、巷の説を頭ごなしに否定はしないところに好感が持てる。「その方法は逆効果だと思うけど、こういう特殊なケースならばあり得るかもしれない」という1か0ではない物言いに、猟師の深い洞察や論理的思考が見え隠れするのである。前回記事の本の印象と比較してみて下さい。

例によって読書の時間のとれない方の為に、姉崎猟師の有難い教訓名言をかい摘んでいくつか。
――(猟で山に入ったら)ずっと1日二食で、ご飯一膳と味噌汁だけで10日ほどもつ。私は山に入っても入らなくてもあまり食べないようにしている。あんまり食う人だと体力が持続しない。大食する人は元気が出るかといったら、絶対に出ない。胃袋だけが大きくなって、少しでもお腹がすいたら全く、グダーッとゆでた菜っ葉のように弱いです。
――(アイヌがしばしば山のカラスと共働するという話で)山ガラスというのは町にいるカラスとは違う。町ガラスは人にばっかり頼って暮らすけど、山ガラスは人に頼らず山の中で虫を獲ったり(自力で)生活している(ので人間と対等の意識がある)。ハンターがクマを獲ると肺臓だけを残し、カラスが食べやすいように細かく切って木の枝に丁寧に刺しておく。するとそれぞれのカラスにひと口ずつでも当たるようになる。カラスたちは、ハンターについていくと必ず恩恵があるものと学習して、クマ猟に同行するようになる(クマがいる所ではカラスは集団で鳴く習性があり、猟師はこれでクマの居場所をつきとめられる)。
――(アイヌの魂送りの思想に触れ、クマを獲っても)獲ったという喜びではないんです。この肉の部分を持って帰る、ここは捨てていく、ということをしないで皆で大事にしてやろうと考えて、カラスにあげる部分以外はどの部分も持って帰る。(スポーツハンターがクマを倒すことに喜びを見出しているのとは違い、)クマを倒したらその後まで私らは責任を持ってやるんです。クマを獲れば獲るだけ、責任は重たくなります。

姉崎猟師はクマを山の師匠と仰ぎ、山における知恵はすべてクマの習性を模倣することで身に付けたという。口で言うのはやさしいが、他の猟師に聞いてもこんな手法は普通の人間はまねできないそうだ。「俺たち人間だからさ」。
ところで、クマが賢いことはよく知られているが、どれほど賢いかを示したエピソードをひとつ。研究目的で野生のクマに電波発信機をつけたところ、クマは人里近くの道筋すぐそばにいても、近くを通りかかる人間の目には触れない場所を選んでいることが判った。藪や高低差で人間の視界には入らないので気付かれることはない。しかし距離的には目と鼻の先である。クマは人間に気付かれると面倒になることが判っているので静かにしてやりすごしているのであり、人を襲う意志はない。姉崎氏曰く「クマは平和主義であり、人間との無用な争いを避けようとする」。
昨今は『新潮45』の杉田論文擁護云々の話題で、またぞろ差別だ、謝罪だ、何だと多くの人が首を傾げる権利の主張がメディアを賑わせているが、この種の権利は「表現の自由」をつきつめれば結着のつかない話であることをいい加減人間は悟って、クマのように無駄な争い事を避けて静かにやりすごしたり、人間(=意見の異なる他者)と平和に住み分けする知恵を磨いたりするべきではないのかね。クマよ、愚かな人間を熊パンチで諫めてくれ、なのだ。

by hikada789 | 2018-09-25 15:55 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
山小屋での肉体労働の利点として、坐骨神経痛の改善を上げておこう。土星裏の執筆も含めPCワークの多い宇宙人は三年程前から坐骨神経痛となり、15分も座っていると尻が痛むので立ち上がらねばもたない。椅子でも床でも同じだ。座布団を工夫してもだめなので、ここはもう加齢と観念して、総体的な健康維持も視野にちょいちょい立ち歩くようにしている。読書も立ってしたり。でも立ったままも結構疲れる。
ところが夏の山バイトを始めたところ、当初はあまりに座る時間のない就労に辟易していたが、いつの間にかすっかり慣れて、もう何時間歩きっぱなしでも大丈夫な体になった。お蔭で今や登山も座り休憩なしで日没まで歩ける。そしてついでに坐骨神経痛も治っていた。やはり自宅では座り過ぎていたのだ。
そんなわけでこの夏も山バイト中は坐骨は好調だったのだが、帰宅して半月も立つとまたぶり返した。PC作業を短くすることはできない。そこで思い切ってスタンディング・デスクにしてみた。いや、家具を新調したのではない。書籍ラックの天板の上のモノをどけてPCを置いたのだ。そして今立ったまま作業している。よさげではないか。背丈を合わせるために健康竹踏みをしながらなので、無意識に足踏みを強いられて血行も滞らない。これで何時間作業が続けられるか、しばらく様子を見よう。

暑さ寒さも彼岸まで。最近は涼しい日も増えて読書も億劫でなくなった。色々並行して読んでいるが、気付くことがあった。しごく真っ当な論理で展開した流暢な文章であるにも拘わらず、鼻につく文章というのがある。石平著『結論!朝鮮半島に関わってはいけない』がそれだ。これは日本に帰化した中国人研究者が日本人向けに朝鮮史を紹介し、その伝統文化としての血みどろの内部闘争や、儒教一辺倒による思想的弊害、政敵を倒すために外国を引き込む習性といった、必ずしも新しい話ではないが朝鮮の歴史を通じて「常にこうだ」という論証を積み重ね、朝鮮民族の国民性を明快に分析した読み物なのだが、著者は大学院までを中国で修了し、その後来日して帰化した割には、日本文が上手すぎる。訳者の名は出ていないが、おそらくリライトしている編集者に文才があるのだ。表現に単調さがなく、多彩な言い回しで言いたい内容がはっきり伝わり、説得力がある。
そう思って最初はスイスイ楽しく読んでいた。南北朝鮮には気の毒だが、宇宙人はどちらの国も嫌いだ。嘘ばかりで誠実さを示すエピソードが見当たらない。フィクションであるドラマや映画でさえも、話の論理性に全然納得がいかないので、最後まで見ていられない。その原因を、この図書は歴史を順番に紹介しながら提示してくれるので、大して明るくなかったかの国の歴史がわが頭の中ですっきりと整理され、その根幹を貫いている国民性やその国民性を形成した環境要因などが今日の国際政治にも脈々と受け継がれていることを納得できた。そういう意味で良書だと言っておこう。

しかし何が気に入らなかったのか。簡単に言えば、上から目線の文体なのだった。日本人編集者にリライトされているから中々気付けなかったが、いま半分ほどまで読み進んでペースが落ちて来たのは、著者が自説の正しさを信じきって悦に入っているのが鼻についてきたからだ。日本人の感覚として、研究者には自説や通説に埋没することなく常に研究対象に疑いの目を向け、その繰り返しによって疑う余地のない真実に迫っていくという、学術道ともいうべき姿勢が求められるのだが、それがない。しかもリライトしている人がそれを何とか隠そう隠そうと奮闘し、日本人の読者に気付かれまいと配慮しているのさえ感じ取れるほど、読めば読むほど著者の浅薄さが読み取れる、そういう不思議な文体なのだった。まあ試しに読んでみて下さい。買わなくてもいいから図書館ででも。朝鮮通史として読む分には手軽な本です。

ところで私はかつて中国に二年も滞在していたくせに、中国も中国人も嫌いである。中国語は話せるのだが、これを武器に仕事を探すとストレスフルな職場に当たるため、知らないふりをしている。嫌いな理由はあまたあるが、その中の一つはやはり上述の浅薄さだ。彼らは自分を省みるという習慣が全くないから自分が一番正しいと思い込んでいるし、そのため他者を貶める発言ばかりする。反省しないから同じ間違いを何度も繰り返すし、その過ちを認められないのですぐ人のせいにしたり、人のアラを探して自分への批判を逸らそうとする。最低な人間だね。よく中国人が先の戦争を日本人が反省していないとかほざくけど、あれは中国人自身が反省する習慣を持たないので、外国人もみな自分達と同じと思ってほざいているに過ぎないということを、二年の滞在で痛感した。日本人よ、世界でこれほど自省する国民は、私が知る限り日本人以外にはおらぬ。心配するな。

この種のエピソードはなにも中国に渡らなくとも日本でも味わえる。先日仕事で整体の覆面調査をした時、そうと知らずに中国人整体師の店に入った。そこでは整体の他に健康食品として蜂蜜を売っているのだが、整体師は施術中しきりにその効用を語って、こちらが自発的に買うよう誘導するのであった。しかも笑えることに、「日本の蜂蜜は農薬のせいで品質がよくない。中国は農薬の心配がないからこの値段はお買い得だ」だと。ばかめ、中国の野菜を買った現地の消費者が洗剤で野菜を洗わなければならないほど中国では危険な農薬を使っていることを、日本人が知らないとでも思っているのか。勿論調査報告書にはありのままを書いた。
もうひとつ最近はこんなこともあった。近所に豆をその場で焙煎してくれるコーヒー豆チェーン店ができたので行ってみたら、店員一人だけでやっており、大変流暢な日本語ではあったがわずかな訛りで中国出身と知れた。見た目では判らなかったが訛りに加えてトークでばれた。自分の勧める豆や淹れ方が世界で一番正しく、あとは全部間違っている、という口ぶりだったからだ。宇宙人はコーヒー好きなのでお気に入りの店が近くにできたら嬉しいと思っていたが、もう行くつもりはない。話しているだけで不愉快になる。日本人だったら自分の豆や淹れ方を自慢することはあっても、他者のやり方を否定するような発言は下品で逆効果だと判るので、自然に避ける。ネガティブキャンペーンを米国選挙でいくらお目に掛かろうと、日本人は体質としてそれを歓迎しないし、居心地悪く感じるのだ。そういう作法ひとつで国民性、いや思い切って品性と言おう、品性は露呈するものなのだ。

本の話に戻ると、いや実に不思議な文章だが、そこに私が見出した違和感は、おそらくリライトしているネィティブの日本人が、中国人である著者に100%賛同しているわけではないことによるのではないか。つまり原文のままでは日本人が中国人の浅薄さを嗅ぎ取って売れないと判断し、売るためにマイルドな日本語に仕上げた。けれども編集者は売るためにこの本をリライトしているのであり、著者に同調しているわけではないから、著者の原文ほどには熱意のない文章になってしまった。そう、これほど明快で、一般読者向けに奇をてらった感のある表現を散りばめた朝鮮人論であるにも拘わらず、そこに本を書く人の熱意が感じられないのだ。熱意でなければ誠意といってもいい。要するに金儲け第一の文章が、こういう風になるわけなのでは。
私もソ連時代のヘンテコなロシア語を読んで頭を悩ませた経験がある。当局が真実を隠すために書く難読の声明文や、知識人が検閲を恐れて駆使する回りくどいレトリック、或いは心の叫びを暗喩であちこちに散りばめている謎めいた評論文など、「もっと判りやすく言えばいいのに」と呆れる文体とは知らぬ仲ではないが、この本のような熱意に根っこがないというか、或いはリライトの横槍で熱意が微妙に削られている文体には初めてお目にかかった。まあ事実とはいえ研究対象の民族をディスる内容なんだから、内側から輝くような文章にならなくて当然かもしれない。No.1102の『ダーリの辞典』と参考まで比較下さい。

by hikada789 | 2018-09-23 18:45 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
自分の言葉に責任を持たずに発言する風潮がSNSの普及により広く急速に行き渡ってしまった昨今、言霊思想を持っているはずの日本文化からこうした風潮を真っ向批判する意見が出て来ないのは情けない限りだ。故西部邁氏はその広い知識の中から社会用語の語源を取り出し、デモクラシーがデマゴギーと同源であることや、モダン(近代)がモード(流行、ファッション。時代という意味はない)と同源であることを指摘して、その言葉や概念の本質について根本から再考し、みだりに飛びつかないよう警告していた。
西部氏のような批判のできる知識人は他にもいくらかいるが、その声はSNSはじめ社会に溢れるゴミのような無価値な発言の波に押し流されてかき消されてしまっている。日本人が本来寡黙を美徳としていたのは、もしかしたら過去にこのような無意味な言葉の氾濫する時代を経験していて、その教訓として社会に寡黙を広めることを善しとしたからかもしれない。しかし現代人は過去を振り返ったり思い起こしたりするのが苦手なので、要するにどうしてそれが過去から今日まで存在してきたのかその価値について考えるのが苦手なので、そう、そもそも物事を深く考える頭を持ち合わせていないので、目先の新しいものに飛びついては悦に入り、その無価値に気付かないまま間もなく痛い目を見る、という所業を繰り返している。子供達よ、このような大人を見習ってはならぬぞ。

言霊思想はなくとも言葉に対する依存度の高いロシア人は(古代ギリシャ哲学の影響だ)、日本人の寡黙さに比べると圧倒的な話力を誇るが、心あるロシア人が同胞を羞じて言うには、ロシア人は息継ぎも惜しむほどずっとしゃべり続けているくせに、内容は空虚で、物事を解決するどころか問題の周りをぐるぐると旋回しているだけだ。逆に含蓄ある言葉を放つ人に限って、その言葉は少なく発せられる、とのことである。確かな知見を持つ人ならば、誤謬のない正確な言葉を選んで発言するから、その言葉は簡潔で無駄がなくなるというわけだ。

そんな心あるロシア人なら誰でも知っている『ダーリの辞典』についてご紹介しよう。ロシア事情が目当てで当ブログを閲覧の方には、夏休みの読書にポルドミンスキイ著『言葉に命を~『ダーリの辞典』ができるまで~』(原題「Жизнь и слово」)をお勧めしたい。
ダーリは19世紀にロシア中の言葉を集めて独自の辞典『現用大ロシア語詳解辞典』を編纂した知の巨人で、そのあまりのオタクっぷりにより世紀を超えて読者魅了し続けている偉人である。私はロシア留学中にその存在は聞いて知ってはいたが、遂に手に取って読むことはなかった。ネイティブレベルのロシア語でないと楽しめないとの懸念があったからだ。しかしそのダーリの詳細で赴きある伝記が最近翻訳されたので、ダーリの辞典がなぜ多くのロシア人に愛されているのか知れるようになった。なので知りたいと思われる方は是非本をお買い上げ下さい。絶対に損はないと太鼓判を押します。紹介まで、冒頭のさわりの部分を抜き出します。

――『現用大ロシア語詳解辞典』、いわゆる『ダーリの辞典』、あるいはもっと短く『ダーリ』(ダーリが一生を捧げた大事業はその名だけで呼びならわされる)をのぞいてみよう。「序と凡例」の代わりに使われている「旅支度」という言葉を『ダーリ』で調べてみると、「出立のとき、旅立つときに支度するもののすべて」とある。「序」や「緒言」、さらにはギリシャ語の「プロローグ」といった文語より、「旅支度」という民衆の言葉を好んだダーリは、主要な仕事である『詳解辞典』と『俚諺集』の本編に先行する部分を「旅支度」と名付けた。読者を案内すべく手をさしのべるダーリは、旅立ちを祝い、これからの旅になにより重要なものとなる判断材料と情報を整えることが不可欠だと考えたのだった。

――ダーリの辞典は本棚に収めず、すぐに手の届くところ、お気に入りの詩集や『戦争と平和』『エヴゲニー・オネーギン』のある場所に置くといい。ぱっとひらいて目に入ったページから読めば、そのたびに感動を新たにするような本のある場所、片時も放せない本のある場所に。
この辞典は今ではとても参考図書とはいえない。語彙の点でも解釈の点でも、多くの内容が古くなってしまった。もっとも辞典を編纂するダーリの念頭にあったのは、意味を知るという実用性でも、関連情報が得られるという副次効果でもなかった。「どこかで出くわした知らない言葉を探しだすためにごくまれにわたしの辞典が必要になるというだけでは、編纂者の労苦はおろか、辞典を買ったこと自体も報われないだろう」とダーリは述べている。
しかし、言葉の意味を調べるという実用的な目的であったとしても、辞典をひらいてしまえばもう脇へ押しやることはできない。ある言葉を引けば、それに連なる別の言葉を引きたくなり、それがまた第三の言葉へと背中を押すからだ。ありふれた解釈の隣に実に思いがけない解釈があって、おなじみの言葉が突然、まったく新しい言葉に変わってしまう。ほとんどの言葉の下には、ことわざが一つ二つ三つと並んでいて、言葉が躍動し、ニュアンスが変わって輝き、たえず新しい情景が脳裏に浮かぶ。こうして、どの言葉も果てしない魅惑的な旅への出発点になる。

こうした冒頭を読むだけでも、ダーリの辞典は他の辞典とは全く違った目的や意図で編まれたものだということが判る。最近日本にも映画になった『舟を編む』という辞書編纂小説が出たが、その登場人物たちの作業は人生を捧げるというほどではなかったので、感動も浅かった。ダーリも人生の初めから辞典編纂を目指していたわけではなく、海軍士官をやり、医学を学んで医者になったらまた軍医として戦場に派遣され、いやいやながら各地を転々としているうちに趣味で書きとめたメモが膨大に膨れ上がり、最終的に文学に帰結したのである。そう、これはもはや辞典というよりは文学作品なのであり、ダーリ自身が方言の散乱する広大なロシアを渡り歩いた足跡の履歴書なのである。

感動は本編を読んで味わって頂くとして、この作品は著者の文体がまたいい。文筆家ポルドミンスキイは伝記作家として定評があり、「その伝記は、事実を時系列にそって小説風に並べた一般の伝記と違って、作品自体が文学として楽しめること、被伝者への愛情に満ちていること、人生や自分をとりまく世界について絶えず思索を重ねているために歴史的な内容に血が通い、読者は思わず知らず描かれた世界に自分もいる気になることに特徴がある」と評されている。ロシア語やダーリに興味のない人でも、文学に関心のある人であれば楽しめる作品なのである。和訳も優れています。
最後に、ダーリが考える「親」や「育てる」の意味について本文から引用しておきます。

――「生んだ者が親なのではない。親とは養い、善きことを教えた者のことだ」というダーリのメモがある。『詳解辞典』では「育てるとは、低い次元では一定の年齢まで養うこと/高い次元では人生に必要なすべてを教えること」と説明されている。

by hikada789 | 2018-07-17 16:57 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
サッカーW杯が俄かに熱気を帯びている。日本が強豪コロンビア相手に金星を上げたからだ。でもあれがハンドのお蔭であったことは誰の目にも明らかで、急に実力が上がったのだと勘違いしてはいけない。ともあれ今大会、格下が格上を破る波乱が続いているのは事実である。
宇宙人はサッカーに疎い。なぜ疎いかというと、Jリーグのクラブ名を1つ挙げろと言われて「ヴェルディ川崎」と答えて笑われて以来サッカー情報を脳内に入れることを辞めたからだが、それでもどうにか知っているスター選手といえばメッシである。彼が18歳でWカップ初出場した時は巻き毛の長髪が可愛かったが、今はすっかり汚いオッサンになってしまった。それでもプレーは依然頭抜けていて、スポーツニュースでちらっと映るだけでも彼だと判るほどその動きは他を圧倒している。
W杯はそんな彼の雄姿をフルタイムで拝める貴重な機会なのだが、アルゼンチンは現在1敗1分と予選敗退寸前だ。メッシがいるのになぜ。答えは他のチームメイトが彼の速度に合わせられず、メッシの実力が活かせないからである。まずスピードが合わないし、メッシというスターに遠慮しているのか、彼を囮に使って自分がシュートしようという気概に欠ける。だから攻撃が単調なのだ。このため格下が格上を破る今大会の傾向にアルゼンチンもはまってしまった。メッシが悪いわけではないのにこのまま予選敗退となって、彼の活躍を見られなくなるのは残念である。

ところで最近のお勧め図書『アナスタシア』シリーズでは、キリスト教徒である著者のメグレ氏が、なぜ人間は神の姿を見ることができないのかという疑問を発し、アナスタシアの祖父が以下のように答えている。

――誰も神を見ることができないのは、神の意識があまりにも速く、あまりにも濃い密度で作用するからだが、これは自転車の車輪のスポーク(放射状の細い棒)が走行中に見えないのと同じだ。走行をやめれば見えるが、それでは自転車は走れない。神が人間のレベルまで意識を遅くすれば、もはやそれは神ではない。だから神が意識を遅くするよりも、君が意識を速めることを学んだ方がいい。意識の速度が遅い人と話をすると、君は苛立ちを覚えないかい? その人に合わせて自分の意識をスローダウンするのは苦痛にならないかい?
――確かに。馬鹿に合わせるには、自分が馬鹿にならないと。
――神にとっても同じなのだよ。神が人間のレベルまでどうにか意識を遅くした自分の息子たち(分身)を地上に遣わすと、群衆は反発してこれを弾圧してきた…

この話、先のメッシの実力が出せない話とかぶせてもいいし、我々の身の回りにいる意識の速度の遅い人に対し、なぜ我々は苛立ちを覚えるのか、そのメカニズムの説明と捉えてもいい。祖父はまたこんなダメ押しもしている。

――我々(シベリア奥地に生きるアナスタシアとその祖父、曾祖父)のような生活を送る人間は、君たちテクノロジー優先の世界に暮らす人々より格段に速い意識速度を持っている。我々の意識は、着るもの食べるものといった絶え間ない多くの心配事に邪魔されて速度を落とすようなことはない。だが君とこうして話すのは(君の速度に合わせて自分の速度を遅くしているにも拘わらず)私にとって苦痛ではない。私は孫娘を愛していて、彼女のために少しでも役に立てるのが嬉しいからだ。

宇宙人は子供好きではないが、だからといって子供が嫌いというほどではない。好きでない理由は子供が、当然のことだがまだ高い知性を身に付けていないからで、その子供レベルの話を続けるのがいささか苦痛になるからだが、実際には子供と話していてそれほど苛立つことはない。なぜなら子供が純粋で、妬み嫉みや悪意といった不快な内面をまだ備えていないからだ。これに対し、レベルの低い大人を相手にしていると苛立ちは怒りの域にまで達する。何十年も生きていながらこのレベルなら生きる意味はない、これ以上の生存は酸素の浪費だ、今すぐあの世へ行け、次は食って寝るだけの家畜に生まれ変われ、と遠慮なく思っている。アナスタシアたちに言わせれば、この場合私は子供たちには愛情を以って接しているが、愚かな大人に対して持ち合わせる愛情はない、ということになるのだろう。
閲覧者の皆さん、あなたのイライラの仕組みはこのようではないですか。宇宙人は愚かな大人に対して今後も愛情を抱く見込みはなさそうなので、皆さんにも愛情を持てと諭すつもりはありませんが、苛立ちの原因が意識速度の差にあるのだと理性的に認識できれば、相手の馬鹿さ加減に対して感情的になって更に疲れることは避けられるかもしれません。ご活用下さい。

by hikada789 | 2018-06-22 19:17 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
ひじきは鉄分豊富な優良食材だと長年伝えられてきたが、近年ではひじきに鉄が多いのではなく、ひじきの煮物を煮る鉄ナベから鉄分が溶け出すことで、結果的に多くの鉄分を人体が摂取していたに過ぎないことが検証された。昨今は鉄ナベが珍しくなったため、一般的なナベで煮たらひじきに鉄分がさほど含まれていないことが発覚したというわけだ。ひじきは海藻類なので体にいい食材であることに変わりはないが、何やらひじきの価値が下がったような気分になるのは否めない。ひじきよ、身に覚えのない称賛を浴び、そして今また身に覚えのない失望に遭って何を思うか。愚かな人類を嗤ってくれ。

似たような事態が卵にも降りかかっていた。コレステロールと抱き合わせにされ、健康を維持したいのなら1日3個以上食べてはいけないとか言われ続けて2-30年経つだろうか、これも間違いだったらしい。間違いの原因は動物実験にある。海外のどこかの研究者がウサギを使って実験した結果、卵を食わせたウサギの動脈硬化比率が上がったというのが根拠であった。しかし最近の研究で、ウサギはそもそも草を食う草食動物なのだから、卵というたんぱく質を摂取・消化分解する機能がもともとない。そんなウサギに無理やり卵を食わせれば、代謝機能が狂って動脈硬化を促すのは当然である。しかし人間はウサギではない。雑食なのだから卵をちゃんと消化分解できる。だから卵を食っても動脈硬化にはつながらない。とこのような事実が明らかになった。その結果、今では卵は1日何個食べてもよくなったという。随分お粗末な話だ。卵よ、お前は何も悪くなかったぞ。このウサギ実験を実施し結果を人間に適用させた研究者が、日本人ではなかったことは明記しておく。

この種の間違った認識は、今はまだ発覚していないだけで、他にも多数存在していると推測される。しかし真実は隠れることはあっても変わることはないので、時が経てばいずれ間違った認識が打ち砕かれる日が来よう。まがい物は本物には勝てないのである。勝ったフリをするだけである。我々は、そのまがい物に振り回されぬよう、ひじきを煮たナベの素材を見張ったり、ウサギと人間の違いについて忘れぬ態度を心掛けていればよい。
おなじみ佐藤優氏の対談本にもこの種の目からウロコな真実がずらりと掲載されていたので、ほんの一部を紹介しよう。『忍者・佐藤優と狂犬・副島隆彦の手裏剣対談~世界政治 裏側の真実』。昨年の出版物です。続きを読みたくなった方は是非、書籍をお求め下さい。

副島:[共謀罪が成立したことについての見解として]だからこのコンスピラシー(共謀行動正犯)というのは、アメリカが押し付けてきたのだ、と言い切った方がいいと思う。
佐藤:よくわかります。
副島:毎回毎回、天から降ってくるのです。アメリカという天から。オンブズマンとかコンプライアンスとか漫画みたいな言葉をそのまま法律にしている。
佐藤:要するに教えた通りにやれということですね。
副島:そうです。憲法典から始まり、敗戦後の72年間、いつもいつもそうでした。下げ渡しだ。
佐藤:ISもあまりいいものではありませんが、アメリカもろくでもないです。
副島:民間の金融や企業制度にも、アメリカはいろいろ日本に押し付けました。大企業の経営体を上から監視しやすくするために「自己統治法」を作った。外部取締役会議(アウトサイダー・ディレクターズ)を経営役員会の上に作らせた。CEOとかCOOとかバタ臭い言葉もさんざん使わせたけど、結局、日本になじまない。日本の実態というか、空気が受け入れない。それでしばらく経つと皆で骨抜きにしてしまう。法律だけがボロビルのように沢山残っている。
佐藤:要するに文化拘束性の問題ですね。やらせようとしても駄目だ、と。
副島:アメリカの命令でワーワー騒がせて、役所が企業指導をやって、コンサル屋を間に入れる。そこでコンサル料を稼がせる。そして社外取締役をスパイのように潜り込ませて、監視して、日本の大企業の内部の秘密を盗み出させようとした。それでも、いつの間にかどうでもよくなって、法律だけはあるのに、効果を雲散霧消させてしまうのが日本の文化ですね。
佐藤:これはやっぱり強いですよ。
副島:強いです。そこまでアメリカは管理できない。
佐藤:文化拘束性というのは化け物みたいなもので、なかなかそこは破ることはできない。
副島:それが日本文化による防御線ですね。

by hikada789 | 2018-05-15 21:31 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)