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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2013年 08月 ( 13 )   > この月の画像一覧

前回つづきの術後経過。獣木野生の漫画『愛でなく』ではさまざまな愛の形を採り上げているが、強い女性キャラ満載の中でも特に異彩を放つジョゼがまだ友人で後に恋人になるフロイドにふざけたキスを強要されるシーンでは、怒り心頭のジョゼが相手の舌を思いっきり噛み切り、余りの痛さに男は女を突き飛ばす。男は口を押さえて「出血多量で死なないだろうな」と蒼白になって我が身を心配するのを、ジョゼは「口の中の傷は他の部分より回復が早いのよ。昼ゴハンだって食べられるわ」と冷ややかに言い放つ。「鬼のような女だぜ」。

こんな予備知識があったので、今回の排膿切開で苫米地英人似の耳鼻科医がいかに無神経なアドバイスをしようとも、その痛みと出血ほどには回復は遅れまいとの予想はあった。「(術後は)何を食べてもいいです」と雑な指示を出す医師ではあったが、まだ体力に影響は出ていない宇宙人は、嚥下さえ耐えられるようになれば回復はすぐだと見做していた。もう水もろくに飲めなくなって1日が過ぎていたが、切開部の塞がるのをじりじりと待って、暑さもあって、術後5時間後にみぞれアイスを溶かして口に運ぶ。
…ああうまい。なんてうまいんだ。まるで過酷な減量の後に食事を許された矢吹ジョーの心境なのだ。みぞれとレモンシロップが微妙に患部を刺激するが、充分呑み込める。おそらく脱水症状が近かったのだろう、シャクシャクと軽快な音を立ててカップを平らげる宇宙人。あまりのうまさに今度はコーヒー味のカップを開ける。この夏はまだ1つも食べた事がないほど疎遠なみぞれとこれほど仲良くなれるとは。
3つ目のカップを我慢して、2日ぶりの食事の準備に。この病は口が大きく開かなくなるので、サイズ調整のきくものをと豆腐、梨、はりきってパスタを茹でてレトルトのミートソースに挑戦。首尾よく患部を通過。ソースの酸味がこれまた傷口を刺激するが、食欲が圧倒した。腹が減っていたのだ。宇宙人の自主断食の限界は若い頃で7食だったから、ちょうど限界に来ていたのだな。よしよし、ゆっくりお食べ。

さて、ここで病気の原因を解説しよう。扁桃周囲腫瘍は細菌が原因の病で、この初期段階のものを扁桃炎と呼ぶ。風邪を引いた時に喉が痛くなる場合があるが、要はこれと同じで、細菌といっても特殊なものでなく、その辺に浮遊している雑菌の類である。特におかしな場所で拾ってきたということでもなく、一般的な風邪の原因と被っているらしい。私の場合、暑さのあまり窓と玄関を開けて風通しを良くして寝たが、このため喉を不要に乾燥させ雑菌を付着させたと思われる。体力が減退していたという自覚はないが、この夏の暑さでは多少の夏バテは否めない。スキ間に入られたのだ。
予防は風邪予防と同じ。早期治療が効果絶大で、イタイと思ったら耳鼻科に行って抗生物質を投与してもらえばまず治る。しかし放置して膿を溜めると喉が狭まり、激痛のあまり食事、水、唾液の嚥下不能に陥るため、やむなく膿を突いてブシュッと出す治療法になる。更に進行すると喉の奥に広がって、口腔からメスが届かなくなり、入院投薬治療となる。ここまで進行すると一滴の水も飲めなくなり、発声も不能、脱水症状から衰弱して死に至る場合もある。宇宙人は「放置して膿を溜めた」段階だったので、切開排膿と点滴投薬、その後は翌日のみ再度点滴し、5日間の錠剤服用で完治するコースであった。

「あった」というのは、ええと、実は今朝になって悪化しまして。昨夜まで順調に引いていた痛みが朝になったら盛り返してきた。ハッ。窓からいい風が。またしても同じ過ちを繰り返してしまったらしい。熱帯夜がいけないのだ。冷房して寝たら益々乾燥するし。というわけで、宇宙人の闘病記はまだまだ続きます。思わぬ連載になったものだ。今日は金曜だから、週末の休診を警戒して再度点滴に赴くか、錠剤で週明けまで様子をみるか、訊いてみよう。
by hikada789 | 2013-08-30 08:32 | 整体の仕組と健康 | Comments(0)
前回記事を訂正致します。風邪ではありませんでした。固形物どころか水も通らなくなり、いつの間にか喋れなくなった喉は、耳鼻咽喉科で扁桃周囲腫瘍と診断されました。その場で切開手術。ギャーなのだ。
せっかくの経験なので後学までに手術手順を開陳しよう。(痛かったので悔しいのだ。)まず問診と視診と鼻の穴カメラで簡単に病名が判明、「腫瘍を取って、溜まった膿を出します」とだけ医師に言われて看護師たちに引き渡され、専門装置で口腔内を洗浄。その後1本目の点滴が30分。これが終わる10分前にゼリー状の注射器がやってきて喉へ投入。10分間喉をゼリーでひたひたにする(浸透性麻酔である)。これが結構苦しい。咳込んではならんし。

点滴とゼリーが終わったところで医師の所へ戻る。診察台に腰掛けると宇宙人を左右から看護師が固定。専用の噴射機で再度口腔内患部を麻酔。もう一本、同じ場所に注射も入る。「力を抜いて下さい」とかぎ針状の道具を口に突っ込む苫米地英人似の医師。ブスッと刺し、捻るように手首を回す医師。ブシューッと液体が噴出するのを口腔内に感じながら、痛みに耐える宇宙人。本当に麻酔は効いているのか。「ホラ、膿が大量に出てきましたよ、臭いで判るでしょ」と陽気に実況する医師。この状態でどう答えろっていうんだ。だから医者は嫌いなんだ。無神経なんだよ。
心ゆくまで膿をこし出した医師は宇宙人を解放し、次の患者さんへ。口を閉じて悄然と立ち尽くす宇宙人、身振りで口の中の物を吐き出したいと伝える。看護師が手際よくティッシュとビニール袋を手渡す。ティッシュは血まみれになってビニール袋へ押し込まれ、これを何度も繰り返しながら二本目の点滴。寝台に寝ていいと言われたが、仰向けだと呑み込めない唾液が溜まって苦しいので体を起こし、30分は長いので本を取り出して読む。『一度死んでみますか?漫談・メメントモリ』。島田雅彦としりあがり寿の対談本である。なんとこの場に相応しい図書であろう。

しかしこの30分の間に隣から聞こえる患者と医師のやりとりがなかなか面白い。赤ん坊の泣き声なんぞ無神経が身上の医者にしてみれば一番扱いやすい。要するに全く無視である。あやしているのは専ら母親と年配の看護師で、若い看護師さえかまってやらない。確かにかまったところで効果はないのだが。私も痛みの余り、泣き声にしばらく気付かないほどであった。
次に難聴の老人。やはり点滴ルーム行きで、補聴器の電源を外すよう看護師が頼むのだがなかなか聞き取れず、ようやく意思疎通したら「これ外したら何にも聴こえなくなるよ」とまたどうにもならないことを言う。笑いをこらえながら看護師の反応を待つ宇宙人。結局、電源だけ切って点滴が終わったら看護師がつけ直すことで話がついた。あ、隣の様子は見えなかったから、点滴ではなく何か電波障害を起こしやすい精密機械を使っていたのかもしれない。なにしろ宇宙人は出血で朦朧としていたのだよ。
最後は年配の女性。「どうしましたか」と尋ねる医師に、「最近頭がフワーっとして、なんだか暑いせいかしら」と世間話を始めるのを、すかさず医師、「今日はどこを悪くして来たんですか。頭とかの話はここは専門でないので耳とか喉の話をして下さい」とピシャリ。喉の痛みと笑いに堪える宇宙人。クリニックって結構面白いのだな。ちょっと医師に同情する。医者は患者を選べないからねえ。診察を拒否したら罪に問われるそうだし。

こうして30分休憩した宇宙人は処方箋をもらい、明日もう一度経過を見るため来院するよう言われて解放された。お会計でため息をつく宇宙人。この夏は運勢相談依頼が続いて懐に余裕が出ていたのに、まさかこの日に備えて神様が斡旋してくれた仕事だったのだろうか。ワタクシの米・味噌代金が。また節約の日々というわけか。よかろう。ここ3日ほどは食費がゼロだったんだし、梨だけで結構生きていけることも判ったし。水分しか摂っていない割には元気なのだ。今まで病気することがなかったから、これくらいの手術の手間と費用も大体把握できたし、良しとしよう。
扁桃周囲腫瘍の原因については明日聞いてくるけど、寝冷えしたのが原因ではないのかも。どこで種を拾ってきたのやら。皆さんもご注意下さい。
by hikada789 | 2013-08-28 13:47 | 整体の仕組と健康 | Comments(0)
風邪を引きました。先週あまりの暑さに裸で寝たのが悪かったのだ。喉が痛いなと思っていたらみるみる腫れ上がり、喉の左側がせり出して食べ物の通り道を塞ぐこと2日。嚥下が痛いので水もちょっとずつしか飲めず、梨しか食べられない。幸い猛暑はここ2日引っ込んでいるので自宅療養しても苦痛ではないが、熱で目が乾くので本も読めず退屈だ。
退屈なのでなんとなくテレビをつけてしまう。内山高志以外のボクシングを見てしまった。プロデビューの村田は良かったね。彼も内山と同じ礼儀正しいボクサーで、リングの四方にお辞儀していた。インタビューの受け答えもまとも。こういうタイプのボクサーが増えれば、世のだらしない少年らも手本にしやすかろう。私は「ナントカ王子」的な青年らには評価が厳しいが、ボクサーという暴力の専門家が普段の生活で行儀よく生きているのを見るのは嬉しいのである。
しかしミドル級はでかいね。日本人が活躍できる階級は内山のスーパーフェザー級までかと思っていた。日本人が王者になれる階級はミニサイズが多く、減量で鶏ガラのようになった体でちょこまか動くので見ていて楽しくなかったが、大きくなったものだ。

この2日に起きた事件で記事にしようと思いつつ書けなかったテーマのうち、1つくらいは挙げておこう。『はだしのゲン』事件です。ヘタに隠すと余計に見たくなる。今回の事件で『はだしのゲン』の購買数が急増したのは出版社側の営業努力でも何でもない。閲覧制限したかった教育委員会側である。本当に読ませたくなかったのなら閲覧制限などしなければよかったのだ。こんなトンチンカンな人たちが教育を牛耳っているなんて、子供たちが哀れである。松山市の教育レベルの評価だって下がるだろう。松山出身者はおバカだと思われしまうではないか。まったく余計な事をする。
『はだしのゲン』を読んでいない宇宙人は作品の評価はできないが、古い作品ということもあって、口のでかい主人公の作画が怖く、今後も多分読まないだろう。なに、わが居住区の図書館には子供誘致のためにマンガコーナーが設置され、『ベルセルク』も『残酷な神が支配する』も自由に読めるのだから、暴力も虐待も簡単に見れるのだ。誰かがこうした図書を引込めろといった話は聞かない。どちらもフィクションだがリアルだし、つまらなければ子供だって読みはしない。こういう作品を読んだことのある子供の方が世界観は広がるだろうに、それが判らない浅い大人たちは引っ込んでいてほしいものだ。

ところでなぜこのテーマを挙げたかというと、運勢鑑定の依頼者に時々未来予想を求める人がいるんだよね。算命学は未来を100%当てるものではなく、可能性の高さ低さを算出するものだとあちこちで書いているのに、結婚できるかとか、試験に合格するかとか、そんなのは本人の努力次第なんだから訊いたって意味ないし、もし「合格しますよ」と言われて試験勉強をやめてしまったら落ちるに決まっている。こういう安易な質問で回答を得ようとするのは、『はだしのゲン』を取り締まった教育委員会と同じで、却って逆の結果を招くことになるからやらない方がいいのだ。
算命学が提示できるのは可能性の高いもの、注力すれば効果が出やすいもの、その時期に物事を始めると思うような結果にならない時期といった、確率に係わるものであって、100%そうなるという回答はもとよりないのです。確率を高めるのはひとえに努力であり、努力もなしに、隠した本が思惑通り読まれなくなるという結果にはならないのです。
by hikada789 | 2013-08-27 08:20 | 算命学の仕組 | Comments(0)
我々人間は、地球という大地の上に足を踏ん張り、絶えずその重力を受けて生きているので、その存在の基盤は土の上にあると、算命学では考えています。子から始まる十二支は、算命学では時間を表していますが、その時間とは太陽の周りをめぐる惑星である地球に生じる四季の移り変わりであり、子を冬至と定めて、亥子丑が冬、寅卯辰が春、巳午未が夏、申酉戌が秋、というふうに十二支に四季を振り当てました。
一方、四季というのは太陽との位置関係により地上に暑さや寒さ、植物の芽吹きと繁茂、結実、冬眠といった作用を引き起こすため、これを五行に当てはめて、最も暑い夏を火性地、反対の冬を水性地、その中間である春分と秋分を頂点にそれぞれ木性地、金性地とし、それぞれの性質が強い季節・場所として認識しています。

四季は四種類、五行は五種類。五行に一つ足りない四季には、土性がないかのように見えますが、最初に申し上げた通り、我々の住む世界は地上を基盤に構築されているので、土性は実は一年中存在しているのです。では十二支のうち、どこに土性を滑り込ませるかという段になって、算命学の創始者たちは、ひとつの季節に割り当てた3つのアイテムのうち、最初と真ん中は勢いが強いとしてそのまま残し、衰退に向かう最後のひとつを土性に振り当て、次の季節へと繋げる季節の変わり目、調整役としての機能を見出したのです。従って、それぞれの季節の最期の十二支である「丑、辰、未、戌」は土性であり、四季に満遍なく配置されることとなりました。

前回の余話では、昨今多発している土砂災害に絡めて水と土の関係を考えてみましたが、今回は、自然災害として恐れられる土砂災害を人間の宿命に当てはめたとき、算命学はどういう見解でいるかという点について、話を進めてみようと思います。一部、格法と守護神法の話に触れますので、購読料にご注意下さい。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「足下崩壊を考える」です。「算命学余話 #U21」で検索の上、登録&ティラミス1個分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2013-08-23 09:35 | 算命学の仕組 | Comments(0)
No.437で触れた対談集『沈黙より軽い言葉を発するなかれ』にこんなエピソードが書かれている。戦争などで疲弊した貧しい国に行ってボランティア活動をする日本の青年たちを取材したドキュメンタリー番組製作で、青年たちになぜボランティアをするのかを鋭く問い掛けたところ、彼らは現地の人々をかわいそうとしか思っておらず、善行をしている自分を自他共に認めていると信じきっているため、本当に現地の人のためになっているのかという厳しいツッコミに反発し、取材班は最後まで青年たちと対立したままだったという。

ほらほら、陶酔だよ陶酔。この番組見たかったな。対談は東北の震災についても同様だと語っているのだが、本当の善意・善行とモドキとは区別しなければならない。困っている人を助けるのは善行だが、困ってない人を困っている人だと決めつけてそこに助力するのは善行ではなく自己陶酔なのだ。
貧困国というと、いい大人が飢えた子供を抱えて衣食もままならない生活に耐えているというシーンばかり強調されるが、それほど困っていたら人間はとっくにばたばた死んで民族は丸ごとなくなっている。実際そう簡単に絶滅しないのは、彼らには未だ活力と知恵があり、貧困なりに活路を見出してしぶとく生き残っているからである。困難な時こそ人間力が威力を発揮するのだ。一時的な支援は有難いかもしれないが、いつ途絶えるかもしれない他人の援助にすがって何十年も生きていくわけにはいかないから、それより確実で継続的な解決策である自助努力に頼った方が幸福への近道であることが、彼らには判っているのだ。そうした生命力漲る貧困集団の中で、やわな環境に育った日本の若造らが役立つ場所などあるのか。却って足手まといになっているだけではないのか、と対談は問い掛けている。

昔イラク戦争の頃に、やはり現地で活動する日本人ボランティアが武装勢力に拘束されて日本政府に助けを求め、救助された後に世間から猛烈にバッシングされた事件があった。渡航禁止地域に指定されている場所にわざわざ行って、案の定危険な目に遭い、その救出のために税金を使わせた恥知らずだというのだ。この時のこうした世論は概ね肯定されて、ボランティア青年らの軽率さと自己満足が招いた迷惑を非難する風潮が一時的に広まったのだが、事の本質について議論されることはなかったように思う。つまりボランティア活動とはどうあるべきかとか、どういう覚悟で臨むべきかとか、支援しているつもりで実はという事態もありうることについてとか、真面目に論ずることなく事件は忘れられていった。
あれから20年以上経って、自国に震災が起こり、日本人同士で支援するのされないのという段になっても、多くの若者たちは同じ過ちを繰り返している。先人が過去の過ちを伝えないからだ。自己陶酔のための活動ではないのかという厳しい問い掛けをする大人がいないのだ。

イラク事件の被害者の中に女性が一人いたが、この人はその後大層苦しんだ末、遂に生涯をイラク支援に捧げる覚悟を決めた。単なる自己満足のためにやっていたという世論に押し潰されないために、再びイラクに赴き本当に現地の人々に必要な支援を模索して活動しているようである。私が知る限りではあるが、事件前は孤児らの生活と教育支援のような保母さん的な「手ぬるい」活動をしていたのを、現在は劣化ウラン弾の後遺症で流産や奇形児出産に苦しむイラクの女性支援や人道告発といったハードな活動にシフトしている。女性ならではの戦争告発は、善行を通り越してもはや闘争である。ここまで突き抜けると、それこそ安全な場所にぬくぬく暮らしている世論ももはや非難はしない。この女性はあっぱれな例だと思うが、他人を支援するということがいかに切実か、どういう罠に陥り易いか、若人たちはその重みについて真剣に考えてから現地に赴いてほしいものである。

かくいう私も、若い頃に旧ソ連の小国でボランティアに近い日本語教師をしていたが、現地滞在早くも1ヶ月目くらいには、貧困と報道されるその国に支援や同情など必要ないことを痛感した。彼らは自力でなんとかやっており、各国の支援を大して有難がってもいないからだ。それどころかその国は欧州人としてのプライドが非常に高く、大した根拠もないのにピノキオのような鼻を持つことが内外に知られていたため、謙虚さに人の美徳を感じる宇宙人の心の琴線を逆撫でし、1年で隣国の素朴な熊の国ロシアへ脱出したのであった。その後知り合ったロシアの友人らに当時の私の感想を語ったところ、「小国の人はプライドが高いものですよ。そうやって自分らしさを強く意識して誇示しなければ大国に押し潰されてしまうから」と寛大な答えが返ってきたので、私は益々ロシア人の株を上げたのであるが、同時に当時の若い自分は、欲のない献身的な活動というものに何らかの自己満足を求めていたのだなと恥ずかしく思い、以後は軽率で嘘っぱちな善行は慎むようになったのである。

自己を犠牲にして他人を支援する行為は称賛に値するとは思うけど、その犠牲が本当に役に立っているかどうかは相手が判断することである。相手が助かっている、感謝している、とこちらが思うのは勝手な驕りなので、そういう見返りを期待しない活動こそが称賛されるべきなのだ。ボランティア活動は、世界中から非難を浴びてもこれをやりたい、という強い意志の持ち主のみがやるべきで、同情といった薄っぺらい動機で行っても却って迷惑になったり、相手のプライドを傷つけたりするものなのである。
by hikada789 | 2013-08-20 09:50 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
漢字の成立ちから変遷までを解説するラジオ講座を楽しく聴いている。山という漢字は山の形を、川という漢字は川の流れる様を表して形成されたものだが、このパターンで普及している漢字の成立ち説は意外と間違いが多いという。原因は漢字を発明した中国人と、それを輸入して独自に使用している日本人との感性の差であるらしい。

例えば「人」という字は「人と人が出会い、二人で互いを支え合っている形」という説明が一般的だが、これは日本における俗解であり中国では通用しない。中国の原意は「一人の人間が腕を伸ばして自らを支えている様子」であり、自立・自活して生きるのは苦しくて思わず腕を伸ばしてしまうのが人間だ、という意味である。そうだったのか! 何とも本質的ではないか! では「二人で支え合う」という説はどこから来たかというと、なんと金八先生の名台詞からだという。30年そこそこの歴史だ。
なるほど日本人は何やら美しい人間像を漢字の成立ちに求めたいのだな。それに引きかえ中国人のシビアなこと。私は現代の中国人は嫌いだが、古代中国人のこの卓見は大いに尊重したい。よく見れば、人という字は疲労して膝をついた人間が両手を地面について喘いでいる姿にも見えるではないか。何たる真実。中国人、おそるべし!

まだある。「食」という字も、日本では「人に良い」つまり栄養を摂ることとして広まっているが、中国の原意は「蔵の中に物資(食料)が積み上がる風景」を意味している。健康を支えるという抽象的な意味ではなく、ずばり生産物の蓄積が食うことだというのだ。中国人、リアルすぎる。こんな人たちの子孫と、柔和な意味論を好む日本人と、同じ価値観でやっていけるわけがないのである。対中外交官、このラジオ講座を是非聴いてくれ。

中国人による漢字の発明経緯の異常さは考古学者の間でもよく知られている。最近テレビで紹介していたから知っている方も多いと思うが、「白」という字は何から来ているかというと、白い雲、ではなく、白い花や生き物、ではなく、ずばり「頭蓋骨」なのである。つまり漢字が発明された頃の中国(の某地域)では、隣国との戦争によって敵の耳ではなく首を戦利品として持ち帰る習慣があり、持ち運びに便利なように肉を落として頭蓋骨だけにした、それが「白」だというのだ。
まさかの回答である。これには欧米の言語学者もびっくりで、通常の古代文化では、文字というのは商業活動の必要に応じて数や製品情報(色や素材)を表すことから始まり、次第に複雑化したというのが定説なのだが、中国はそんな定説には嵌まらないのだ。色がいきなり頭蓋骨と直結するのである。好悪は別として、これぞ人類の多様性というべきなのだ。

中国人の衝撃の感性ばかり注目しては不公平なので、もう少し理性的な話も紹介しよう。唐代の則天武后は自分が即位した時、国号を唐から周に変えたことは有名だが、この他にも幾つかの漢字の字面を変えるということをしている。その中の一つに「国」があり、当時は「國」というのが正式な漢字だったが、ある臣下が「この字は下に心が付くと「惑う」という文字になるから不吉だ」と進言し、代わりに「八方うまく行く」意味が含まれる「圀」を正式な文字に変更した。則天武后が死ぬと彼女が変革した制度は軒並み廃止されて、国号をはじめ元のものに戻されたのだが、変えた漢字もまた廃止・使用禁止となり、元の漢字が復活した。ところが禁じられる前に日本に渡ったものが生き残り、「水戸光圀」のように由緒正しい旧字として定着したという。
ちなみに「国」という字はもともと中国では「玉」ではなく「王」が入っていた(これまた即物的な中国らしい発想)が、平安時代の日本で「玉」の方が字面が美しいと思われ(宝石の感覚だろうか)、これが定着した。中国ではずっと「國」を正式な文字として「国」は略字扱いだったが、1950年代に共産中国が簡体字を定める際に、「國」は画数が多いので却下し、日本でも通用している「国」を採用した。台湾や香港は繁体字のままなので、今も「國」を使っている。

そうだったのか、漢字。最近は漢字の書き順を正しく知っているかを競うクイズ番組が流行っているが、ラジオ講師の語り口では、こうした事情も知らずにここ数十年ばかりの短い間に広まった通用漢字や書き順の知識を競ったところで意味ないよ、ということらしい。書き順どころか文字面そのものも、時代によって正規の基準が違っていたのだから。
ラジオ講座ではどの先生も現代風潮批判をさらりとするので油断できない。以前もグリム童話の講師が昨今の出版物をやんわり非難していたっけ。親孝行も時代の流行にすぎないと解説した先生もいた。ラジオ講座、侮れません。
by hikada789 | 2013-08-17 08:42 | その他 | Comments(0)
終戦記念日です。我が家のある下町では毎年川辺で灯篭流しをしているが、今後どのくらい続くのか、戦後生まれの世代だけになっても開催されるのか不明である。私は戦争反対をヒステリックに叫ぶ市民団体などにあまり好意的ではないが、かといって忘れてもらっても困るという立場でいる。戦争すると貧乏するのだよ。
戦争というと命という重い問題に注目することが多いが、最近は小ぎれいな病院で死ぬのが一般的になって、若い世代は自宅でじいさんばあさんを看取ったりしないから、死や死体と向き合う経験が不足している。こういう世代に命の大切さ云々と語っても観念的なものになりがちで危機感が湧きにくい。しかし消費税増税やガソリン代の高騰に不満を募らせる市民に、戦争するともっとひどくなりますよ、と耳打ちすれば危機感と厭戦感は高まるのではないか。不衛生に訴えるのもいい。映画やゲームが提供するバーチャルな戦争は小ぎれいだが、風呂に何か月も入れず昼夜虫にたかられるリアル戦時生活に現代人は耐えられるかな。打破されない理不尽の中で生き続けるというリアル。現代人よ、今の幸福を噛みしめよ。

宮崎駿監督の『風立ちぬ』が賛否両論を浴びながら上映中だが、わが愛するマイナー映画館、ユーロスペースでは8月17日から『陸軍登戸研究所』というドキュメンタリーを公開する。人体実験で悪名高い旧日本軍の毒ガス部隊の研究母体の話である。毒ガスのみならずあらゆる戦時の非道を一手に引き受けたような軍需複合カオスを追った、待ったなしの180分。終戦記念日を過ぎてから公開する心遣いが、内容の凄惨さを想像させる。米びつの中身を確認してから前売券を買ってしまった宇宙人なのだった。

ところでユーロスペースの建物は映画学校も入っている映画専門ビルで、他の階もそれぞれ小型映画館であり、4階のシネマヴェーラはカルト系の古い作品ばかりを期間限定で上映し、そこそこ人を集めている。ここは常に二本立てで朝から晩まで入れ替えなし。今月のテーマは「妄執、異形の人々傑作選」なのだが、美輪明宏の若い頃の姿が見られるというので『黒薔薇の館』(深作欣二監督、1969年)を見に行った。話はくだらないが、美輪明宏を眺めて歌を聴くための作品と思えば驚異の映像であった。
フェアは今月末までだし『黒薔薇』はあと一回(今日)しか上映しないようだが、今年は美輪イヤーなんでしょうか、8月31日からは渋谷の二カ所で『美輪明宏ドキュメンタリー』というフランスの監督の作品が上映される。『黒蜥蜴』(1968年)もレイトショーでやるというから、30代の美輪さんを見たい人はこちらへどうぞ。
美輪さんは長崎の被爆者だが、あと500年くらい生きる予定らしい。人類の進化と呼ぶべきか。
by hikada789 | 2013-08-15 08:35 | その他 | Comments(0)
この夏は連日35度を超える酷暑日が続き、国内ニュースのトップに採り上げられるほど関心が高いですが(いや、現在進行しているTPP交渉の異常さや、実質が定かでない好景気感への疑問から、国民の目を遠ざけるための国家の情報操作かもしれませんが)、深刻なのは暑さより土砂災害です。日本各地でおかしな雨の降り方をしております。床下浸水の被害が毎週どこかで報じられ、あまりに日常化したので注目度が低くなってますが、被害に遭われたお宅は大変です。家屋倒壊だって出てるし、家が潰れたら震災の津波被害と同じで、人は路頭に迷います。他方では降雨不足でこの暑いのに取水制限を強いられている。必要なところに降ってくれれば万事まるく収まるのに、自然はなかなか人間の希望通りにはならないものです。

私が年初に公開した算命学による今年=癸巳年の年間予報では、「豪雨」や「泥による災害」を予測していたので、有難くない当たり方をしたと云えばしたかもしれません(No.353参照)。癸は水、巳は火で、水剋火の相剋関係であり、上(天干)から下(地支)を叩く形です。つまり天災、特に雨による災害が暗示されています。また火性というのはもともと土性との結びつきが強く、更に巳の蔵干には戊という強い土性があることから、土砂にまつわる災害が連想される面もあります。つまり癸巳という干支の組合せには、「水剋火」の他に「土剋水」の相剋関係があるというわけです。

しかし水と土が必ずしも反目する関係かといえば、そうではありません。水を海、土を地球と考えれば、水の惑星そのものの形になります。また水を川、土を堤と考えれば、堤によって川は暴れることなく穏やかに流れ、田畑と人の営みを潤す豊かな風景となります。堤がしっかりしていれば、水は清く流れます。つまり、水が潤いという穏やかな恵みを周囲にもたらすためには、堅牢な土の力で制御する必要があるのです。そういう意味で、土は水に対して優越するのですが、水気のないパサパサの土は作物を育てませんから、土もまたある程度水を尊重しているという関係性を、基本として押さえておく必要があります。

というわけで、今回は土と水を手掛かりに、自然の風景から運勢をイメージしていく算命学の連想手法について考えてみたいと思います。
(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「土と水の風景」です。「算命学余話 #U20」で検索の上、登録&缶ビール1本分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2013-08-13 08:12 | 算命学の仕組 | Comments(0)
世界陸上がモスクワで開かれ、昨夜は女子マラソンの中継で今のモスクワ市の風景を映してくれていたのでつい見てしまった。東京は酷暑で熱中症搬送者続出の一日だったが、モスクワも異常な暑さで、路上は36度とか聞こえたような。この時期、ロシアは通常秋に入っており、8月10日を境に薄手のコートが必要になるのに。途中棄権者も多かったようだ。

20世紀の終わりに当地に暮らしていた宇宙人は、競技とは全く関係のない点で爆笑していた。マラソンに使用されたコースである。競技場を出てモスクワ川沿いにクレムリンを目指し、折り返し、戻って折り返し、また折り返し、3往復くらいして競技場に戻るというのだ。マラソンコースってこういうもんだっけ?マラソンや駅伝の盛んな日本では各地にコースがあるが、折り返しはせいぜい1回で、起伏に富んだ道路を、風景を次々に変えながら走るものだと思っていたが、こんなに平らな道を3往復もするとはどういうことか。モスクワは巨大な都市なのでコースはいくらでもとれるのに。

宇宙人の見解はこうだ。あの国は昨今経済が好調とはいえBRICSに入る新興国である。稼いだ外貨で街並みを化粧してはいるが、街の隅々までとはいかない。都市には貧富の差がある。私がいた当時はソ連崩壊からまだ間もない頃で、街はどこも廃墟のように老朽化し埃だらけだった。今回のコースが選ばれたのは、外国人に見せても恥ずかしくない名所めぐりコースで、ヘリで頭上から撮影されてもボロの見えない最良エリアだったからに違いない。
その証拠に、コース途中に建設途中らしい覆いを張った大きな建物があったが、その覆いの色やさらにその足元の塀が同じピンク系の色で統一されていた。きれいに見えるボロ隠しである。それにコース脇の建物は何となくピンク系が多かった。ロシアの古い石造建築物はパステル調のピンク・黄色・ブルー・緑に塗られる傾向があるが、ピンクばかりというように集中することはない。私がいた当時もあんな色ではなかった。世界陸上のために塗装をプーチンが指示した可能性大である。それにしても随分狭いご自慢エリアである。3往復しなければならないとは。

モスクワには前科がある。私が暮らしていた1997年にモスクワは建市850年祭というのをやっていて、やはり外国人誘致のイベントを街の中心部で開催したので、それまで灰色に汚れていたスターリン建築(背の高い塔のような巨大ビルで、6棟ほど点在する)を白く塗り直した。ところが確かその中の一つのウクライナ・ホテルだったと思うが、このホテルは郊外へ延びる街道沿いに建っていて、車で中心部からホテル方向へ向かうと建物は白いのだが、ホテルを通り過ぎて振り向くと、建物の後ろ側はなんと灰色のままなのだ。郊外の側から入る外国人はいないと踏んで、塗装をけちった、というより予算が足りなかったので前面しか塗れなかったのだ。なんとも中途半端なことをすると笑ったものである。今回のマラソンコースも同様なのだろう。時代が変わってもやることは変わらないロシア人なのだった。

特別な一押しコースとはいえ、確かに景観は素晴らしかった。天気もよく遠くまで青い空が横長に見え、あの国は雲の位置が低いと言われるが、新興国にも拘わらず金ぴかした高層ビルをぼんぼん建てることをしないので、空が広く見えるのだ。特にクレムリン周辺は帝政時代に建てた石造りの官庁建物や貴族の館を改造したマンションが立ち並び、今どきの高層ビルより余程美麗だ。高くても10階建てくらいまでで高さが揃っているから、空を見上げてもデコボコ感がなく、すっきりしている。1つの建物が巨大であるのもゴチャゴチャ感を排している。狭い土地にマッチ箱のような細長いビルを建てる日本から来た人間は、あの街を歩いていて「10軒先」を目指すと何百メートルも歩かされて大層疲れるが。
ああいう古い建物を再利用しているのはいいね。再利用できるものがあるというのが他のBRICSとの違いだ。これからも壊さないでほしい。今後男子マラソンでも映ると思うので、注意して見てみて下さい。
by hikada789 | 2013-08-11 09:02 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
猛暑再来です。うう、暑い。暑いので図書館の冷房に浸りながら仕事をする宇宙人は、陽が傾いて涼しくなるまで粘ろうとすると時間が余るので、普段読まない短編やエッセイなどを書棚から借りて読んだりしている。長編はこの季節はなかなか集中して読めない。
お騒がせ発言で話題になった田中慎弥の『共喰い』はなかなか良かった。映画化されて今月公開されるようだが、先日西部ゼミに脚本家の荒井晴彦が来ていてこの『共喰い』の脚本を担当したと言っていたから、見る価値ありかもしれない。舞台は昭和の終わりの岡山の僻村で、内容は猥雑なのだが、同じ岡山出身の岩井志麻子が「岡山は夜這いの国です」と吹聴していたのと何だか通底するものを感じた。芥川賞受賞作は久しぶりに読んだが、今の日本文学はこういう所を行っているのだな。悪くはないけど、やっぱり小さいですね、スケールが。『猛スピードで母は』も読んでみたが、いい作品なんだけど、世界が小さい。

世界を大きくすると娯楽小説になってしまうのが日本文学の現状だ。一時期やたらテレビに露出して最近ぱったり出なくなった西村賢太が以前、「本屋大賞」という本屋さんが選ぶ文学賞をくさしていた。「素人に文学が判るか」。本屋さんは本好きかもしれないが文士ではないから一般読者と目線が変わらず、書評する技量も権利もないという厳しい意見だ。確かに芥川賞受賞作は本屋大賞には絶対選ばれない。選ばれるとしたら直木賞作品だろうが、こっちの系統の小説は大量に出版されているので、直木賞一本では落選作品がもったいなくて新たな賞を設けたのかもしれない。

そんな本屋大賞を受賞した百田尚樹『海賊と呼ばれた男』が今ラジオで一部朗読されており、なんとなく聞いている。全編は長いのでクライマックスであるイラン石油を輸入するくだりだけだが、日本で知られていない現代史がなかなか新鮮である。宇宙人はペルシャびいきなので、こういう形でイランの評価が上がるのは望ましいし、同時に米英の資源独占体質も暴露されて痛快だ。戦後間もない日本の窮状や日本人の真面目な性格がよく判る歴史小説で、なるほどスケールは大きい。
しかし西村賢太ではないが、話は単純だ。登場人物に心の襞というものはなく、喜怒哀楽は明快で、展開はハリウッド映画のように筋道立って、サクセスストーリーの結末へと邁進しているのが判る。不条理は打破するためにあり、永遠の謎といった文学の醍醐味はどこにも見当たらないので、不条理に真剣に取り組む文学作品に馴染んだ人間にはつまらない。史実として知ってはおきたいが、宇宙人もまた原作を読みたいとは思わなかった。しかしこの作品を読んだ読者はまずイラン人に好意を寄せると思うので、その点はお勧めしたい。イラン人は現在でも非常に真面目で仁義に篤く、弱者に手を差し伸べる人間に敬意を払う国民性である。日本人の古いタイプに似ているのだ。

ところで上述の荒井晴彦氏がこんなことを言っていた。「最近はやたらと元気をもらった、勇気をもらった、って言うけれど、気持ち悪いよ。元気とか勇気とか愛とかいうものは、そんなに簡単にもらったりもらわれたりする軽いものではないのだ。」うんうんと頷く宇宙人。気持ち悪く思っていたのは私だけではなかったのだな。だってあんまり簡単なことをして「被災地の皆さんに元気をあげたいと思います」とか「愛してます」(これは外国人がよく英語で言う)とか言うので、相手の苦境を本当に理解しているのかね、という気分になるのだ。不幸に見舞われた人に対していい事をしているつもりの自分に陶酔しているだけなのでは? 皆さんはどう思います? 宇宙人や荒井氏がひねくれているだけでしょうか。

西部先生はもっとキツかった。震災半年後くらいだったと思うけど、支援物資やボランティアを呼びかける人たちが「我々は被災地のために支援を惜しみません」とか言うのを、「惜しまないってどこまで? 例えば自宅を売って自分の家族を路頭に迷わせてまで全財産を投じればそりゃ被災地のためになるだろうけど、そこまではしないでしょ? 仕事を辞めて被災地で無償労働するほどの覚悟はないんでしょ? その程度の覚悟の人がやれ支援しろ募金しろって他人に向かって大声で叫ぶ権利があるのかね」云々。
西部氏も荒井氏も私も支援や激励や相互扶助を否定しているのではない。それらはもっと痛みを伴う重いもので、軽率に行なったり呼びかけて悦に入ったり、ましてや流行語にするような類のものではないのに、こうした軽薄な使用の乱発でその本来の意味や重みが薄れてしまうことを憂慮しているのだ。オオカミ少年と同じで、本当に必要な時に誰も信用しなくなってしまう。

宇宙人は運勢鑑定で恋愛相談を断っているが、結婚相談は受け付けている。世の中掃いて捨てるほど溢れている他愛もない恋愛など真剣に論じるに値しない。しかし将来を見据えた伴侶探しや、性行為とは一線を画した献身的な愛情となれば話は別だ。
元気や愛情のやりとりには献身が媒体として必要なのだ。献身とは自分の身を削ることなのだから、安易にあげたりもらったりできるものではなく、そんなことも判らない奴が与える元気など、自己満足以外何の役にも立たないことを肝に銘じるべきである。
震災時は西日本に避難してバッシングされた柳美里の対談集の題名が『沈黙より軽い言葉を発するなかれ』というので手に取って見た。内容はともかく表題は真理を突いている。
by hikada789 | 2013-08-09 08:50 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)