人気ブログランキング |
ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2014年 02月 ( 11 )   > この月の画像一覧

3年程前にある美術館で中国の北方民族の貴重な発掘資料の展示があって観に行ったのだが、その時の各展示品に添えられた説明書きに「これには中国(=漢族)文化の影響がみられる」という文句が連発されていて、他の来場客はどうか知らぬが私は結構不快になった。これらの展示物を現在管理しているのは中国政府の文化庁で、中国は多民族国家といいながら実質は大多数を占める漢族の支配する国なので、中華思想の外にある文化は軒並み辺境扱いであり、もしそこに高度な文明の形跡が見られたなら、それはすべて「漢族の高度な文化が移入したお蔭」という解釈になってしまうのだ。この展示会では金や遼などのモンゴル・ツングース系の遊牧王朝の遺跡から近年発掘された調度品や埋葬品が並べられていたが、日本人の目からすると中華風にも見えればモンゴルやチベット風にも見えるし、アイヌのような雰囲気もある気がするし、仏教を信仰していたので仏具もあるがこれらは東アジア共通のグッズだし、しかし決して漢族文化だけを連想させるものではなく、それなのにこんな説明書きを堂々とつけてしまう中国政府の傲慢にも、それを鵜呑みにして和訳をつけた日本の主催者の考えなしにも、いい感情を抱けなかった。

遊牧王朝がなぜこうした扱いを受けねばならないのかは、現在生きている彼らの子孫の数がまず少ないということもあるが、第一には彼らが当時の勢力圏に揺るがぬ文字文化を持たなかったことが挙げられる。独自の文字を持ってはいたが広く普及する前に廃れてしまった。遊牧という生活形態があまり文字を必要としないことも原因の一つだろう。文字がないと古い時代の出来事は忘れられてしまうので、結果として隣接する漢族の記録する文書を頼るしかなくなる。
しかし漢族は漢族で自分の文化を中心に周囲を眺めているのだから、書き残す内容は当然手前味噌になる。これ自体は責められないが、それならそれで手前味噌だという前提で当時の状況を割り引いて分析するのが史家の役目だ。それをしないで平然と手前味噌な解説を展示品につけているから、何やら考えの足りない人間の手柄話を聞かされている気分になって、不快を覚えたわけである。

しかし結局のところ、各民族文化を100%公平に認識するのは不可能のようである。文字のあるなしに拘わらず、結局人間は自分自身の生きた足場である文化や土地を基準に周囲を眺めることしかできない。多くの現地語を学んでその土地に踏み入り、現地人と何年も一緒に暮らして彼らの文化を熟知することは可能だが、それはほんの一握りの学者のやることで、我々一般人はおろか教科書を作る多くの有識者でさえも、そこまでは到底至らない。
そうしたわけで、佐藤優などははっきりと「各国の歴史認識に相違が生じるのは当然で、これを越えて万国共通の歴史認識を打ち立てようなどとするのは空しい努力と言わざるを得ない」と語っている。昨今の日中韓の歴史認識の相違は、実のところ何ら不思議なものではなく、そもそも解決すべき問題ですらないというのが佐藤氏の見解だ。もしこれをどこか一カ国の主張を正当として共通の歴史と認識するならば、まさに金や遼などの遊牧王朝は中華文化の傍系にすぎないという結論で片づけられてしまうだろうし、人口比から言っても日本や韓国でさえ中国の辺境という扱いで確定されてしまう可能性が高い。尖閣や竹島など話題にもならないだろう。
こう考えると遊牧王朝の展示ラベルがいかに不当なものであったかがお判り頂けると思う。しかし現代は民主主義の時代で、民主主義は結局のところ多数決で決まる世の中なのだ。そんな多数決は本当に正当か。少数の意見、もっと端的に云えば各自の意見や視点は、周囲との関係を壊さない範囲において尊重されていいのではないか。各自の意見は異なっていてこそ自然なのではないか。

というわけで今回の余話のテーマは視座についてです。算命学は周囲との関係性を重視した運勢学ですが、陰占では左上の日干が自分自身、陽占では中央が自分自身で、それ以外は周囲の人間関係を表しています。一人を鑑定する場合にはこの自分自身を中心に見ていけばいいのですが、相性判断など相手がいる場合、誰を中心に見るかで鑑定結果が変わってきます。ましてやもっと複数の人間関係を見る場合には中心がいくつもできて、互いに矛盾した結果が出てしまい、判断に困ることがあります。
算命学は流派によっては家系鑑定など複数の宿命の取扱いを得意とするところもあるようですが、私は家系判断の依頼は受けないことにしているので、ここでは基本的に相性判断のレベルの話までを考察しつつ論じてみたいと思います。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「視座と相性を考える」です。「算命学余話 #U39」で検索の上、登録&ミニ天丼一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2014-02-28 18:32 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ソチ五輪のために国内外の事件の報道がなおざりにされてしまったこの2週間の間にウクライナでは死者の出る激しいデモが起こり、遂に政権が崩壊した。五輪の閉会と同時に急に注目され出したが、準備の足りない報道番組では名ばかりのコメンテイターが、「(ウクライナの)すぐ近くのソチで平和の祭典をやっている間にこんな暴力が」みたいないい人を装った拙い驚き方をしてみせたので、宇宙人の心を逆撫でした。愚か者め、五輪の最中だからこそウクライナ人は急いでデモを強行したのが判らないか。
今回の反政府デモはかの国の西半分の親EU派によるもので、対する政権側は東半分の親ロシア派だ。親ロシア派の背後にはプーチンのロシアが控えており、親EU派が何の考えもなしに反政府デモでも始めようものなら、プーチンは容赦なく軍隊を派遣してこてんぱんに鎮圧しただろう。唯一のチャンスがソチ五輪だったのだ。プーチンはテロ活動防止のため自国の警察と軍のうち七万人をソチへ増派し厳戒態勢を敷いた。日本人はプーチンを宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統か何かのように思っているかもしれないが、いくらプーチンでもマジシャンがハトを出すみたいに兵士をポンと出すわけにはいかないのだから、ソチにそれだけ余分な兵力を割いてしまったからには、別の場所で生じた紛争にそう易々と軍隊を送れる態勢ではありえなかった。ウクライナ人はその隙を突いて一気に政権を打倒したのだ。鬼のいぬ間に、である。
見よ、五輪閉会とほぼ同時に彼らは目的を遂げ、炎の上がっていた広場はもうすっかり静かになっている。プーチンはどうか? ソチ五輪はまだ終わってはいない。パラリンピックがあるからだ。今頃はあの広い額に青筋を立てているかもしれないが、プーチンは今は動けない。尤もパラリンピックが閉会した暁にはどんなクマ的暴挙に出るとも限らないが。なにしろ北京五輪の開会日にグルジアに軍事侵攻した人ですからね。パラリンピックが終わる3月16日以降が怖い気がするが、ウクライナ人だって敵を知り尽くしている。なにしろ千年来の長い付合いの隣国だ。この3週間の間にEUを引きずり込んで対抗策を整えていくだろう。この3週間に注目である。…これくらいのコメントは報道番組からカネをもらっているならやってもらいたい、なのだ!

ついでだから報道にもう一言。同じく五輪の最中に起こった、某大学生が別れを切り出した恋人の女子大生にLINEで「死ね」と言い、女子大生が飛び降り自殺してしまった事件。自殺教唆の罪で大学生は逮捕されたのだが、これまた番組のMCもコメンテイターも揃って容疑者だけを非難した。アレ? アレレレ? 死ねっていわれて死ぬ奴は馬鹿じゃなかったっけか? 私の思い違いだろうか。「お前、自分で考えることしねえのかよ! 誰かに死ねって言われたら死ぬのかよ!」といったセリフを子供の頃にマンガか何かで見た気がするのだが、皆さんは覚えがないですか。だってさ、例えば拷問室で拷問されていて、「フフフ、これ以上痛めつけられたくなければここに遺言を書いて自殺したまえ」とか言われてやむなく自殺したっていうんなら被害者は責められないけど、今回の事件はLINEで会話してて、当人同士は別の空間にいたんだよ。被害者は物理的に何も強いられていないのだよ。これってこの人本当に被害者なの? ただの単独自殺じゃないの? フラれたからといって死ねという男も男だが、そんなメッセージを届けてくるスマホの電源を切れば済むことを何で自殺までする必要があるのか、そしてその責任を男がとらねばならんのか、宇宙人にはさっぱり理解できないのである。
テレビのコメンテイターはまたしてもいい子ぶって男の方を非難したんだけど、宇宙人が出演していたら結論は「お似合いのカップルですね」で締めくくるのだ。地球人よ、この世にくだらない人間は山ほどいるが、あなたがそやつらと同じ土俵にのる必要は毛頭ないのである。相手にするな、なのだ!
by hikada789 | 2014-02-25 17:07 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
浅田真央の奇跡のフリースケーティングを生実況しているロシアテレビの画像をネットで観ていたら、最後のジャンプを決めた後で解説の男性が「現代のサムライ」と思わず呟いていた。サムライの正しい解釈です。サムライという概念はハリウッド映画の馬鹿げた扱いのせいですっかりチンケな印象が世界に広まってしまったが、幸い米国文化の影響の少ないロシアでは日本で認識されているのとほぼ同じ正しい解釈が通用して今日に至っている。
私がロシアにいた頃、友人のロシア人に「日本では神風特攻隊の行為を自己犠牲という意味で美しいと感じるのだ」と説明したところ、「そんなの当たり前じゃん」という反応が即座に返って来て驚いた。なぜなら当時は、あるいは今でも、世界では神風と直接交戦した米国人しか神風を語らず、敗戦国の日本は口をつぐみ、戦勝国の米国は「自殺はいけない」とかいう単純なキリスト教的正義を振りかざしながら自分の正当性を誇張するあまり、神風を非人道的でクレイジーな所業と宣伝しており、それが世界の通念となっていたからだ。当時の私はそう思っていたので批判を承知でロシア人に対してもおずおずと本音を吐いたのであるが、ロシア人はそれこそ反米路線を長年貫いてきたので、ロシア流の判断で神風を評価しており、自己犠牲というロシア人も大好きな概念も助けて肯定的な判断を下していたのだ。東西でこうも違う価値基準。いまの西側のテレビは果たして浅田真央をサムライと呼んだかどうか。

東京五輪の招致活動に当たって、前回の失敗を繰り返さないよう五輪招致請負人とかいう外人に指導を仰いだ日本人は、その指示に従いプレゼンテーションでは日本人にあるまじきオーバージェスチャーを披露した。これを受けた各メディアは、日本では大袈裟な動作は芝居がかっているとして嫌われるが世界の標準は逆である、見倣おう、みたいな報道をしていた。しかしその世界ってどこのこと? 上述のように私が見た世界のもう半分の側では、芝居がかったジェスチャーなんて勿論「嘘をつくときにする行為」とか「自信のない人が自分を大きく見せるための行為」とか「言葉や内容に自信のない人が相手の目をくらますためにする行為」などと否定的、嘲笑的に認識されているのだがね。あんたの言う世界ってどこからどこまでよ? 実はすごく狭い範囲を大袈裟に世界とか語っているだけなのではないのかね。日本人よ、狭い世界しか知らずに大口を叩く人間の言うことを信じるでない。

真央ちゃんの話に戻ると、ロシア人の実況は「音楽はラフマニノフですが、これは前回の五輪でもそうでした。彼女の好きな作曲家なんですね。彼女にとても合ってます」と自国の作曲家の曲を使われたことに好意を示していた。ロシアの音楽は情緒に訴えやすいので「火の鳥」にしろ「白鳥の湖」にしろこの種の競技には使われ放題なのだが、ピアニストの中村紘子に言わせるとラフマニノフの音楽はどれも「つんのめっている」そうで、あふれ出るようなロマンチズムがある一方、焦燥や渇望といった力強くも前のめりな感情をどんどん加速して盛り上がる曲相で表している。ジェットコースター型の音楽なのである。このつんのめり感を敬遠してか、ロシア人のスケーターは日本人に比べてあまりラフマニノフでは勝負しない。しかしこの曲を浅田に持ってきたのはロシア人振付師タラソワだ。タラソワは浅田のために2種類の曲と振付を用意し、本人にどちらがいいか選ばせた。浅田はもう一つの舞踏会的な華やかな曲を退けてラフマニノフを選んだが、タラソワは「やっぱりね」とその選択を予見していた。こちらの曲の方が浅田のキャラに合っていると思ったからだ。
演技が終わった瞬間、ロシア人実況は「素晴らしい!素晴らしい!」と絶叫し、浅田のこれまでの苦悩の道のりや母親の死に目に会えなかったエピソードなどを早口に捲くし立てていた。この通りロシア人は基本的に親日なのだが、今回の事で日本人とサムライの地位はかの国において益々上がったものと思われる。偉いぞ、真央ちゃん。

余談ですが算命学を学ぶ方に向けて。詳しくは見ていませんが、浅田真央は確か宿命天中殺で、しかも午未中殺です。今年2月立春から年天中殺に突入したので、私はこの時期の五輪出場で怪我でもしやしないかと懸念しておりました。天中殺というのは基本的に大きな活動を始めないのがよく、万事において思い通りにいかないのがセオリーです。しかし悪い事ばかりとはいえず、予期し得ない「異常な事態」を招くこともまた頭に入れておかなければなりません。
私のざっくりとした印象では、彼女の宿命中殺と年中殺の二重中殺により、何か異常な事態が起こるだろうと思ってました。しかし宿命中殺というのは、後天運の天中殺をそれほど気にせず生きていける強さもまた保証するものです。そして彼女が目指している、完成度の低い難しいプログラムを成功させるためには、中殺の処方である「無欲無心」を貫かなければ見込みは薄い。結果はあのような異常な成功となりました。まさに誰も予期しえなかった結末です。しかし前日のショートプログラムで底辺に沈んだからこそ翌日は無欲無心になれたのではないか、というのが算命学の診断になります。まあ事後診断になりますが、私だってあんな展開になるとは想像もできませんでした。しかし一見すると曖昧な表現の算命学の理論は、実は真実を告げていたと言えないでしょうか。私はちょっと鳥肌が立ちました。
算命学を学ぶ皆さんには、天中殺の意味するところをこういう側面からも理解してもらいたいです。「成功なんだか失敗なんだか判らないけど異常な」事態とはこういうのを言うのです。

彼女のフリーの演技は順位が低くて早い時間に始まったのでライブで観ましたが、もう最初と二番目のジャンプが成功した時点で宇宙人は泣き始めました。音楽もこの試練にピッタリでしたね。今まで私は彼女の演技をあまり評価しておらず、芸術的感動よりはスポーツとしてのチャレンジに偏ったマッチョな子だと思っていたが、こうなったら引退などせずこれからもつんのめったラフマニノフでサムライを表現してほしい。だってさ、今回引退を表明しているスケーターたちがいなくなると、なんかヤな顔ぶれが日本代表になってくると思うのは私だけだろうか。カナコとユヅルはいいんだけど、小塚もいいんだけど、その下になんかナルシストなキャラが控えているのが気になるのだよ。
by hikada789 | 2014-02-23 15:01 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
宇宙人が稽古している能の先生の舞台のご案内です。皆様、奮ってお運び下さい。

-----第2回辻井八郎ノ能-----
◆日時:平成26年3月16日(日) 13時開演
◆場所:セルリアンタワー能楽堂 (渋谷駅より徒歩5分)
◆入場料:S席=10,000円、A席=8,000円
◆演目:舞囃子「胡蝶」、狂言「鐘の音」、能「山姥」、仕舞4番
◆見どころ:
先生が演じるメインの「山姥」は、山に棲む人食い妖怪ではなく、自然界の精霊です。能の世界で扱われる精霊にはいろいろありますが、老いた女の姿で現れる山姥は悠久の歳月を表し、「山めぐり~」を連呼しながら永遠の時と人生の無常、無限宇宙などの世界観を暗示しています。人の人生と大自然をパラレルに見つめるには人間としての成熟が必要なので、老人の姿をしているのです。宇宙人の運勢鑑定で「あなたは未熟」と指摘されてしまった人には、こういう演目こそじっくり鑑賞し、日常の些末な事にとらわれない俯瞰した視点を養ってほしいと思います。

なお舞囃子「胡蝶」は先生の中学生のお嬢さんが演じますが、こちらは蝶の妖精が主役です。蝶は春夏秋の花々はよく知っているが、唯一冬咲きの梅だけは縁がなくて残念がっていたのを、仏僧の法力で梅の花を飛び回る奇跡を得るというもの。かわいいお話ですね。「胡蝶」は宇宙人が入門した時に最初に謡を習った演目で、その時は「能とはこういうもんかい」と漠然と感じましたが、「胡蝶」が終わると次もその次も妖精ものが続き、まさか能はこればっかりなのか、と訝しんだほど精霊ものは多いです。精霊は非日常の代表格なんですね。
舞台では梅の小道具などは使われないので、梅の花を飛び回る蝶というあり得ない情景を想像する力が鑑賞者に要求されます。前回の算命学余話にも挙げた通り、人間はある程度バランスの取れている方が自然を生きやすいのですが、そう考えると精霊を多く扱った能がこうもたくさん作られていた中世という時代は、人々は現実世界の厳しい日常に辟易して、せめて芸能の世界で非日常を扱うことで陰陽のバランスを取ろうとしていたのかもしれません。マンネリ化した日常にお疲れの皆さん、疲れた心を癒して精神のバランスを保つためにも、是非能舞台をご覧下さい。
by hikada789 | 2014-02-21 15:29 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
オリンピックでメダルをとるとその人のプロフィールが特集番組になって連日報道されたりします。テレビ局としては視聴率を上げるためにその人のこれまでの軌跡が波乱万丈である方が望ましいわけですが、折しもゴースト作曲家の事件もあったことだし、さすがにありもしない事実をでっち上げることはしないものの、何らかの不運や不幸を見つけるとそれを大きく取り上げて視聴者の関心なり同情なりを惹こうとする。そして五輪出場なりメダル獲得なりで「話が完結する」ように番組を結ぶのです。
しかし算命学では人間は死ぬまでが人生であり、メダルを取ろうが世界一になろうがそれは通過点にすぎません。その後の人生は長く、どの時期にどういう通過点を踏んだかで人生の風景は変わってきます。同じ生年月日の人間が違った人生を歩むのは、この通過点つまりは道程が異なるからです。
そしてその道程や通過点が他者の目には輝かしいものであったとしても、本人にとって幸運であったかどうかは、最終的に臨終を迎えるまで判然としない。自然思想に基づく算命学が考える成功した人生とは、持って生まれた能力やエネルギーを過不足なく発揮できた人生であり、その結果苦痛のない安らかな自然死で終わることを以ってその人の人生を幸運と呼ぶのです。事故死や老衰以外の病死、自殺、他殺で終わる人生は、生前どんなに成功したように見えたとしても、算命学では成功した人生とは呼ばないのです。

しかしそうした横死は何の役にも立たないかというと、決してそうではありません。これまで余話で触れてきたように、人間は主に近親者と運勢のやりとりをしており、それは家庭内の助け合いであり、パイの奪い合いでもあるわけですが、人は横死すると本来死ぬまでに使い切るはずだったエネルギーを残したままになるので、そのエネルギーは大抵の場合近親者に引き継がれることになります。大体子供か兄弟に引き継がれますが、宿命によっては近しい他人が引き継ぐこともあり得ます。
宿命的なエネルギーは人によって分量が違いますが、生まれた時に持たされたエネルギーは、人間ひとりが自己消費できる分量だと考えられています。自分という自動車に一生を走るだけのガソリンを積んでいるようなものです。近親者が横死するとその余ったエネルギーをもらう人が現れるわけですが、これが幸運か不幸かは自動車の性能とドライバーの腕が明暗を分けます。性能や腕がよければガソリンは人並み以上にあるのでレースをぶっちぎることができます。しかし悪ければガソリンの重みに耐えかね、エンコし、ガソリンが最初の分だけあった時の方がよかったという結果になります。

算命学は概ねこういう例え方をされますが、こうした視点から五輪を眺めると、選手の特集番組からも見て取れるように、近親者に不幸のあった人というのは栄光を掴みやすいです。栄光というのは金儲けより難しいことです。栄光は名誉ですから金性の領分であり、木火土金水の第4番目に位置し、3番目の土性=財運より向こう側にあります。つまり絶対数が少ないので、持って生まれたガソリンだけでは容易に到達できず、死とは限らないまでも近親者の犠牲によって本来以上の実力を出さなければ獲得できないのです。
そういう目で残された五輪の種目を眺めると、誰がメダルを取りそうかは何となく見えてきます。仮に近親者に犠牲がなくても、本人が病気と闘っていたとか、自分自身の一部を犠牲にしていた人は、ここぞという勝負に強いです。ただし、最初の話に戻りますが、今回の勝負に勝って栄光を手にしたからといって、その後の人生が保証されるわけではありません。栄光を手にしたことによる突出した運勢が、今度は逆に将来の自分や近親者の不幸を呼ぶこともあるからです。一人勝ちという事態は算命学ではありえないのです。

さて今回のテーマは前回の内容を一部引き受けて、星の偏りについてです。陽占では十大主星の座は五カ所あり、星の種類もまた五行の五種類(陰陽入れて十種類)ありますが、この五種類が全てそろっている人は稀で、大抵は3種類前後に偏っています。稀に1種類という人もありますが、偏っている人とそうでない人の違いは何かということについて考えてみます。局法の一つである「鳳蘭局」も例に挙げてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「星の偏り」です。「算命学余話 #U38」で検索の上、登録&義理チョコひと包み分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2014-02-19 15:23 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ソチ五輪のお蔭で普段はニュースでもそう取り上げられないロシアの事情が紹介されている。開会式の五輪の円の1つが開かず四輪になってしまった事故、ロシア通なら「うわーありがち」と苦笑いする程度の想定内アクシデントだが、日本ではこの不手際で誰かが責任をとらされて変死したんじゃないかとか囁かれており、日本人はゴーストライター事件に懲りずまだまだ単純な事実に飽き足らず、複雑な物語をくっつけたがるのだなと半ば呆れる思いである。そんなフィクションより現実の方がもっと戦慄ものなのだ。
フィギュアスケート男子のロシア代表プルシェンコは直前のロシア選手権で18歳の若手コフトゥンに敗れたにも拘わらず、たった1枠の代表の座を与えられた。私がロシアにいた頃から悪名高かったロシア極右政党のジリノフスキーはこの時、もしプルシェンコが五輪で負けたら現ロシア・スケート連盟をぶっ潰すと豪語していた。プルシェンコは怪我から復帰して団体戦の金メダル獲得に一役買ったが、その後の個人戦はまさかの棄権。ジリノフスキーの今後の極右発言に注目だ。

ロシア人はプーチン大統領を支持しているかというアンケートを紹介する番組では、支持率は結構高いというデータが出ていた。ソ連時代はこうしたデータは政権のいいように改竄されていたからこのデータもプーチンが作り変えたのではとの意見もあるが、そんなことは恐らくない。ではなぜロシア人はプーチンを支持するのか。答えは簡単。「ここ百年で一番マシだから」。
解説員が取り出したフリップによると、ロシア人の年齢別人口グラフは男女とも、ある特定の年で激減し、まるでノコギリの刃のようにギザギザしている。激減の年は上からロシア革命、農業集団化(つまりスターリンの大粛清)、第二次大戦であり、戦争は世界共通としても革命やスターリンが意味するところは、国のトップの判断ミスが国民の生命を著しくおびやかしたということだ。自国の人口グラフをギザギザにするほどロシアのトップは破壊力があり、その威力は世界大戦一回分にも匹敵する。そんな国に暮らす人々にとって、現代ロシアはプーチン以来人口も生活水準も安定して上向いているから、この恩恵をもたらしたプーチンを支持してもいいという気分になるのである。
無論、ロシア人もプーチンの政敵に対するダークな手法や厳しい少数民族対策などを知っているので、どこかの国みたいに「将軍さま」とか叫んでバンザイしたりはしないのだけれど、また日本人のように政治家に夢や物語をおっかぶせたりもしないので、とりあえず自分と家族の代の人口グラフが激減エリアに入らないで済んでいることを評価して、プーチン支持に振れるというわけである。佐藤優の表現を借りれば、ロシア人にとって政治家とは3種類しかいない。普通の悪人と、大きな悪人と、とんでもない悪人である。プーチンは普通の悪人なので、3つの中では一番マシなのだ。なんたる選択肢。因みに上述のジリノフスキーは恐らく「とんでもない」部類の人である。物語なぞ作らなくともそのままで。

そんなワンダー国家ロシアの映像が連日流れる中、私はロシアチームのユニフォームを眺めて楽しんでおります。デザインが秀逸です。まず会場のあちこちにも使われているパッチワーク状のデザインがきれいですね。連邦の諸民族の伝統衣装を寄せ集めたものだそうだが、実にうまく組み合わせている。あのジャージなら買ってもいいな。スピードスケートの全身スーツが白なのも斬新。あまり速そうに見えないけど赤のポイントが映えて、女子は白ウサギみたいで可愛いです。
服装が見目麗しいのは結構だが、顔面はいまいちだ。ロシア人はモンゴルと混血した柔和な輪郭の美人が特産なのに、アスリートともなるとやはり険しい顔つきになるのか、ブスとはいわないまでも可愛げのない顔立ちが多い。浅田真央とキムヨナを振り切るかもしれないユリヤ・リプニツカヤは造りこそ整っているが性格は悪いぞ。などなど普段見られないありのままのロシアを皆さんも発見してみて下さい。
by hikada789 | 2014-02-14 15:14 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
掲載許可を頂戴し、「あなたの山水画」を掲示致します。ご協力ありがとうございます。
----------
1966年2月10日生 女性の山水画
 庚 庚 丙
 子 寅 午
河の畔を岩場が刻み、頭上の二つの太陽が木立を照らしている。
【解釈】
岩のあなたはそのままでは荒々しい岩石ですが、精製すれば切れ味鋭い刃物になります。刃物を鍛えるには火力と、それを支える木材が必要ですが、風景には両親を意味する太陽が二つもあり、家系である木立もあるので、精製に有望です。両親に厳しく教育されると社会に有用な人材となりますが、本人はキツイと感じるかもしれません。
風景にはもう一つ岩があり、兄弟友人、子供など周囲をとりまく同世代の人々がこれに当たるので、どうも同じタイプの人間で群れるきらいがあります。河は配偶者に当たり、太陽である両親、特に母親と対立します。
全体的に男性的で雄々しい風景ですが、性格的にはメランコリックな部分と豪快な部分が共存した、複雑な人間をつくるでしょう。
by hikada789 | 2014-02-11 14:44 | 宇宙人の鑑定実績 | Comments(0)
算命学余話もはや一周年を迎えました。ご愛読の皆様には感謝申し上げます。購読状況を見ると、具体的な鑑定技術や範例を挙げた回に人気があるのは判っているのですが、私の意図としては算命学の思想面の説明を省くわけにはいかず、なぜかというと、他の占いはどうか知りませんが、算命学とは人はどう生きるべきかという生き方指南の思想であり、正直言って鑑定技術などなくても思想を知って実行できる人であれば、そう人生に迷うこともなくなるからです。
私はこの世の人、前回の「余話#U36玄」を踏まえるなら、せめて私と何らかの肯定的な縁のあった人には幸せになってほしいですが、幸せの形態は人によって様々で、同様に人によって獲れる幸せと獲れない幸せがあるので、私はこれらの人々にせめて容易に獲れるものくらいは獲ってほしいと思って助言しているつもりです。そして獲れないものや獲るのが困難なものについては、諦める方向を提示する。そうでないと獲れるものまで獲れなくなるからです。
二兎追う者は一兎をも得ず。もちろん困難や執着の末に目標物を獲得した時の幸福感は得も言われぬものではありますが、その幸福はその人にとって本当に不可欠のものだったのか、周囲の言葉や期待によって作られたまがい物の目標ではなかったか、というところは案外本人は気付かないものなのです。

折しもソチ冬季五輪が開幕したばかりですが、スポーツ選手というのは、算命学的にいうと闘争本能、攻撃欲求の星を発揮している人のことです。この星を自己表現や目標の位置に持っている人はスポーツ選手として有利であり、戦時においては軍人や兵士として活躍できます。五輪の宣誓には「平和の祭典」とあるように、スポーツと戦争は対極に位置してはいますが、算命学的には実は同じものです。ただ舞台が違うだけで、スポーツの舞台は平和時、軍人の舞台は戦時というだけの差にすぎません。
そういう意味で、スポーツ選手に適した宿命の人というのは、平時においてスポーツをやらないと闘争本能が消化できず、陰転して非行や犯罪に走ったりする危険性が高いのです。彼らを大人しくさせておくために、ひいては社会の安寧維持のために、スポーツは大いに奨励されなければなりません。

というわけで、今回のテーマは人生の目標についてです。スポーツ選手のみならず、我々現代人は常に他者との比較・競争に明け暮れていますが、その競争の先にあるゴールや賞金、報酬や称賛は本当にあなたが欲しかったものなのでしょうか。現代人の間違いの一つは、メディアの普及で人間の価値観、もっと端的に言えば欲望が何か単一のものだと刷り込まれる傾向にあることです。
ある財界人が今は株の買い時だと言えばみんなそれに倣い、あるタレントがこの服が次のトレンドだと云えばみんなそれを買う。子供を有名大学に進学させるのが幸福の条件だと思ったり、ガラス張りの高層マンションに住むのがステイタスだと思ったり、やたらと手の込んだ料理や菓子を食うのが豊かさだと思ったり、まあ世間の商業宣伝に踊らされている例は多々ありますが、算命学はこうした欲望の集中はおかしい、せめて五徳に合わせた五通りくらいには分散するはずだと考えており、そうすれば一極集中のような苛烈な競争などそうは起きないはずなのです。
我々は本当に自分が欲しいものを見失って、欲しくないものを欲しいものだと誰かに思い込まされているのではないか。だからそれを手に入れた時はこんなはずではなかったと失望を味わい、もっと別のものをと際限なく欲望を膨らませては欲求不満に苦しんでいるのではないか。今回は以前#U8で紹介した回転法(循環法)を応用して、その人の宿命が示す人生の目標について考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「人生の目標を探る」です。「算命学余話 #U37」で検索の上、登録&きなこ餅一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2014-02-08 16:35 | 算命学の仕組 | Comments(0)
GDPで思い出した。GDPの数値が当てにならないという例について、前回の米の流通話は日本の話だが、もっと前にGDPに疑問を呈する話がロシアと中国を論じる本で語られていた。お馴染み佐藤優と宮崎正弘という現代中国の専門家との対談本で、ロシアと中国、どちらも日本の常識から逸脱した困った国家だが、どの辺に日本との相互理解の糸口がありそうかという知的模索を試みた中で、GDPの捉え方について曰く、中国のGDPは過大評価という意味で当てにならない。なぜなら中国人は品質や在庫管理の意識が低く、不良品や売れる見込みのない在庫を多数抱えていてもそれを定価で換算してGDPに計上するからだという。私も中国に滞在していた経験から、いかにもその通りだと膝を打ったのを覚えている。だから中国のGDP世界2位というのは大いに疑問で、実数を半分くらいに考えないとあの国の実像を見誤る。
一方ロシアについては、GDPは過小評価という意味で当てにならない。なぜならソ連時代から政府の経済政策を信用していない賢いロシア人は、いつ政府がポシャって食糧や給料がストップしても生きていけるように、ダーチャと呼ばれる自家菜園付き別荘でせっせと野菜や果物を育て、酢漬けや砂糖漬けにして長期保存し、厳しい冬と国家の仕打ちに耐える知恵が身についているからだ。こうした製品は自分で消費するか友人らと物々交換するかして消えるので、当然GDPには計上されない。ソ連時代は本職であるはずの集団農場で人々は平日適当に働き、週末や夏休みはダーチャで趣味の自家製野菜作りに精力をつぎ込んでいた。生産性が高いのは後者であるのに、GDPの数値は前者だけを扱っていた。こんなGDPは無論信用できない。ソ連崩壊後のロシアも基本的にこのスタイルなので、GDPを鵜呑みにしてロシアという国の国力を侮ってはならない。

面白いですね。隣同士の国なのにこんなにも正反対なお国柄なのだ。でも長期的に生き延びる戦略としては、数値を水増しする中国より現物を隠し持っているロシアの方が賢いと言えそうだ。『脱グローバル論』の話に繋がるが、ロシア人が自家菜園で作った食べ物は一家族分としては充分だが、品数は限られる。しかしこれを周辺の知人宅とバーターすると結構な品数となり、生活は豊かになる。
食品に限らず、工業製品もやはりバーターの対象となる。私がロシアに住んでいた頃は、車で郊外へ出る街道を走っていると路上で野菜や果物などダーチャ製品とおぼしき農作物を立ち売りする人をちらほら見かけたが、中にはバスタオルや洗剤を並べている人もあり、あれはどう考えても手作りではないから、勤めている工場で給料替わりに現物支給されたものをああして別の品物やお金と交換しているのだ。今どき物々交換かよ、と当時の私は笑ったものだが、今はもちろん笑わない。あれは人間力の表れだ。ああしてロシア人はソ連崩壊時の大混乱を生き延びた。決め手はいかに知人を多く持っているかだ。しかも近場と遠方それぞれに持っているのがよい。地域によって生産品目が異なるからだ。
ロシア人は平均寿命こそ日本よりずっと短いが、ソ連崩壊時といえどもそう餓死者を出していたわけではない。日本はこんなに豊かなのに餓死する人がいるなんて、とロシア人はとても驚いている。今の日本人は人口密集地に住みながら赤の他人が多すぎるのだ。

顔の見える範囲にいかに多くの知人を得ておくか、これがポスト・グローバルの時代を生き抜く秘訣だ。働けば働くほど首が締まる昨今の雇用実態を考えると、所得を増やしてGDPの数値を上げるより、低所得でもバーター暮らしした方が人間的な生活を維持できる、そんな展望が日本の内部からも、外部のロシアからも提示されている。
by hikada789 | 2014-02-06 14:11 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
旧暦の新年が明けました。雪の舞う立春です。前回の「低俗な絵本」エピソードの友人が米・味噌のおすそ分けを小包で送ってくれたお蔭で、宇宙人は正月に続き立春も心温かく迎えることができました。皆さんのお蔭です。地球人の友人が少ないといえどもその少ない賛同者は真の友であると自負する宇宙人は、貨幣経済にどっぷり依存しなくてもかように生きる道があり得るのではないかと、半ば実験的な生活スタイルを実践中でありますが、奇しくも『脱グローバル論』で内田樹氏とその有志らがこの点について論じ、グローバリズムの限界が近いこと、その次に来るのは脱貨幣経済であるとの予測を打ち立てていて、宇宙人の現状とのマッチ度に嬉しくも驚かされました。今日はそんな経済のお話です。

まず内田氏がバッサリ言い切るのが、「あるグローバル企業の経営者が望ましい“グローバル人材”の条件として「英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間」と定義したことがあった。(略)これは言い換えると、その人がいなくなると困る人が周りに一人もいない人間ということです」。キツイですねえ。でもその通りです。地球上のどんな場所でもやっていける人というのは、裏を返せばどこにも必要とされていない、換えの利く人なのだ。しかし現代の新卒者はまさにこの需要に応えてこの種の人間になろうと日夜努力している。
確か私の学生時代もこの価値観で周囲は動いていたが、私自身が海外に出た目的がグローバルなビジネス人材になるためでは毛頭なかったことは友人らのよく知るところだ。行き先がロシアだというのがそもそもおかしい。私は外国の生活習慣に3日で慣れるし、英語といわず現地語を習得することに抵抗のない人間だが、どうしても営利活動礼讃の世相に馴染めず世間様の求める人材から遊離し、結局土星の裏側まで漂流してしまった。しかし内田氏のような意見が小さい声ながらも堂々と述べられる昨今、宇宙人は土星裏まで避難してくる必要はなかったのではと思い返す今日この頃であります。

学生時代の宇宙人が納得いかないと首をひねっていたモヤモヤを、『脱グローバル論』は以下ように解説してくれた。グローバル経済というのは結局のところ新たな市場としてのフロンティアがなければ成り立たない。安かった中国の人件費も今や上がり、次の安い労働力や市場を求めて経済人の目は東南アジアやアフリカに向けられているが、その先はもうない。しかもグローバル経済はスピードが速く、行き止まりに達するのもそう遠い未来ではなさそうだ。地域格差によって成立していたグローバル経済は早晩終わる。ではその後人類は、経済は、どうなっていくのか。
内田氏らの一致した意見では、結局「脱市場、脱貨幣経済」へと揺り戻されるだろう、そしてその兆候は既に各地で見られるということだ。宇宙人でさえお世話になっているように、貨幣を介在しない米の流通は既に日本に浸透している。一説によれば現在の日本の米は40%が既に市場を経由しておらず、米生産者と何かの生産者が互いの製品を物々交換して食している。しかし財界指標には市場を経由した米しかカウントされないから「日本人は米を食わなくなった」とか平気で結論されている。実際は今も日本人は米をじゃんじゃん食っている。GDPの数値はもはや実情を反映していない。でも政府や経済界は相も変わらず市場ベースの数値ばかり気にしてあれこれいらない政策を立てている。だから国民は政治家を信用せず、選挙にも興味を示さないと。そうだ、そうだ、その通りなのだ。

無論、物々交換には物理的限界があるし、その限界を超えるために人類は貨幣を発明したのだが、今や貨幣経済は金融市場で暴走する危険を孕み、利便性より害悪の方が大きくなった感がある。つまり時代に合わなくなってきたのだ。人間には食糧が必要だが、食糧を調達するために貨幣が必要だったのであり、貨幣がなくて食糧が得られないのでは本末転倒だ。しかし貨幣がなくても人間は何か取柄がある。物を作るなり手間や知恵やサービスを提供するなりして、食糧生産者と物々交換・手間手間交換をすればよい。そしてそれができる範囲というのは、まあ米くらいなら宅配できるけど、人的サービスとなると顔の見える範囲のコミュニティがせいぜいだ。というわけでグローバルでは大きすぎてサイズが合わない、これからの時代は地域共同体のミニサイズだね、という結論に達するのだ。

「自分の顔の見える範囲」という発想はインドのガンジーのもので、しっかりと地に足の着いた人間が伝統的価値観に基づいて築いた社会が堅実なのだという。その中で人は自立して生きていなければならないが、それは孤立ではなく、しかし誰かに依存しなければ生きられないというのでもない。その社会の中で誰かがコケると、顔見知りなので近くの人がすぐ駆け寄って助けてくれる。しかしグローバルを頂点とする顔の見えない広範囲だと、顔見知りでない見ず知らずの人との助け合いに違和感を覚え、不信感が募る。
現在の税金がそうだ。税金は社会の維持のために必要かもしれないが、再分配されるまでに中抜きされるし、再分配が公平かどうかももはや目で確かめられない。数値は真実からかけ離れているかもしれないし、再分配の担当者が税金を愛人に注ぎ込んで使ってしまうことだってある。納税者の目が届かない、自己管理できない遠さ。だから納税者は不安で不満なのだ。
国内でもこれなのにTPP後の海の向こうの人のことなんて、誰が心配するだろう。結局は自分の身内と、職場仲間、コミュニティ仲間、要するに知人までが損得抜きにアクションしても良いと思える範囲ではないか。損得抜きということは貨幣価値に換算しなくていいということであり、互いの物々・手間手間交換で生存していけるし、心的ストレスもなく、健全な社会であると言えないか。

本書にはもっと沢山の事例やSNSの有用な活用術など、様々な世代の意見と可能性が論じられておりますが、宇宙人はいちいち頷いて読んだのでお勧め図書です。このシンポジウムのもう一人の主催者は元大阪市長の平松邦夫氏で、いま話題の現大阪市長に選挙で敗れた人ですが、実に真っ当で柔軟な思考の持ち主の、品性ある話しぶりの人です。本書でも現市長に対する真っ当な批判が控え目に論じられているので、大阪市民に是非読んで頂きたい。実に惜しい人物を大阪は選び損なったと思います。
意見の違う人を批判するにも、その作法で人格が見て取れます。今日は立春、算命学的にも晴れて甲午年となり、派手なパフォーマンスや見世物的な対立候補批判で今まで通用してきた人たちが、そのやり方ではもうだめだと人々に判断される年になることを祈ります。
by hikada789 | 2014-02-04 16:24 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)