人気ブログランキング |
ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2012年 12月 ( 15 )   > この月の画像一覧

前回は算命学理論の類推性についてお話しました。「鬼神を語らず」と孔子が明言を避けたあの世の存在について、ほぼ同時代の算命学の確立者が死後の世界を類推から定義付けしているところは興味深いです。死後でありながら「入墓」という発想は家系を重んじたいかにも中国らしい価値基準ですが、この天庫星は死後にも拘わらず霊星にはカウントされず、エネルギーは病人の天胡星より上なのです。こうした変則性が算命学の特徴なので、算命学は陰占と陽占はそれこそツールへの入力で簡単に算出できるとはいえ、そのチャートが何を意味しているかの読込みにはかなりの熟練が必要なのです。しかし基本は陰陽五行でできているので、すべてはそこを起点に派生した類推で組み立てることができます。つまり鑑定者の技量は類推力に掛かっているわけです。

内田樹の対談本を読み漁っていたらロシア語関係の鈴木晶という人が「性格の悪い人は頭が悪い人だ」という表現をしていました。ここでいう「頭が悪い」というのは突き詰めると「想像力がない」ということで、自分の言動により相手がどういう反応を起こすかその想像力が乏しい奴ほど相手にとって不快な言動を繰り返すので、結果として性格の悪い奴だとの評価が下されることになるという。
なるほど、なかなか気持ちのいいことを言ってくれる、と宇宙人は膝を打つのであるが、中には相手が不快になると判っていても本当の事を言わねばならない時もあるぞと経験を思い起こしている読者もいるだろう。そう、そういう事態はままあるのだが、実は本当の事というのは相手を傷つけるものではないというのが私の持論である。譬えるなら治療のようなもので、傷口に触られると痛いのだが、治療のためにやっているのだからしばらく我慢すれば完治へ向かうのだ。逆に治療しないと病状はどんどん悪化する。

宇宙人は運勢鑑定の現場から対人マナーまで一貫して辛口なので、痛い思いをした人は本人が思っている以上にいるかもしれない。しかし宇宙人は悪意を以って言葉を投げつけることはないし、そんなことをすれば後で自己嫌悪でウジウジ悩むことが判っているから始めからしないようにしている。精神がまともで成熟した大人であるなら、悪意のこもった言動を発することで自分の方が不快になって損をすることが判っているので、結果的に批判や攻撃的な行為は普遍的な意味での正義にもとっている、人間とはそのように出来ているというのが宇宙人の性善説である。
逆にまともでない人間は同様の行為で自分が損をすることが自覚できていない、つまりそのように想像する力が欠けた「頭の悪い」人間であり、更に救いがないと真実を突いていない言葉で相手を不快にさせたことを勝利と勘違いして快感を覚えてしまう。私はこの種の人間の存在を否定しないので、これが宇宙人の認める性悪説である。

人間はすべからく陰陽の両面を備えた存在であるので、状況によって善が出たり悪が出たりして人間関係の押しくら饅頭をしている。内在する悪を消滅させることはできないがせめて善の方が多い人生にしたいと思うならば、まずは真実を突いた言葉を吐くことを心掛けるべきです。そのためには真実を見極める目、判断力、洞察力が必要です。つまり頭が良くならなければなりません。ツイッターやメールでどうでもいい言葉を吐き散らす習慣はいただけません。どこかの俳優や芸人やスポーツ選手が使ったセリフを真似るのも、あなた自身の言葉でないのだからあなたが使えばニセモノになります。どうせ吐くなら心から出た実のある言葉を。

歳の瀬に説教臭い話になってしまい恐縮ですが、宇宙人は性善説なのか性悪説なのかとの質問に対し、考察してみました。算命学は善悪は問わないので、善悪を陰陽に置き換えるならこの世の善悪は5対5だということになろう。しかし宇宙人は鑑定では算命学を使うが、その思想に首まで浸かっているわけではないので、その他の思想や経験から、人間はよほど意志の強い人でない限り環境に染められてしまう、善にも悪にも簡単に流される生き物である、だから善寄りになりたいなら真実を尊ぶ環境に、悪に寄りたいならニセモノが横行する環境に暮らせば、概ねそのような結果に納まると考えている。
しかし注意したいのは、本人がその自覚をもってその環境にいること、そして自分の属していない対岸にある真逆の世界の存在から目を逸らさないこと、この2つを念頭に置いて忘れないことが重要です。悪に寄りたい人などいるわけないと思われるかもしれないが、私の願望とは裏腹に算命学の理論は、「悪の世界でないと活躍できない人がいる」と語っております(俗にいう「忌神帝王」)。悔しいが、この理論の正しさは人類の歴史が証明しているようです。

ともあれ声は小さくとも真実を、或いは真実に迫ろうと努力している言葉を連ねてきたつもりの一年ももうすぐ暮れます。皆さんはどんな反省をしているでしょうか。来年は癸巳年ですが年明けは1日1日ではなく2月初旬なので、2013年大予想はもうしばらくしてから掲載します。皆さんが良い年を迎えられますように。
by hikada789 | 2012-12-31 00:17 | 算命学の仕組 | Comments(0)
お馴染みの西洋12星座占いでは、牡羊座から始まって魚座で終わるこの順番が人間の成長過程も表しているそうだ。牡羊座が一番若くて落ち着きがなく、魚座に向かうに従って老成するという。牡羊座で心当たりがある方もない方もご心配なく。我々が一般に「私は〇座」といっているのは太陽星座のことであり、専門家によれば太陽星座の他に月星座や金星星座など複数あって、これらの組合せで占うから太陽星座だけで人格を判断するのではないそうだ。
ともあれ宇宙人が洋の東西で似ているなと思うのが、算命学の陽占で使う十二大従星も同様に人間の誕生から成長を表現しているところだ。算命学は精神世界を司る「あの世」の存在を認め、この世で肉体が朽ちたあと魂はあの世へ行き、やがて再び肉体を得てこの世に戻るという循環思想でできている。そしてその一巡を12で割って人格や性質を測る目安にしている。
当ブログの読者は算命学に関心のある人が多いので既によく知っている方もいるでしょうが、鑑定師が十二大従星からその人の性質を見る場合、単純に「成熟しているかいないか」ではなくその星の特徴から「類推」して判断していることは理解してほしい。以下に従星の成長段階とその「類推」される特徴を簡単に挙げます。

1.天報星(胎児):まだ生まれてないので能力が未知数。多才。
2.天印星(赤子):歩けないので受け身が基本。無邪気で人気がある。
3.天貴星(児童):自意識が確立し、自尊心や責任感を備える。
4.天恍星(少年):若々しく、繊細で感傷的。華やかなビジュアルに弱い。
5.天南性(青年):行動力があり個性が強い。旧制度に対し批判的。
6.天禄星(壮年):力と冷静さを備える大人。リアリストで用心深い。
7.天将星(家長):集団のリーダーであり器が大きい。気位が高い。
8.天堂星(老人):第一線を退いた指南役。温和で説得力がある。
9.天胡星(病人):肉体が衰える反面、精神が冴える。感性が鋭い。
10.天極星(死人):肉体から離れて魂が自由に遊ぶ。想像力が豊かだが現実に弱い。
11.天庫星(入墓):墓に入って家系を守る。筋を通し、目的が明確。
12.天馳星(あの世):無の世界。常識や人情にとらわれず冷静。

なので天印星だから幼稚だとか、天極星が死を表しているから不吉だとかいう判断は間違いです。あくまでその星の性質を吟味・類推して判断するのが正しく、人体図には三種類の従星が出るので、その組合せや天中殺の有無も鑑定結果に大きく影響します。また類推も一様ではなく、例えば天堂星(老人)を初年期に持つ人は子供時代であっても「じじむさい子供」に見えることがありますが、「あの世」である天馳星が2つ以上あると財運が上がるとか、なぜそうなるのか判りにくい類推もあるので、単純にこうだと決めつけることは危険です。
ネットでは誕生日を入力すれば簡単に自分の人体図を出せるツールもあるので、自分がどの星を持っているかは容易に判るのですが、それをどう解釈するかは専門家の技術を頼った方がよいでしょう。
by hikada789 | 2012-12-28 18:20 | 算命学の仕組 | Comments(0)
グラビアアイドル話なんか始めたから驚いた閲覧者もいたようなので(検索キーワードランキングが壇蜜でいっぱいだ)、通常の話題に。つまり現代社会は子供が早く成熟した大人になるよう促さない方向へ進んできた、というより大人が成熟した大人であることを拒んでいる世相なのだ。その中でも醜悪なのが法律だ。いまの法律では「まともな精神状態でない」と見做された被告は減刑される。精神疾患者や薬の副作用、気を失う類の持病を持つなどは、車を運転して事故を起こしても素面の人間が同様の事故を起こす場合より刑が軽くなる。殺人事件であってもそうだ。精神がまともでない方がまともな人間より有利であることを法律が認めていると、その社会では健全で成熟した精神を保持することが良いことだと見做されず、結果的に精神の未熟な人間が世の中に増殖する方向へ流れていく。

日本はまだ程度が軽微で済んでいるが、アメリカのように裁判が日常化した社会では、自分の馬鹿さ加減を大声でアピールして、自分の馬鹿さ加減を考慮に入れずに作った商品に文句をつけて生産者に勝訴するような判例が続出している。(よくある、シャンプーしたペットを電子レンジに入れて乾かそうとして死んだのを、レンジメーカーのせいにして飼い主が賠償を求めるという類。実にいろいろ勝訴している。)
日本ではありえないと一笑するこうした判決も、常態化して世界のスタンダードになる日は迫っているかもしれない。なぜこうした判決が許されるのか、その根底にある原因を直視して対処しないと、法律の条文にばかり目をやっている間に分別が流されてしまう。気付いた時はそれが常識になっていて、もとの位置に戻ることが困難な事態となっているのだ。法律は大多数の真っ当な人間の生活の便宜のためにある規律なのに、少数の真っ当でない人間の便宜のために働いてしまっている。これは悪法であり、又は法を司る側の機能不全である。

犯行時にまともな精神状態でなかった加害者が無罪になるのを、私は潔しとしない。犯罪の行為に対して処罰するべきであり、動機という人の心の問題はどのみち裁判官にも精神分析医にも判らないのだから(何千年前から判らないと、人類の文化は自ら語っている。被告が反省しているかいないか本人以外の誰に判るというのだろう)、客観的事実だけに焦点を合わせて判断すべきだ。そして、なにより被害者が浮かばれない。
算命学は、加害の事実がしばらく隠蔽されることはあっても消えてなくなることはないと明言する。事実は動かぬ事実として残り、春に雪が解けて地面が現れるように真実はいずれ露呈する。同時に、償われない罪というものは怨恨を残す。怨恨の消化は六代以内だ。法律が裁かなくても本人が罰を逃れても、その子孫が何らかの形でツケを払う。法律が不当な判断を下したならばその不当な差額を、当事者と判決を下した人員に支払うよう、六代のうちに運命が追ってくる。
人ひとり殺してみれば、その代価は膨大だ。ここで人の命は貴いといった道徳を語るつもりはない。人間が一人、仮に50年生きるとしてその間に消費する食糧、空気、その他有機物だけでも恐ろしい量で、それを他人が背負うという重さを考えてみるだけでもえらい事である。だから仮に殺された人が将来稼ぐ予定だった賠償金を求めるというのは、遺族救済策としてはありだが、本当の意味での帳尻は合っていないし、永遠に人間はこの帳尻を意図的に合わせることはできない。ありがたいことに自然が六代のうちに合わせてくれるというのが算命学の理論である。皆さんは現在の法律や判決と、数千年前に成立した算命学の理論と、どちらが理に適っていそうだと感じますか。

昨今の日本は訴訟を恐れる大人が子供を叱らなかったり、やってもいない痴漢を認めて安い示談金で解決するという事態が常態化しつつあり、卑近な例としては女性のてんこ盛りメイクやアンチエイジングへの異常な執着から、クリスマスプレゼントの質屋流出(日本では20%、フランスでは50%だそうですよ)、食品を大量に輸入している日本が大量の食品をゴミとして捨てている矛盾まで、世の中おかしいぞと思える事態が横行しているが、ぼちぼちこれではいかんと揺り戻しの時期が来ているのかもしれない、というのが前回言いたかったことです。アイドルの話はわき役です。
by hikada789 | 2012-12-27 21:01 | 算命学の仕組 | Comments(0)
マニア向けセクシータレントである壇蜜の顔がなぜ綺麗に見えるかというと、つけまつ毛無しの自前の目が原因のようだ。宇宙人は幼少時に患った眼病のせいで目にバイ菌が入ることを今も恐れており、一般的なアイメイクも不衛生と見做し、まつ毛にタールを塗りたくる人も人工物をくっつける人も気が知れないのである。コンタクトレンズを入れたまま寝るなどキチガイ沙汰としか思えない。そんなアンチ当代メイクの宇宙人が認める美人など今日めぐり会うこと自体困難なのだが、壇蜜はいいな。髪も染めてないし、ナチュラルビューティーである。あんなキャラと仕事内容なのにさほど下品な印象を受けない稀有な女性である。おそらく本人が素でやっており、人気取りのために無理に演出した作り物キャラでない、虚栄やニセモノ感のなさが好感度を上げているのだろう。背伸びなしの等身大で美しいとは羨ましいですね。

昔、マリリン・モンローがセクシーだけが取柄の頭の悪い女という役柄から脱却しようと、彼女本来の姿である知的な女性の役柄を求めたところ、男たちの需要に合わないとして興行主に却下され、本来持っていた知性を発揮できない役を演じ続けるストレスで早逝するという痛ましい事件があったが、私は現代の女優やモデルが同じ理由の過剰メイクで眼病になり、美貌を失った後は用済みとして廃棄される哀れな末路を想像して、どうやったらモンローが本来の内的性質(しかも非難されるような種類ではない、むしろ褒められるべき)をそのまま出しても受け入れられるような世の中になるのかと、暗澹たる気持ちで世間を眺めてきたが、壇蜜はその突破口になるかもしれない。
彼女の装飾性の無い美貌が世間のトレンドになれば、若い娘たちも自前のまつ毛と肌で勝負するのを是とするようになり、バイ菌を目に塗りたくる行為は野蛮とされて消えるだろう。ただし彼女のキャラまでトレンドになるとまた別の問題が生じるかもしれないが、とりあえず原型を留めないほど過剰なニセモノメイクが衰退してくれれば良としよう。今までも清潔感を売りにする女優はいたが、やはりビジネスのために作られた人工キャラ感が否めなかった。壇蜜は違うように見える。

世の中全体も、徐々にニセモノ・フェアから脱する兆しが見えてきたように思う。算命学の理論にもあるように、トレンドはいつまでも停滞せず、いずれ次のトレンドへと移行していく。先日J-POPの歴史を考察する話を聞いていたら、奇しくも歌謡曲の世界でも同様の現象を思わせる状況になってきているようだ。
解説によるとAKB48の歌は「桜」のモチーフが多いという。それは卒業や別れ、出会いなど学校時代の清潔な抒情を表現するのにふさわしいアイテムだからではあるが、実はこの桜、歌謡曲では長年使われてこなかったという意外な歴史を持つ。それは戦後の日本人が桜というと特攻隊を連想してしまい、暗い時代と悲哀の象徴として歌に盛り込むのを避けてきたからだ。
今や戦争を知らない世代がほとんどとなり、桜の使用も躊躇がなくなった。しかしまだバブルの頃は物質的豊かさを求める国民がガツガツしていたので、AKBのプロデューサーであり作詞家でもある秋元康は当時はおニャン子クラブを作って『セーラー服を脱がさないで』などのばかばかしい歌を娘たちに歌わせ、ウケていた。その後バブルは崩壊し、物質より心の豊かさを云々する世相を反映して、秋元氏は儚い桜を使った清潔感あふれる少女たちの抒情歌を売り出し、これが今日のAKBヒットを支えているという。

ふうん。言われてみればそうかもね。宇宙人はAKB48と聞いてカラシニコフ銃(AK47)を思い浮かべるくらいの芸能界音痴でAKBのメンバーの一人も知らないのだが、確かにおニャン子の頃の歌よりは若干品がよくなったと思えなくもない。低俗やおバカやニセモノはもはや底を打ち、今後はトレンドでなくなる。上昇して本物を目指す世の中が来るというなら喜ばしいではないか。ついでに幼稚性をもてはやすトレンドも後退してくれればなおいい。幼稚性は知性の対極にあるので、子供が早く成熟した大人になることを奨励するトレンドが広まって、モンローの恨みを晴らす時代が来ればよいのだが。
by hikada789 | 2012-12-25 21:43 | その他 | Comments(0)
ベルギーのブリュッセルで世界遺産にもなっている歴史的建造物エリアに毎年恒例で飾られる巨大クリスマスツリーが、今年に限ってナマ木ではなくLEDライト仕掛けの現代アートのツリーにしたところ、市民から「景観を壊している」「元の木のツリーに戻せ」と非難囂々だそうだ。映像を見る限り、宇宙人の目には景観を壊すどころかモーレツにダサいマスゲームみたいなパネル・ツリーで、言われないとツリーに見えない子供だましのようなお粗末さ。アジアの諸国家の歴史の長さに比べればお粗末と言えなくもない欧州の歴史ではあるが、その歴史が築いた伝統を愛する市民がこうした不作法な展示物にはっきり抗議するのはなかなか気持ちがいいものだ。
パネル・ツリーの作者はフランスのアーティストだそうだが、隣国とはいえ外国の、つまりその国の事情・心情に疎い人間が企画したこんな巨大な作品を世界遺産のど真ん中に設置するなんて、何か特別な事情(大抵はカネ)でもあっての暴挙だろうか。市の担当者は「現代アートとのコラボ」を目指して観光客誘致を狙ったようだが、当ては見事に外れ、通常新年まで設置したままのツリーを今年に限って前倒しの年内撤去にするという。表向きの理由は安全上の問題。本当の理由はもちろん不評だからだ。おやつといえばケーキではなくクラシックな煎餅や焼き芋を選ぶ宇宙人は、電気や無機物でつくる現代アートに批判的なので、樹木ツリーへの愛着を示す人々にエールを送りたい。

とはいえ。そのツリーの設置された広場はレンガ造りのおしゃれなファサードを頂いた古い建築物が並ぶ、ヨーロッパにはよくあるタイプの旧市街で、はっきり言えばここにだってもとは樹木などない。樹木を代表とする自然を人間世界から遠ざけてきた西洋式の町に街路樹という発想が生まれるのはもっと近代になってからだ。この時代は建物でさえ木造ではなくレンガや石造りが高級とされ、三匹の子ブタの寓話にあるようにレンガでない家は怠け者の悪い家なのだ。クリスマスツリーにしたところで多くは季節行事のみの使用で、撤去された後はどこかにわざわざ植え替えて生き続けているとも思えない。使い捨ての木である。しかしそんな死木にさえ愛情を感じるというレンガの国の人々は、心のどの辺で虐げてきた自然と繋がっているのだろう。

例のグリム童話講座によれば、有名なシンデレラの物語は原話では魔法使いもかぼちゃの馬車も出てこない。出てくるのは庭に植えた木とそこに集まる小鳥たちで、継母にいじめられたシンデレラは亡き実母を慕って庭で悲しみを訴えると、木と小鳥たちだけがそれを聞いており、助けようと様々に活躍する。舞踏会に行きたくてもドレスのないシンデレラにどこかからドレスと靴を持ってきてくれたのは小鳥たちだった(盗んだのかも)。解説によれば原話の時代のドイツではまだ人と自然が混じり合って暮らしていたため、こうした動植物の擬人化は違和感なく受け入れられていたが、やがてキリスト教が広まると、こうした土着の信仰を敵視するあまり昔話からも自然の要素を排除する作業が進んだという。
現在よく知られているシンデレラはグリムより後のペロー童話のもので、そこでは既に木と小鳥は排除され、代わりに魔法使いや妖精といった姿形も人間に近い人格が現れて同じ役を果たすようになった。人間至上主義がここにも垣間見れるわけである。そういえば私も子供の頃に読んだ西洋の童話絵本では、擬人化した樹木が妖怪のように悪役然として描かれていて、主人公たちと幼い読者を怖がらせる役割を担わされていた。キリスト教は地方によっては土着の神々を吸収したが、それは日本における融和的な神仏習合とは違い、明らかに土着神を貶める方法で、いわば悪役としてのみ存続を許した暗い経歴を、昔話は今に伝えているのである。

奇しくもペロー童話はフランスのもので、不評なパネル・ツリーの作者の出身地なのだった。ベルギーは地理的にも言語的にもフランスとドイツの中間に位置している。宇宙人は昔ベルギー人と付合いがあったが、ベルギーという国は南北で文化が異なり、南はフランス語圏、北はオランダ語圏のバイリンガル国家だ。その知人は南の人間で、話しているうちに南ベルギー人は北ベルギー人(フランドル人)を馬鹿にして生きているのが判り、相手に敬意を払えなくなって交友をやめたのだった。
なおシンデレラはこうした原話ゆえにガラスの靴というアイテムも後世の作り替えで(講師は「ガラスの靴なんかでダンスは踊れませんよねえ」とばっさり)、原話で小鳥たちがえっほえっほと運んできた靴は毛皮靴だったそうだ。講座は虐げられた自然信仰が残した獣の皮というアイテムがグリム童話から古代を探るヒントになると続くが、詳しく知りたい人はお調べ下さい。

また小鳥たちが運べたのはドレスと靴までで、化粧品までは手が回らなかった。しかしシンデレラは心が清らかなのですっぴんでも充分美しく、舞踏会で注目を集めることができたという。こういうところも声を大にしてアピールしてほしいですね。ペロー版では魔法使いが何から何まで世話してくれたので多分化粧もしてくれたのだろうが、ディズニーのアニメに至るとあまりの厚化粧に子供時代の宇宙人はなんてケバイ女だろう、まるで商売女ではないか、どうしてこれが美しいヒロインとされるのだろうと疑問に思うことしばしばだった。皆さんは疑問や嫌悪を覚えませんでしたか。
先日たまたまTVで芸能人のすっぴん公開番組をやっていたが、すっぴん公開を許可したタレントは30代、40代の女性たちで、この年になると羞恥心が減退するためとも思えなくもなかったが、主たる理由はすっぴんに自信があるからだった。逆に20代の若いタレントの方が厚化粧に慣れすぎて、すっぴん公開を拒否するのだった。きっとブサイクに違いない。ちなみにすっぴん公開をOKしたのは武田久美子44歳と壇蜜32歳。化粧を落としても大して変わらないシンデレラ型美女でした。
by hikada789 | 2012-12-23 23:43 | その他 | Comments(0)
今日はマヤ暦最後の日ですね。あと数時間で終わりますが、どうなりますか。算命学による山水画を出してみましょう。
2012年12月21日の山水画
  丙 壬 壬
  辰 子 辰
真冬の大海は太陽に照らされ、後景は雄々しい山岳が雪をたたえて聳える。
【解釈】
全て陽干支でできた勇ましい日です。天干は海が二つに太陽が一つ。判り易い対比構造で、冬の季節につき太陽の力が弱いですが、地支の辰が左右から水を剋すので、うまくバランスがとれてます。この並びだと陽占は、精神ラインに並んだ名誉星が左右から寿命星に押される形となり、結果として生命や繁殖にこだわる現実主義が名を惜しむ精神主義に勝るという構図です。世界各地で世界が滅亡しても自分だけは助かりたい人たちが滑稽な行動に出て失笑されてますが、この日は人をそういう気分にさせる傾向が強いと、山水画は語っているようです。

宇宙人は今日何をしたかというと、宝くじを買った。今日は年末ジャンボの最終日で、温かい食卓の正月は保証されたがその先は心もとない宇宙人は、紙切れに一縷の望みをたくすのだ。宇宙人は水生まれなので、丙日の本日は財運に影響がある。こういう算命学の利用法はありか?ありですが、当選するとは限りません。あくまでゲン担ぎです。よい子の皆さんは真似しないように。

それよりもお勧めなのが、いま駒込の東洋文庫ミュージアムで開催している「もっと北の国から 北方アジア探検史」というロシア関連の展示会。明治以前の蝦夷地からシベリア・大ロシアにかかる地域を日本や西洋がどう伝えてきたか、探検記など貴重な資料を公開しています。開館一周年という建物はとてもモダンで、内部のレイアウトも古い西洋の書棚風にしたり、錯視効果のあるちょっと怖い気分になる通路があったりと、硬派の文書館としてはアトラクション効果が凝っている。
また貴重な文献は普通、一般人には触らせてもらえずガラスケースに入った状態の見開きページしか拝めないのが常だったが、こちらではデータ撮影した毎ページを画面でスマホ感覚でページ送りできるように処理していて、好きなページを拡大して眺められるのだ。といってもビジュアル性のある2文献に限られていたが、平日だったので入館者も少なく、宇宙人は大黒屋光大夫の挿絵つき漂流記を心ゆくまで眺めたのであった。
今回の展示は2013年3月10日まで。お向かいは六義園で、入館料880円に100円足せば六義園との共通入場券が買える。六義園はしだれ桜が有名だから、桜の季節に足を運ぶのも優雅ですね。館内にはオシャレなカフェもあったが、お値段はやや高め。
東洋文庫はイスラム史専攻だった宇宙人が学生時代から現在までしばしばお世話になっている硬派なイスラム関連図書を出しているので名前は知っていたが、こんなに羽振りがいいとは思わなかった。館内案内によると創立者は三菱財閥の三代目で、収蔵品は彼が戦前に膨大な私財を投じてコレクションしたものだという。こういう文化事業をやってくれるなら財閥があってもいいような気がするのだが、最近のお金持ちはこの種の収集趣味はお持ちでないのが残念である。
by hikada789 | 2012-12-21 19:04 | 算命学の仕組 | Comments(0)
  われ好む、法螺を交えて睦語り合う
  ワイングラスを酌み交わし合う、
  その時いかなる名で呼ばれるや、
  狼と犬との狭間の頃よ
サーシャ・ソコロフの『犬と狼のはざまで』はプーシキンのこの謎めいた詩で始まる。今年和訳が出版されたばかりだが、原作は1980年上梓、つまりソ連末期の作品である。『慈しみの女神たち』以来たまにはヘビー級の現代小説でも読むかと手にしたところ、いやもうとんでもない難解小説であった。
まず段落というものがない。数年前にマニアの間でブレイクしたドストエフスキーの人生を扱った不思議小説『バーデンバーデンの夏』も段落がいくらもなくて、句読点も少なく、主語があっちへフラフラ、こっちへフラフラして船酔いを促す作風だったが、年代的にもしかしたらソコロフのパクリなのかもしれない。あまりに話が見えないので訳者が自らまえがきを用意し小説の構成とあら筋を解説してくれている。普通、読者はこういう余計なお世話を忌避するものだが、この作品に限っては有難く、しかしせっかくの解説にも拘わらずやっぱり話が見えないのであった。

当時書き上げたばかりのこの作品を作家の知人に読ませたところ、3回読んでやっと意味が摑めてきたと解説にある。難解さの原因は主語のフラつきの他にも、詩人という設定の語り手が方言まじりで落語調に語る口語表現や、プーシキンなどロシアの有名な詩や格言の引用・メタファーの頻出、作中詩人の詩作の掲載という言語的制限などがまずロシア人読者に高度の読解を強いるのに、外国語に訳すとなるともうどこから手をつけていいのかわからず、最初に翻訳を試みた英語翻訳者は匙を投げたそうだ。もちろん今回和訳に挑んだ日本人翻訳者も同じ困難に挑み、その苦肉の翻訳過程を注釈に付したりしていかに原文が難解であるか、複数の意味を暗示しているかを丁寧に解説することで、その訳出した日本文のまずさが翻訳者の技量のせいではなく原文のせいであることを訴えている。いや、ご苦労様でした。あなたの訳が悪いわけではないことは良く判ります。

ストーリーもあるのやらないのやらのこの作品、それこそメタファーに使われている古典詩や民謡を知っていないとただの単語の羅列として何も汲み取れない仕組みで、それでも一読すると不気味な読後感が味わえます。一般的な小説を読みたい人には苦行になるのでお勧めできませんが、新しい(とはいえ1980年の作品です)スタイルを試したい人は是非。なによりメタファーを折り込んで仕立てた小説として拙著『メタフォーラ』と比べてあまりにレベルが高く、もう参りましたと投了するしかないのでした。
by hikada789 | 2012-12-19 19:56 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
陽占の話題です。算命学で人体図を出すと十二大従星が誰でも3つ出ますが、エネルギーの強弱で身強と身中と身弱に三分します。流派によってはもっと細かく分割する所もあるようですが、ここでは身強と身弱の話をします。
誤解されがちなのが、身強は身弱より「性格が強い」とか「運が強い」とかいう考え方ですが、これは間違いです。身強論は運勢上のエネルギーの強弱を測るもので、性格や運の良し悪しとは関係ありません。「身強はエネルギーが強い」。以上です。そして身中や身弱の宿命であっても、格法や局法に該当した場合、身強扱い、つまりエネルギー強と見做されることがしばしばです。更に後天運で一時的に身強になったり身弱になったりもするので、その度に人間の性格がコロコロ変わるはずもなく、性格や対人関係など目に見える形で反映されることはありません。時々、身弱の人が身強の人を怖いと思うという意見がありますが、まったくの錯覚です。原因は身強だからではありません。怖い印象といったらまず車騎星があることを疑う方が当たってます。貫索星だって結構な強面キャラですし、調舒星と龍高星もイッちゃってるときは怖く見えます。

では運勢上のエネルギーの強弱とは何か。わかりやすい例を挙げると、道でトラックにはねられた場合、生存率の高いのは身強です。というか、身強は怪我をしても入院しなくて済みそうです。これは見えない力で守られていると考えるよりは、単に回復力の速度の問題です。彼らは生まれつきへっちゃらか、へっちゃらを装うことに慣れている。つまり甘やかされていないので、あばらの1、2本折れていても気付かずすごすか、面倒なので申告しない。これが身強の正体です。まあ、ある意味怖い人たちではあります。骨折してても気付かないのが身強です。私の身強の友人も、折れた小指をプラプラさせたまま一カ月過ごしてました。
一方の身弱は、怪我をすると大騒ぎです。すぐ入院したがるし、しないと治らないかもしれない。以前記事を採り上げたように「病は気から」です。本来なら入院や治療をしなくても自然治癒する程度の怪我でも弱気が免疫力を阻害するので、治るものも治らない。身弱の弊害はこういうところに現れるのです。寝込むことに慣れている身弱からすれば、身強の身体における野人的な強靭さは無神経で無節操なものに見えるかもしれません。

ただしこれが生存率や健康運を占うのに使えるかというと、そうでもない。確かに身強は怪我には強いが、実は病気には弱い。病気は怪我と違って内部から侵食するので原因が判りにくく、発病した時にはもう遅かったりする。身強はその我慢強さが災いして多少の異変を感じても無視して病院に行かないので、発見が遅れて命取りになるケースが多いのです。その点身弱はいつも健康を心配しながら生きているので定期健診もまめに行くし、早期発見、早期治療で健康を長く保つことができるのです。

身強論は健康についてばかりではなく、さまざまな要因と組み合わせて活用できます。例えば職業。平成の大横綱こと貴乃花親方は、あれだけの戦績を残す関取でありながら実は身弱です。だから身弱は重労働や厳しいスポーツ選手には向かないという考え方は間違いです。というより人間はそもそもひとかどの人物となる条件を満たしており、身弱だからマイナスに働くということはないのです。逆に身弱だからこそ一芸に秀でるという例は多々ある。却って身強の方が一芸に専念するとエネルギーが余るので、方々へ手を出さねばならず、時間がいくらあっても足りない多忙な生活を強いられる。
今日の社会は近代以前とちがってすっかり便利になり、身を粉にして肉体労働するような事態はあまり一般的でなくなった。こういう世の中では、エネルギーを持て余す身強の方が不利と考えるの方が妥当なのです。
by hikada789 | 2012-12-17 20:57 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回続き。またこんなのも最近発見した。ロシア語に「コオロギは自分の竿を知っている」という諺がある。竿というのはコオロギの長い触角のことで、転じて「身の程を知れ」という意味になる(ズナーイ・スヴェルチョーク・スヴォイ・シェストーク)。私は小説にどうしてコオロギが必要だったのか未だに判らない。判らないけど頭に風景が浮かんで書いていたから「神様が降りてきた」と言っているのだが、ラディーフの抱える歴史の重みに押し潰されたような主人公の末路をこの諺がうまく暗示している。こういう風に小説を楽しむ法もあるのだった。

ところで今ロシアとイラン(ペルシャ)の映画が渋谷でやってます。ひとつは渋谷シネクイントの『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』で2年前にロシア本土でメガヒットしたSF大作。原作はストルガツキー兄弟の『収容所惑星』で私は読んだことはないが、この作家はSFと称して際どい体制批判を検閲スレスレで書いていた。故に映画もぱっと見はハリウッド風アクションだが、よくよく台詞を聞くと権力や体制に唯々諾々と従う人類の堕落を強く批判している。西側の絵空事SFとはひと味違うのだ。
しかし何がハリウッドと違うって、役者のツラ構えだ。主人公はマネキンのように容姿の整った金髪碧眼の青年で、女性もホモも喜びそうないいガタイとはいえ要するに王子様タイプなのだが、熱演のあまりなりふり構わない野性味溢れる血まみれアップを映しており、私はちょっと前にK-1で活躍していたウクライナ出身の格闘家キシェンコを思い出した。彼も王子様タイプの容姿なのに、顔面にパンチを浴びて鼻血まみれなのを気にしてなかった。つまりこれがロシア人一般の考える「漢気」というわけだ。かの国では自分の歯でビール瓶の栓を開けるのが「漢気」とされているので、年頃になった少年がこぞって大人ぶって瓶に歯を立て、逆に歯を折られてすきっ歯になり男前を下げてしまうという悪弊がいまも横行している。
主人公のみならず、脇役も意外性を突いてくる。主人公の親友役がこれまた悪相で、善玉役なのに日本人の目には最後まで悪役に見えてしまうのでストーリーが納得いかない。逆に悪玉の一人は宇宙人の見るところ実力ある舞台俳優で、実にいいツラ構えだ。口髭をたくわえたナイスミドルで、オペラ歌手だといっても通りそうな深みのある声と演技力。普段西側映画に慣れ親しんだ目で見ると、ビジュアル的に好悪が判別しにくい不思議なロシア映画です。芸術性はありません。12月21日までレイトショー。

もうひとつはイラン映画『イラン式料理本』。台所から見たイラン男女事情ドキュメントだ。イラン人はこちらもビジュアル的にはコーカソイドなのでぱっと見、日本とは別世界を想像しがちだが、伝統的な男女観は西洋よりむしろ日本にずっと近く、炊事は女の仕事であり、男たちは食ってだべるだけ、片付けないし、妻や母がどれほど手間ひまかけて食事をこしらえているか知らずに生きている。映画は監督自身の親族の女性を台所でレポートし、ラマダン用のご馳走(昼間は断食するが夜は食べていいので一家でドカ食いする習わし)を作る料理の現場を撮影しながら話を聞くというもの。
日本の明治・大正時代に相当する生まれの老婆たちは、当地の風習により10歳くらいで嫁入りしたので、料理は姑から習うのだが、そこには陰湿な嫁いびりが存在している。そんな嫁がやがて姑になると、息子の嫁をいびることになる。しかし時代が下ると女性の地位や教育レベルも上がり、反抗する若い女性やレトルトで済ませる今どきギャルも現れた。老婆たちはそんな若い娘たちに批判的だし、男たちも料理が得意でない妻を批判するが、手順や盛付けの凝ったイラン伝統料理は取材すればするほど大きな労働であることが判り、監督は終始女性に同情的だ。
勿論、男も様々で、サムライ型の男は若い妻が香辛料の分量を間違えて激辛になっても文句を言わず残さず食べるし、また別のタイプは女性の具合が悪い時は自分が料理をすると豪語し、「何を作るんですか」「〇〇ピラフとか××ピラフ」「他には?」「△△ピラフ」ってピラフだけじゃないかよ、とツッコミを表現した取材もある。
きわめつけは監督自身の若い妻で、今どきのカウンター式システムキッチンに立つシャープな容貌の妻は「事前連絡もなしに夜に同僚を10人も連れて帰ってくるのに、いきなり料理を出せるわけないでしょ」と冷ややかに夫を批判。レトルトを出して急場を凌いだことを夫が責めるのを撥ねつける。夫は数々の取材で女性の炊事労働を知ってしまったので強く出られない。しかし従来の女性たちがその不公平な役割分担にも拘わらず男のメンツを立てて忍耐してくれていた有難い歴史の前で、この妻の態度が納得いかなかったらしく、結局離婚するのである。なんだかひと昔前の日本にありがちな夫婦模様ではないですか。価値観が似ていると思いませんか。イスラムが女性を虐げているなんて今どきはウソだと判るでしょう。
こちらは渋谷UPLINKで上映中。水曜日は男女一律1,000円。この映画館は社会派専門なのでエンタメはやらないけど、以前紹介した『モバイルハウスの作り方』をリバイバルしてるし、題名がすごくて見てしまった『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう』もまだやってます。
by hikada789 | 2012-12-15 19:20 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
拙著『メタフォーラ・ファンタジア』の読後感想がちらほら寄せられている。著者は特に読者に感想を強いてはいないので、配信開始からもうじき3カ月になる自作小説に盛り込んだ仕掛けについて記憶も薄らいでおり、読者からここはこういう意味が隠されているのかと問われると、そうその通りと読者の穿った読み方を讃えたりする一方で、いやそんな意図は盛り込んでいないがそういう解釈は素敵だからそういうことにしておこうかな、とずる賢く頭をめぐらして「うん」と言ってしまったりして過ごしている。宇宙人なのだ、許してくれたまえ。しかし小説などという曖昧な作品は、論文や研究書と違ってこういう自由な読み方や解釈が本来許されているはずではないか。だから読者がどう読んで楽しむかは、読者の読み方の腕前に掛かっているのだ。我が作品はそうした読者の裁量に多分に依拠するように出来ている、悪くいえば完成度の低い穴だらけの小説で、しかしこればかりは敢えてそうしたのだと明言しておこう。作中のセリフにもある通り、何もかも描出してしまうと世界が限定される。隠したりぼかしたりしておいた方が想像力に訴えて却って幅広い世界や忘れがたい印象を残すものなのだ。

読者から「この小説は事実をどれくらい反映したものなのか」と問われたが、ざっと3割程度と答えておいた。メインの舞台がソ連崩壊から数年間のウズベキスタンであるのは、宇宙人が実際に当地に滞在した時期に当たっている。その時期から物語の締めである9.11の事件に至るイスラムをめぐる当地の地域史については、それを扱った歴史資料を読めばそのまま出てくるちょっと古めの時事であり、この辺りはノンフィクション率の一番高い所である。
一方、世紀を遡る詩と舞人のエピソードはフィクション率が高い。実存する逸話や寓話を盛り込んだので本物らしく見えるかもしれないが、ここはマユツバですよと実ははっきり明示した提示物がある。「ハミーシェ」だ。このペルシャ語の単語は「久遠」という意味だと作中で述べているが、実は現代ペルシャ語では「いつも、常に、ずっと」という使われ方が正しい。「永遠」という意味には必ずしも合致しないが、しかしまったく誤訳というわけでもない、古語ではもしかしたらこういう意味だった可能性もあるかもね、という逃げのような単語を著者は敢えて選んだというのが真相だ。まあ語呂も良かったし。
もう少し補足して言い訳するなら、ロシア語では「永遠に」をナフセグダー、「いつも、常に」をフセグダーという副詞で表現するのだが、両者の違いである「ナ」は「上に」を表す前置詞でもあり、状態を表す接頭辞でもある。要するに「永遠に」の語源は「いつも」であり、「いつも」の連続が「永遠」になるという発想だ。小説の舞台はロシア(旧ソ連)とペルシャの狭間に位置するので、こういう言語下に隠された文化的共有性があってもいいはず、という考察が作品のテーマである隠喩にぶら下げた形となっているわけである。いろいろ言い訳したけれど、ハミーシェを「久遠」と提示した所で既にフィクションを宣言しているので、読者の皆さん、誤った知識で騙されませんように。

ところでこの小説は以前も語ったかもしれないが「隠喩(メタファー)」をテーマとしており、作中に二度三度と同じ単語や風景が提示され、トランプの神経衰弱のように前にめくったカードの模様を思い起こすよう仕掛けが散りばめられているが、「伏線とまで言えない」と著者が予め断っているように、散りばめただけでそこに謎解きになるような重要な意味が込められているとは限らないし、相方のカードがいくら探しても一向に見当たらない場合もある。だから完成度の低いミステリー作品と呼ばれてもその通りとしか言えないが、伏線と捉えて意味を探る作業や、散りばめた星の数だけ相方カードを探す作業を、正解がないことを知らない読者に強いる小説なのであり、それを狙っている。だって、我々が暮らすこの世界は、そもそも意味不明の事象や割り切れない不条理で満ちているのだから、それを合理的に解釈し納得しようとして人間があれこれ頭をひねったり理屈をこねたりする、そういうことを嘲笑うのでなく淡々と指摘する小説があったって、いいじゃないですか。

実際に読者の一人は、既に読了したけれど始めの方で隠喩アイテムを気づかず読み飛ばした気がするので、もう一回読み直して探してみると言ってくれた。「一回読了ブックオフ行き」の読み捨て小説にはならなかったことを、宇宙人は有難く思うのであった。
実はこの作品、著者自身も気づかないメタファーが校了後にパラパラ出てきて自分でも驚いている。例えば主人公の師匠シャミールは、ラディーフ継承者でありながら父親の意向でロシアの音楽学校に遣られるのだが、専攻はチェロである。物語の流れ上、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」を演奏させたかったのでチェロにしたのだが、別にビオラでもバイオリンでも構わなかった。単に宇宙人が低い音が好きというだけでチェロにしたのだ。ところがソ連の作曲家ハチャトゥリアン(「剣の舞」や「スパルタクス」「仮面舞踏会」の作者)は、18歳まで正規の音楽教育を受けず五線譜も読めなかったが、コーカサス(南部はペルシャ文化圏)の膨大な民族音楽を暗譜していたためロシアの音楽院への入学が認められ、とりあえずチェロ科に入ったという。おや、シャミールとそっくりではないか。この事実を先に知っていたら「このチェロ専攻の意図するところはハチャトゥリアンなのだよ」とどや顔で語れたのだが、順番は逆である。作中には「歴史を時系列に並べるのが面倒になってきた」「過去と現実がごっちゃに」というくだりがあるが、なんと作者まで知らぬ間に同じ影響を受けていたのであった。おそろしい小説なのだった。
by hikada789 | 2012-12-14 16:16 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)