人気ブログランキング |
ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2012年 10月 ( 13 )   > この月の画像一覧

宇宙人の旧い友人が拙著『メタフォーラ・ファンタジア』の購読料をなんと「おやつ代付き」で払ってくれた!早速ディスカウント菓子屋に赴き、ぬれ煎餅を買う宇宙人。友よ、おいしいです、この浸みた醤油味が。ああ贅沢しちゃった。というわけで、前回末尾で「本当の音楽」について挙げた、拙著に書かれた考察について少し論じてみようと思う。

ロシア語でナスタヤッシーという形容詞は「本当の、本物の」という意味なので、作中人物がロシア語で話しているつもりの和訳としては「本当の」でも「本物の」でもどちらでもOKです。要は「偽物でない」ということ。主人公は「本当の音楽」とやらを探して物語の舞台であるブハラに長滞在するのだが、「巷の音楽は不快に聴こえるので、これらは音楽ではないと思う」というようなことを言っております。つまりこれは著者の本音であります。みんなどうしてあんな音楽を聴きたがり喜ぶのかさっぱりわかりません。テレビCMに出てくるのさえ聴きたくないばかりに我が家はCMはミュートしているし、歌番組もまず見ない。歌手は演歌以外は、謡曲を習っている宇宙人よりぺらい声の上にキンキンした高音ばかりで聴き苦しく、伴奏は電子音とスピーカーでがなり立てるし、稚拙な歌詞はなんとか語呂だけ合わせてごまかそうと「だね」とか「だよ」とか小学生レベルの語尾を多用するので、全体的に子供の駄々こねにしか聴こえないのである。(宇宙人、今日は随分くさすな。最近のコメント騒動で久しぶりに文章による粉砕を敢行して気が立っているのだな。宇宙人は宿命の月干が庚(=刀剣)なので、こういう人は言語能力に刃物が仕込まれているという例なのでした。ご用心。)
現代音楽がそんななので必然的に伝統音楽に本来の音楽性を求めざるを得ず、宇宙人が謡曲を学ぶように主人公はペルシャのラディーフを実践し、その橋渡しにロシアのクラシック音楽を登場させて話を見えやすくしているのですが、読み手がこちらの思惑通りキャッチできたかは小説の出来に係わるので何とも言えぬ。結局のところ、主人公は「本当の音楽」を見つけられたかどうか不明なまま終わるのだが(話が別の展開を見せたため)、物語の過程でいくつか音楽不思議話が挙げられてます。

まず主人公の師匠が性的興奮を呼び起こす危険な音楽を奏でるシーンがありますが、これはペルシャのお隣、インドに似たような話があり、それと同根であることを醸しております。また別のシーンでは音楽による病人慰撫の話が出てきます。これもどこかの国の逸話の引用ですが、最近の医療では音楽がガン治療に有効だと科学的に証明されているそうだから、何も昔話に限った話でもなさそうだ。
その他にも現代では失ったらしい音楽の効用と威力について、考察を含めいろいろ書き連ねております。こうした内容なので今どきのポップスに満足している読者は反感を覚えるだろうと、「万人向けでない」と謙虚な宣伝しかできない作品なのです。かくいう私も子供の頃は歌謡曲を聴いたり歌ったりしていたのだが、最近たまたま中森明菜のヒット曲をメドレーにした昔の録画を見たところ、当時のリアルタイムの自分は彼女の歌唱力はその他のアイドルと一線を画す力量だと高く評価していたのに、今聴くとやっぱりぺらいのに驚いたのだ。録音の音質が悪かったのだろうか。それとも私の耳が歳をとったから?そういうあれやこれやの考察を延々と書き連ねてみたかったが、枚数制限もあり、本筋からあまりに離れる話は載せないことにして、あぶれた部分をこうして土星裏で披露しているというわけなのでした。

ちなみにこの主人公の師匠、昔知り合ったイラン人男性をモデルにしており、それはそれは男前なのだが、あの国の男のがっかりなところはその嫉妬深さにあって、自分の彼女でもないのに知合いの女性が(既婚であっても)他の男とおしゃべりするのが気に食わないという態度を露わにして憚らない国民性なのだ。男性に限らず、あの地域の人々はやたらと名誉を気にします。映画なんかでもよく「侮辱です。撤回して下さい」というセリフが見られるが、人間の誠実さを重んじる反面、それを疑われるのが余程イヤなのだ。アフガンの部族抗争がいつまでたってもなくならないのは、この名誉棄損の応酬が抗争をエンドレスにしているからではなかろうか。ともあれそうした国民性を反映させて、この師匠も日本人が見れば失笑するような嫉妬深さを表現させられているのでした。
なお彼の猥雑な音楽と性格については、小説が投稿目的になったところで大幅にカットされ今の状態に落ち着いた経緯があります。急いで消した「痕跡」があちこちに残っているので、ヒマな方は探して、あれこれ妄想して楽しんで下さい。なに、どう妄想したところで宇宙人のそれには及ばないよ。
by hikada789 | 2012-10-30 20:54 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
ドストエフスキーが逮捕や死刑判決、減刑されてシベリア流刑といった標準的日常生活とはかけ離れた青年期を送った経験がその作品に反映されて光彩を放つのは自然なことなので、苦労やアウトローな経験はしたもの勝ちかもしれない。「苦労は買ってでもしろ」。安全な今日の社会では意義ある苦労はなかなか買えない高価な品物なのであった。
ところで19世紀のロシア文学がどれも極限状態を扱っているかというとそうでもない。チェーホフなど今どきの若者には共感しやすい小市民的憂鬱を取り上げた名作もある。トルストイにしたって、この人は将校として従軍経験があり、その時の経験が大作『戦争と平和』に活写されているのだが、佐藤亜紀はその戦争描写を「陸軍大尉らしい高所からの視点」と冷笑的に批判している。所詮命令を下して報告する立場の人間としての従軍にすぎず、一兵卒の血泥・汚物まみれの戦場を体験してはいない、遠視的で小奇麗な作品だというのだ。手厳しい。かくいう佐藤女史は戦後の平和な日本に育ったにも拘わらず、家庭内では父親が「おい、ちょっと殴らせろ」と弱い女である妻や娘たちを暴力で支配していたという。女史は十代の頃、出刃包丁を持って父親の寝室の前に立ったが、これでも仕留められないかもしれないという勝率の問題により襲撃を断念したと語る。そこに良心や罪悪感の入る隙間はない。こうした安全とは無縁の厳しい日常経験が彼女の作品に度々出てくるリアルな戦争描写に活かされているのである。もっとも女史の作品に出てくる主人公はどれも魅力的な男だし、必ず角度の鋭い諧謔が添えられている。こういう理想像やユーモアはどこから生まれるのか。やはりその対極にあるものが鏡となって反対側を照射しているように思う。

アルツィバーシェフの『サーニン』は20世紀初頭に発表されたロシアの虚無主義小説だが、いまこの作品を読む日本人はいくらもいないと思う。ドストエフスキーやトルストイらに比べると普遍性がやや劣り、当時の時代風潮を強く反映しているので時代と地域のローカル性から外れた現代の読者にはもはや共感を望めないという嫌いがある。しかし宇宙人が実際に読んでみると、やはり人類の歴史は繰り返されるのだ、まるで現代の日本社会の問題そのものを描いているように見えるほど、風景が似通っている。読書前は「単なる官能小説」との書評に躊躇いながら手を出したが、いやいや、読み応えのある思想小説でした。

当時のロシアは帝政末期で、ヨーロッパから社会主義やら自由主義やら好き放題の思想がぞろぞろ入ってきて家長制度を乱し、社会の価値観が大きく揺らいでいた。ロシア政府は国民の不満をそらすために日露戦争を起こして現状を切り抜けようと、どこかの国みたいなことをしたが、ありえないことに敗戦してしまい、つづく第一次ロシア革命の失敗により大量のインテリ青年が処刑・流刑され、社会はますます混迷を深める。国家に奉仕していれば不自由なく暮らせた若者たちは仕えるべき対象を失い、次々にニートと化していく。そんな20代の青年男女が何を拠り所にして生きていくべきか、その葛藤を描いた作品群の中で一番の傑作とされるのが『サーニン』なのである。
第一次革命の不発により自分たちの無力を悟った知識階級は厭世的になり、虚無主義が蔓延する。虚無主義が社会に向かうと無政府主義になるが、個人に向かうと自由恋愛主義になり、道徳が頽廃して性の放縦に至る。恋愛三昧の爛れた生活に没頭するロシア青年たちを、ロシア政府は却って政権打倒運動のストッパーになるとしてわざと放置したらしい。そして彼らを描いた性欲小説が「洪水」のように氾濫し、後世の評論家はこの時代の小説は読むに堪えないとのレッテルを貼った。しかしその中で『サーニン』は単なる性愛小説に留まらず、「政治的権利獲得の闘争を嘲笑し、憲法政治を愚弄し、無節操な欲望の満足という個人主義的幸福を唱道している」。このくだり、何だか今の日本と重なるものを感じませんか。「無節操な欲望の満足」という点については、例えば今どきの食い物に対する無節操な欲望を私は以前から苦々しく眺めているが、ロシアは今も昔も食事に情熱を注ぐ傾向が少ないので、この場合食べ物の話は置くとして、恋愛や自由な発言・表現という小さな個人の行いに絞るなら、まさに現代日本社会のミクロの様相ではないですか。皆さん、勝手気ままにつぶやいてます。「政治的権利獲得の闘争を嘲笑」するなど、最近の日本の政局を、国民の多くが鼻で笑いながら眺めているのと同じではないですか。「選挙や憲法改正より被災地の復興が先だ」。

『サーニン』の主人公サーニンは思想も言論も恋愛をも、禁止も批判もせず、身近な目先の関心事についてのびのび自由にやればいいという徹底して正直な個人快楽主義者だが、だからといって他人に不幸を強いていいとは言わず、必要ならば暴力さえ振るうが、つまらない優越感や虚栄心を一笑する自由人なので、周囲の尊敬と反発を同時に受けているヒーローなのである。このヒロイズムは当時のロシア青年の羨望の的となり、サーニズム、サーニストという言葉さえ現れた。その影響で若者による自由恋愛同盟や自殺クラブがあちこちに出現し、小説は一時発禁になり、発禁になったロシア文学は大抵ヨーロッパで再版されるので、今度はドイツやハンガリーでも同様の社会現象を起こして裁判沙汰になった。それほど一世を風靡した作品なのだ。日本での紹介は戦後になったのかな、特に社会現象にはならなかったようだが、今日の宇宙人が読んでもサーニンはかっこいい男であり、その思想は宇宙人の信条にかなり近い。「相手の考えが自分と違うからといってどうしてそれを憤る必要がある」というところなど、近いですね。
ちなみにこの作品の最後で故郷を去るサーニンに対しその友人は「僕が見た人間の中で本当の人間はきみ一人だ」と告げている。どこかで聞いたセリフだと思ったら、ドストエフスキーの『白痴』で不幸なヒロインが主人公の公爵に言ったセリフと同じでした。「生まれて初めて本当の人間を見ました」。本当の人間、だって。あまり日本では聞かれない言葉ですね。日本にはいないのかな、そういう人。蛇足ですが、宇宙人の自作小説には「本当の音楽」についての考察が書かれております。(No.292参照)
by hikada789 | 2012-10-28 17:51 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
アニメ好きの方から今シーズンはどの新作がお勧めかと問われた。私はアニメ通ではないし先シーズンは何も見なかったので個人的な好みの話にしかならないのだけれど、例によってタイトルと画で新作アニメの9割を排除し、残った1割の第1回放送を見てその後もどうにか見続けているのは『K』と『絶園のテンペスト』です。理由は毎度おなじみの「音楽」。クラシック楽器を使ったBGMにいくつか冴えた曲が混じっており、ストーリーには大して惹かれないがとりあえずしばらく聴くつもり。『絶園のテンペスト』は音楽を大島ミチルが担当しており、悲壮なテーマ曲をフルオーケストラで雄大に奏でております。アニメにはもったいないくらいです。ベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」を編曲して使用しているのも趣がある。でも物語はどちらもあまり。子供向けです。

子供向けといえば『ガッチャマン』の再放送が夕飯時にやっていてつい見てしまうのだが、子供の頃には見過ごしていた人間像が意外に真実を反映していることに気付いた。主人公のケンは科学忍者隊のリーダーでありながら、「敵ギャラクターの襲撃の度に出撃するのは不毛で、敵の本拠を潰さなければ不幸はなくならない」と事あるごとに主張してチームワークを乱す。そしてチームの危機を招いては己れを騙し騙し出撃して毎回の話をつなぐのだが、ガッチャマンの成立年代は1970年代前半、ベトナム戦争やら学生運動やらで社会通念や価値基準が揺らいだ昏い時期に当たる。そうした時代の若いアニメーターが作った脚本に、社会そのものを根本から改革しないとだめなのだという革命思想とその挫折が見え隠れしているのだ。そう考えると、やられ役にもかかわらず毎回手を変え品を変え悪さを仕掛ける敵ギャラクターのしぶとい生命力に真実が見えてくる。この世の悪事や弊害は叩いても叩いてもなくならないモグラ叩きの仕組みなのだが、ピコハンマーでモグラ叩きの堅牢なマシンそのものを破壊することはできない。
その後1970年代終わりに登場する初代『ガンダム』に至ると、主人公は完全に卑屈な少年に成り下がる。これは学生運動で挫折し大学を追われてまともな就職ができなかった不幸なインテリ青年が、アニメというマイナー業界に集まったがゆえの産物とはよく言われている。初代ガンダムは子供向けアニメに暗い現実と人間ドラマを盛り込んだ日本アニメの金字塔である。社会の不条理なくして今日のジャパニメーションの繁栄はなかったのだ。

さて最近のアニメにもそうした社会の鏡が描かれているはずなのだが、どうにも人間に力強さが欠けるのが気になる。現代人が繊細になったと言えば聞こえはいいが、不敵で余裕な笑みを浮かべるニヒルな人間を多く登場させる傾向が続いている。そうしたキャラは私は本来好きだが、あっちもこっちもとなると却って不快感が増す。この種の「集団から離れて眺める」傍観者的立場の人間は一人で沢山なのだ。全員が集団の外から出てしまったら、もはや眺めるべき対象ははい。つまりそれは既に傍観者でないのである。そのへんの視点や総合意識が制作者に欠けているというわけだ。見た目のかっこよさを優先して中身が薄くなった。

私は村上春樹の作品が好きでないが、あるドストエフスキー研究者が村上作品を批判して言うには、「都会の団地に育った画一的で小奇麗な中流家庭の域から脱しない世界しか描かれていない。ドストエフスキーの『罪と罰』には、引き籠り学生の主人公がありったけの汚れた下着を突っ込んだ息詰まる屋根裏部屋に暮らしていて、そんな極限の環境で人間がどんなことを考え行動するのかを克明に描いているのとは対照的だ」。私も同感で、村上作品が世界中に読者を獲得しているのは、画一的な今どきの世代が理解しうる世界がその範囲内にとどまっている表れではないかと思う。その作品の人物たちは何となくみんな余裕をかまし、ささいな不都合を一大不幸のように取り立ててほじくるものの、いつも小ぎれいなのだ。身なりを気にする余裕がある人ばかりで、ばっちい物には近寄らない。

私は算命学をやるので、調舒星や龍高星など身なりや世間体を気にする余裕を打ち砕く星をずらずら持つ人間がこの世にいることを認め、相談さえ受けている。そういう観点からも村上作品の狭く安全な世界が許容できないのであるが、皆さんの中には好きな人も大勢いるんでしょうね。好みはそれぞれです。
アニメの話で始まったので、漫画の話で締めくくろう。以前紹介した獣木野生の『パーム』で、かわいいゲイ青年がぶっちゃけ話をするシーンでこう言っている。「クソが怖くてホモができるか!」この漫画家、女性なんですよ。女性であってもこうした事情が判るし、勇気があれば表現だってできるのだ。
by hikada789 | 2012-10-26 11:58 | その他 | Comments(0)
能に『三輪』という演目があり、三輪明神の婚姻伝説にまつわる話なのだが、クセの部分をじっくり読んでいたら、ストーカー物語であることが判った。三輪の女神がいつも夜しか来ない男神にどうして昼は来ないのかと尋ねると、男神はもうここへは来ないよと別れを切り出す。女神は別れられない女だったので、男の服に糸をつけてその住処まで尾行する。そしてそこで見たものは…というお馴染みの伝説ですね。これが男女逆の話だったら男は間違いなくストーカーとして逮捕されるのだが、女がストーカーなのでうっかり見過ごしがちなのだ。人類は神話の時代からストーキングしていたのであった。
その三輪のクセを宇宙人が地謡で謡う素人仕舞会が以下の通り開催されます。観覧無料です。皆さま、お運び下さい。

-----第15回八歩会仕舞発表会-----
◆日時:平成24年10月27日(土)14時~16時
◆場所:井草八幡宮 神楽殿(JR西荻窪駅よりバス10分。野外)
◆内容:辻井八郎師のお弟子による仕舞と、師の番外仕舞。
◆宇宙人出没情報:
『三輪』をはじめお弟子の後ろで地謡をはりきって謡うほか、終わり近くで仕舞『歌占(うたうら)』のキリを舞います。2分程度。能『歌占』はうっかり間違って死んでしまった男が白髪になってこの世に帰還して、僧侶に地獄の様子をリアルに物語るというもの。キリは「地獄はこんなに恐ろしい所だったよ」と興奮して語る男の興奮状態で始まり、最初からテンションが高い。後半で「ハッ」と我に返って落ち着いて終了する、表現の難しい仕舞であります。詞章と動作の関連は以下の通り。
「五体さながら苦しみて…天に叫び、地に倒れて」テンション高い。冒頭から乱れぎみ。
「面(おもて)には白汗を流して…」扇で汗が額から流れる様を表現。
「袂には露の繁玉。時ならぬ霰玉散る」地獄は異常気象なのである。
「打つ音は窓の雨の、震いわななき立っつ居つ」打ったり立ったり座ったりします。
「肝胆を砕く神の怠り。申し上ぐると見えつるが」一回転してお辞儀。動きのピーク。
「神はあがらせ給いぬとて…」地獄から浮世へ浮上し、我に返って我が子を連れて退場。
詞章が聴き取れるようになると、場面も想像しやすくなりますね。『三輪』ではどのあたりがストーカーなのか、じっくり聴き入って下さい。
by hikada789 | 2012-10-23 12:22 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
今年はさばが豊漁と聞き、さばの味噌煮を生まれて初めて作ってみた。ホニャララ小説の売上で購入した味噌を片手に、料理番組で記憶したレシピに基づきフライパンで調理する宇宙人。さばと一緒に野菜を蒸し煮にしてよいというので、ジャガイモとナスを入れてみる。宇宙人はナスが好物である。うまい。うまいではないか。こうして宇宙人は命をつなぐのであった。皆さんのお蔭です。合掌。

ところで能楽関係の講座に行って、観梅問題について情報を仕入れてきた。観梅といっても梅を眺める行楽のことではありません。能の流派である観世と梅若の愛憎物語です。いや、愛はないのかな。ないとも言えない内容でしたが。能ビギナーな閲覧者のために概要をご説明しましょう。
能は江戸時代まで幕府や大名の保護を受け、能楽師は禄暮らし、つまり公務員として武家に仕えていたが、明治維新で幕府がなくなると失業して路頭に迷う。明治政府が保護に乗り出すまでの数年間は聞くも哀れな状況にあった。この間、最大のパトロンである徳川家に仕えていた観世宗家は忠義を見せて、徳川の殿様に付き従って静岡へ去った。殉職ですな。しかし他の能楽師は別の道を模索し、観世流の一派である梅若家や観世銕之丞家は東京に留まり、芸を未来へ繋ぐ道を選ぶ。やがて明治政府は日本のオペラとして外国要人接待用に能を再評価し、明治政府に仕える能楽師の保護・育成に着手する。こうして能は世界絶滅遺産となる危機を脱したのであった。

さてここからが内輪もめだ。東京に残った能楽師達は、もう観世宗家は俗世に戻らないと踏んだらしく、江戸時代から抱える膨大な観世流の弟子(士族セレブ)の維持管理を自分たちがやらねばとどうやら考えた。そして梅若家が観世流の免状を出す作業を開始する。ところが新政府の下での能の復興を見た観世宗家が俗世に復帰して東京へ出てきた。見れば7年の不在の間に梅若家があたかも観世流を乗っ取ったかのような有様に。ここでドラマ的には両家血みどろの争いになるところだが、講座パネリストに呼ばれていた梅若六郎(玄祥)氏によれば、「両家の子供が一緒に稽古したり『小袖曽我』を一緒に舞ったりしているので必ずしも険悪な仲ではなかったようだ」。両家は観世銕之丞家も含め、江戸時代から相互に婚姻や養子縁組で繋がる親戚であったのだ。しかしいずれにしても観世流の免状が梅若家と観世家の二カ所から出るという異常な事態が続いてしまう。要するにここから観梅の不和が始まった。
観世宗家は梅若家を観世流から独立させて切り離す案を出すも、宝生ら他の流派の反対で叶わず、梅若家は様々な圧力から脱するため観世から離脱して自流派を立ち上げたり、お公家が仲裁に入って梅若を観世流に復帰させようとしたり、戦争中に能楽協会を設立して問題解決に当たらせたり、戦後はGHQまで仲裁に乗り出したり、それはそれは大層な騒動に発展した。決着したのは昭和29年で、梅若家はめでたく観世流に復帰し、免状や謡本の発行も梅若の権利が認められて和解した。この騒動、業界では話すのが憚られてきたのだが、玄祥氏曰く、「もう昔のことだから話してもいいでしょう」と今回の講座で取り上げることにした模様。
そうだったのか、観世流。古い家というのは現代人の窺い知れない事件や歴史があるのだな。もっとも宇宙人が稽古しているのは観世流ではなく金春流である。金春にも同様の事件や事故があったか?そ、それは…(モゴモゴモゴ)。
by hikada789 | 2012-10-21 23:38 | 宇宙人の能稽古 | Comments(7)
自然現象を根拠に組み上げられた算命学では、高い所と低い所は同格ではありません。基本理念である陰陽五行の相互関係を偏りのない対等のものとする一方で、高い低いについては互角ではなく、高い方が低い方を凌駕します。優劣と言ってもいいかもしれません。算命学は善悪や優劣を基本的に論じませんが、この点だけは例外的に認めているということです。

最近オープンしたスカイツリーに昇ると東京が一望できるそうですが、高い所からは低い所がよく見える。しかし低い所からは高い所は見えない。角度によっては見上げることができるくらいで、細部は見えない。算命学はこの自然の道理を重視し、知識のない者は知識のある者の思考を窺い知ることはできないが、逆は可能である。人格の劣る者は人格者の行為の意図が判らないが、逆は判る、と定めている。
全部「印(知)」の話です。なぜなら算命学では知恵の方位を北(上部)と定めており、人類の知恵は上から下へ降るもの、目上の者から目下の者へ授けるものとしているからです。上から下へ流れる、つまり知恵は「水」が司る分野であります。火と対極にある水の勢力が一番強い季節は冬、方位に直すと北、人体図では頭部、時間では過去になります。知恵は過去から未来へ受け継がれるものであり、若者がそれまでの歴史や経験を持つ老人を敬わないとこの知恵を授かることはできず、老人も若者や未来を大事にしないと受け取ってもらえない。このため知恵の授受の様態は互角の関係ですが、印を持っているかいないかは高低差となって現れるので、当然知恵と経験の豊富な老人が若人より上位者になります。(もっとも無駄に年だけとった老人が物の判った若者に知性において劣ることがあるが、それは基本的に珍しいケースなのでここでは論じない。)能力を云々する個人論や集団論としては、印を多く持つ者が高位者であり、その高位者は下位者の思考パターンが読めるが、下位者からは高位者を窺い知れない。そういう仕組みです。

判り易い例を挙げると、英国貴族というのは普段は整った上流階級の英語を美しい発音で喋っているが、下町にお忍びで行って下々の者と言葉を交わす時は下流英語を使いこなす。どちらの言葉も知悉しているため、場面に応じて好きな方を自在に選んで喋る能力があるからできるのだ。しかし下々の者が上流英語を喋っても単なる物マネにしかならない。それは上流言葉というものが単なる言語形態ではなく、身なりや立居振舞い、目に見えない教養や精神といったものに支えられているからであり、これらを欠いた言葉それ自体が上流の香りを醸すことはないからだ。日本でも遠山の金さんが上下両方の言葉を使いこなしておりますね。金さんは勿論お奉行様が本職で、遊び人は仮の姿だ。このように上位者は下位者の要素を兼ね備えているので下位者に成り替わることは難しくないが、その逆はない。なぜなら下位者は上位者の要素を備えていないからである。

前々回からの漆話の流れでいうと、合成樹脂しか知らない集団に、漆を知る集団の考えは判らないということだ。なぜなら漆を知る集団は既に合成樹脂が何たるかを知っているから、こちらの方が上位者なのだ。弁当箱の話もそうだ。弁当箱は食品をこぼさず詰めるものとしか考えない人は、漆の殺菌効果や天然木の吸湿性にまで考えが至らない。旧ソ連の芸術家や科学者が卓越しているのは、かの国家の恐怖政治に手足の自由を奪われた結果、まだ動く指先や脳みそに活動の可能性を見出して開拓したからだ。盲人は杖を支えに猛烈な勢いで歩行する。健常者が目をつぶっては歩けないその速さは、盲目であるがゆえに極度に開発された知覚の賜物である。視覚以外の五感において、盲人は健常者を凌駕する上位者である。

こういうとまた曲解して人間の優劣を上位か下位かで二分したがる人が出るかもしれないので、予め断っておくが、人が二人いたとして、あらゆる分野でどちらか一方がひとり勝ちするということはまずない。千万の土俵に立って、多くは負けても一つ二つくらいは勝っている分野がある。人間関係とはこの連続と連鎖でできている。だから人間は簡単に優劣がつけ難い。その二人が友人や好敵手であるなら実力は拮抗しているから、なおさら優劣の綱引きは痛み分けになる。そしてその人が普段付き合っている集団というのは、メンバーの互いの能力(知力)が概ね似通っている。逆に普段付き合わない集団にうっかり入ってしまうと、そのギャップに愕然とすることがままある。あなたが上位者であるなら、その集団は耐え難く稚拙に見えるだろうし、あなたが下位者であるなら自らを恥じ入るべきであり、憧れて然るべきなのだ。しかし最近は逆ギレして暴れる不届き者もよく見かける。こういう人は自分の何が悪いのか考えないので、どうあがいても自分を上位に引っ張りあげることは叶わず、常にイライラすることになる。なので最初は不愉快であっても、人間はこれに耐えて日々己れの向上を図る方が、最終的には心にストレスの少ない人生になるのである。人生は、改善して上位に上がった者勝ちなのである。
by hikada789 | 2012-10-18 23:21 | 算命学の仕組 | Comments(0)
漆の弁当箱の話は某TV番組で見た人もいるかもしれないが、見ていない人のために。現在20代半ばの若い漆弁当箱職人の回想によれば、幼少時に両親が用意した弁当箱は天然曲木の地味な漆塗り製品だったが、同級生は皆プラスチックのカラフルな弁当箱で、彼はそれらを羨ましいと思い、両親に言ってわざわざプラスチックの物に替えてもらった。そして心ときめかせて新しい弁当箱を開いたら、「あれ、おいしくない」。中身はいつもの内容なのに味が悪いことに彼は気付く。恐ろしいガキである。それは漆という樹液その他の成分が持つ殺菌力と、天然木の呼吸による湿度の調整作用が食品へ与えた影響の表れだった。

樹木や樹液が人間の健康に役立っていることは今日広く知られている。檜のチップは鎮静と防虫の効果が認められて室内浄化アイテムや入浴剤になってるし、有名な健康食品プロポリスは、蜜蜂が自らの分泌物と樹液をまぜて巣の幼虫室の内壁に塗り込めた天然殺菌物質が原料である。
日本の紅葉が世界でも有名なのは、植生が豊かだからだ。カナダやシベリアにも広大な樹林帯があるが、それらの秋は赤くはならず黄色である。なぜならあまりの寒冷地のため赤くなる樹木が寒冷期に死滅し、樹木の種類がそもそも少ないからだ。日本が豊富な樹木種類の中から食器の塗料に漆を選んで発達させたのには、美観以外にその樹液の効用にも着目したからである。漆は確かに使い続ければ剥げてもくるが、整形のためにどこかの国で得体の知れない物質を混入させているかもしれないプラスチックに比べて、子供の成育に安全なことは明白である。子供によいものは勿論大人にだってよい。日本人よ、日本製の伝統工芸品を日常生活で使用すべし。ちょっと高めだが手の届かない値段ではないし、耐久年数が長いから10年使えばもとはとれる。何よりまじめな職人の魂が込められている。使い捨て目的の商品を作っている投げやりな人間の手になるものよりこっちの方がいいだろう。宇宙人はとりあえず五角形の漆の箸から始めたぞ。800円だったが10年は使うつもりだから高くはないのだ。

ソルジェニーツィンが現代社会を批判して曰く「現代人は芸術を大衆に広めるために芸術のレベルを下げた。そんな必要はない。芸術は高いレベルのままで充分大衆に受け入れられるし、大衆もその素地がある。その好例が民族芸能だ。あれらはレベルは充分高いが教養のない者にも子供にも受け入れられている。」現代人は大衆を見くびっているのか、ウケを狙ってわざわざ低級なものを世に放出して満足している。それが本屋に並んだ大量の読み捨て本であったり、ネットに溢れる裏付けのない胡乱な情報であったりするのだ。その中にどれだけの真実が含まれているというのだろう。これらはプラスチックの弁当箱に入った昼飯なのだ。蒸れて雑菌が繁殖するままなのだ。劣化しているものをなぜ有難いものと宣伝して配り、もらう方も大枚はたいてもらうのだ。
ソルジェニーツィンは長年収容所で暮らし、その後は亡命生活も長かった。そんな自由の利かない環境に永らくあって、いざ自由のシャバや故郷へ帰ってみると、その文明の後退ぶりに愕然としたのである。旧ソ連のおもしろいところは、大量の政治犯を無実も含めて逮捕し矯正収容所に送ったところ、シャバより刑務所の中の方が知的人材が溢れてしまったことだ。彼らは独房に入っていたわけではなく(独房。なんて贅沢な響き)集団労働に駆り出されていたため、交流は比較的自由だったから、シャバでなら一生会えないかもしれない遠方の、或いは分野の遠い学者らと毎日肩を並べてお喋りができた。そして彼らが名誉回復されて釈放されると、いままで硬直していたシャバの思想界に斬新な発想を一挙に放出した。中には荒唐無稽なものもあり、いまだにどう評価してよいか判らない思想やら詩やら謎の書がある。しかしソ連が人類初の宇宙飛行に成功したのは、こうした収容所経験のある科学者の頭の中から湧いて出た発想に起因する。いま評価されない謎の書の中に、きっと埋もれた漆の弁当箱もあるに違いないのだ。
by hikada789 | 2012-10-16 12:12 | ロシアの衝撃 | Comments(2)
PDF製本した拙著を買ってくれた知人がわざわざ印刷して一部譲ってくれた。我が家にはプリンターがないので紙になったものは出版社への投稿用にコピー屋で一部出力したきりお目にかかっていなかったし、その時はまだ二段組みでなかった。知人は会社のプリンターでこっそり出してくれたのだが、枚数を抑えるため縮小して一枚に二頁分を収め、両面印刷の上、冊子モードを使用。この冊子モードは、両面出力した数枚をそのまま二つ折りにすると小冊子のように右から表裏、表裏とページ順にめくって読めるように印刷してくれる。最近のプリンターはこんな機能がついているのですね。一章分の分量がちょうど二つ折りに耐える厚さなので全部で13章。折るとA4紙の半分の面積になり、これまたちょうどハードカバー本のサイズになった。もちろん文字も小さくなったが、このサイズの市販書籍とほぼ同じで読みにくくはない。ふうん、こうしてパラパラ片手でめくって読むのは具合がよいのだ。ありがとうございました。改めて読み返しております。そして誤字を発見してしまいました。ああ。

気付けば土星裏ブログは300回を迎えた。例によって立上げ当初の目的を逸れ気味なのが気になるが、地球人のフリをせず言いたい放題なのでストレス解消になっているのだった。(ついでに閲覧者からも読後ストレス解消されているというお言葉が寄せられている。有難い。)しかし実は言いたくても言えないことは沢山ある。特に算命学の理論についての例題など、公開したらまずいことになる真実や仮説があり、これらは閲覧者の興味を惹くに違いないと思うのだが、危ないので別のブログを立ち上げて(「土星の裏側の裏側」とか)会員限定公開にしようかとか、新たな思考を漂わせる昨今なのだった。

穏当な話題にしよう。漆芸シンポジウムというのに行ってきた。人間国宝から文化財修復従事者まで現場の事情を熟知する、しかし喋るのはあまり得意でない匠たちのリアル話をじかに聞いて感銘を受ける宇宙人。最近は大きな本屋に行くと美術コーナーに漆工芸の作業工程をカラー写真で解説したきれいな書籍も置いてあり、漆工芸にもさまざまな手法と形態があることが窺い知れるのだが、西洋ではジャパンと呼ばれるこの漆、日本や東アジアでは一つの工芸技術として独立して認識されているのだが、西洋に紹介された時はその概念がなく、つまり漆という樹木が存在しない地域では単なる塗料、「ラッカー」としてしか認められなかった。漆とラッカーではえらい違いではないか。そこで日本の匠たちは何に苦労したかというと、西洋人に漆が単なるラッカーでないということを納得させるために10年の歳月をかけたという。
漆は漆木のどろりとした樹液が主成分だがそれだけでは工芸にならない。工程ごとにいろいろな砂状の物質を混ぜて耐久性や仕上がりに工夫を凝らす。しかし樹液も砂状混合物も自然物なので、使用頻度と日月による劣化は免れず、剥げたり歪んだりしたらその部分を除去して同じ漆と工法で塗り直し再生させる。手間はかかるが大変エコな工芸なのだ。
ところが西洋人はこれを単なる塗料だと思っていたので、海外に渡った歴史的価値のある日本の漆芸品の修復に平気で合成樹脂を使おうとした。匠は彼らに向かって青ざめて叫ぶ。「あなたたちは劣化した部分の漆を削りとって上から合成樹脂で塗り被せればいいというが、漆は自然に劣化するものなのだ。合成樹脂を塗った下の地にも漆は浸透している。その下の漆が次に劣化した時、それを修復するために上に塗った合成樹脂をきれいに剥がすことができるのかね。」西洋人は「できない」と答えた。そして漆芸品の修復は漆の作業工程を熟知した職人と漆の材料がなければできないことをようやく理解したが、そこに至るまでに10年掛かったのだ。おそろしい。この10年の間に乱暴な修復で命を失った歴史的マスターピースがあまたあったというわけだ。

これだから石造りの家に暮らす文化の人間はがさつで嫌なのだよ。木の家に住みたまえ。木材が伐られてなお呼吸しているのが判るから。有機物は人間よりずっと長く、且つ繊細に生きているのだよ。しかし今の日本の新築家屋は無機質でぴかぴかした高層マンションが多いから、天然物で再生させようという発想が人間の頭から出なくなってきているようだ。奇しくもシンポジウムの数日後に日本の漆塗りの弁当箱がフランスで注目されているという記事を見た。日本の伝統工芸品に価値を見出してくれるのは有難いが、彼らが見ているところは外観とファッション性だけだ。漆の食器の本当の価値はその殺菌力にあるというのに、彼らは勿論気付いていない。日本の若いお母さんたちも、子供の弁当の彩りやデザインにばかり頭を悩ませているようだが、プラスチックの弁当箱より天然木の漆塗り製の方が食品は傷まないし湿気も適度に吸ってくれるんだよ。どいつもこいつも格好ばかり気にしやがって。
というわけで第300回の主張は、天然製品と本質へのこだわりのススメでした。
by hikada789 | 2012-10-14 20:16 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
ペルシャ語は言語的にはインド・ヨーロッパ語族に入り文法や数字の数え方などに欧州言語との共通点が多い。とはいえ文化的には隣接するトルコ(ウラル・アルタイ語族)やアラブ(セム・ハム語族)と密接な関係にあるため、他の印欧語族には見られない共通点をこれら周辺文化圏と共有している。例えばヨーロッパ言語は主にSVO式の文法で動詞の後に目的語が来る文体が多いが、ペルシャ語は日本語(ウラル・アルタイ語族)のように目的語を先に言ってから最後に動詞を置く。否定文も動詞を最後まで聞かないと判らないタイプなので、日本人には比較的喋り易い言語といえる。とはいえ関係代名詞はあるので、目的語が長い場合は動詞を先行させてその後にたらたらと繋げ、日本語の語順にぴったりというわけにはいかない。

現代のペルシャ、イランはかれこれ30年以上もイスラム共和国をやって、女性はヴェールをかぶれだの、離婚時は結婚の契約書に予め書いておいた慰謝料を夫からがっぽり取れだの、厳格なんだかリベラルなんだか判らないルールの国だが、この国の長い歴史には様々な流行りすたれがあった。以前紹介したと思うが中世の教訓書『カーヴースの書』では王が息子に向かって垂れる教訓に「イスラムで飲酒は罪だが付き合いで断りきれない場合もある。どうせ飲むならよい酒を飲め」と理解ある見解を示しているような時代もあった。
拙著が描出している中世ペルシャの風習に便宜上「恥じらい帯」と名付けた服飾文化があるが、これは史実である。ある時代のペルシャではグラマラスな体型の女性は下品だとされ、女性たちは美を競ってサラシ状の布で胸をぐるぐる巻き、薄い胸を強調した。一時的な流行だったので、他の時代では肥えた女性を描いた美人画が見られたりして価値観は一様でないのだが、一種東洋的な慎ましさの表れと言えなくもない。著者の創作ではないのでお断りまで。

ペルシャの慎ましい話は他にもある。いつの時代のものだったか忘れてしまったが、現地の人なら誰でも知っているような有名な古典文学に、ある王様の臨終話が描かれている。その王様は名君で、誰に対しても公正だったので皆から尊敬されていた。臨終の際もその膨大な遺産を妻たちや子供たち、臣下らに公平に分けたので、誰も文句を言う者はなかった。さてひと通り遺産の分配が済むと、最後にこまごました所持品が残った。細かいといっても王様の持ち物なのでどれも高価な品ばかりだ。周囲はこれを王様が最後に誰にあげるのかなーと見守っていたが、王様はある身近に仕えた奴隷に全部与えてしまった。その時初めて皆は気付いた。「王様はあの奴隷が好きだったんだ。ぜんぜん気付かなかったよ」。つまりこれこそが王者たる者の正しい恋愛の仕方なのだった。なんと奥ゆかしい。ちなみにこの奴隷は男性である。この時代の同性愛はおとがめなしだが、現代イランでは決定的瞬間の現行犯逮捕で死刑になる。いやはや色々な時代の流行があったものである。
by hikada789 | 2012-10-11 12:43 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
『ロシア語翻訳者列伝』によれば、開国した日本が使節や留学生を派遣した行き先は主に米英仏独で、当時まだ帝政のロシアにも派遣しているもののやはり技術力の点で劣った国と認識され、ロシア語の習得は英仏独語に比べて主流にならなかった。ゆえに当初のロシア文学の翻訳は英語やドイツ語からの重訳なのだが、当時の文人の記述によれば「ロシア語はドイツ語への翻訳の方がまだ近く、英語を経由した翻訳は文法上誤訳が生じやすい」としている。
私も同感だ。ロシア語履修者の感覚では、英語は平坦すぎるのだ。英語は性もなければ格もなく、ロシア語で明らかに女性格な形容詞も英語では性別のない形容詞に変わるため、英語からの重訳だと指示しているものが識別できなくなる場合が多い。私もロシア映画のシナリオ翻訳チェックをしたことがあるが、現代でもまだ英語からの重訳が主流とみえて、渡された日本語の草稿では形容詞が示している対象が間違っている場合が多い。ロシア語の原文を見れば文法規定から何を(誰を)指しているかひと目で判るのだが、英語を咬ませると選択肢が一挙に拡大して特定できなくなる。

判り易い例を挙げると、トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』は「カレーニンという男の妻であるアンナ」を示しており、アンナのナとカレーニナのナが共に女性主格の文法規制を受けている(同時に脚韻も踏むのがロシア語の特徴だ)。しかし明治初期に日本で紹介された同著は様々に翻訳されて書名さえ統一されず、『アンヌ・カレニン』とか明らかに英語か何かを通して女だか男だかわからない訳語に変わっているのが笑えるのだ。(英語版はもしかして本文中「ミセス・カレーニン」で通しているのかな。)ロシア革命以降アメリカなどに亡命したロシア人は、そのまま移民になると一家の苗字を統一するためにお父さんの苗字で住民登録した。モニカ・ルウィンスキーみたいに女性なのに男性格の苗字を持つ移民はその名残だ。ロシア語履修者はまるでオカマみたいな印象を受けるのだが、ロシア人がどう思っているのか聞いたことはない。

なおロシア語の名前にはもう一つ、オーチェストヴァという特異なものがある。「父称」と訳されるが、父親の名前をとってミドルネームの位置につけるもので、男性はなんとかヴィチ、女性はなんとかヴナとつく。父親がイワンである男性アレクセイは「アレクセイ・イワーノヴィチ」となり、彼の男兄弟は全員イワーノヴィチの父称を持つ。女兄弟なら全員イワーノヴナとなる。こういうシステムがあると当然父親の判らない私生児などは軽蔑の対象となるので、その場合母親はとりあえず自分の父親か誰か適当な名前を我が子の父称につけて凌ぐ。ロシア正教の聖人の名前をつける習慣のある国なので名前のレパートリーが少ないのがこういう場合助けになる。ちなみに父親が外国人だと無理やりなんとかヴィチとつけることになり、日本人の父ならイチローヴィチとかマサヨシヴナになる。もちろん発音しにくいが身分証は父称の欄をこう埋めねばならない。
この父称、何に使うかといえば敬語である。アレクセイといきなり呼び捨てにするのは日本人がいきなり下の名前を呼ばれるのと同じくらい粗暴な行為であり(そうなんだよ、英語よ)、初対面や目上の人には父称をつけてセルゲイ・イワーノヴィチとかナターリア・ワシーリエヴナとか呼ぶのが礼儀だ。苗字はあまり使わない。しかし名前+父称は長たらしいので、どうしても省略したい場合は名前をカットして父称だけで呼ぶ。これが小説の台詞に単独で出てくると、慣れない読者が戸惑う原因となる。
またソ連時代は階級破壊のため「タヴァーリッシ(同志)」を「さん」代わりに苗字の前に付けて呼んでいたが、いまこれを使う人は勿論いない。外国人で父称がない相手を呼ぶ時は「さん」に相当する「ガスパジン」(女性は「ガスパジャー」)を使う。もちろん親しければ「さん」も父称も省いて名前の、呼び捨てではなく愛称形になる。おなじみのサーシャとかナターシャとかですね。

さて基礎知識が頭に入ったところで自作小説の解説だ。『メタフォーラ・ファンタジア』を読んだ方、彼らの会話がちょっとおかしな日本語だと気付きましたか?そう、彼らは概ねロシア語でしゃべっており、著者はそれを日本語訳に直して書いたのです。リアリティを追求してね。また脇役にインナ・ミハイロヴナという母親が出てきますが、この人は名前からしてロシア移民という設定が判るようになっている上、周囲が敬意を払ってそう呼んでいるという現場の雰囲気を醸しております。勿論著者も敬意を表しております。彼女はロシア婦人の典型で、日本ではちょっと見ない美しい人類の類型なのだ。なお彼女の息子シャミールは一度だけ「シャミール・ナーデロヴィチ」と父称付きで呼ばれるシーンがありますが、これはロシア人マクシムが謝罪の仲介に入った関係で改まって呼んだというニュアンスで、ここからシャミールの父親はナーデルというペルシャ系の名前であることが判る仕組みになってます。
本筋とは関係ありませんが、このように深読みしてはじっこを味わえる作品なんです。イカの燻製のように良く噛んで堪能下さい。
by hikada789 | 2012-10-08 21:20 | ロシアの衝撃 | Comments(0)