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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2015年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

以前、ロシア人は当局が押収した都合の悪い書類や物品をなぜ廃棄せず保管してとっておくのか、と問われたことがあった。ソ連時代、特にスターリン時代に顕著だった嘘の密告や謀略、冤罪や裁判なしの処刑といった国家権力による悪しき所業について、かの国では数十年してトップが変わった折などに、こうした所業の証拠となる秘密文書が公開されて真実が明るみに出ることがしばしばある。この種の証拠類を隠滅してしまえば後世調査しようにもできないから、権力者にとっては都合が良いではないか、という意味の質問である。
なるほど、日本は敗戦の折に軍人や官僚が見られては困る書類の山を、屋内ではとても処理しきれないからと戸外に出してボーボー燃やし、その煙のせいで当時の官公庁地区は今の北京上空のように黒く霞んだ(おお、霞が関なのだ)というお国柄である。後ろめたいことをやっている人間にとっては証拠隠滅のつもりだったかもしれないし、そうでもない人間にとってはこれからやって来る占領軍から国を守るため、例えば兵器の開発データなどが「盗まれないように」「悪用されないように」するためだったかもしれない。いずれにしても、お蔭で現代の我々日本人は当時の状況を調べようにも書類がなく、当時の日本政府や軍部の意向を知る資料は、当時電信を傍受していた米軍の記録に頼らなければならないという体たらくなのである。実に情けないことではないか。

最近中国が勝手に埋め立てて領土にしようとしている南沙諸島海域に米軍艦が出動して騒ぎになっているが、『知の教室』の中の対談で川村雄介氏がこう発言している。

…法律用語に「発生事実」と「決定事実」という言葉があります。発生事実とは、物理的に物事が発生した、そのままの事実。それに対して決定事実とは、当事者が「これが事実である」と取り決めた人為的な「お約束」です。欧米や日本で重視されるのがより客観的な「発生事実」であるのに対し、中国は「決定事実」でしか歴史を語らない。(その好例が南沙諸島埋め立て問題である)…

日本人は中国人のように歴史を自分都合で決定、つまり捏造しようという大それた発想はないが、証拠を隠滅して事実をうやむやにしようという心理はよく働くので、こういう心理の持ち主から見れば、ロシア人がそれこそ日本人の及びもつかないような国家規模の暴力を平気でする一方で、この種の痛い事実を必ず後世に残しておこうとする、一見矛盾しているようにも見える行動に首を傾げるのも頷ける。米国でさえ外交などの機密文書は五十年後とかに公開することを法律で定めている。これはキリスト教徒の発想なのかもしれない。事実は隠すことはできても変えることはできないと。
そういう意味では日本人も中国人も同じく極東的体質として同列に見えなくもない。そんな日中間では未だに先の戦争について客観的歴史認識を共有できずにいる。嘘が日常に溢れている中国人はお得意の捏造を平然と進めるし、日本人は積極的に嘘はつかないものの過去に証拠を隠滅したため中国の捏造に反論するだけの論拠を提示することができない。たとえ当時の人間にとって都合の悪い事実でも、事実であるなら後世になって役に立つかもしれないのだからとっておけば良かったのだ。こういう発想のない日本人は、自覚しておかないと今後も同じ過ちを繰り返すことになるだろう。失敗は悔い改めることができるが、失敗したという自覚がなければ再発防止もできない。そしてそのツケは大体三代以内の子孫に受け継がれて無理やり消化される、というのがお馴染み算命学の警告である。今がまさに三代目ではないか。中国人がどうなろうと知ったことではないが、我々日本人はこれ以上ツケを子孫に回して良いのか。自分のケツは自分で拭けなのだ。

そうしたツケが極限まで積もるとどうなるか、についてよくよくご存知だったロシアの巨匠アレクセイ・ゲルマン監督の全作品一挙公開フェアのご案内です。ロシア人の良心は極限状態にあっても最後の1ミリで機能するらしく、証拠なり証言なりがどこかで細々と命をつなぎ、いつか日の目を見る日まで辛抱強く冬眠する。まさにクマの知恵なのだ。しかしクマの暮らす深い森の奥はあまりに残酷で、理解しがたい謎に満ちている。この暗黒にあって、一体これ以上どんな嘘をつけば危機を乗り越えられるというのだ。欲しいのは嘘ではない本物の光だけなのである。そんな作品群です。もちろん恐怖の帝王「フルスタリョフ」も入ってます。

◆「アレクセイ・ゲルマンと名匠たち」10月31日(土)~11月7日(土)◆
池袋東口の新文芸坐にて、二本立ての日替わり上映。一般1300円。ゲルマン作品は、
10月31日=『道中の点検』と『戦争のない20日間』
11月1日=『わが友イワン・ラプシン』と『フルスタリョフ、車を!』
11月2~3日=遺作『神々のたそがれ』一本のみ。
4日以降=西欧の古い名作二本立て。
by hikada789 | 2015-10-29 12:42 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
前回の余話では、官星(車騎星・牽牛星)の闘争本能や献身性について深堀りしてみましたが、佐藤優氏の『知の教室』にこんなことが書かれていました。

「ムッソリーニは、人間の本質は闘争本能にあると考えた。闘争心を掻き立てるときに人間は最大限の能力を発揮する。<戦争とは、民族精神の形成の場であると同時に、人間に自己意識を悟らせる試練でもある。それはファシズムの「生の哲学」の中枢である>というのがファシズムの哲学だ。」(p.157)

ムッソリーニといえばヒトラーと並び称されるイタリア・ファシズムの首領として悪人を思い浮かべる日本人がほとんどだと思いますが、ここではファシズムは近代史に登場した一思想形態であり、結果的には軍事と結びついて諸国の破滅を招いたけれども、基本的には自信を失くした国民を鼓舞してやる気を出させる「がんばれ東北、がんばろう日本」と同系列の話であるという流れで扱っています。詳しくは本著を読んで頂くとして、同じような視点に立って評論家の西部邁氏もまた、ナチズムの語源がネイションであることを指摘し、自国民の生活や権利をいかに他国の横暴から守るか、という自衛のための政治思想が根本にあること、その思想自体は間違っておらず、今日のTPPのような関税撤廃で農業などの弱い国内産業が壊滅して他国依存を余儀なくされる事態を断乎阻止するための、当然の帰結としての自衛自立論であるとしています。
歴史の教科書が敗戦国であるドイツやイタリア(日本も)の首領を全面的に悪しざまに描いて定着させていることに気付いていないと、佐藤氏や西部氏の見解を吟味することはできません。歴史は事実の連続にすぎず、そこに教訓はあるけれども、都合のいい善悪論を先に立てて歴史を判断してはならない。なぜなら人間は誰しも悪を悪だと思ってやっているのではなく、他者にとっての悪であっても自らは善だと信じてやっているからです。だから善悪論はあてにならない、というのが算命学の基本姿勢です。

ましてや歴史の捏造など、中国が王朝時代から連綿とやり続けて記録したものを正史と呼び、文字を持たない周辺諸国を全部脇役・悪役・子分役にしてきた実態を思えば、歴史は事実の連続ですらなくなってしまう。捏造の壁に阻まれて、私たちは過去の教訓を得ることができなくなるのでしょうか。有難いことに、捏造もまた事実として残りますから、しばらくはウソがまかり通っても、最終的には真実が勝つ、というのが算命学の考え方です。
その証拠が、世界中で通説となっている今日の中国人の評価です。幸い日本人の評価は世界中で高く、それはウソが極めて少ない国民性(中国人と比べたらゼロに近い)と信頼できる輸出製品のお蔭です。最近はマンション建設の偽装が発覚して騒ぎになっていますが、大いに騒いで再発防止に邁進してほしいです。中国人の建てたインチキマンションと一緒にされては困りますからね。

前回も少し触れましたが、算命学は諸子百家の時代の中国人が考案した思想体系であるにもかかわらず(創始者は鬼谷子とされていますが、一人で大成したとは考えにくい)、現代中国人は福寿禄で価値観が停止し、官と印を概念として知りません。強力な中華思想のあまり、地球の中心(中華)へと引力で掻き集める禄=金銭欲・物欲に囚われたまま、一向に官へと向かう気配がない。仮にあったとしても彼らの官は「面子(メンツ)」という偽りの名誉欲であり、財産という下支えを失えばたちまち地上へと墜落してしまう。
この事実から気付かされることが2つあります。1つは、中国人が歴史的に捏造を繰り返したあまり、禄から先の官・印へと前へ進めずいつまでも足踏みを余儀なくされていること。もう1つは、モンゴルやチベットその他大勢の周辺諸国の文化を「中華文明の亜流・裾野」と呼んでその独自性を認めてこなかった事実から、実は算命学もまた中国人の発明ではなく、周辺民族の発明だったものを中国人が輸入し、漢字に残した時点で中国原産と偽って喧伝した可能性がある、ということです。というのは、今日の周辺諸国の行動様式を考えると、物欲から離れた官や印を上位に置く思想というのは、彼らの先祖の頭からひねり出されたと考えた方が自然だからです。

このように算命学の出自そのものさえ疑う余地はありますし、疑っていいのです。大事なのは何でも鵜呑みにしないこと。算命学には既に確立された理論とそこから生まれた定説定型がいくつもありますが、定型だけをいきなり丸暗記しようとする学習者には強く警告致します。基本理念と理論の積み重ねの先に確かに定型がつながっていると納得できないうちは、その定型をむやみに利用すべきではありません。「そういう理屈だったのか」と得心いってから使うよう心掛けて下さい。どうやったら理屈が辿れるか、そのやり方を開示したものが算命学余話なのです。

今回のテーマは、最近どこの本屋でも売れ筋となっている下重暁子著『家族という病』に触発されて、家族について考えてみます。この本は読んではいないのですが、まずタイトルが衝撃的で、私は思わずガッツポーズしたほど言い得て妙だと感じたものです。当然、私のようにガッツポーズが出た人は、自分の家族について否定的見解をお持ちの方だと推察致します。しかしこのタイトルでベストセラーになるということは、家族に否定的な人が随分いるという証拠です。
算命学の陰陽論からいえば、その数は人口の半数であるはずですが、多すぎるでしょうか。いいえ、いつの世もこれくらいいたのですが、戦後の道徳教育が家族団欒を善としたので、崩壊家庭の子供たちは後ろ指さされないよう口をつぐみ、妻は良妻賢母の枠に無理やり自分をねじ込んで体裁を取り繕っては、心身の病に罹ったりしていたのです。ひと昔前は忍耐していたのは女と子供でしたが、最近は女も子供も言い返したり訴えたりする機会が広がったので、夫や父親もうかうかふんぞり返っているわけにもいかなくなりました。家族に無視されて小さくなっている男性の皆さんも、きっとこの本のタイトルに釘付けになったことでしょう。
著者の下重氏は自分の少女時代を振り返って、敗戦で公職を追放された元軍人の父親が商売に失敗して荒んでしまったことに失望し、そんな夫と厳しい現実から逃れるため娘に過度な期待をかける母親にも嫌悪を覚えたと語っています。その本意については本著を読んで頂くとして、こうした家族の不穏な現実に直面した場合、算命学の思想がどのような解決法を提示してくれるか、という点について考察してみます。今回も鑑定技法の話にはなりませんが、相談内容として家庭問題はよく受けるテーマなので、鑑定の実践には役立つ話かと思います。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「家族に期待をしない知恵」です。「算命学余話 #U99」で検索の上、登録&きのこ御飯一膳分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2015-10-26 19:40 | 算命学の仕組 | Comments(0)
先日宇宙人には珍しく同窓会と名の付く会合に出掛けたのだが、昔から意見のそう遠くない旧友たちと楽しく談笑する中、思いがけなく合わない意見に遭遇した際「自分は賛同しない」とロシア語訳のようなセリフが出てきてしまい、場を凍りつかせたような気がする。まあ相手が誰であれ宇宙人は一貫してかようなスタンスであり、個人的には欧米文化、キリスト教文化に批判的であるが、相手が日本であっても日本人であっても基本的な批判姿勢に変わりはない。その場でたまたま話が学術方面へ流れたので、宇宙人は、「我々が学校で学んだりした定説とされる学説・常識は欧米人が作ったものなので信用ならない。事実、我々が共に学んでいた頃の学究情報はこの数十年の間に覆ってしまったものも少なくはないではないか」。宇宙や太陽系の年齢など自然科学の数値すら技術の進歩で日々更新されているというのに、客観的数値にもならない歴史観や人間心理などに至っては、欧米人の狭い視野と価値基準で結論づけられた定説など信用できようか、というような意見を述べた。そしてまたしても場が凍ったようなやっちまった感を覚えたが、そのままスルーしたところ、この発言をその後も覚えている友人がいた。
お子さんが恐竜にはまっているお宅で、親子で恐竜ネタに注目していたところ、最近日本人の研究者によって恐竜にまつわるある定説が覆されたそうだ。「お前の言った通りだった」というお褒めの言葉を頂いたが、普通の日本人であったら「日本人の快挙」とかいう賛美で止まってしまうところ、「欧米人の作った定説はインチキが多いぞ」という方向へ解釈してくれたのが嬉しい。いやだってさ、昔からそこにあってただ存在を知らなかっただけのアメリカ大陸を「新大陸発見」とか呼んで歴史に定着させた奴らなんだよ。そんな奴らの組み上げた歴史常識なんておいおい何だよその偏見に満ちた自己満足の世界像は、とツッコミ入れられて然るべきではないか、というのが宇宙人のスタンダードな見方である。

こうした感覚は、海外で得た体験が元になっている。一つには宇宙人にとっての海外とは欧米ではなくロシアであることだが、当地の常識なり歴史認識なり価値観なりは欧米文化と一致していないため、欧米追従の日本の感覚とも離れていた。お蔭で一致していなくてもよいのだという新たな視野が開けることとなった。もう一つは、宇宙人が国内外で出会った欧米人の9割以上が人間的にインチキであったこと。よく米国人は謝らないとか個人主義の西欧人は相手を遮ってまで自己主張するとか言われるが、そうした性格はつまり自分の間違いを認められない謙虚さの欠如からくるものなので、人間として褒められたものではない。実際に当人たちと対話していると全然敬意が湧いてこなくて、思い込みによる傲慢さ、醜さばかり目につき、自然と交流する気も失せてくる。宇宙人は内面にかかる美意識が強いのだ。
宇宙人がロシア人を高く評価するのは、農奴精神のお蔭というわけではなかろうが彼らが総じて謙虚で、謙虚さを美徳とする社会通念が当地にあるからだ。残念ながら、知り合った欧米人と話していて、彼ら自身や彼らを育てた社会に謙虚さやそこから生じる誠実さを嗅ぎ取ることはできなかった。これは個人的実体験であり、皆さんはそんなことはないかもしれないが、彼らが「これが常識だよ」と哀れなアジア人やアフリカ人に親切に教えてあげた諸々が、そうした不誠実さに基づく自分に都合のいい思い込みや嘘っぱちであったことは、恐竜学者の新説を待つまでもなく方々で見受けられるのだ。宇宙人はそれを龍高星の習性で指をさして率直に批判しているだけであるが、伝達が本分であるはずのマスコミなり言論界が指摘することはあまりなく、自分の視点を持たない多くの人々もマスコミや教科書を鵜呑みにするので、結果的に宇宙人の考えは土星の裏側へと遠く飛ばされてしまうのであった。

ところがおなじみ佐藤優氏の近著『知の教室』に対談で登場した作家の塩野七生氏が、有難い意見を述べていた。曰く、「日本はキリスト教国ではないのに、欧米のキリスト教徒の学者たちの研究成果を、なぜ日本の学者たちはそのまま受け入れてきたのだろう、と若い頃から不思議に思っていました」。その大著『ローマ人の物語』はキリスト教徒ではない日本人から見た新しい歴史解釈の試みであり、キリスト教徒に当然のように刷り込まれているデフォルト情報や思い込みから解放された客観的視点が特徴となっている。執筆に当たって資料を大英博物館で探していた時のエピソードは痛快だ。博物館が提供した研究員は当初対応が冷ややかだったが、一体何の仕事をしているのかと尋ねたので、塩野氏が15年かけてローマの全史を書くつもりだと答えると、「日本人は遂にローマ史を書くところまで進出してきたのか」と驚いたという。塩野氏は言い返した。「日本人は自動車や電機製品だけをつくっているわけではありません」。日本人よ、これくらい奴らに言ってやるのだ。

当ブログの無料アクセス集計によれば、土星の裏側はグーグルの各国版からアクセスされており、海外からわざわざ検索している閲覧者が毎日数人はいるのである。驚くべき事実ではあるが、きっと欧米主体の価値基準で回っている諸外国でお暮しの日本人が、頭の中の辻褄が合わなくなってお疲れのところを、自分の立脚する価値基準を再認識するための一助として土星裏を覗いているのではないかと推察致します。実際、そのような内容の鑑定依頼もありました。
欧米文化は後にくつがえってしまうような不確実な事でもどうにかこうにか理屈を組み上げて「これが真実」と浅はかにも声高に宣言してしまう傾向があり、そこに「他者に対して間違ったことを伝えてはならない」という誠実さは希薄だ。この世に100%のものなど存在しないのだから、誠実であればあるほど明言などできなくなり、自信をもって豪語できなくなる。それは即ち日本人の性質そのものではないのか。日本人は疑ってきたからこそ口下手になったのではないのか。昨今の日本人は自分で思考することを止めて何でも鵜呑みに信じてしまうと批判する人もいるが、それは欧米文化を「そのまま受け入れてきた」学者たちの悪しき習性であって、もともとの日本人は事物の信憑性に対してもっと慎重であったのではないか。詐欺師ほど大声でよく喋るのではなかったか。
塩野七生氏の作品はまだ読んだことがないが、ロシアよりもイタリア文化に興味が湧く人にはきっと良書でしょう。読んでないけど、お勧めします。
by hikada789 | 2015-10-24 16:53 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
No.760で紹介したロシア映画『草原の実験』を見た。セリフのない詩的な無言ドラマの最後に用意されたまさかの展開。舞台がソ連時代の核実験場セミパラチンスクを暗示していることからハッピーエンドのはずがないとは思っていたが、ラスト3分で文字通り吹き飛びました。日本映画界も20年後くらいに福島の事故についてこれくらいの衝撃作品を世に出してほしいものです。
ところで最後の爆風シーンなのだが、実によくできていて、見渡す限り草原という周辺風景がそもそも我々の目には非日常的であるせいか、当然CGも使っているはずなのだが、実写との境目にあまり違和感を覚えなかった。というのは、宇宙人には珍しく最近日本のテレビドラマを見た。『下町ロケット』なる宇宙航空機器メーカーのお話で、ロケットエンジン発射実験のシーンがあったのだが、もうモロ作り物っていう感じのCG丸出し映像で、CG技術は未だにこんなレベルから脱していないのだなと見苦しく眺めたのであるが、『草原の実験』の出来ばえと比べるとあまりに差があり、これは単なる技術的問題ではなく、CG製作者がいかに物事を正確に観察しているかの差であると悟ったのであった。
CG処理技術などどう考えてもアニメ業界のトップを走る日本の方が上であるはずだが、肝心の技術者が自然を観察する訓練をしていなければニセモノ感はいつまでたっても拭えない。ロシアでは映画は芸術扱いなので、映画制作スタッフは「芸術家」の肩書であり、CG技術者も相応のこだわりと誇りをもって作品に挑んでいる。映画とテレビドラマでは予算も違うだろうが、職人技という日本の十八番でロシアに完敗したあたりが、日本の映像界の将来に立ちこめる暗雲を予感させるのであった。自然を観察することなしに、どうやってリアルを追求できるというのだ。本物の風景よりスマホの画面を眺めている時間の方が長い世代の弊害ではないのか。こんなレベルで君たちは満足なのか。お粗末なんだよ。

そういえば昔、愛知万博で友人の芸術家が作品を出品したので見に行ったのだが、魚の泳ぐシルエットを上から覗くという趣旨の映像作品で、シルエットはきれいなんだけど動きがぎこちないねという率直な感想を述べたところ、よく気付いたな、生物の自然な動きを再現するのはこの業界ではまだまだ難しいのである、という正直な回答であった。あれから随分経ったはずだが、業界努力が及んでいないのだな。まあ宇宙人は3D映像を人並みに解析できない視覚野の持ち主であるし、欧米人が作る恐竜やアバターの映像などでもお粗末感が鼻について青筋を立てているくらいだから(予告編を見ただけで嫌気がさすのでどの作品も観てはいない。馬鹿にされている気分になるのだよ)、世間一般の許容範囲とは重ならないのやもしれぬ。
ともあれ本物に迫ったリアリティをお求めの方には、依然としてロシア映画やロシア文学がお勧めです。10月31日からは新宿武蔵野館でズビャギンツェフ監督の最新作『リヴァイアサン(邦題「裁かれるは善人のみ」)』が上映されます。お楽しみに。なお武蔵野館では現在イラン映画『ボーダレス ぼくの船の国境線』をやってます。アラビア語とペルシャ語で線引きされた少年たちのイラン・イラク国境物語です。新しい視点。
by hikada789 | 2015-10-22 16:08 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
行楽シーズンですね。宇宙人も先日富士山の見える山に登り、サルたちの出迎えにしんみりしながら肺と魂をクレンジングしました。登山ソングは謡曲「松虫」。素人仕舞会用に暗記したクセに「万木みな紅葉せり」という文言があり、秋山の風景と勾配の続く歩行速度がぴったりなのです。騙されたと思って登山中に口ずさんでみて下さい。節の長短で生じる呼吸の抑揚に、石ころや木の根をよけて山道を上がる足取りが妙にマッチしますから。謡曲は基本の節回しさえ押さえておけば伸び縮みは自由なので、ピッチが一定しない山登りと相性がいいのです。逆にいえばマラソンなど規則的なピッチを刻む走行には向かない。当然運動会にも向かない。謡曲は一見して不規則な運動に親和性があるのです。
というわけで、宇宙人の能稽古の先生がシテを務める舞台のご案内です。

(1)第十一回 西荻薪能
◆日時:平成27年11月3日(火・祝)18時半開演
◆場所:井草八幡宮神楽殿 (荻窪駅よりバス10分)
◆演目:狂言「伯母ヶ酒」、能「羽衣」
◆入場料:前売券=3,000円 当日券=3,500円(定員650名)
◆見どころ:杉並区が後援する文化芸術活動事業で、一時期中断してましたがめでたく復活です。神社境内の野外舞台の両端に薪を焚き、炎の明かりで堪能する幽玄能です。これだけだとさすがに舞台が暗いので、電気も若干使います。ご安心を。雨天決行の上にこの季節はもう冷えるので、コートや膝掛け、カッパなど防寒具完備でお越し下さい。

(2)金春会定期能
◆日時:平成27年11月8日(日)12時半開演
◆場所:国立能楽堂 (千駄ヶ谷駅より徒歩5分)
◆演目:能「清経」「玉葛」「邯鄲」、狂言「鴈礫(がんつぶて)」
◆入場料:5,000円(25歳以下は脇正面席のみ2,500円)
◆見どころ:先生が演じる「玉葛」は、お稽古始めのビギナーにお馴染みの仕舞の演目。入門した方、される予定の方はご注目下さい。
by hikada789 | 2015-10-20 16:22 | 宇宙人の能稽古 | Comments(1)
10月22日から都内各所で東京国際映画祭が開かれるのだが、今回はロシアからの出品が1作もない。プーチンの年内来日も実現しそうにないし、国際情勢はロシアに批判的だし、せめて文化交流くらいはりきって欲しかったが、来年度のロシア・フェスに影響しないか心配だ。
ロシア映画は手近なところでは現在渋谷のシネマヴェーラでロード・ムービー特集をやっていて、ソ連映画『誓いの休暇』とズビャギンツェフ監督作品『父、帰る』がそれぞれ二日ずつ掛かっている。また青山のシアター・イメージフォーラムでアレクサンドル・コット監督作品『草原の実験』が上映中。近くへお越しの際はお立ち寄り下さい。

東京国際映画祭にはイラン映画が1作品来ている。『ガールズ・ハウス』。当地で近年流行りのサスペンス・ドラマらしい。最近イランの街中映像を偶然見かけたが、女性のヘジャブ(スカーフ)からはみ出た髪の毛はもはや前髪の範疇を著しく脱し、スカーフというよりマフラーが首のついでに後頭部にも引っ掛かっているといった露出度である。夏は暑くて不評のイスラミックコートも両足を隠さない丈にまで縮み、ジーパン姿の女性が道の真ん中を闊歩している。服装規制はここまで緩んだか。真っ赤なスカーフで買い物するオバちゃんにも驚いたが、出品映画のワンシーンも赤いスカーフを粋に結んだ女性を映しているから、色規制もなくなったらしい。私が学生時代に訪問した頃は、色柄物は地味なものをという暗黙の了解があったのだが。もちろん今の方がいいさ。美人さんの国なんだから。時代は変わってゆくものなのだ。

とはいえ脱げばいいというものではない。短パン・ノースリーブの西側女性に却って色気を感じないように、全身を覆うチャドルが布の下に隠れた見えないラインを過度に意識させたり、女性の慎ましさ、奥ゆかしさを強調したりといった効果があるのは疑いがない。慎ましさや奥ゆかしさに価値を見出さない文化を文化と呼べようか。
有難いことに、目下フィーバー中のラグビー五郎丸選手がインタビューの際、既婚にもかかわらず好みの女性のタイプを訊かれて「一歩下がった女性」と回答した。よく言った! 自己主張ばかりで相手の都合を忖度しない昨今の薄っぺらい女たちに手痛いタックルの一撃なのだ! 更にラグビーを習わせたいが骨折など怪我が心配という母親たちの声に向けて、「骨はくっつきます」と一蹴。万歳三唱する宇宙人。過保護がはびこってへなちょこ男児ばかり量産しているモンペの母親たちが、これで少しは大人しくなるであろう。世間の価値観が一方向へ偏っているのを空恐ろしく感じてきたが、まさかラグビーに揺り戻す力があろうとは。男たちよ、野生を取り戻すのだ! そして女性の奥ゆかしさとチラリズムを復権させるのだ!
by hikada789 | 2015-10-18 15:04 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
先日有料鑑定の依頼者の方から、鑑定結果が大変役に立ったので、ブログ記事に使うなど何らかの形で役立ててくれて構わない、という有難い申し出を受けました。鑑定者冥利に尽きます。鑑定結果そのままを公開するのはさすがに憚りますが、特殊な命式例としていつか「算命学余話」で活用させて頂きます。ご協力ありがとうございます。

特殊な命式と申しましたが、特殊な命式の人が特殊な人生を送る、という安易な飛びつきは危険です。前回までのピーマンとニンジンの喩えのように、宿命を食卓に並んだ献立と見立てるなら、どの皿から手をつけるも、お替りするも、食べずに残すも、本人の自由です。
生年月日が同じ人はこの世にゴマンといますが、一人として同じ人生にならないのは、そのそれぞれが好みの順番で皿を手にし、好みのソースや塩を振り、苦手なものを後回しにし、逆に最初に食べて好物を最後にとっておき、猫舌ならスープは冷めるまで待ったり、生肉でうっかり食中毒に遭ったり、紅茶に砂糖を入れ過ぎて口内炎になったり、自ら創作料理を作り出したり、テーブルマナーを守ったり守らなかったり、誰かに分け与えたり横取りしたり、と数え切れないバリエーションで食事に挑んでいるからです。楽しく栄養豊かな食事にできるかどうかは本人の裁量に懸かっており、食卓にのぼったメニューの差は実際には大してないのです。この場合の本人の裁量とは、生き方のことです。

仮に人が羨むような特殊な命式であったとしても、一般的解決法が当てはまらないという弱点を考えれば、往々にして状況は不利になります。喩えるなら、特殊な命式というのは、例えばキャビアの缶詰がポツンと皿に載っているようなもので、どうやって開けるのだろうと青くなっていると、後ろを給仕が通りかかったので缶切りを所望したら運よくすぐ持ってきてもらえたとか、確かに他のテーブルの人たちはキャビアを見て羨ましいと思うかもしれないけれど、缶切りがなければ食べられないじゃないかとか、パンとバターも欲しいとか、栄養価はどうなのとか、実は魚卵アレルギーだとか、余人が思いもよらぬ基本的なところで苦悩していたりするものです。もしかしたら、給仕は通らず、近くに缶切りも見当たらず、5キロ離れたホームセンターまで買いに走らなければならないかもしれない。その間に食事の時間は終わってしまうかもしれません。

だからキャビアだけを見て喜んだり羨んだりしている人は、まだいくらも人生経験を積んでいない未熟で「文化の浅い」人であることを露呈しています。こういう人が算命学の技術だけを学んだところで、千差万別に悩める依頼者に的確な助言を出せるはずもありません。算命学の技術以前に、人生の食卓のマナーや手順、おいしく安全に完食する調理方法や栄養価の知識、苦手な食材の克服方法などを知悉していることが求められ、それはつまり常識と、常識が当てはまらない極端な事例に対する対処法という意味での特殊技能の、両方が備わっていなければならないし、その両方を見分けて正確に分別する鑑識眼も必要となります。更に、その人にとって何が幸せで何が不幸なのかという千差万別の課題を見極める技術も問われます。そこには明確な答えはなく、相手がこれまでに食したメニューとその感想、健康状態、まだ残っている食材等から総合判断していかなければなりません。座学だけではどうにもならないのです。

しかし何より重要なのは、結局のところ食事をするのは本人であり、本人の意志がなければ何事も消化されないということです。やる気のない人に食事を勧めても意味がありません。胃ろうでもして生かしておくのでしょうか。どんな宿命であろうとも、本人にやる気や努力がなければせっかくの食事も台無しです。調理済みでただ食べるだけのフルコースを前に好き嫌いを論じている人と、缶切りを見つけてこれで缶詰が食べられると喜ぶ人とでは、経験値がまるで違います。メニューの優劣すなわち宿命は、問題の一部分にすぎません。肝心なのは、いかに食卓で充実した時間をすごし、滋養を取り入れ、最後にご馳走さまでしたと感謝の言葉が出て来るかどうかなのであり、こここそが普遍的な意味での幸不幸の分れ目なのです。

宿命に対する認識の喩え話としては他にもいろいろあるのですが、「科学界のインディ・ジョーンズ」こと長沼毅氏が自著『辺境生物はすごい!』で、宿命とは全く関係のないはずのゲノムについて実に興味深い、そっくりな喩え話をしています。曰く、「ゲノムは生命の楽譜であり、これを演奏するのは自分である」。
かいつまむと、例えばネアンデルタール人は我々人類の祖先と同時代に生きていた別種の人類であったが、我々より脳の容量が大きかったにも拘わらず、言語能力を持たなかったと言われている。その知恵が一代限りで次世代へ伝達されなかったことから、脳の小さい我々の祖先に遅れをとり、最終的に絶滅した。脳の容量が大きいから知能が高くなるのではない。言語能力に係わる遺伝子はネアンデルタール人にもあるのだが、その能力を発現させる遺伝子のスイッチをONにすることができなかった。我々の祖先はそれができた。つまり両者の持つ楽譜(=ゲノム)は同じであったのに、いざ演奏すると音楽は別物になったというわけです。
算命学に置き換えると、楽譜が宿命、演奏される音楽が人生ということになります。人生のスイッチをONにするのは、やる気や努力、周辺環境やタイミング、経験の蓄積といったところでしょうか。それを左右しているのは、演奏者である自分です。そしてスイッチをONにできなければ、その楽譜は宝の持ち腐れに終わるのです。

さて、今回のテーマは金性の司る官についてです。思想に関する考察話なので、鑑定技術に関するノウハウを知りたい人には退屈かもしれません。
陰陽五行の五行である木火土金水は相生関係の順でこの並びになっておりますが、この五行を五徳に置き換えると、福寿禄官印となり、やはりこの順番に相生関係になります。福は幸福、寿は健康や生殖、禄は財産、官は名誉、印は知恵です。知恵の最高峰は哲学であり、悟りの境地であります。知恵を極めた悟りの先に至福感が待っていることから、印の次は再び福へと繋がっています。しかし印を極めることは非常に難しく、人間の多くは印の領域にさえなかなか辿り着けない。そのため印は五行五徳の最後尾に配置されているという話は、以前の余話で触れたかと思います。今回はこの印のひとつ前の官に注目し、四番目という微妙な位置が意味するものについて、考えてみます。
実はこの微妙な位置について注目するきっかけとなったのは、先日日本を熱狂させたラグビーW杯の日本代表の活躍でした。武道家の私は球技などの勝ち負けで話が終わる外来スポーツに対しシニカルで、そこに精神性を見出せず感動することもなかったのですが、今回は非常に感銘を受け、弱小国である日本チームが大金星を上げたという快挙以上に、マイナー競技に打ち込み続けた選手たちの地味な努力と忍耐力に興味が湧きました。そんな観点から官の本質について分析してみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「官が地上を離れる時」です。「算命学余話 #U98」で検索の上、登録&栗御飯一膳分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2015-10-15 21:09 | 算命学の仕組 | Comments(0)
五郎丸にはチャン付けがよく似合う。五郎ちゃん。なんて無害な響き。ラガーマンとしての巨体にもかかわらず荒々しさがなく、かといってクールというほど怜悧でもなく飾り気もないあのキャラは、もしやと思ったらやっぱり天堂星、動物占いでいうところのタヌキであった。天堂星は老人星なので若くても老成風なのだ。そして老人特有の愛嬌と人徳がある。きっと彼はおじいちゃんになっても五郎ちゃんと呼ばれるであろう。

そんなラグビー熱が熱しやすい日本社会を覆ったせいで、その前に日本を覆っていた問題がはて何であったか首を捻らないと思い出せない。ああ、安保法制ね。難民も。ドイツへの難民流入が収束するのは時間の問題だという。なぜなら季節は既に秋、ヨーロッパが寒い冬になってしまえば徒歩での移動や野宿は容易でなくなるからである。何十万人の大移動が可能だったのは夏ならではなのだ。
私は一貫してこの件に関する難民には厳しい態度であるが、一方ヨーロッパへ脱出できず自国内や国境地帯で避難民となっている人たちには同情的だ。彼らは一般に裕福でないから留まるしかなかったとされているが、最終的に自国の将来に係わり責任を持つのはこうして留まった人たちなのだ。外国へ逃げた人たちは、たとえ内戦が終結して平和になった暁に帰国したとしても、故郷が一番苦しい時期に不在であったという事実から逃れられない。そういう負い目を子孫が受け継いでいくのだという覚悟があって出国しているようには見えないが、ピーマンとニンジンは忘れてなどくれないのである。
自国に留まった避難民は泣きながらピーマンとニンジンを咀嚼しており、一方出国した難民は食べずに皿の脇へ残しておいた。将来に禍根を残したのは後者である。ピーマンとニンジンはいずれ必ず追ってくる。彼らに係わると、彼らの食べ残した野菜をこちらで肩代わりしなければならなくなるかもしれないので、日本人としては彼らの世話はドイツ人に任せて(ドイツ人がどうなっても知らないけどね)、逃げられなかった避難民のピーマン・ニンジン摂取の苦痛緩和に助力するべきである。だから本件の日本政府の対応が資金援助だけ、という世間の非難に私は同意しない。一番苦しんでいる人を助ける最善策だと思っている。

シリアの民間人が反政府勢力となって武器を取った具体例を追った実録映画『それでも僕は帰る』は、撮影者も反政府勢力の人でこちら側の視点しかないから、一見して視聴者が主人公らに同情するように出来ている。制作側も特にそうなるよう意図しているわけではないから、胡散臭さやわざとらしさはないのだが、うっかりしているとその飾り気のなさに目くらましを食らう。この映画が彼らの狭い仲間内の言い分しか反映していないことを見過ごしがちになるからだ。
なんとなくモヤモヤした気分で観終えた後、偶然耳に入ったお馴染み佐藤優氏の辛口分析によれば、彼ら反政府勢力は職にあぶれた「半グレ」集団ということだ。アサド政権下で不遇であった若者らに米国が武器を渡して戦わせたが、ISほどの厳しい訓練もポリシーもないため、反撃されるとすぐ逃げ散ってしまうという。マサル節が野球で喩えるには、「反政府勢力が少年野球、アサド政権とISがそれぞれ高校野球だとすると、ロシアの軍事介入は大リーグが入ってきたといったところ」。映画の主人公らは少年野球・半グレ扱いなのであった。彼らがマサルの言葉を聞いたら激怒しそうだが、彼らは反政府勢力の代表ではなくほんの一部であり、彼らがアサド政権下で職にあぶれていたわけではない立派な社会人であったとしても、全体としては一発逆転を狙った半ヤクザ集団なのかもしれない。映画を見ただけでは、その判断はつきかねる。

私は学生時代にシリアでホームステイをしていたことがあるが、当時はまだアサドのパパの時代で、社会主義であり、治安は良く物価も安く、歴史的建築物のモスクはガラガラで(社会主義なので宗教が不人気)、人々はのんびりしていた。そして何となく、シリア人は物事を深く追及することを避ける体質があるとおぼろげに感じたものだが、私のアラビア語は初級レベルだったので大したことは云えない。今思えば当時もアサド政権の圧政があり、平和に暮らしたい市民は政治ネタを避け、反政府活動で引っぱられた不運な人たちについては口をつぐんでいた。自分と家族の安寧と引き換えに誠実さを売っていたのだ。
同じ風景はソ連崩壊時のロシアにもあったが、ロシア人は伝統的に誠実さを売ることを羞じているため(でもやむなく売ってしまう)、後ろめたさに年季がいっているというか、自分の不甲斐なさを心の奥で責めている感がそこここに滲み出ており、この辺りがロシア人のM度を如実に表しているのだが、私のシリア滞在中にそのようなM度や自責の雰囲気をシリア人から嗅ぎつけることはできなかったし、映画からも読み取れなかった。今日のシリアの惨状の一因はこの辺りにもあるのかもしれず、また今般の内戦の先にある未来の国の姿を暗示しているかもしれない。

皆さん、たまには自責してますか。自分の身の周りの安全と引き換えに魂を売ったりしていませんか。物事を深く追及することを怠ってはいませんか。ピーマンとニンジンは食べてますか。新鮮なうちに早く食べた方がいいですよ。体にいいんだから。
by hikada789 | 2015-10-13 16:14 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
ラグビーW杯で日本代表の予選敗退が決定した。今夜の試合を待たずに決まってしまったのは残念だ。私も南アフリカ戦の奇跡の勝利から注目し出したにわかファンだが、もう何試合か日本チームの活躍を見たかった。
気の短い私がルールもよく知らない80分のラグビーを最後まで見続けるのは至難の業だし、中継も夜中なので、専らネットでダイジェストを見るのだが、ラグビーがこんなに笑えるスポーツだったなんて。全編が笑いのツボにはまるのだ。五郎丸の冗談みたいな名前から忍者まがいのおがみのポーズ、どう見ても黒ヒゲ危機一髪のリーチマイケル主将と海賊の仲間たち、サッカーなどメジャーな球技ではやってはいけないタックルの称賛、ただのデブではない敏捷に踊る巨体、その巨体を引き倒そうと下半身に食らいつく姿が逃げる水牛を襲うライオンに見えるところ、股間から出て来るラグビーボールがウミガメの産卵に見えて卑猥なところ、あさっての方向へ跳ねていくボールとそれを大真面目に追いかける男たち、トライを決めたチームメイトの襟首を捕まえて引き起こす乱暴な祝福表現、どう見ても押しくらまんじゅうのスクラム、そのスクラムに揉まれたいとのたまう新宿二丁目の方たち。これを笑わずにいられようか。

もうひとつ、人間とは関係ないところで笑いを誘うのがサクラのエンブレムだ。ファインプレーのリプレイ映像の前後にその国のエンブレムが大写しで出るのだが、真っ赤な楕円の上に貼り付いたピンクのサクラが全員こっちを向いて葉っぱの両手を広げている。村上隆の顔ヒマワリみたいにノーテンキで全然強そうに見えない図柄が、屈強な男たちが繰り広げる流血プレーとのギャップを際立たせるのだ。このエンブレム、いいな、気取りがなくて。東京五輪の新エンブレムはこの方向にしたらどうだろう。
他の国の試合は見ようと思わないから、やっぱり今回の日本チームに魅了要素があるのだな。今晩で見納めだ。活躍を期待しよう。
by hikada789 | 2015-10-11 18:52 | その他 | Comments(0)
言葉は移ろいゆくものではある。わが世代では「やばい」という形容詞は「状況が危うい」という否定的な意味でしか使わないが、最近の若者は「途方もなく素晴らしい」という感動を表す、従来とは真逆の褒め言葉として使用し、しかも連呼することでその程度を強調するという。思えば平安時代の「をかし」も千年も経てば「笑えるほど滑稽である、ヘンだ」と意味が大きく変遷したのだから、平成の若者を責めることはできない。しかし連呼はいかんな。連呼は幼い行為なのだ。他に類似の単語を知らないから仕方なく同じ単語を繰り返すしかない、それがオツムの弱さを露呈するのである。若者よ、脳ミソの中身の露呈にご注意なのだ。
宇宙人の耳には老若問わず連呼される現代語が以下のように意味変換して聞こえるのであるが、皆さんは如何でしょう。
「かわいい」=「どうでもいいけど、とりあえず言っておけ」
「かわいそう」=「あたしっていい人」
「世論調査」=「世論操作」
「マーケティング」=「マッチポンプ」
「戦略」=「自作自演」または「大衆誘導」
「フォルクスワーゲン」=「ボロクソバーゲン」または「人の不幸は蜜の味」
by hikada789 | 2015-10-08 14:47 | その他 | Comments(0)