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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2013年 01月 ( 16 )   > この月の画像一覧

No.350の続き。ラズミーヒンが超絶イイ人なのは、ドラえもんのように世話好きだからではない。その親切が一方的で、笑えるほど度を越しているのに、本人は見返りを期待せず、それどころか親切を受けた側が卑屈にならないよう気配りを怠らない聡明さを備えているからだ。
ドラマ『罪と罰 2007』の介抱シーンをご覧になった方、あそこで何が話されていたかというと、大学を中退した後の主人公は自堕落になり、家賃滞納が嵩んでいた。とうとう下宿の女将はある男の入れ知恵で滞納分の返済を警察に訴えたのだが、マダム・キラーであるラズミーヒンは女将を味方につけ(勿論友人を救うためだ)、訴えを取り下げさせた上、入れ知恵男との手切れに10ルーブルを支払った。この間、主人公はずっと人事不省だったので、ラズミーヒンは主人公の承諾なしに10ルーブルを肩代わりしたのである。しかしこの取引がなければその10倍の滞納額を即金で用意しなければならなかったので、文字通り主人公は寝ている間に危機を免れる。
しかしドラマにもあるように、主人公は顔を枕に背けて、友人のおせっかいを嫌がる素振りを見せる。さすがにラズミーヒンもむっとして「アー、また俺はいらぬおせっかいをしたというわけね」とくさすが、この時ちょうど母親からの送金で主人公に35ルーブルが届き、ラズミーヒンはここから10ルーブルの肩代わり分を取って去る。そして次の回で、自堕落な主人公の乞食のような身なりを整えようと古着屋を回り、その10ルーブルで購入したまともな服一式を持ってきて、友人の生活の立て直しを図るのである。つまり服一式は彼の自腹、プレゼントである。数字的にはラズミーヒンが10ルーブルを損したのだが、プレゼントという形にしたので、受け取る側は負い目を感じなくて済む。こういう手法をごく自然にやってのけるのがラズミーヒンという男なのである。

この種のエピソードはもう一つあり、ラズミーヒンは主人公の貧乏を案じて仕事を斡旋する。それは自分がフリーで請け負っている幾つもの翻訳の仕事で、「自分はドイツ語が苦手だからお前、代わりにやってくれよ」と主人公に前金ごと気前よく渡すのだが、実は彼はドイツ語も達者で、ただ友人のプライドを傷つけずに仕事を取らせるために、こういう言回しをしたのだ。主人公はこうしたラズミーヒンの性格を知っているので、殺人を犯した後も彼がいつものように接してくれることに心を痛め、最終的に自首する要因の一つとなるのである。こうしてみると主人公が一方的に恩恵を被っているようだが、彼は家族の前でラズミーヒンを称えるのに「この男はぼくから侮辱と面倒しか受け取ったことがない」とやはり遠まわしに頭を下げるのだ。よくないですか、こういう友情?ベタベタしてなくて、恩着せがましくないですね。

宇宙人は恩着せがましいのが嫌いだ。頼んでもいないのに親切にされても嬉しくないのは、こちらの根性がねじ曲がっているからではなく、親切する側にも配慮が欠けているからだ。施しは、施される側の心を卑屈にするので、そうならないよう配慮と工夫が施す側にも必要なのである。施しを受けて堂々としているような人物より、恥ずかしいと思うような人間の方が上等なんだから、こちらを先に救済するべきなのだ。難民キャンプには一時的な救援物資は必要だが、長期的には難民が自活して卑屈な状況から脱する方向へ持っていかなければ問題は解決しない。
今回の震災にしても、施す側の人間による「がんばろう」の連呼や「元気を届けたい」などの安易なセリフに、宇宙人は常々苛立っている。それはつまり「上から目線」なのだということにどうして気付かない。あれから間もなく二年。救援物資の時期はとうに過ぎ、いまはカラ元気ではなくリアルな生活ルーティンが求められているのだ。それは被災しなかったけれども不況が続く我々と同じレベルの問題で、小学生の作文レベルの励ましでは到底処理できない。口先で「元気を届けたい」とうそぶく皆さんは、そうした現実を無視してでも自分がいい人を演じたいのだろうか。その言葉が、受け取る側の自尊心を傷つけている可能性に気付く程度の心配りを、大人ならやってほしいものである。

ドストエフスキーの作品には、この種の心配りが実によく出てくる。他のロシアの作家もそうだったかちょっと思い浮かばないが、とりわけドストエフスキーは良心を扱う作家だと言われている。こういうさりげない配慮を善とするロシア文化の美徳は、時代を問わず読者を感動させるのである。
by hikada789 | 2013-01-31 14:59 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
ご依頼を受け、あなたの山水画を掲載します。掲載許可ありがとうございます。
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1982年7月19日生 女性の山水画
 癸 丁 壬
 卯 未 戌
晩夏の雨は大地に降り注ぎ、山岳を流れて大河に注ぐ。草原には野火が見える。
【解釈】
雨のあなたは暑い季節なので作物の恵みになります。作物を育てる大地は社会を表し、職場などであなたは活躍しますが、周囲はそれほど評価してくれないかもしれません。
草原は配偶者を表し、雨が欠かせませんが、父親を意味する大河は水量が多すぎるので、父親と配偶者は適度に離した方がよさそうです。
水にとっての水源である金性がないので、あなたはスタミナに難があります。性格は大らかで気前がいいので人間関係は良好です。
by hikada789 | 2013-01-30 18:40 | 宇宙人の鑑定実績 | Comments(0)
高知県出身の西原理恵子は「エライのは坂本竜馬ではなく司馬遼太郎」と言っているが、これは謙遜なのか実感なのか。しかし『竜馬がゆく』で定着した人物像を今後修正していくのは時間がかかるかもしれない。もう随分前だが司馬と同年代の東北出身の時代劇作家、早乙女貢は自分が見つけた歴史資料として、坂本は世に出る前剣の腕を試すために乞食だか非人だかを仲間の前で斬り捨てて平然としていた、という記録を挙げて、明治維新の立役者のうち明治政府に登用されなかったからといって人格者であったとは限らないと警告している。早乙女はいわゆる賊軍の側の人だし、その資料の真偽もまた容易に突きとめようもないが、結局そうした証言や推測のうちどちらがより真実に近いか、我々はこの情報の氾濫する世の中で見極めなければならない。

同じく司馬の『坂の上の雲』も近年ヒットし、司馬流の判り易い人物像で好悪のはっきり分かれたイメージが定着してしまったようだ。その顕著な例が乃木希典将軍で、作品の中で将軍は人格こそ損なわれてはいなかったが無能無策で多くの将兵を無駄死にさせた愚鈍な将であったという扱いである。しかし近年の研究では、当時は今日のように携帯電話もメールもないアナログの時代であったため、彼の率いる第三軍と東京にある大本営との連絡が容易でなかったことが考慮されねばならず、刻々と戦況が転じる中、大局的観点から判断する東京の指示を現場の指揮官は待っていられなかった、乃木の判断ミスは無能が原因ではないとする説が上がっている。こうした評価は乃木将軍自身の軍中日記の解読や、当時日露戦争を現場取材していた外国人ジャーナリストの証言から導き出されたもので、専門家の間では既に司馬遼太郎の掲げた現在の「通説」を払拭しなければという気運が広まりつつあるという。
司馬は作家であるから読者にウケる作品を書かねばならないが、その著作の成功は歴史認識の歪みを生じさせている。主人公をヒーローに見立てるために誰かが引立て役として悪役にならねばならず、その悪役たる乃木将軍が近年の研究の通り事実無能でなかったならば、この汚名の責任を既に亡くなっている司馬に問うわけにもいかず、結局のところ我々受け手が何らかの形で負わなければならないだろう。それはどのように?

『罪と罰』で唯一といっていい「陽気な」キャラ、ラズミーヒンは以前No.345に採り上げた「でたらめも数打てば真理に当たる」説の提唱者だが、続けてこんなことを言っている。「自分一流のでたらめを言うのは、人まねで一つ覚えの真理を語るよりマシです。しかし今の我々はどうです。科学、文化、思想、発明…その他一切の何もかもが、我々は一人の例外もなく中学予科の一年生レベルです。他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいものだから、すっかりそれが慣れっこになってしまったんです。」
繰り返すが『罪と罰』は19世紀に書かれ、農奴解放から6年後という設定の当時の現代小説である。もうかれこれ150年も前のロシアの社会問題が、まるで今日の日本の、しかしまだあまり世間で指摘されたり非難されたりしていない発言の習慣化・硬直化とそっくりではないか。メディアがさかんに報じるフレーズや論説、果ては驚いた時のリアクションまで、何から何まで他人の真似事。自分自身の思想と言葉を適宜吐ける人間は一体いかほどいるだろう。垂れ流して与えられた情報を鵜呑みにせず疑ってから口にする人がいかほどいるだろう。そうして言葉は真実を失い、贋物に取り巻かれた世界に住む我々は、虚偽がピークに差し掛かった時に何らかの形で責任を負うことになる。そうならないために今から乃木神社にお詫び参りでもしておこうか。

ところでラズミーヒンはロシア文学が誇る超絶イイ人である。殺人を犯したばかりの主人公が恐怖のあまり熱に倒れると、そうとは知らずに毎日通って看病し、病人が目覚めるとクマのような手で抱き起こし、熱いスープをフーフー吹いて冷まして口へ運んでやるのである。あまりに猛烈に吹くのでスープはすっかり冷めてしまうのだが、本人は気にせずドラえもんのようにせっせとのび太の世話を焼き続けるのだ。こういう男は確かにロシアでちらほら見かけるが、どちらかというと女性に多く、おせっかいおばさんの類である。ロシアのおせっかいおばさんは通常肥満しているが、インテリで長身の若い男がこれをやるのがミソなのだ。

宇宙人は床本の参考資料としてYou tubeにあるロシア映画を物色したところ、2007年にテレビドラマとして作られた8回シリーズの『罪と罰』(ロシア語。字幕なし)に出演しているセルゲイ・ペレグードフ演じるラズミーヒンに釘付け。このドラマ、原作に大変忠実にできており、セリフもほとんどそのままなのだが、仮病を装う主人公を親切にも乱暴に揺すり起こして無理やりサインさせるシーンを、小説を読むだけだと判らなかった主人公のうんざりした表情を映像で表現してくれるなど、笑いを倍増する演出が冴えるのである。
ダメ男が陳列するドスト作品において数少ない「破綻していない男」は制作者にも愛されたらしく、驚くほど役柄にピッタリの俳優を当てている。風貌はもちろん笑い方までキャラにピッタリ。実に無邪気で心地よい、カウベルの鳴るような笑い声である。興味のある方は「罪と罰」を自動翻訳でロシア語にし、それに「2007」をつけて検索すると見つかります。1回は約50分。ラズミーヒンの介抱シーンは第2回の終盤の10分間です。

私はここ数日この連ドラを見続けて寝不足だ。連ドラといえば日本では土曜の深夜に「カラマーゾフの兄弟」というドラマをやっているが、私は第2回まで見てギブアップ。ドストの原作とは1%程しかかぶってません。親子関係を模しただけのただの殺人サスペンス。話は薄っぺたいです。ロシア文学関係者からは非難囂々です。これを見るくらいなら、字幕はなくとも上述の連ドラ『罪と罰』を原作と突き合わせて観る方がお勧めです。
by hikada789 | 2013-01-28 17:34 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
アルジェリアのテロ事件で犠牲になられた日本人の実名を出す、出さないで議論されている。宇宙人は常々思うのだが、被害者の実名を出す事で何のメリットがあるのだろう。国民の関心や怒りを煽る?別に実名なくても変わらないのでは?実名だけならまだしも、その人の生涯まで詳らかに調べ上げてまるで葬式ビデオみたいに編集して報道番組があちこちで流しているが、あれは遺族の意思なのか?そんなに日本人は家族や知人の経歴を全国に知らしめたい性質だっただろうか?もともと慎ましい国民性なのだから却って逆ではないか?故人はそうして欲しいとあの世で叫んでいるのだろうか?

宇宙人は控えめな人生観なので、自分が死んでもごく親しい人に悼んでもらえばいいし、見ず知らずの人にまで悲しんでもらう必要はないのだが。それどころか知らない人に恥の多い我が人生を詳らかに知らしめてなど欲しくはない。生きているうちは個人情報の保護だ何だとうるさく騒ぐのに、どうして死んだ瞬間からその保護が解かれてしまうのか。再犯の可能性のある犯罪者でもないのに。
私は犯罪者の経歴や写真や映像をこれまた記念ビデオのようにナレーション付きで垂れ流す報道にも不快感を覚える。他人の凋落をそんなに突っつき騒いで嬉しいのだろうか。あんたが被害にあったわけでもないのに。犯罪者がやむにやまれず犯行に及んだという同情と酌量を求める内容ならともかく、どう考えても重い量刑を求める論調なんだよね。あれはやはり「自分はこんな罪は侵さないから自分の方がエライ」という間違った優越感を満たすための所業なのだろうか。加害者が悪人であることを強調するために、被害者が善人である必要があるから「あの人はいい人でした」的なご近所の証言を嬉々として集めて放送するのだろうか。

もし被害者が悪人で、誰からも嫌われていて、殺されてしまっても周囲が万歳して喜んだという証言がとれても、道義的にそれは報道しないだろう。そうすると、「あの人はいい人でした」との取材成果が流れなければ、その被害者は極悪人だったという推測が成立する、だからそうならないために遺族は故人の情報をマスコミの要求のままに提供し、決して故人が悪人だったなどと世間に誤解されないようにしぶしぶ報道を許可しているのやもしれぬ。
すると宇宙人は親しい友人に「我が経歴は吹聴せず、土星の裏側の闇に葬ってくれたまえ」と言い残して死にたいのだから、結果的に世間に「あの宇宙人はいい宇宙人でした」との言説は流れず、従って「ああ、土星裏の宇宙人は実は極悪非道なエイリアンだったのだ、やはり地球侵略の野望を企てていたのだ」と了解されて終わるということになるのだった。
読者の皆さん、宇宙人が本当はどんな宇宙人であったかは、当ブログに書き散らした記事を基に推測下さい。決してマスコミのおかしな慣習に振り回されませんように。

昔、小学生がクラスメートを殺害した事件があったとき、未成年だったので加害者の子の名前も写真も報道されなかった。それは正解だと思うが、一方の被害者の子はどちらも公表されて、しかもその写真がすごいおバ〇顔だった。私はだらしない顔でピースサインを作って写真に映る人物の知性を疑っているので、その写真が何日もテレビで流れる度にその知性のない顔の子が犯人なのだと思って眺めていた。なるほど頭が悪いからこんな犯罪を犯したのだなと、うなずいて数日をすごしていたのだよ。被害者には全くもって不本意千万だったことだろう。合掌。もちろんこんな失礼な誤解をするのは宇宙人の他にいなかったかもしれないが、もし同じような印象をもった視聴者がいたとすれば、その報道に提供された顔写真は人々の同情を引く性質の映りではなかったので、まず遺族おそらく親御さんがそれを判断しそこねたこと(我が子はどんな映りでも可愛いものです)、次にその写真を受け取ったマスコミがそういう誤解を予測できずにそのまま使用したことが非難されねばならぬ。え、こういう事態に備えて国民は自分の肖像の自信作を常日頃から準備しておくべきだ?そういう結論に持って行きたいわけではないのだが、つまり同情を引くために顔写真が必要なのかということ。そしてその子がどんなにいい子だったか強調する必要があるのかということ(やな奴である可能性だって人間だもの、あるはずだ)。加害者が一方的な悪人であるかのように組み立てる編集報道は、突き詰めれば真実の報道とは何ら関係がないということ、そう、これだ。

宇宙人は最近『罪と罰』を読み直したので、犯罪者の立場に寄り過ぎているのやもしれぬ。しかしそれこそ宇宙人が生まれる前に永山事件というのがあり、映画にでもなりそうな聞くも哀れな少年時代を送った犯人は、深い人間不信から殺人を繰り返して死刑になるのだが、執行までの年月に『罪と罰』の主人公のように人間性を取り戻し、その精神のたどった道筋を文章にして獄中から文学賞をとったりした。決して愉快犯などという浅い人間ではなかったのだ。彼が刑罰を受けることに異存はないが、こういう本来性根が善人の人が犯罪に染まる生活環境こそに問題があり、我々はそうした問題にこそ目を向け議論をし広く報道すべきなのに、今日の報道といったらずっとこの調子なのだ。
アルジェリア事件の被害者を乗せた飛行機など何度も報道してどうする。飛行機ファンしか喜ばんぞ。涙の会見は一度でいいし、長く流す必要もない。悲しいことは誰でも判るのだから、葬式ビデオのように物語風に作るのはやめろ。そんなことより再発防止のために今回の事件の本当の原因は何なのか、アフリカでは世界では、いま何が起こっているのか、イナメナスがあのリビアのほとんど国境上にあることの意味とか、もっと深いところを取材しろ。どうせそうした知的で危険な取材をする能力も意欲もないから、安全な国内で簡単に取材でき、且つ当たり障りのない被害者遺族の悲しみの言葉ばかり拾って、中身の薄い報道番組の時間をもたせようというのであろう。そんな水増し番組を続けるより、各国のデイリー新聞のトップ記事の翻訳と解説でも延々と垂れ流してくれた方が、余程社会が見えるようになるというものだ。

という論調のテレビ局は今のところ宇宙人推奨のTOKYO MXだけだ。こうした今日のマスコミのおかしな風習をぶった斬った上杉隆氏は、震災直後に行なった正当な指摘によりマスコミ界からボッコボコに叩かれたが、あれから2年近く経った今日、彼の指摘が正しいことが判明して次第に支持を強め、しかし彼は今日もなおMXしか出演させてもらえないのだった。そしてその肝の据わったMXでさえ、西原理恵子は出入り禁止なのだった。町山智浩曰く「上杉が良くて、なぜ西原はだめなんだ」。どうしてですか、MXさん?
by hikada789 | 2013-01-26 20:40 | その他 | Comments(0)
演能会のお知らせです。
-----円満井会定例能-----
◆日時:平成25年1月26日(土) 12:30開演
◆場所:矢来能楽堂 (東京メトロ東西線「神楽坂」駅より徒歩3分)
◆演目:能『箙』、『葛城』、『春日龍神』、狂言『鴈礫』、ほか仕舞
◆入場料:5,000円 (学生=2,000円)
◆ビギナー向け解説:
No.342で謡の8拍子のリズムの取り方を紹介しましたが、「平ノリ」は「ノリ」の中でも一番キャッチしにくいので、今回は『葛城』の「大ノリ」を採り上げてみます。「大ノリ」は「平ノリ」のように8拍子に倍数の16文字(休符と長音を含む)を当てるのではなく、その半分の8文字を当てる謡い方です。8対8なので判り易く、宇宙人も拍子の稽古で一番初めにこの「大ノリ」を学びました。ここには凶悪な「7拍子」の挿入がないので、どんなに音感のない人でも左右に体を揺すっていればリズムを取れる、確実な二拍子です。手っ取り早く実例を挙げましょう。最後、キリの部分です。「高天の原の岩戸の舞。天の香具山も向かいに見えたり。月白く、雪白く。…」という内容はこう謡います。

 たーかーまーのー*はーあらあの* いーわーとーのおーまあーいーーー 
 *あーーまーのお*かーぐやまもお むーかーいーにーみーえーたーりー
 *つきーしろくー*ゆきーしろくー …

*印は息継ぎというか半休符です。ちゃんと8拍子で揃ってます。流儀や地頭によって伸ばす部分は若干異なりますが、8拍子であることは動きません。『葛城』はこの後もずっとこのリズムで正確に刻んで終了します。聴き取り易いですね。
ただし、上記の8拍子は、実際は第2拍から始まっており、これが「大ノリ」の規則です。つまり「たかま」の「た」や、「いわと」の「い」は第2拍、「天の香具山も」の「も」や、「向かいに見えたり」の「り」など最後尾にある文字が第1拍、というのが正しい認識です。どうして1拍ずれているのか?私も知りたいです。おそらく囃し方の事情でそういう構成になったものと思われますが、誰かご存知でしたらお知らせ下さい。ともあれ冒頭の「高天の原の」の「た」の直前に太鼓が「イヤー点(テン)」と大きく打ちます。この「テン」の打撃音が第1拍に当たる、とビギナーの宇宙人は習いました。
 能の謡の拍子については学術書籍が図書館にも置いてあるので、詳しく知りたい方はそちらを参照下さい。でもはっきり言って実際に音を出してみないと何を言っているのか判らない、玄人向けの解説書です。
by hikada789 | 2013-01-24 13:55 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
年末に仕入れたセルフ整体術を一カ月試したところ、良好な結果が得られたので掲載します。

【試験患者(つまり宇宙人)の病状】
運動が原因で5年前から右膝痛が始まる。歩けるし走れるが、膝をひねる動作や正座で鈍痛がする。整体院を数カ所渡り歩いたが、継続的な効果はなかった。しかし3か月前から急に痛みが増し、運動が困難になった。

【施術方法】
痛みのある膝の裏側に棒状クッション(直径約8cm)をはさんでしゃがみ、強めに膝を曲げる。クッションの代わりに自分の腕や、丸めて棒状にしたバスタオルでも可。あまり固い物だと拷問になるので適度な弾力のものを選ぶこと。硬式テニスボールでもよい(宇宙人は試していない)。特に痛まなければ、はさんだまま膝を左右に静かに傾ける。この動作を朝一回行う。

【効果】
一回目の施術の直後から痛みが激減。「3か月前に始まった」痛みはほぼ解消。患者は喜んで毎朝続け、両足ともやり、現在、5年越しの痛みも減少傾向にあると自覚している。今後も要観察。

【メカニズム解説】
仕入れた情報によれば、膝関節はいわゆる「お水」が入っていて、この水が自由に遊べるスペースが何かの事情で歪み、水の通りが悪くなると痛むという。これが原因の痛みであるなら潰れたスペースを元のサイズまで膨らませればよい。そのためには膝をできるだけ深く曲げ、腿とスネを繋ぐ膝関節部分を「引き離す」。痛むということはこの距離が近すぎるということである。ただ、腿とスネを一直線に伸ばしたまま上下に引っ張ると、引っ張りすぎる危険があるので、曲げた状態でマックスまで曲げた方が距離が過不足なく収まるのである。

【予防効果】
膝痛のない人も、老いるといずれこの症状が出るので、痛まないうちに日々のケアで予防ができる。定番のケアとしては、上述の黄色いテニスボールを膝裏に入れて仰向けに寝転がり、曲げた膝が更によく曲がるように、スネに両手を添えて胸に引き寄せ、30秒ほどストレッチ。一日に左右で2-3回行うだけで予防になるそうです。
by hikada789 | 2013-01-21 22:35 | 整体の仕組と健康 | Comments(0)
某文化講座より。モーツァルトが曲をつけて歌われるようになったゲーテの詩に、スミレを題材にしたものがある。内容はこうだ。スミレ君(この詩では男の子に擬人化)は他の花と比べて特別美しくもなく、時々見かける羊飼いの娘に恋をしても思い切って告白もできないほど弱気である。それでもスミレ君はあの娘に摘み取られて、せめて15分なりとその胸に挿してくれたらなあと空しく夢想していたが、ある日娘が向こうから全く無造作にやって来て、一顧だにすることなくスミレを踏みつけて去った。スミレは滅びるのだが、せめて愛しいあの娘の足に踏まれて死ぬことに喜びを感じるのだった。
この話を聞いた時、私は前回挙げた『罪と罰』のマルメラードフのだめっぷりにかぶって見えたので、なるほどドイツにもしょうもない男の卑屈な愛情を題材に選ぶことがあるのだなとドイツに対する見方を変えようとしたが、講師のドイツ文学者によれば、ゲーテというのはドイツらしい教訓的で説教臭い思想と作風の持ち主で、このスミレについても実はスミレの弱さを憐れんでいるわけではなく、こんな風に自信もなくウジウジして、一顧だにされず死ぬというのに、踏まれたのが喜ばしいなどは卑屈な「庶民」のする業だ、人間はもっと己を堅固に保持して誇りを持って生きるのが正しい生き方だ、と批判を込めた詩なのだそうだ。
ドストエフスキーはマルメラードフを悪とは見做さず、滑稽で悲しいピエロのように描き、要するに愛情をもって採り上げたので、やっぱりロシアはヨーロッパとは根本的に立脚点が違うなと改めて確認することとなった。ドイツ人はもしかしたらマルメラードフの膝歩きシーンを読んでも笑わず、嫌悪感だけしか覚えないのかもしれない。

日本人一般の感覚は、スミレの高級とは呼べない喜びに同感しないまでも理解を示すか許容するかだと推察するが、欧米の価値観に惑わされている昨今では以前より多少は硬化したものの、根本的には日本人はまだまだ植物のように柔和な感性で人間をやっているように思われる。
ある番組で在日数年の米国人青年が巷の日本の青年に、女性を口説くのに有効と考えているフレーズをインタビューする企画をやっていたが、コンセプトは日本人男性が抱く「決めゼリフ」を恋愛に長けた女性がいかに笑っているかを浮き彫りにするというもの。それはそれは陳腐で作り物めいた(マンガか何かで仕入れたコピーワード)、お前の妄想が豊かなのはよく判るが現実がそういう段取りで運ぶ可能性はゼロだぜ、と遠慮のない女達大爆笑の珍フレーズばかりで、見ている方も楽しく(恥ずかしく)笑えたのだが、インタビューしている米国人はすごく驚いて「そんなセリフで女性は魅了されるんですか」と皮肉に反問。どうやらあまりに軟弱なフレーズばかりで、彼のお国では口説き文句のうちに入らないらしい。いろいろあって忘れてしまったが、スミレ系もあったし、何やら夜景が見えるスポットで告白すると女性が喜ぶと信じている男が多く、要するにセンチメンタルもほどほどにしろ、男ならもっと現実的で男らしい部分をアピールしろ、というのがステロイド国家アメリカの通念なのだった。
日本は1000年の昔から光源氏を代表とする王子様タイプが女性に好まれてきたし、近代になっても太宰治的な女々しい男も女達は決して見捨てはしなかった。筋肉質な肉食男子は今も昔もマイナーで(ドイツ人が忌避する「庶民」は日本人にとっては軟弱よりもガツガツ男を言う)、今日草食系男子が増えているのも女達の需要を正しく見定めている証拠なのだ。つまり文化そのものが実に植物的なのだ。

No.339でコメント頂いた芸術新潮12月号を読んだ。内田樹氏はコラムの他に対談でも登場しているが、彼は能を実践するに当たって、昔の日本人が想像力のレベルを越えた幻聴や幻視の能力に長けており、それを想定して能が作られたのではないかと考察している。
能の詞章はあの通りゆったりしたリズムで謡われ、情景を思い浮かべる時間が豊富にある。特に松の葉の揺れる音や波の音など聴覚的表現が巧みで、少し稽古を積んだ者ならその音が頭の中で再現される、つまり幻聴に耳を遊ばせる能力が身につくと指摘。しかし風景を幻視するには更に研鑽が必要で、その理由を戦後の日本が幻聴や幻視を精神病の一種と見做して社会から排除する方向に進み、幻視の習慣が廃れたためとしている。幻聴ならまだ空耳で許されるが、幻視・幻覚はかなり現実から離れたお騒がせ行為として忌避され、幻視力を阻害された今日の日本人は能を楽しむ能力をも半減させたと推測している。
なかなか穿った考え方である。古典芸能に係わっている読者の皆さんは如何思われますか。古典芸能衰退の原因は、単にトレンドの問題ではなく、人間の五感をはじめとする感覚機能の低下・退化とすれば、機能を回復させればまた違った結果になっていくのだろうし、何より現在古典に親しんでいる人はそうでない人と比べて感覚機能が別モードになっていると考えられる。こんな風に人間を分析するのもありですね。
by hikada789 | 2013-01-19 15:28 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
中沢新一と坂本龍一の対談『縄文聖地巡礼』にこんな話があります。ロシア(ソ連)のエイゼンシュテイン監督はディズニーの「バンビ」を見て「動きはいいけど背景の森が死んでいる」と批判している。彼の感覚では、カメラが追っている主体だけでなくその背後の風景にも呼吸している生命が感じられなければならないのだ。ロシアでは今日でもアニメーションは映像芸術として認識されているし、当時はイデオロギーとして社会主義が資本主義を批判していた時代だったのでなおさら、商業目的のアニメや映画に対して「これを観た人にどんな精神的作用を及ぼし得るのか、どこにリアルを通した真実が見受けられるのか」という真面目な非難が素直に吐露されたものとみえる。
ロシアの芸術や文学が主人公でないものにも細やかな注意を払って何某かの役割を与える傾向があるのは、人間なり動植物なりそれぞれに生命があって輝いており、ある人物にとってそれが取るに足らないものであっても、その対象自身や周囲の誰かにとっては大いに重要であるのだから、脇役や背景だからといってなおざりにするのは当たらないという考えが伝統的に浸みついているからである。

ディズニーに限らず米国の作品は未だにこのエイゼンシュテインの批判から学んでいないし、広くはヨーロッパもこうした価値観で長くやってきた。以前フランスの作家アンリ・トロワイヤを採り上げて、総じてフランス文学の作中の脇役がゴミみたいにぞんざいに捨てられていると紹介したが、こうした傾向はキリスト教による主人公(神やキリスト)の絶対性に価値が偏るあまり、その他大勢はその高みに到達できないクズだとする無情な選り分けを奨励する単純な世界観に加えて、個人を尊重する近代の社会通念が近視的に視野を狭め、その背後の山河草木をつぶさに眺める視力を失わせたからではないか。
ロシアはキリスト教を受け入れたが、中世では「洗礼を受けたクマ」とヨーロッパ人に揶揄されたようにその判断は理性より感性や本能といった野生に依っており、奥深く暗い森と果てしないシベリアを抱える風土により、人間がちっぽけで哀れであることを認識せざるを得ない価値基準が、森の細部まで表現すべし、取るに足らない人間にも人生と意味があるのだとする芸術志向を生んだものと思われる。

こうした細部にこだわる芸術は当然重厚になるが、同時に冗長にもなる。その最たる例がドストエフスキーの小説で、専門家の間でも彼の文章は無駄が多く、細部にこだわり過ぎる、俗物の脇役にまで多くの頁を費やし、会話ももっとすっきり整理できるのにそのまま校正していない、と批判を浴びている。しかし本人はそうした欠点を敢えて直さず利点と考えていたらしい。いま『罪と罰』を読み返しているが、登場人物に「でたらめを言い続けている間にいつの間にか真理が引っ掛かったりするものなのだ。でたらめでも言わないで黙っていたって何も引っ掛かりはしない」と豪語させているのがその信条を良く表している。内田樹も「家でゴロゴロしていると突然いい考えがひらめくので、自分にとってゴロゴロは大事」と言っているから、少なくともある種の人間にはこうした迷走(瞑想)は無から有を生み出す魔法の鍋であるらしい。

ドスト作品に手を出しかねている方に、それがどれほど面白いか例を挙げよう。『罪と罰』のヒロイン、ソーニャは家族の貧困を救う為に娼婦になる哀れな娘だが、その原因はひとえに父親マルメラードフの体たらくにあり、幼子を三人も連れた元貴婦人の後妻を娶って首都へ出てきたものの、職にありつけない不満で酒に溺れ(彼は元官吏で、リストラに遭った)、運よく就職できても初めの給料を全部飲んで仕事に行かない。娘が泣く泣く娼婦になっても寝たふりをして無関心を装い、心の中でこんなことではいけないと自分を責めても、金を手にすると酒場に行ってしまうのだ。元貴婦人の妻はありえない貧困で心身共に病み、手元にあったなけなしの金を夫が盗み出して飲んで帰って来ると、怒り狂って夫の髪を掴み引きずり回すのだが、夫は自分が悪いことは判っているので、せめて引きずりやすいように膝立ちで歩き、妻の労を軽くしてやるのだった…
笑えたでしょうか。膝で歩くことが妻への愛なのです。ちがうだろ、まじめに働いて稼ぎを渡すのが愛だろ、と作中人物も読者も皆判っているが、現実はそうならない、どうしてか目的がおかしな方向へ外れてしまう。このリアリティを出すためのエピソードなので、マルメラードフは全くの脇役だし、小説の前半で命を落とすのですぐに出番はなくなるのだが、ドストエフスキーは彼をここまで活写するのである。

マルメラードフはダメ男だが悪人ではなく、善良でさえあるのに、彼と彼の家族の窮状を神様は助けてくれない。そんな神様が決めた罪は本当に罪なのか、というのが『罪と罰』の本題で、別のエピソードで主人公が取り組むテーマです。主人公がヒロインと対話する場面では、ヒロインはわが身を嘆くより父親の髪を引きずった継母を憐れんでこう言います。
「あの人は子供なんです。あの人は曲がったことはしません。世の中が何もかも正しくなるなんて、そんなわけには行かないってことに気付かないでイライラしてるんです。まるで子供ですが、あの人は正しいんです。」
19世紀のドストエフスキーの時代から、世の中が何もかも正しくなることはあり得ないそうです。それに気付かないのは子供だそうです。耳が痛いですねえ。
by hikada789 | 2013-01-17 14:28 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
カテゴリ「算命学の仕組み」に以前書いたように、算命学は宿命と呼ばれる陰占とそこから抽出した陽占の基本二種類でできています。陰占は十二支十干の文字をそのまま読み解くもの、陽占は「〇〇星」という星で鑑定するものであり、通常鑑定師は両方を見て総合的に判断しますが、おそらくどの鑑定師も陰占が得意な人と陽占が得意な人とに分かれると思います。一般に、陰占は目に見えにくい運勢の力学を、陽占は比較的目に見える人間関係や性格を表すとされており(あくまで比較の問題。絶対ではありません)、鑑定者によってどちらか得意が偏るのは、その鑑定者本人の宿命によるものだと私は考えております。鑑定者だって人間であり、生まれた日があるので、その影響を受けて人間が形成されるのは当然です。
なので依頼人は、もし選べるのであれば用途に応じて陰占と陽占のどちらかが得意な鑑定者を探して鑑定を依頼するのがベストですが、それは同業者であってもなかなか区別がつきにくいし、鑑定者本人だって自分がどちらが得手なのか自覚がなかったりするので、実質上鑑定者を選り好みするのは無駄な労力になりそうです。依頼人が理性を失っていないならば、鑑定者の鑑定能力以前に、その人格や理知の有無を量って相談を持ち込むのが良いでしょう。

以下は宇宙人の私見ですので万人に当てはまるものではありませんが、相談は基本的に「大人」に頼むべきです。普段の生活でも判らないことがあったら子供に聞きはしませんよね。パソコンとか昔なかった機械の使用方法などでない限り、大人の方が子供より知識も経験もあるものなので、人生相談ともなれば、当然年上の人間にアドバイスを求めるのが自然です。しかしもし近くに相応しい目上がいない場合はどうするか。
No.335に掲げた十二大従星は、仮に年齢や人生経験が同程度の人を比べた場合、その「類推」される性質つまり従星の成熟度によって人間に差が出るということは大いにあり得ます。
相談者として適切なのはまず老人である「天堂星」です。この星の支配下にある人はそう危ないことを勧めませんし、経験や実績を丹念に洗い出して一番間違いの少ない助言を出してくれます。つまり安全牌です。次にリアリストの壮年「天禄星」が冷静なアドバイスをくれそうです。「天将星」も大人ではありますが、この人は家長=リーダーなので時に思い切った賭けをしなければならず、狙いが外れる危険もあることは承知しておきましょう。また青年の「天南星」はそれより年下の者が相談を持ち込むのはありですが、特徴にもあるように既成の事物に対する批判精神が強いので、まっとうな大人たちからは「経験もないのに口ばかりの生意気な小僧」と思われており、公平な判断が下せる分野は限られております。

逆に相談しない方がいいと宇宙人が思うのは、少年の「天恍星」です。赤ん坊の「天印星」や児童の「天貴星」より危なっかしい。それはその目がきらびやかな物に惑わされやすいという弱点を持つからです。算命学は2000年以上も前に成立した半ば統計学ですが、当時の人間は既に思春期の未成年がアイドルや豪華な衣裳、ロマンチックな恋や舞台で注目される行為などに滅法弱いという事実を発見しております。
皆さんも心当たりありませんか。中高生の頃にアイドルと同じ髪型にしてみたり、おのれの小さな不幸を探してこの不幸がもっと大きければ良かったのに、そしたら悲劇の主人公になれるのにとがっかりしたり、日記に書いてウットリしたりしませんでしたか。算命学はこうした傾向が人間の成長に欠かせない要素だと看破しているわけですが、同時にこれは弱さでもあります。憧れはそれに近付こうとする意欲を人間に与えるので悪いことではありませんが、その憧れの対象と自分を混同したり、ぱっとしない現実を拒絶する危険性も孕んでいるので、そういう意味で天恍星に人生相談を持ち込むのは相応しくないのです。

赤ん坊の天印星がこれよりマシだというのは、その性質そのものが未熟という点ではなく自分が動かなくても他人を動かす能力を備えている点であり、この「赤ちゃんが泣いているだけで周囲の大人があれこれ世話を焼く」という人間の本能を良く弁えているからです。つまりどうすれば人を動かすことができるか、所詮人間は一人では何もできないという真理を知っているから、助言者として適切なのです。
同様に児童の天貴星は自意識が強く潔癖、正義感の強さが特徴で、そうした観点から物事を判断するのは他人に対するアドバイスとして的を射ていないとはいえないからです。

天恍星の皆さん、けなしてしまったようで申し訳ない。あなた達は助言者としては相応しくないというだけで、大いに長所はあります。それはずばり「若々しいこと」です。美しいといっても過言ではなく、陰占では金性生まれに美貌がつきものですが、陽占では天恍星がこれに当たります。年をとっても若々しくときめき、恋もしています。老人星が老人になったらもう恋は無理でしょう。皆さんはどちらの星があったらいいと思われますか。宇宙人は一応こういう宣伝をするからには天堂星を持っております。たまには宣伝しないと生存が危ぶまれるので自讃してみました。人生相談お待ちしております。
by hikada789 | 2013-01-15 15:09 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回、七五調でつづる我が国の伝統文芸が音楽を伴う芸能と密接なつながりを持つという一例を採り上げてみたが、この傾向は江戸時代、ひいては明治初期の文芸にまで脈々と受け継がれている。厳密には今日でも七五調的リズムのある文章を日本人は無意識に好んでいると思うが(標語とかね)、今回は文楽の話である。
といっても宇宙人は能を習っているだけで文楽には疎い。愛好家の友人の誘いで去年初めてナマ舞台を観たきり、ファンというほどでもない。ただ浄瑠璃のゴロゴロした声には刺激を受けるし、人形も人形使いも高度に洗練されている芸術であることはひと目見れば判るので、どこかの市長が文楽はいらないとか吐いていたのに嫌悪を覚えるし、大人気にならなくともこれ以上衰退・絶滅させたくない芸能だとは思っている。つまりいい物なので失うのはもったいないと思う。
そのレベルからどう飛躍したものか、宇宙人は文楽の床本(シナリオ)を書くことになった。お題目は『罪と罰』。ドストエフスキーの原作を文楽用にアレンジした脚本です。

『罪と罰』は言わずと知れた世界文学。皆さんも学校の教科書で名前くらいは知っているでしょうが、読んだ人はいるかな。教科書レベルのあらすじだと「殺人を犯した青年が様々な人に諭されて改悛する話」で終わってしまうのだが、上下二巻の分厚い文庫本にびっしり文字の並んだドスト節が、そんな単純なオチで済むわけがない。確かに青年は自首するが、この小説の本題は自首した後の服役中の当人の葛藤であり、当人を殺人に駆り立てた社会と人類への警告である。
文学的な考察は本編を読んで頂けば判るので割愛して、これを文楽にするとどうなるか。誰もやったことがないので判りませんが、凡その見当はつく。なぜなら舞台は時間が概ね決まっており、登場人物も人形と人形使いの数に限界があり(オペラのような人海戦術は不可)、人間が演じる芝居と違って台詞は少なく、浄瑠璃が情景や心情をながながと解説してくれるので、場面としてはいいとこ取りのダイジェストで構成が可能である。つまり絵的にウケそうな主人公の殺人シーンやヒロインとの掛け合い、刑事に追及されるサスペンスを場に選び、ドスト節を浄瑠璃に語らせて繋ぐという方法で作り上げるのである、と宇宙人は想像した。あとは浄瑠璃が語りやすいよう七五調に努めた詩文体にまとめられるかである。(拙著『メタフォーラ』に幾つか掲げたような半端な詩文でよければいくらでも作れる。)

このプロジェクト、現段階ではナマナマのお粥状態で、提案としてかぼちゃの種が一粒浮いている程度なので、固形物となって食卓にのぼる日が来るのかかなり疑問ですが、この際『罪と罰』を20年ぶりにじっくり読み直してみたい気分になり、能稽古で体に浸み付いた七五調でどこまで執筆可能か挑戦自体に興味が湧いて、事の成就は問わずやることにした。私は能稽古を始めた頃の昔、能で『罪と罰』ができそうだと夢想したことがあったが、能に比べれば人情物が主流の文楽の方が扱いやすいと思うし、もちろん文楽玄人による監修は必須だが、こちらはプロではないから却って自由に書けそうだ。

というわけで、宇宙人の脈絡の見えない活動や小説の次回作をご期待の皆さん、今年はこんな新たな境地を切り拓くことになりました。例によって実入りはありません。米、味噌類のサポート、よろしくお願い致します。
(なおプロジェクトの発起人は「もっと名古屋に文楽を」という活動で大阪文化の文楽を名古屋に広めようと尽力している友人です。Facebookに専用ファンページもあるので興味のある方は是非ご覧下さい。)
by hikada789 | 2013-01-12 14:30 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)