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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2011年 12月 ( 14 )   > この月の画像一覧

No.140に挙げた小説『オブローモフ』が世に出たあと、夭折の評論家ドブロリューボフが『オブローモフ主義とはなにか』という評論を書き、オブローモフ的気質なるロシア人の一典型が世間に注目されることとなった。それは当時のロシア貴族の子弟が世襲財産で暮らす「旦那」として生まれ育ったがために自立して生きる能力を失ってしまい、文字通り侍従がいなければ靴下も履けないていたらくでありながら、知性と感性は卓越しており、歪んだこの世を立て直すに十分な頭脳も意欲も持ってはいるが、生活の逼迫と無縁であるがためにとうとう何も行動せずに一生を終える、結果的には役立たずな人間の性質ということである。はしょって言えば。ドブロリューボフの評論は翻訳されているので興味のある方はもっと詳しく読むことができます。宇宙人は小説と評論を続けて読んで、なるほど小説の読後にはまだもやもやとして形のなかったものが、評論によって気づかされた所が多かった。評論では、オブローモフ気質がロシア特有のものであると指摘しているが、宇宙人には今日の日本人にも、衣食の足りた外国でも、通用する人類の一類型のように思われる。

大学を卒業しても仕事がなく悩んでいるのはオブローモフではない。仕事がなくてもなんとなく家族の援助で生きていて、それを不思議と思わないのがオブローモフである。自活しなければとあくせくするのはオブローモフではなく、あくせくと働く世の人を儚みながら己の空想世界にふけって世間がどうやったらよりよくなるか夢想し、それが高尚な作業であると自負し、しかし現実にはプチ・エコに努めるくらいがせいぜいなのが現代のオブローモフである。そして小説のオブローモフにはザハールというおよそ役にも立たない侍従がいて、この侍従に靴下を履かせてもらうような日常に疑問を抱かず暮らすのがオブローモフなのだが、オブローモフの田舎の領地には300人のザハールがおり、この300人のザハールもまた何の疑問もなく旦那に仕え、時には裏切り悪態もつくが、他人が旦那を非難すると猛然と抗議して忠義を示すのである。現代では侍従や召使いに相当する人間は少なかろうが、この300人の脇役は、現代社会の何に置き換えることができるだろう。

妄想大魔神である宇宙人にはやや耳に痛い評論であった。いやドブロリューボフはここまで現代批判はしていないので宇宙人自身の拡大解釈であるのだが、ドブロリューボフの指摘するオブローモフ的人間は、どうにも生命力がなく、恋愛でさえ結婚に話が至ると途端に及び腰になって自ら破談にしてしまい、生殖もおぼつかない。まるで進化論の枝分かれで先の途絶えた絶滅種のようだ。しかしサバイバルに負けたオブローモフ種は、生物としては劣性でも精神においては高潔であった。「水晶のような心を持ち、鳩のように穏やか」なオブローモフは、作中人物たちに伝説の聖人のように愛されている。そしてサバイバルに勝ち残る生命は、その後も絶えざる競争の社会を網をくぐり壁を乗り越えして生きていくのである。
というようなことをのんびりと考えさせる作品ですので、お時間のある方はこの正月休みにでも挑戦してみて下さい。

宇宙人が小説『オブローモフ』の冒頭で感銘を受けたところといえば、オブローモフが寝そべって無気力に暮らすことについて親友のシュトルツに弁明する場面だ。
その主張によれば、オブローモフは横臥生活に至る前はちゃんと役所に勤めていたし大学も出ている。しかしいざ勤めてみると毎日は書類を書いたり運んだりするばかりでそれが何の世の役に立っているかさっぱりわからない。職場では皆いつもより甲高い声で話しており、自分の声で話す者はいない。オブローモフはある仕事で失敗しその報告を上司にしなければならなくなったが、自分がそんな甲高い声で話す事態に耐えられなくて辞職してしまう。
では社交に出れば、サロンでにこやかに語り合う紳士たちは、相手が去るとその人の中傷を始め、足を引っ張り合い、だれが訴訟を起こしたとか敗訴したとか、どんな女を手に入れたとか、どんなパーティに呼ばれたとか、賭博でどれだけ儲けた、すったとかの話ばかりしている。肩書がないからといって「得体の知れない品位で」相手を見下し、我こそは群集より上の存在だと自惚れているのが「起きている人間」なのか。これに比べて自分が寝ているのは劣っているといえるのか。「ぼくは自分というものを意識し始めた当初から、もう俺は消えていると感じたよ。その最初は役所で書類を書いている時だった。その後は書物の中から真理を読み取ろうとしているうちに消えていった。その真理を実生活に活かす術が見つからなかったからだ。それから友人と空虚な会話をしているうちに消えていった。娼婦を相手に力を浪費しながら消えていった。夜会で婦人たちにチヤホヤされながら消えていった。それどころか自尊心まで消耗していったよ。しかも何てくだらないことと引き換えに消耗してしまったことだろう。」
そうしたわけでオブローモフは横臥生活への没入に至り、最後までこれを貫いて植物のように死ぬのであった。ああ絶滅種なるかな。タコ・クラゲ型の宇宙人は、横臥生活を見倣うと布団の上で干物になりかねないので、寝起きは明瞭に分化して暮らすよう努めようと思う。
by hikada789 | 2011-12-30 00:27 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
宇宙人お気に入りのローカルテレビに「西部邁ゼミナール」という評論座談番組があり、今週は黒鉄ヒロシを招いてタバコ・賭博論を楽しく展開してくれた。HPで収録内容が見られるので興味のある方はご覧下さい。毎回テーマとゲストが違って多彩です。老人向けですが。
宇宙人はタバコはやらないが酒はやる。賭博はパチンコはやらないが馬はときめきデビューしたてである。とはいえどちらも我を忘れるほどのめり込むにはほど遠い。武道家の宇宙人は往来では周囲に対する警戒心が容易に解けない体質なので、周囲が見えなくなるようなおのれの事態を容赦しない。もとより泥酔はむかし若気の至りで1回やって懲りたし、その後とある霊能者に「あなたの死んだお父さんが深酒はやめろと言っている」と伝言されてからは正体なくなるまで飲む意欲は更に失せた。それでも嗜む程度に飲み続けているのは、味がうまいからだ。もともと酒には強い体質なのでそう簡単に酔うわけでもないのだが、多少の高揚感はあるし饒舌にもなる。それ以上の酩酊は、外で飲んでいる限りブレーキがかかって至らない。ギャンブルに至っては賭け金の上限を決めて臨む。宇宙人は至って理性的で小心な生き物なのである。

座談会ではタバコ・賭博擁護論を展開し、これを禁じる政治家や教育団体をヒステリック、パラノイア、健康ファシズムなどとこき下ろしてマイノリティの悲哀を語っていた。タバコの副流煙による肺がん発生率は副流煙を吸っていない人と大差ないという調査結果が既にあり、がん発生率を妊婦の奇形出産率に変えてもやはり結果は同じだそうだ。勿論、本人が吸えばガンも奇形も増加するが、副流煙はどうやら濡れ衣らしい。宇宙人はタバコ煙は嫌いだし、これの充満する空間に5秒といられないが、暖房のきき過ぎたラッシュ時の地下鉄に5分乗っているのだって同程度の苦痛を感ずる。要するに空気が汚れて換気不十分な空間がいけないのであって、タバコだけが悪者ではないのだ。口の臭いオヤジの隣に座るより小ぎれいな喫煙者の隣に立つ方が多分快適である。もっとも、気の毒なことに口の臭いオヤジは概ね喫煙者かかつての喫煙者であり、喫煙ルームはタバコ煙以前に必然的に悪臭ルームになってしまうので、禁煙擁護者はこういうところを見逃さずに非難と嫌悪を浴びせているのかもしれない。座談会メンバーは年寄りが多いので、戦前は菊の御紋のついた下賜品タバコが兵士に配られ、兵士たちは押し戴いて吸ったと往時を懐かしむのであった。
そして賭博論に至っては、人間には「めまい」が必要という方向へ議論が展開し、賭博に限らず酒も麻薬も恋愛でさえ、人間は理性と現実から離れて非現実の昂揚世界へ一瞬なりとも飛翔することを欲する生物であり、めまいのない人生など味気なく、芸術や文学はこの飛翔なくして究極の領域へ手を掛けることはできないと豪語する。そこで引き合いに出されたのがドストエフスキーで、ファンならよく知っている通り、ドストエフスキーは癲癇もちである。下級貴族の彼は、父親が自分の地所で自分の農奴らに襲撃殺害された知らせを受けたとき初めて癲癇の発作を発症し、以後死ぬまでこの突然の発作に悩まされ続けた作家である。座談によると、ドストエフスキーはなるほど20代で刑務所に入って多彩な庶民と共同生活をしたことで視野が一気に広がったが、それとは別に、20代の若さであれほどの人間観察と洞察力を備えたのは、癲癇という病気による一種のエクスタシー状態、脳の異常環境が、本来なら老年に至ってやっと理解し始める精神世界の深淵を、一瞬で知り得る橋渡しになったからだと指摘している。

閲覧者のために補足すると、ドストエフスキーは医者の息子で、父親が殺害されたのは18歳くらいの時。25歳で作家デビュー、28歳で国家転覆罪で逮捕、死刑判決を受けたが処刑の直前で恩赦が出てシベリア流刑4年に減刑される。癲癇というのは脳が異常な電気を大量に放出する病気で、脳自体が電気ショックを受けることで脳障害を引き起こす難病である。発作が起きると体は痙攣し、アワを噴いて気絶する。程度によっては記憶障害や知能障害も起こすので、治療法としてはとにかく発作を起こさないようにする方向で研究されているが、現在も決定的な治療法はない。
よく知っているな、宇宙人。なぜなら宇宙人は以前癲癇学会というところに講演を聴きに行き、その後も案内をもらうくらい研究していたからだ。なぜ?その理由はいずれ語ろう。

ドストエフスキーが生死にかかわる癲癇のエクスタシーの中で、我々が知りえない何を見たのか知る術もないが、この人は更に賭博狂でもあり、その小説『賭博者』では「賭博の醍醐味とは負けることと見たり」とでもいった賭博の極意を論じている、と座談は語り、大いに共感するのであった。宇宙人は賭博でそこまでの境地に飛翔する意欲も勇気もないから、賭博からもその種のエクスタシーを感得することはできないと思う。もし感得するような事態に陥ったら、それこそもう地球にはいられないだろう。皆さん、宇宙人が来年の「失踪」予告に引っ掛かって「消えて」しまったら、それはドストエフスキーの飛翔の境地に羽ばたいたのだと理解して頂きたい。(まあそんなことにはなりませんよ。)
by hikada789 | 2011-12-27 01:18 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
日本の殺人犯の中にはドストエフスキー愛読者が多いそうだ。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』では主人公や主要人物が殺人を犯すから実際の殺人犯も共鳴しやすいという以上に、これらの作品の中で作家は殺人犯の心情や思想について事細かく描写する章をそれぞれ設けている。殺人を扱う小説は世界にあまたあるが、ここがドストエフスキーの作品と決定的に違うところだ。埴谷雄高曰く、「ドストエフスキーは作中の殺人犯に対して問いかけ、書いている。作中の犯人に対してお前の悩みや主張はこうだろう、と問答し精密に暴いていく。他の作家にはそれがないから作品に凄絶な重みが出ないし、実際の殺人犯も自分のことが書かれているように感じて『ああそうだ、その通りだ』とうなずくことにならない」。
また埴谷雄高はこうも論じている。「ラスコーリニコフ(『罪と罰』の主人公の殺人犯)が殺人現場に戻り、壁に掛かった古びた上着をどけると、その向こうに殺したはずの金貸し老婆の姿と、窓の外の赤銅色の月が見えた。この古びた上着と、赤銅色の月、というアイテムが彼の殺人の本質の色合いとぴったり合致している。こうした暗喩、意識の底辺でつながっているもの同士を小道具として使うという技術が、ドストエフスキーならではの才能だ。他の作家は小道具はあくまでそのシーンに存在する背景でしかなく、暗喩的効果のないモノの羅列にすぎない。」
よその評論家も賛成して言うには、『罪と罰』は「黄色い」という表現が目につくそうだ。そしてこの古びた上着と赤銅色の月がどちらも「黄色系」であり、(ついでに金貸し老婆も皮膚などが黄色い感じがする)、読者の脳に働きかける色彩からも一貫したメタファーで作用しているのが判るという。
なるほど、なるほど。宇宙人も思い起こすに、『罪と罰』はなんとなくセピア色の小説だ。別に昔の時代の話だからということではなく、赤とか青とか白とか明瞭で鮮明な色あいが想像しにくい。柔らかいパステルカラーもなしだ。主人公は斧で老婆を殺害するが、これが刀や包丁だったら真っ赤な血しぶきが上がるのだろうが、斧で頭をかち割ると、出血より殴打の印象が強く、血は出たかもしれないがドロリと粘度が高そうだし、色もきっと茶色に近い。あるいは脳漿が勝って黄色っぽかったかもしれない。主人公は金髪の男前なのだが、この金髪もアイドルのようにキラキラサラサラにはとても思えない。かといって真っ黒な黒髪ではない。『悪霊』のスタヴローギンは黒髪という設定だが、こちらの作品ではブラックホールのような得体の知れない不気味な黒が基調である。
こんな風に色彩からドストエフスキーを楽しむこともできます。
by hikada789 | 2011-12-24 00:14 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
北朝鮮の総書記死亡のテレビ報道をアナウンスしたかの国の名物女子アナは、その道30年のベテランだそうだ。この国にまつわる報道では常にこの人が民族衣装を着てひとり原稿を読み上げる姿が取り上げられていたので、ここ2か月ばかりテレビに映らなくなったのを訝しみ、日本のメディアが病気説や更迭説を無責任に流していたのはつい先週のこと。総書記死亡の報道で、この女子アナは予行演習をさせられていたとか、引き続き下世話な話題がワイドショーを賑わせている。
おかげで宇宙人もこの女性が元女優という情報を得て、たかがニュース原稿読み上げるのにえらい芝居がかった抑揚をつけるのも納得がいったのであるが、あの抑揚のつけ方は、やはり誰にでもやりすぎに見えたようだ。日本も戦前の国威発揚映画のナレーションは似たような感じだったが、東京オリンピック以降、抑揚傾向は下火になって今日に至る。北朝鮮は日本統治時代の影響で抑揚ナレーションが通例になってしまったのかもしれない。

宇宙人が珍しく注目している昨今のテレビタレントは、岩井志麻子である。正確にはこの人はホラー作家でありタレントではないが、その辺のお笑い芸人よりよほど笑えるコメントが冴えて、最近あちこちのテレビで見かける。40代後半の熟女だが再婚相手が若い韓国人であることもありハングルができ、ハングル講座でゲスト出演し、わざわざ北朝鮮の名物アナのモノマネをしながら発音しているそうな。その冒頭の挨拶は「アンニョンハセヨ、カネ貸せヨ」。
外国語をカタカナに直すと楽しい日本語になる例はいくつもあるが、私もこれにあやかってロシア語で何かないものかと探してみたものの、なかなか見当たらない。発音上あまり日本語のフレーズに似ないというのが原因だろう。せいぜい名前で石油王のアブラモビッチとか、『ガセネッタ、シモネッタ』を書いた米原万里がその豪快な性格を称えて女帝エカテリーナならぬ「エ勝手リーナ」と呼ばれていたことぐらいだ。ロシアにギャグがあるか?もちろんあるけど、使う人はあまり尊敬されません。宇宙人だって日本でおやじギャグを聞いても白けるだけだし、落語レベルで許容ギリギリだ。ロシア語は文法上、どうしても脚韻を踏んでしまうので、この押韻をいかにリズムよく意味も的確にすらすら続けるか、という雄弁さが評価される言語です。そのうち土星裏でミニ講座でも開こうかな。
by hikada789 | 2011-12-22 00:32 | その他 | Comments(3)
運勢鑑定依頼を受け、無料「あなたの山水画」コースの掲載の了解を頂きました。
ご協力ありがとうございます!
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1982年7月27日生 男性の山水画
  辛 丁 壬
  亥 未 戌
晩夏の大地に涼しい小川が流れ、岸辺に小石と野火がある。遠景には山岳と海が控える。
【解釈】
川辺の小石であるあなたは宝石である可能性を秘めており、近くに澄んだ川の水があることから磨かれ清められて価値を見出される見込みがあります。但しその川は配偶者を示しており、結婚していないうちは本来の輝きを発揮しにくいです。
海もまた水で、これは父親や職場の頼れる上司を指していますが、海水は不純物があるので効果は半減します。野火は兄弟友人・子供を意味し、金性のあなたにとって試練を与える役割です。また大地と山岳は家系・社会と母親を意味し、あなたに恵みを与える存在ですが、これに甘えるとあなたは輝くチャンスを逃すので、適度な距離が必要です。
父親が浮気性か、妻が浮気性の気があります。
by hikada789 | 2011-12-19 21:14 | 宇宙人の鑑定実績 | Comments(0)
宇宙人の能稽古ヨタ話。今回は宇宙人が稽古中の『鵺(ぬえ)』の仕舞について。この仕舞は都の治安を脅かす怪鳥「鵺」が退治されるシーンを描写するのだが、矢を射られて倒された鵺が川に捨てられ「流される」特殊な型があり、この点について宇宙人は素朴な質問を先生に投げかける。
「この流される型、本舞台でも『船弁慶』やらで何度も見てますが、何度見ても笑えます」
「…横歩きが?」
「つま先立ちでちょこちょこ足を動かすのが、能の基本的な静かな歩みと合ってない気がします。いくら水に流される表現でも、もっと他にやりようないんでしょうか。本当にこれが正解なんですか」(数百年続く伝統芸能に対し挑戦的な宇宙人)
「そうね、確かにここだけバレリーナみたいなんだよね。でも他のバージョンもあって、こういうのが伝わっている」
(先生がそのバージョンを実演。つま先立ちせず足の裏をつけ、両膝を曲げてやはり横歩き)
「あ、だめ、それ更に笑えます」(宇宙人、言いたい放題)
「うん、私もこれは何かやだなと思って、バレリーナの方で通してるんだけど」
「そうだったんですか。仕方ないんですね。私もまだバレリーナの方がいいです。他流も同じ動きなんでしょうか」
「どうだったかな。今度見てみよう」

他流では違う型で伝わっていることはあり得る。そもそも誰かが考案したのだから、その案に納得できない過去の能楽師が別の案をひねり出していてもおかしくはない。継承されているかは別だが。
帰りの電車の中で腕を組み、新規モデルを夢想する宇宙人。
水に流されるにはある程度の距離移動が必要だ。バレリーナバージョンでは舞台を左右にカニ歩きして往復したあと二回転して姿勢を戻す。カニ歩きをやめて後ずさりではどうか?よろよろ後退する型ならあるではないか。あれだけではちょっと単調だから、途中で短く膝をついたりして。つなぎのモジリを残せばそこそこ行けそうな気がする。最後の二回転は渦に巻き込まれる表現だろうから、いっそここを三回転にして更に劇的に。能舞台でトリプルアクセル?
宇宙人の妄想は自由で果てしないのであった。ロシア文学を愛好する宇宙人は、『罪と罰』や『巨匠とマルガリータ』の断片を複式夢幻能で再現できると考えているくらいなのだ。
by hikada789 | 2011-12-16 16:22 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
テレビドラマなどでムチ打ちの怪我人を演出するのに、首の回りをぐるりと巻くように固定して手当されている患者役を見たことがあるかと思う。整体の業界ではあれはあまり意味のない治療法で、現代の西洋医学の現場でも、もうあの固定ギプスのある風景は見られなくなるらしい。
なぜならムチ打ちは言わずと知れた頸椎の障害で、交通事故など大きな衝撃を受けたために生じる力学的負担が原因だ。外傷がないなら「動かないよう固定して安静にする」必要はないのだ。むしろ衝撃によって「一瞬行き過ぎて」しまった頸椎の可動域を元の範囲に収めなおすことが必要なので、多少の痛みがあってもリハビリする方が回復の近道なのである。つまり「できる範囲で動かして下さい」。
この種の怪我は動かさないでいる方が却って逆効果で、頸椎の周りの筋や線になまけ癖がついて弾力や柔軟性が減退すると、今度はわずかな衝撃にさえ耐えられないへなちょこ首になってしまい、その後の生活の危険度が増すのである。危険な事故に遭遇しなくても、人間の首が頭を載せている限り首を緊張させる日常から逃れられないので、肩こり首こり、頭痛を予防する意味でも首の柔軟性と筋力をつけることは、総合的な自己回復力を高める結果となるのである。

しかし手足の骨折の時は出血がなくても固定するではないか?それはそうだ。よく考えて、というか人体骨標本を思い浮かべて下さい。手足の骨はボッキリ折れる類の形態をしている。つまりヒビが入っただけでも衝撃によってボッキリいく可能性がある。だから安静にして骨折つまり切断面をぴったりよせて、間に骨細胞が育ってはやく接着してくれる方向へ導くのだ。
皆さん、聞いたことがあるかもしれないが、ロシアでは「身長を伸ばす」医療行為が行われている。その原理は骨折の治癒過程を利用したもので、まず故意にすねか腿を骨折させ、患部の上下に器具を取り付けて骨折面の距離を1ミリに保つ。人体は怪我に対応して骨折面に骨細胞を増殖させ、自己回復を図る。対面との距離が1ミリなのでああ、これと繋げればよいのだなと人体は了解する。しかし完全に繋がる前に器具を操作して更に1ミリ離してやる。これを数十回繰り返すと、離した距離だけ骨細胞が延長されるので、結果として周囲の筋肉や皮膚も伸び、足が長くなるという仕組みだ。恐ろしい手術ですね。しかし単に身長を伸ばしたいという贅沢な患者ではなく、先天性奇形の人を健常者の身長まで伸ばす目的で行われているので、確かに立派な医療行為ではある。治療には何か月もかかり、麻酔をかけ続けるわけにもいかないので無麻酔の数か月だそうだ。痛すぎる。

これで骨折の治療原理はわかりましたね。さて頸椎、つまり背骨は手足の骨とは形が違う。まっすぐでも長くもなく、一見ブロック型だが実際は星のように突起がいくつもあって、隣り合う背骨と腕を組んで一列にスクラムを組んでいる。腕が複雑に絡み合う上、軟骨で互いを接着し合っているので、衝撃でこのスクラムを解くことは不可能に近い。もし解けるとしたら、その周囲の筋肉や内臓もろとも「ちぎれる」ほどの衝撃が必要であり、首や胴体がそんなことになったら即死している。なので頸椎含め背骨の骨折とは、事実上ヒビ止まりである。内臓が飛び出るほどの外傷は外科医にお任せすべきだが、そうでないヒビは、上述のムチ打ちの治療法の通り、特に安静の必要はなく、構造上、手足の骨のようにボッキリ離れることはないので、普通に生活して周辺の筋肉その他を鍛えて強化する方が日常生活に早く戻れるのである。痛みがあるのはヒビそのものよりも、衝撃によって骨の1ブロックがズレたことにより、神経に当たっているからだ。だからズレを元の位置に戻せばヒビそのものが完治しなくても現状復帰できるのである。これが整体の側の理屈である。

ムチ打ちは長く西洋外科の分野で扱われたため、手足の骨折とひとまとめにくくられて「首ギプス」をつける方法が採られてきたが、最近になってようやく考えが変わり、現在の医療現場で首の固定はなくなる方向にあるそうだ。もしドラマ等でまだ首を固定する演出があったら、それは医療現場を熟知していない制作者の落ち度ということになるので、注目下さい。
by hikada789 | 2011-12-14 16:05 | 整体の仕組と健康 | Comments(0)
前回アニメの話が出たついでに、漫画の話もしておこう。
アニメを見ているなら当然漫画も読んでいる。宇宙人がロシア文学を読み始めたのは高校からだが、それ以前はほとんど漫画、小説は若年向けノベルスと、せいぜい司馬遼太郎くらいだった。そんな中高生の頃、それまで少年向け・少女向けに分化されていた漫画業界が中性的作品を発信し始めた。その草分け的雑誌ウィングスに当時から長期連載され今も続いている『パーム』というシリーズ漫画を、宇宙人は現在でも買い続けている。

作者は初め伸たまきといったが、途中で改名して現在は獣木野生と名乗っている。このペンネームからして非凡だが、シングルマザーの女性である。絵やストーリーから女性作者を想像することは難しいが、独特の人間観と運命論と、切れ味鋭いシナリオで、深刻な人間ドラマを描いている中に笑いが挟まって、一週間くらい笑えたりする貴重な作品を世に送り出している。堅実なストーリーもさることながら、この人の描くギャグ絵は絶品だ。まあ見なければ判らないだろうが、宇宙人の古き友人たちは昔宇宙人が学校で広めたこともあるので懐かしく思い出しているかもしれぬ。連載まだ続いていて、現在34巻目『蜘蛛の紋様』というタイトルのシリーズ終盤に突入している。ノスタルジーに浸る方と、未だ読んだことのない閲覧者のために、宇宙人が秀逸と感じるシナリオの一部を紹介しよう。

『嘘八百ならべて好かれるより、本音ぶちまけて嫌われる方がまだしもだ』
宇宙人が常々感じて実践していることですね。

『残念だな、お父さん。どうしてあなたが自分の手で殺してくれなかったんです?』
父親が差し向けた使用人の暗殺者を返り討ちにした少年が、父親を射殺する直前に発した台詞。少年は長じて猟奇殺人鬼となって主人公につきまとう。幼少期から猟奇殺人の兆候を持つ人物については、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも取沙汰されている。人類はこの問題について未だ解答を得ていない。

医学生カーターが女遊びを円滑にするために、同級生らと研究室に忍び込んで抗菌薬を盗むシーン。
『ほんとに大丈夫かよ?こんなことして』
『ただの抗菌薬だ。麻薬や毒物じゃない。代金もちゃんと置いていく。他のみんなだって遅かれ早かれ必要になるだろ』
『カーター、お前の性生活は間違っている』
『そうだよ。抗菌薬を飲みながらやりまくるなんて。胃薬と下剤を飲みながらバカ食いするようなもんだ』

漫画もここまでやってくれると大人も楽しく読めるのだ。『パーム』は連載当初から既に最終話までの話が作者の頭の中で出来上がっていて、それを順繰りにペンに起こしているだけだという。連載は休憩を挟みながらもう20年以上続いている。完結前に作者がポックリいかないか心配だ。是非とも最後まで読みたい作品である。
by hikada789 | 2011-12-12 23:37 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
土星の裏側が立上げ当初の目的を失いつつあるとの指摘が耳に痛いこの頃、弁解するわけではないが、占いにせよ整体にせよ翻訳にせよ、相手の顔の見えないうちはその発言から思想や知識を見極めて人間を推察するしかない。宇宙人は一応この通りの人となりを披露して、読者にとって信頼に足る人物か、依頼に値する技術か、面白いけど頼み事は遠慮したい相手なのか、判断材料を提供しているつもりである。中でもロシアネタについては、当人が青春の大半を費やしてしまった悔恨の分野なのと、一般に認知度の低い世界であることから読者の反応がよく、つい話題が増えて文学論なぞややマニアックで堅いテーマが続いたかもしれない。というわけで、今日は思いっきり敷居を下げて、アニメの話をしようと思う。

宇宙人はガンダム世代なのでアニメは今でも常時そこそこチェックしている。そこそこというのは、毎シーズンの新作アニメを検索し、絵や世界観をざっと調べて好みの作品を少数選び、その放送第一回を実際に見て出来栄えがよかったらその後も見る、悪ければ見ない、という程度。シーズンによっては全く見ない時もある。なので世に溢れるアニメの1%くらいしか知悉していない。当然だ。いい歳なんだから、業界の人間でもなければ知ってる方がおかしいよ。
さてでは好みの作品とはどんなものか。宇宙人はドストエフスキー読みなので、キャラのエキセントリック度は重視している。大抵の作品は中高生向けなので、主人公は視聴者が同調できるように平凡で判りやすいキャラになっている。だから注目するのはサブキャラだ。特に敵役やライバルにキレのある役者を配すると物語がシマる。ここがなおざりだと仮面ライダーが一方的にショッカーをやっつける幼児向け作品と変わらない。サブキャラが制作者に愛されすぎて主人公の人気を凌駕するくらいが望ましい。
次にストーリーだが、特にテーマはこだわらない。要は背景がしっかり作られているか、あるいは脚本や演出に惹きつけるものがあるかがポイント。大体連載の初回というのは制作者の意気込みが他の回より反映されるので、ここにいい職人を配していると毎回の質に多少ばらつきが出ても肝心な回にいい演出・脚本が期待できるので、とりあえず見てみようという気になる。

そして多分ここがコアな着眼点かと思うが、キャラや制作技術以上に気にしているのが音楽である。それもオープニングやエンディングテーマではなく、本編で使われるBGMが、クラシックオーケストラ仕立ての本格的な作曲作品であるか否かが最終的に見続ける判断材料なのだ。電子楽器とかはダメである。
判りやすい例かどうか微妙だが、数年前に『鋼の錬金術師』というテレビアニメがあり、人気が高かったので2編作られた。原作により忠実なのは二作目なのだが、私は一作目に採用された大島ミチルの壮大で世界観によく合った音楽に耳が反応し、本編自体はちょっとベタなシリアス活劇で見ようかどうしようか迷っていたにも拘わらず、音楽聴きたさに結局最後まで1年以上見てしまった。大島ミチルは例えば大河ドラマ『天地人』を担当した作曲家で、判りやすいメロディーと女性らしからぬ勇壮な膨らみが特徴の若手売れっ子である。
しかしその数年後にリメイクされた二作目の作曲は千住明で、あまりの大物の起用に驚いたのだが、例によって初回を見たところ、おそらくアニメ作品が音楽負けしているように聴こえたのだろう、見る気が起きず、1年後に放送は終了した。ところが数年後たまたま再放送を偶然見かけ、話は既に終盤に至っていたのだが、この物語はもともと重い命をテーマとしており、終盤はそれをメインに扱ったので、その深刻な部分に合わせた千住明の音楽がなんともぴったりはまったのである。なのでこの第二作は終盤だけよく見ることになった。音楽に魅了された結果である。

このように宇宙人は画像と話と音楽の一致性に反応する生き物なので、どういう場面でどういう演出の時どの曲をどの楽器演奏で使うかなど、作品を盛り上げるための音響的効果にときめいたりがっかりしたりしている。現在注目している作品は『ギルティクラウン』。これもメインストーリーだけではとても見る気がしない少年向け活劇アニメだが、シリアスな音楽が耳についてつい見続けている。シリアスな音楽にはシリアスな話が必要だ。最近の回は結構すごかった。一種の障害者の弟を連れて逃亡する兄。しかしそこはアニメらしく、弟は病原の影響で「人の心が読める」体質になっていたので、長年の兄の優しさがうわべだけで本心はお荷物の弟を疎んじていた事に気づいていた…。いいですねえ、こういう本音の話は。こういうテーマは、例えば『巨人の星』の頃の青少年にはウケないというか理解されなかったんじゃないかと思うが、最近のアニメは純文学的な残酷な人間心理を表に出すのだね。悲劇的な音楽がシーンによく合ってお気に入りの回でした。
by hikada789 | 2011-12-11 00:04 | その他 | Comments(0)
No.114で紹介の絶版図書、ザミャーチン著『われら』が今年の11月に岩波文庫で復刻されました。昨日、新宿南口の紀伊国屋で見つけたので、興味のある方は入手できそうです。その他にも長らく絶版になっていたロシアのマイナー書籍がけっこうまとめて復刻されていた。50年ぶりくらいの再版で、残念ながら訳も活字も古いままのものが多いのでちょっと読みにくいが、読みたい人は多少の不便を顧みず買うであろう。値段も文庫にしては高いのだが、コアな読者は気にせず買うであろう。
私も一冊買ってしまった。ゴンチャロフの日本滞在記。亀山郁夫の新訳ドストエフスキーがブレイクして、今なら再版しても売れると見込んで岩波も踏み切ったのかもしれない。ありがたいこと。

古本屋でやはり岩波文庫の、見たことないロシア本を見つけた。トルストイ著『光あるうちに光の中を歩め』。タイトルの神々しさに思わず衝動買いしたが、元来宇宙人はトルストイは読まない。少しは読んだことはあるが、あまり深い感銘を受けず、読むのはもっぱらドストエフスキーである。面白いことにトルストイとドストエフスキーを両方愛読する人はいない。どちらかに傾倒するとどちらかは読まなくなる。これは万国共通の傾向で、ロシア国内であってもそうなのだ。
どうしてそうなのか、いろいろ議論されているし、私もきっとこういうわけだろうという比較論を持ってはいるが、トルストイとドストエフスキーの比較論で有名なのは、戦前の思想家メレシコフスキーの説だ。分厚い評論が日本語にも翻訳されている(そして絶版中)が、どちらも読んだことのない人向けの簡単図式としては、トルストイは自然回帰主義、農村主義、普遍的日常から物事の本質を洞察する手法の人であり、対するドストエフスキーは信仰主義、都市型の精神の病を扱い、極端な思想や人間の意見を闘わせて問題の中枢に迫る手法の人、といったところだ。どちらも病める人類をいかに正気に戻すかという点で小説や論文を書き、世界に多くの愛読者を持つが、このきれいに分かれたアプローチ手法のせいか、両方を等しく読んで納得する読者はなかなかいない。どちらかに好みが割れてしまう。メレシコフスキー曰く「トルストイの作中人物は長く会話が続くと、誰がどの台詞を語っているのかわからなくなるが、ドストエフスキーの場合は誰がどの台詞を言ったかすぐに判る。前者の登場人物は普遍的な人間なので、誰でも言いそうな月並みな反応を示すが、後者の方はエキセントリックな人物が寄り集まって議論しているので、言葉遣いを抜きにしてもその発想から誰の発言か判る仕組みになっている。そしてトルストイの小説では平均的な感覚の市民が非常事態に直面した時どうするかという場面を設定しているのに対し、ドストエフスキーは平凡な日常の中にこんなに濃い人ばかり集まったらどういう展開になるか、という場面を描いていく。」これはほんの一例だが、このように両者はあらゆる面で正反対の特徴を持つのだ。
あなたはどちらがお好みですか?
by hikada789 | 2011-12-09 00:21 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)