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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2016年 01月 ( 11 )   > この月の画像一覧

家計の苦しい宇宙人へ格安衣料を提供してくれていたリサイクルショップが閉店するというので、セールを見込んで駆けつけた。全品半額の表示に力を得て、今まで避けてきた500円や700円の値札にも果敢に挑む宇宙人。案の定売れ残っていた大柄サイズのパンツや上着を抱えては試着室を忙しく行き来する宇宙人。ここ10年の定価衣類購入量に匹敵する枚数を1日でゲットして舞い上がる宇宙人。それでも年初の書籍購入代にも及ばない出費である。8割方新品だし、日本製もあったし、ああ良い買い物をした。中国人の爆買いの心境ってこんなかしら。
100円だと思って普段なら絶対買わない色物も買ってみた。紫のパンツなんか買って大丈夫か宇宙人。いいんだよ、これで膝の抜けたジーパンを処分できるではないか。今まで地味な色使いだった宇宙人が急にカラフルな服を着てきたら、それは100円なのでお笑い下さい。

世に溢れる量産品のほとんどが中国製である今日、質は良くとも割高な日本製は絶対数からして少ないのだが、リサイクル屋に無造作に並べられた大量の衣料の中から宇宙人は目ざとく日本製を見つける。遠目でも生地がしっかりしているのですぐ判るのだ。但しサイズはMやSばかりなので涙を呑んで却下することしばしば。日本製を定価で買うなどもはや高嶺の花である。
興味深いのはタイの綿製品。土産物らしく英語のタグがついている。チャイナ服によくある布ボタンが前に並んだ軽い上着を室内用に買ったところ、意外と暖かい。廉価が取柄の中国製ニットより数段暖かいのだ。タイは南国なのに不思議である。タイの綿製品は上質との評価が昔から高く、わが家でも夏用Tシャツは10年以上使ってまだ型崩れせず重宝しているが、よもや冬に活躍するとは。高品質に季節は関係ないのだな。リサイクルに出してくれた方、あなたのお土産は有難く愛用しております。タイの綿製品をもっと見直そう。
それに比べて中国製は、というよりユニクロ製品は。ここ数年は安いユニクロのシャツくらいしか購入してこなかったが、年を追う毎に服の寿命が短くなるのを感じる。Tシャツはすぐ伸びきるし、寝間着に使っている簡易パンツは縫い目から割けてどんどん穴が開いてくる。生地の質が悪いのだ。昔買ったものは結構長く使えたのだが、最近のは1年ももたない。船瀬俊介氏によればユニクロは法人税大脱税企業だそうだから、経営体質が製品の品質に反映されているのかもしれない。CMにばかり金をかけているし。もう定価では買わないぞ。だってリサイクルで100円で売ってたもん。500円あれば日本製(もちろん中古)かタイ製を買おう。五倍長もちすること請け合いなのだ。
by hikada789 | 2016-01-29 15:53 | その他 | Comments(0)
当兵(ダンピン)という言葉が中国語にある。「当たる」と書いて「何かになる、変わる」という用法は日本語では一般的でないので馴染みが湧かないが、「兵士になる」という意味である。戦前の庶民が兵士として従軍を余儀なくされた状況を日中で比較するという議論を、昔中国人の友人としていた時に出てきた言葉だ。友人は史学生であり、大学における入党勧誘を危険も顧みず断った強者でもあり、嘘まみれの社会にあって嘘を嫌う稀有な人物であった。
そんな人物と胸襟を開いた私的な歴史談義を交わしたところ、三国志の時代から近代戦争に至るまで、中国の兵士は貧しさのあまり衣食を求めて自ら兵士になる(当兵)という形態が常套だという話であった。そこには自分の属する軍団への好悪の判断もなく、判断するだけの知識も知性もなかった。当然誰と闘っているかも知らないか、知っていてもどちらが正しいなどとは微塵も考えない。そんな兵士に対して将らも忠義や奮闘などは期待していない。兵士は文字通り消耗品である。
一方日本の兵士は、下剋上のありえた戦国時代はともかく、戦前の兵士ならお上から一方的に召集され、行きたくなくても行かねばならず、別に貧しくて食えないから食べ物が支給される軍隊に自ら入ろうという動機はなかった。一兵卒が所属する隊に対する好悪や主義主張の是非を云々することがなかったのは中国兵士と同じだが、所属したからには全力で奮闘すべきだという気分は一般にはあった。忠義もあれば褒められたし、死ねば美談にしてもらえた。

学生レベルの議論ではあったが、こうした互いの国の草の根事情の相違を認識し合うことは有意義だった。当時の私は「当兵」などなんと浅はかな動機か、これでは士気も理想もないから弱くて当然、日本の兵士が強かったのも頷けると納得したものだが、それから十数年経って世界を眺めるに、現在のISなどはまさに食いはぐれた各地の貧困層の若者を「当兵」して戦闘員を増やしているのだから、日本式のリクルートの方が人類史的には珍しいのかもしれない。ガラパゴス日本である。
『戦場中毒』の著者でカメラマンの横田徹氏によれば、今日の米軍兵士は格差社会で貧困にあえぐ低所得層がどうにも仕事を得られずやむなく軍隊に就職つまり「当兵」し、一番きつい中東の現場に送られ、テロリストをやっつける鉄砲玉として使われ、しかもそのテロリストときたら、イスラム社会でやはり貧乏して仕事のない若者がISの甘い雇用条件に釣られて「当兵」となった貧民なのである。哀れな弱者が哀れな弱者と殺し合っている、これが現代の戦争なのだそうだ。果たしてこれは、人類史的にはスタンダードな文明形態なのだろうか。

将兵は業が深い。命令されて殺生を行う兵士もただでは済まないが、命令を出す側の将の方はより業が深くなる。しかし将もまた更に上の命令に従っているため、上に行けば行くほど業は深くなる。
能には修羅能というジャンルがあります。多くは源平合戦で命を落とした平家の公達が亡霊となって登場し、合戦を語り、死後地獄に落ちた自分の魂を救ってくれと僧侶に訴えるストーリーなのですが、これらの主役はもちろん兵を率いた将たちです。将の業が深いからこそ、能の演目として取り上げられるのです。そして地獄に落ちるという発想は仏教のものです。
算命学は宗教ではないので道徳や魂の救済は扱いませんが、殺生という「他者から命を奪う」所業がただでは済まないことは認めています。それは子孫への影響という形で清算されていくものと考え、これを「殺傷の因縁」と呼んでいます。殺傷の因縁は、その業が大きければ大きいほど威力を増し、その威力は子孫の命式そのものを左右するほどのものだと、算命学は考えています。だから兵士による個々の殺傷よりも、将軍の命令による大量殺傷の方が強く子孫に影響するのです。

今回の余話は玄番ですので、ややデリケートな問題ではありますが殺傷のお話です。それも個人的怨恨ではなく、戦争という大掛かりな事業としての殺傷について考察してみます。具体的には局法の1つである八相局(はっそうきょく)のうち、名誉と殺傷に深く係わるとされる八相官局を取り上げますが、再三申し上げている通り、この命式なら必ずこうだという保証はどこにもありません。ただ傾向として可能性が高いということと、どうして八相官局が名誉と殺傷に関連付けられているのかを、公式を鵜呑みにするのではなく、順を追った考察によって解き明かしていきます。

八相局は細分すると五種類あります。却(ごう)局、食局、財局、官局、印局の五つです。字面からして五行による分類であることは明白ですが、八相官局はその名の通り、官星に特化した命式です。同時に八相局の中でも最も先祖の因縁が強いとされていますが、なぜそうなのか、先祖の所業とは何なのか、普段は考えないことについて考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「八相官局と先祖の所業」です。「算命学余話 #U108玄」で検索の上、登録&無農薬玄米1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2016-01-27 13:11 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回の話を引っ張って、アルメニアといえば偶然読んだばかりの短編集『システィーナの聖母』に1960年頃のアルメニア旅行記が入っていた。著者グロスマンは当ブログでも紹介した大著『人生と運命』の作者だが、もともとジャーナリストだったのでこの種の紀行文はお手の物。当時はまだ庶民はロシア語を話さず、込み入った話はアルメニア人インテリの通訳を介さなければできなかった様子や、そんなインテリより無学な農民の方が感動させてくれたといった心洗われるエピソードが印象的な作品だ。
戦後のアルメニアはソ連の一部としてトルコと国境を接し、大虐殺のあった第一次大戦からは随分年月が経っているけれど、二つの大戦を経てトルコ側の生まれ故郷にいられなくなり、地続きの当地へ移住を余儀なくされた原住民の苦悩がさりげなく描かれている。アララト山といえばトルコにとっての富士山だと思っていたが、地理的にはアルメニアとの国境近くにあり、アルメニア側からもよく見える心の山なのだ。こうした住民の心情に寄り添うグロスマンのような言論人が今のロシアにいてくれたら、生まれ故郷を追われた北方領土の原住民を思いやって四島を返還しようという世論も育つというものなのだが。
映画『消えた声が、その名を呼ぶ』はフィクションなので最後は美談でまとめてあるが、グロスマンの旅行記は劇的なもののない日常に見える歴史の悲劇性が滲み出ていて、作為のないありのままでも重いドキュメンタリーの威力を噛みしめる作品となっている。

ところで最近、ドキュメンタリーなのにどうも作為性が気になる作品が多いように思える。或いは作為性はなくても中立性を欠いていたり、中立性どころか作者の主観が鼻につく作品が気になる。それとも単に私の嗅覚が変わっただけなのか。
例えば今もアップリンクでアンコール上映をやっている小熊英二監督の『首相官邸の前で』。集団的自衛権に反対するデモが議事堂から首相官邸の前で黒だかりになった2012年前後のデモ参加者を撮影した記録映画なのだが、私は去年後学のためにと思って観てみたところ、どうにも共感できなかった。小熊氏は例の「ニュースザップ」に出演し、大手テレビ局が報道を自主規制する反政府デモの現場を撮り続けて日本の偏った報道を糾弾する発言をしてくれ、その時はあっぱれな人物だと思ったのだが、いざ作品を見てみると、確かに大手メディアが伝えない事実を伝えているという価値は大きいものの、そもそものデモ参加者に私が認める正当性がないように思えたのだ。

このデモは福島以来の反原発運動を発端としているので、放射能汚染に怯える福島の被災者がデモに参加して窮状を涙ながらに訴えるシーンは心に響く。現地で子育てする母親らは日常の脅威に怯えて暮らしているので、その苦境を涙ながらに訴える姿は大いに共感できるし、同情もする。問題は被災者でない人が彼らを支援するという名目でシュプレヒコールを上げているところ。被災者のために怒りの声を上げているという姿が、私を鼻白ませたのだ。これは私が宇宙人だからそう感じるのだろうか。まるで「今まで黙っていたけど遂に怒りの声を上げたのがエライ」みたいな主張に見えた。なんかエライことなんでしょうか、叫ぶことが。仕事が忙しくてデモに参加しない人は人でなしってことですか、とツッコミたくなる描き方というか、態度だったのだ。
小熊監督は知った上でわざとこのシーンを採用したのだろうか。よく判らない。私も説明がうまくできないが、要するに当事者が声を上げるのはアリだけど、当事者でない人が支援者を「装って」自分の正当性を主張するのはナシだ、というのが私の感想である。もちろん当事者である被災者は非力なので、より表現力や発言力のある人の力を借りて代弁してもらうのはいいのだ。弁護士みたいに。でもここに映し出されたデモ参加者は、弁護士や言論人のような技術もなく、ただデモの行列に並んで単純なフレーズを叫んでいるだけなのに正義の味方気取りだと、私には見えたのだ。どうです、これって宇宙人ならではの感性でしょうか。

宇宙人は嘘っぱちが嫌いだし、「声の大きい奴の言う事は信じるな」(内田樹&中沢新一)の信奉者なので、彼ら当事者ではないデモ参加者が拳を上げて叫ぶ姿に偽善を見てウソ臭い気分になったのだ。なんと未熟な者たちだろう、自分に放射能が降りかかったわけでもないのに、何が不満なのか知らぬが自分の日常の不満のはけ口をよりによって被災者の代弁という形にすり替えるとは。彼らは被災者が同情を集めるのに便乗して自分も同情してもらう腹なのではないのか。被災者の権利の主張の正当性を、自分の人生の正当性にすり替えるつもりなのではないのか。だから問題解決のための何らの具体案も提示しないのだ。私でさえ放射能汚染にはEMや味噌などの微生物が効くから食用したり除染に使ったりすべしというミニ解決法くらい提示できる。彼らはまるでダダをこねる子供だ。壊すだけで創ることに頭が回らない、ISや多国籍軍の空爆と大差ないではないか。

もうひとつ、気に食わないデモ参加者があった。千葉か茨城か、とにかく福島より大分離れている土地の住民が、買ったばかりの自宅周辺の放射線量が上がって「もう住めない」ことに怒りを覚えてデモに加わったという動機。買ったばかりだったのは気の毒だけど、そこにあなたがマイホームを買ったのは誰の責任でもないよ。じゃあ千葉じゃなくて大阪とか富山とか放射性物質の届かない土地に家を建てていたら、あなたはデモになど参加しなかったってことだよね。でもあなたは大阪にも富山にも家はほしくなかった。それはあなたの人生が選択したものなのだよ。自宅周辺の除染のために国に働きかけるのはアリだけど、怒りの矛先が自分に向かずに他者にだけ向くというのは公平性を欠いている。
宇宙人は算命学者なので、どこに住居を構えるかの選択は、ひとえにその人の生き方が明暗を分けると考えている。世の中には測定可能な放射線どころか頭上から隕石が突如として屋根を突き破って落下したというお宅もある。しかしこちらのお宅に怪我人は出ず、屋根の修理は痛かったが火事にもならず、家族の無事を喜び、天に唾することもなかった。このお宅は災いを受けたことで誰かに攻撃性を向けることをしなかった。人間の成熟度と人生の幸福度はほぼ同義なのである。人為性の有無はこの際些末なことなのだ。

というのがこの映画を観た私の、しばらく経ってからの感想なのだが、皆さんは違った風にお感じになられるかもしれません。やはり「ニュースザップ」に出演した戦場カメラマンの横田徹氏は、去年の安保法制反対デモでシールズとかいう青年グループが注目された件について、「彼らは本当の戦争を知らないのに戦争反対を訴えている」から説得力がない、どうして戦争をしてはならないのかを明確に知らず語ることもできない人たちがデモをしているのが奇妙だ、という厳しい苦言を洩らしていた。宇宙人はこのシールズも嫌いなのであった。自己の正当性を声高に叫ぶ人間など老若問わずロクなものではない。なぜならそんな自分もまたどこかの誰かの犠牲の上に暮らしていて、その犠牲者の苦痛を考えれば自分の正当性など帳消しにされてしまうからだ。

冒頭のグロスマンは同著の中でこんな文章を綴っています。かつての同級生が汚職容疑で禁固刑となったが、その人物の性格からして冤罪のような気がするのに、再審のための運動をしなかった。理由はおそらく「面倒だったから」。同級生の老いた兄という人が心細いのかしばしば訪ねてきては弟の心配話をしていくのだが、その度に彼を暖かく迎えて「心からとても親切にしてやることに、私は自らの良心の慰めを見つけた」。本当は再審のための助力をすることが一番の良策なのに、その困難を忌避してラクな親切に流れたことを羞じているのである。人生とはえてしてこのようなものだが、グロスマンは素通りしない。
デモに参加しなかった私を含む多くの人が自分の仕事に忙しく「面倒だったから」参加しなかったというのも本当だろうし、参加した人の中には実は「自らの良心を慰める」ことが主眼だった人もいただろう。参加者も非参加者も、その立場や心情は一様ではなく、いずれも褒められたものではない。しかし最近の世間の物の見方は両者を単純に二分し、複雑な実態から目を背けるよう仕向けている傾向が強いように思う。その一端がドキュメンタリーの中立性や公平性の欠如であるように、宇宙人の目には映っている。
by hikada789 | 2016-01-24 16:17 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
第一次大戦時のアルメニア人大虐殺をテーマに描いたファティ・アキン監督映画『消えた声が、その名を呼ぶ』(2014年ドイツ・トルコ他多国籍合作)を観た。弱体化したオスマントルコの統治下に暮らすアルメニア人は、帝国内の少数民族として1915年に突如として敵視される。男は強制労働に狩り出され、女子供はほぼ奴隷として売られ、どちらも最終的には死ぬよう政策が取られた。ちょうど百年後の今も同じような場所で同じような暴政と迫害が繰り返されているから、土地の呪いは実在するのかもしれない。この不名誉な事件を現在のトルコ政府は認めていないから謝罪もしていないが、アキン監督はトルコ出身のドイツ人だし、多国籍合作の中でトルコ人もアルメニア人も制作に関わっているのが救いである。
尤もこの映画は虐殺が主眼ではなく、生き別れになった娘を父親が執念で探し出すロードムービーである。お父さん役の俳優が童顔で、しかも途中で声を失ってしまうので、観客は物云えぬ健気な坊やに思わず肩入れしたくなるという仕組みだ。そのため重いテーマを扱っている割には深みや示唆に欠けるところがある。エンディングも、結局娘の方が今どうやって暮らしているか、史実に近付けるならあまり愉快でないであろう機微に触れる結末については語っていないし。こういうテーマはロシア人に任せるとスーパーリアル且つヘビー級に仕上がるのだが。角川シネマ有楽町、恵比寿ガーデンシネマほかで上映中。

やはりフィクションだと残酷な事実を美化する方向へ流れやすいので、ノンフィクションの容赦のない剥き出しのざらざら感がお好みの方にはこちらがお勧め。八木景子監督『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』は、日本のイルカ漁を悪役にした2010年公開の映画『ザ・コーヴ』に大きな疑問符を投げ掛けた容赦ないヘビー級ドキュメントである。
『ザ・コーヴ』の公開以来、オーストラリアの主張に基づく国際司法裁判所の捕鯨停止命令を、日本人なら誰しも「?」と思ったに違いないのだが(もちろん私も思った)、なぜこの主張が世界で正当とされるのか八木監督は真っ向ツッコミを入れてくれたわけである。しかもその主張はバリバリの陰謀によりひり出されたものらしい。どういうことだ。もしかして日本の食糧自給率を更に下げるためにクジラ食を禁じて豪州産牛肉をいやでも買わせようって魂胆か。呑気な日本人よ、1月30日より新宿K’s cinemaで公開なので、言って確かめるべし(つまり私もまだ観ておりません)。アボリジニをさんざん迫害してきて、私の生まれる年まで有色人種の移民を禁じていたアパルトヘイト国家オーストラリアの正体を、今こそ見定めるべし。
by hikada789 | 2016-01-21 17:29 | その他 | Comments(0)
ニコライ・リーリンの顔が怖すぎる件。前回余話#U106冒頭で取り上げたロシア系イタリア語作家ニコライ・リーリン(このペンネームはロシア語発音に倣ってリーリンと表記します)のプロフィールを検索したら、刑務所で撮られるような凶悪な顔写真が映し出されて仰天した。映画化された自伝小説『シベリアの掟』は彼の少年時代を描いた作品だったため、やんちゃとはいえ健康な未成年の荒削りな正義感の描写からなんとなく丸い風貌を想像していたのだが、とんでもない。成人した本人の顔はハリウッド映画でやられ役に使われるような黒ヒゲに覆われた全面極悪人顔で、胸の前で組んだ両腕のバッキバキの刺青は指一本一本にまで及ぶ念入りっぷり。いや、彼の刺青は小説を読めば判るように日本のヤクザのそれとは意味が異なり、文化人類学的価値が濃厚なのだが、やはりパッと見は怖い。テロリストやシリアルキラーと紹介されれば多くの人は納得してしまうだろう。
とはいえ写真は他にも何枚も出て来て、人気作家としてカメラを意識したにこやかな表情もある。ハンマー投げの室伏広治に似たタイプといえば想像頂けるだろうか。室伏はベラルーシ人とのハーフだから人種的には当たらずとも遠からずである。まあ興味の湧いた方は検索してご笑覧下さい。

さて今回の余話のテーマは、このニコライ・リーリン氏の命式についてです。『シベリアの掟』の訳者あとがきに記された彼の半生は、われわれ一般人にとってはやはり極限的なものであり、その成育環境が明らかな裏社会であったことから、前回余話で該当条件を提示した忌神帝王に合致するかどうかを見てみたいと思います。
忌神帝王に限らず、入格(局方や格法のような型にはまること)するかどうかは、該当条件に100%合致するということ以外に、8割程度は合致するといった「準じる」入格も考慮しなければならないことは、以前の余話で述べました。なぜなら宿命は後天運の影響を受けるため、宿命で入格していたものが時期によっては一時的にはずれたり、入格していない命式であってもある後天運の期間だけ入格したりすることがあるからです。
また五行には陰陽がありますから、例えば癸水が守護神の人が、宿命に癸水がない代わりに同じ水性の壬水を守護神として代用することも、場合によってはあり得ます。尤も、同じ水性ではあっても癸水と壬水では陰陽も違えば干合相手も異なりますので、干合相手の有無や後天運によっては大分見方が違ってきます。
そういった機微についてリーリン氏の命式は大変参考になるので、まだ30代半ばと若くこの先人生がどう変わっていくか判らない状態ではありますが、果たして裏社会で生きるのが本物か、作家として名を上げ日の目を見る人生が本物か、忌神帝王の条件を中心に実践鑑定をしてみます。

小説を読んでいない方のために解説しますと、リーリン氏は1980年に旧ソ連のトランスニストリアという現モルドバ領に生まれたロシア人で、モスクワやサンクトを中心とするロシア本土から見れば見捨てられたようなこの辺境地域は、かつてスターリンの時代に強制移住させられたシベリアの住民はじめ、各地の不幸な少数民族が迫害の果てに辿り着いたソ連国内のはきだめであり、同時に無法地帯という自由の土地でもありました。ソ連では当地の住民は犯罪者とその家族と見做されていましたが、彼らの団結力は強く、不安定な東欧諸国と隣接する土地柄を活かして、武器の密輸や貨物強奪といったソ連当局も公にしたくない闇取引で生計を立てていました。つまりそれがスタンダードな社会だったわけです。無論特殊な社会であり、ソ連崩壊後は、この地域は紛争地として国際的に承認されない独立国を自称しています。
リーリン少年は祖父や父親をはじめ周囲の大人たちから立派な犯罪者となるべく薫陶を受けて逞しく育ちますが、ペレストロイカによる経済変革と西側の価値観の流入で従来の社会環境が維持できなくなり、18歳の時には運悪く徴兵に召集され、このような身分の少年は軍隊でも一番きつい所に配属される習慣から、チェチェンの対テロリスト破壊工作に従事させられます。ソ連の軍隊がどれほど恐ろしいことをするかは、現在のシリアで空爆しているロシア軍が民間人の犠牲をものともしない態度からもうかがい知れますが、そのような軍隊での極限生活によりリーリン氏は精神に傷を負い、除隊後は深刻なPTSDに悩まされた上、帰るべき故郷である犯罪社会は西側の文化侵略によって崩壊し(暴力団より資本主義の方が悪辣さにかけては上手だった)、一般のロシア社会からは社会不適合者として見捨てられという八方塞がりに陥ります。
結局、そもそもの故郷であるシベリアへ渡った祖父の元を訪ねることで壊れた精神を立て直すことに成功したリーリン氏は、自分の生きる場所のないロシアを捨てて24歳でイタリアへ移住します。ここまでの経緯が『シベリアの掟』を第一部とする小説三部作に描かれているそうです。処女作『シベリアの掟』の発表は2009年で29歳。この頃の大運の影響も興味深いです。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「不完全を完全に近付ける」です。「算命学余話 #U107」で検索の上、登録&無添加味噌1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2016-01-18 17:08 | 算命学の仕組 | Comments(1)
自主規制のない本音報道番組ニュースザップにエマちゃんが帰ってきた。喜びに打ち震える宇宙人。賢いエマちゃんのお蔭でゲストトークが締まるのだ。
昨日のゲストの真山仁は面白かったな。年明けから暴落し続ける中国株の実態について、上海市場はマカオ即ち賭博場と見做しておミソ扱いすべしと笑わせてくれた。そもそも中国の企業とは社長が全員党員であり、経営ノウハウも実務経験もないので本人はもちろん社内の誰も自分の会社がいくら儲けているか正確な数値を知らないのだという。そんなことだから政府の発表する国家GDPに対して、各地方のGDPの総計が一致しないというあり得ない統計が平気で公式発表されるのである。私はまた、自分を事実より大きく見せることに血道を上げる中国人体質が数値を故意に水増ししているのかと思っていたが、真山氏の見立てでは単なる水増しではなく、隠したい実数値すら知らないというのが真相のようだ。更に悪いではないか。こんなのでよく今までやって来れたものだ。いやもう既にやっていけなくなっているから暴落なのである。

中国は国家も民間も嘘まみれであることは私も常々訴えてきたことであるが、かように経済的見地からも傍証されて嬉しいというか、改めてあきれる。かように国際スタンダードに合わせる能力も意欲も倫理もない中国の株は、日経やNYといったまともな投資市場とは別の遊びと考えて、極めてギャンブル性の高い賭けに情熱を燃やす賭博師に任せるといった線引きが今後なされるだろうと真山氏は予測を述べ、更にこう予言した。「上海市場は現在のような乱高下がしばらく続き、その後大暴落して終わる」。今の株価は実態経済の数倍なのだから、実態経済の数値と合致するまで落ち続け、そこで安定を見るだろうというわけだ。納得いく結末である。皆さん、中国関連の投資話には間違っても乗ってはいけませんぞ。既に持っていたらさっさと手放すのが賢明だと私も思います。それと、中国ではない投資話でも、例えば中国の成長を支えてきた資源を輸出している国も釣られて落ちるから、早めに対処した方が良いでしょう。

中国には昔二年ほど暮らしており、交友の続いた友人らもいたけれど、上述のような中国凋落の話を聞いても一向に心が痛まないのは、やはりかの国の上から下まではびこる嘘っぱち体質が同情を呼び起こさないからなのだろう。
一方、同じく数年暮らしたロシアについては、当ブログでも以前取り上げたが、ウクライナ関連で経済制裁を受け始めた頃のロシアが「二年は余裕で我慢できる」と豪語したプーチンの会見から、ぼちぼち二年が経過する。資源国であるロシアが経済制裁を受けてもある程度自力でやっていけることは私も承知していたが、その後台頭したISのお蔭で原油価格が暴落し、今週とうとう1バレル30ドルを切った。私がロシアにいたのはエリツィン末期の大混乱期だったが、当時の原油が1バレル9ドルまで行ったのをよく覚えている。叩き売りもいいところだ。お蔭で国民生活は困窮し、当時交流のあったロシア人らがその日の生活費にも事欠くようになったりした。かの地を去る時には一体この人たちはどうなってしまうのだろうと心が痛んだし、今また同じような状況に至ってやはり心が痛むのである。このような事態に中国人ならば腐った肉でも冷凍して売ったカネで凌ぐだろうが、ロシア人の体質ではそういう発想にはならず、一番ありえるのは『罪と罰』のソーニャの如く、美しく柔順な娘を人身御供にして資産家に差し出すという選択肢である。だから心が痛むのだ。

とはいえ原油安のお蔭で近所のガソリンスタンドの表示は、今日は103円まで下がっていた。しかしガソリンが安くて家計が助かると喜んではいられないと、佐藤優氏は警告している。彼の見立てによれば、IS撲滅作戦で自国の兵士を死なせたくない米国が、代わりに兵士を出してくれるイランを見返りに優遇することでサウジが反発し、イラン対サウジつまりシーア派対スンニ派の全面戦争が起きる恐れがあるという。そうなれば中東の石油は全面ストップするから、原油価格は一気に高騰して日本経済を直撃するだろう。国家戦略として、二年の経済制裁で弱ってきているロシアに今こそ近付いて原油輸出の長期契約を結ぶべし、と佐藤氏は以前からの主張を繰り返す。そのために日本の首相が今年の訪露計画を立てているのなら、日本政府はまあまあ上手くやってくれているということになるのだが、とりあえずその前に中国株が墜落するのが先であろう。皆さん、対ショック体勢で身を守りましょう。
by hikada789 | 2016-01-15 18:36 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
宇宙人の能稽古はしばしば先生の稽古にすり替わることがある。先生がシテを務める本舞台が数カ月後に迫ると、先生は自分も詞章を暗記しなければならないので、弟子の稽古の曲が特に決まっていないと自分の稽古と同じ曲を指定して、弟子の相手をしつつさりげなく自分の稽古に充てるのである。という話を以前稽古仲間に語ったところ、どうやらそんな扱いを受けているのは宇宙人だけらしい。宇宙人なら気にしなかろうと思われているのやもしれぬ。信頼されていると喜ぶべきか、軽んじられていると悲しむべきか。宇宙人がこのように稽古している『頼政』のお知らせはいずれさせて頂くとして、今日は今月末の先生の舞台のご案内です。

---------- 第三回辻井八郎の能 <故仙田理芳七回忌追善>----------
◆日時:平成28年1月31日(日)13時開演
◆場所:セルリアンタワー能楽堂(渋谷駅より徒歩5分)
◆演目:能「砧」、狂言「長光」、仕舞「淡路」「笠ノ段」「誓願寺」、連吟「巴」
◆入場料=7,000円~(全席指定)

セルリアンタワー能楽堂は小振りな舞台なので客席数も少なく、後ろの席でもよく見えます。正面席はもう売り切れたようですが、安めの席はまだありますので奮ってお運び下さい。
なお、終演後は宇宙人がお茶に行きたいと思っているので、顔見知りの方はロビーでウロウロしている宇宙人を見かけたら声をお掛け下さい。3人以上集まれば近辺の適当なカフェに入るなり、日曜の渋谷がどこも混んでいることを見越して稽古場方向へ流れるなり、ナン食べ放題のカレー屋に入るなりします。もちろんお勧めの店を知っている方が引率してくれても構いません。宇宙人は以前勤めていた頃は打上げ会食によく出席していましたが、昨今の懐事情ではそれも叶わぬのでせめて酒なしのお茶会親睦をと目論んでおります。土星の裏茶会なのだ。ブログには書けない先生との与太話などいろいろネタも仕入れております。有意義な情報交換の場となりますように。
by hikada789 | 2016-01-11 15:30 | 宇宙人の能稽古 | Comments(2)
(※以下は2016年1月の記事で、2019年4月現在、DLマーケットはサービスを終了しております。『算命学余話』の購読は現在パブーのみとなっております。)
店主の目利きの冴えによりこのご時世を潰れずに生き延びている町内の本屋がこんな本を仕入れていた。亀山郁夫著『新カラマーゾフの兄弟』上下二巻。名の知れた作家ほか、ドストエフスキー嫌いのフシのある佐藤優も帯で推薦する分厚いハードカバー。亀山氏はドストの小説の新訳で近年ブレイクしたが、中身をめくると自作小説である。登場人物が日本人になっていて、どこかで見たようなと思ったら当ブログでも数年前にくさした日本製テレビドラマの配役と同じに見える。あのドラマの原案がこちらだったのだろうか。常に読みたい本を積み上げている宇宙人はにわかにこの作品に手を付けることはできないので、どなたか読んだ人がいたら「旧」カラマーゾフとどう違うのか教えて下さい。これも絶版危惧種なのかなあ。読み終えてリサイクルに出すくらいなら宇宙人に下げ渡してくれ給え。大事にするよ。

自分自身がまがりなりにも『余話』の印税で細々と暮らす身となって(読者の皆さんのお蔭です)、いかに好きとはいえそれなりの労力と集中力を払っている執筆という作業に鑑み、世の作家の、とりわけ中身の詰まった有意義な作品の対価が1500円とか2000円とかなら決して高いとは云えない、それどころか破格のお値段であることを痛感するのである。もちろん昨今の図書は多売目的で中身の薄い物の方が遥かに多く、これらが半年後には大量に中古本屋で叩き売られているのは当然の結果であるが、これらと一緒に作家が魂を削って書いた有意義な本までが叩き売られるのは正義にもとると思うのだ。ましてやアマゾンは米国の企業なのでいくら儲けても日本で税金を払うわけではなく、富は日本人に還元されず米国へ吸い取られてしまうので、アマゾンの利用はそれこそ絶版本などどうしてもここでしか買えないものに限定すべきであると考えるし、また同様に本当に手元に置いておきたい良書は中古ではなく定価で買うよう心掛けている。そうでないと良書を書いてくれる作家たちが困窮してしまうからだ。彼らの作品はわが糧なのだよ。なくなってもらっては困るのだ。応援するために本を買うのだ。皆さん、アマゾンの利用はほどほどに。その商品を作ってくれた人にちゃんとお礼としての対価が支払われているかを考えて、物を買いましょう。

かくいう宇宙人も読書の九割は図書館に頼っているのだからお恥ずかしい限りだが、人並みに収入のない現在は致し方ない(でも一割は買うので今月も既に赤字である)。上述のような良書の内容とページ数とを比べれば、リーフレットサイズのわが『算命学余話』の価格はぼったくりものかもしれない。赦して下さい、これも食べていくため。算命学というコアなテーマの読者数は限られるため、このような仕儀となっております。

その『余話』についてのお知らせです。いつもはブクログのパブーにて販売しておりますが、一年程前にDL Marketという販売サイトを知って試しに初期の数巻をアップして宣伝効果を上げようとしました。結果的にいくらも売れませんでしたが、DLMにはセット売りなるシステムがあるので、12回おきの「玄番」を除いた通常価格のものを11冊セットで割引販売することにしました。既に1-11巻と13-23巻をセット売りしております。パブーと違ってこちらは消費税が加算される仕組なので、単品で買うとパブーより高くなってしまいますが、代わりにセット売りは若干安くなるよう設定しました。
セット売りはある程度期間が経ってからしかしないつもりなので、常に新しい余話を読みたい方には無用でしょうが、最近余話の存在を知ってバックナンバーを買おうとお考えの方にはお勧めです。但し、DLMの購読はPDFダウンロードのみですのでご注意下さい。
by hikada789 | 2016-01-09 16:57 | 宇宙人の診察室(営業窓口) | Comments(0)
ロシア移民のニコライ・リリンがイタリア語で書いた自伝小説『シベリアの掟』(原題『シベリア流教育』)が発表されたのは2009年で、当地でベストセラーとなった後の2013年、イタリアを代表する映画監督サルヴァトーレスによって映画化された。日本では『ゴッド・オブ・バイオレンス シベリアの狼たち』の邦訳で公開されたようだが、私はこのロシア語吹き替え版を先に見てから原作を読んだ。両者の違いは明らかで、これはとりもなおさずイタリア人とロシア人の価値観及び美意識の差であると認識している。端的に云って原作の方が数倍面白いし、内容が深い。これに比べれば映画の方はハリウッドに倣った単なる娯楽商品である。
西側世界は破綻した旧東側世界に対し優越感を抱いているが、この映画と原作を見比べればその精神世界の豊かさにおいてどちらに軍配が上がるかは明白だ。尤も、イタリアの読者層の多くは原作を支持したのだから、彼らの頭と映画の薄さとを一緒にしてはいけないかもしれない。それに、著者の書きたかったことがソ連崩壊後に訪れた西側流消費社会によって壊滅していったロシア文化の一形態とその思想であったのに対し、映画は興行収入を得るための活劇にスポットを当てたのだから、自ずと表現するものが違ってしまったのは致し方ない。興味のある方は両方を見比べてみて下さい。どちらか一方なら断然小説の方がお勧めです。

その原作の中に散りばめられた含蓄深い文言のうち、我々現代人の耳に痛い名句をご紹介しよう。ソ連時代に国家権力による理不尽な暴力に苦しめられ、それに対し同じく暴力によって抵抗を示してきた主人公の属する社会は、相互の助け合いによって支え合い、そこにはルールも善悪の区別も団結もあった。しかし世間は彼らを犯罪者と呼び、主人公もまたこの生き方がひどく極端なものであることに気付き始める。そんな主人公の目には、暴力と無縁な一般社会もまた奇異に映っている。

「人々は他人の問題に対してはもちろん、自分の問題にすら目を覆い耳を塞いでいるように見えた。人々は何も共有するものを持たず、何かを分かち合う喜びも感じることなく、ただ分断されている。誰もが他人を勝手に評価し、その人生を批判するくせに、自分はテレビの前で夜を過ごし、安い食品で冷蔵庫を満たし、家族のパーティで皆で酔っ払い、他人を嫉妬し他人からは嫉妬されようと必死になる人生を送っている。周りの人々に何もかもうまくいっている、「ビジネス」は順調だ、と言いふらす。その実は搾取され続けているだけのただの労働者で、自分の人生の真実に目を向けることができないだけなのに。ソ連崩壊以降のロシアに広まった消費至上主義は、私のような人間にとっては衝撃的だった。私は疲れ、途方に暮れ、この世界の中に善良で有益な生き方を見出す自信をまったく失っていた。」

これが殺人未遂で二度少年院に入れられたアウトロー青年の現代批評なのである。イタリア語で書かれたとはいえ、まさしくロシア文学の伝統を引き継いでいる。ロシア文学はドストエフスキーの時代から、或いはもっと前からずっとこのテーマを扱っているが、とうとうイタリア文学に進出してきたというわけだ。このテーマの解決方法は未だ見つかっておらず、この作家も答えに至らない暫定意見としてこう締めくくっている。

「人間の正義はおぞましい。そして間違っている。神様だけが正義を下すことができるのはそれゆえだ。だが罪深き私たちは時に、その裁きを待たずして正義を行うことを強いられてしまう。」

今回の余話のテーマは、社会における陰陽についてです。『シベリアの掟』に描かれる犯罪者コミュニティは、一般社会から見れば明らかに裏社会です。日陰者の社会であり、日に当たることはなく、小説に書いて発表でもしなければ世間の誰も目を向けず、気付くこともない。しかし彼らの世界には我々の知らない文化があり、理性もあり、道理もあり、その中で人々は生き生きと生活している。彼らから見れば、一般社会のシステムは自由を奪われた奴隷を量産する工場にも見える。両者の価値観は対極にあり、交わることはない。
これは算命学の陰陽論の根幹でもあります。日本では裏社会というと暴力団や密輸といった違法行為がはびこる特殊な世界を思い浮かべますが、高倉健が多数出演した往年のやくざ映画が安保紛争の時代に人気を博したように、あの世界にも仁義や人情があり、異常な暴力愛好者や道理の通じない変質者は問答無用に排除の対象となっていました。翻って我々の一般社会はどうでしょう。無差別殺人や弱者虐待といった狂気の犯人を捕まえても、その罰し方は余人の納得のいくものでしょうか。被害者よりも加害者の人権を尊重し、精神異常と診断しては釈放するような世の中です。そこにはけじめがなく、責任を取りたくない人の思惑がちらつきます。どちらがより正しい社会なのか、我々には判断つきかねます。正義を知っているのはまさしく神様だけというわけです。
算命学は神様を論じませんので、こうした事情は陰陽で斬っていきます。今回は陰陽思想の話がメインですが、話を判りやすくするために「守護神帝王」と「忌神帝王」の対照性についても取り上げます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「守護神帝王と忌神帝王、表と裏」です。「算命学余話 #U106」で検索の上、登録&国産押麦1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
by hikada789 | 2016-01-06 17:16 | 算命学の仕組 | Comments(0)
年末にロシア語のネット新聞を眺めていたら、スポーツ欄に格闘家ヒョードルの写真を見つけた。見出しは「勝たずには帰れぬ」。日本の大晦日の格闘番組に組まれた特別マッチのことだ。前にも述べたが私はボクシングは基本的に内山高志しか興味がなく、最近井上尚弥や村田諒太も見るようになった程度で、その理由は勝ち方がクリーンで頭も理性的だから。動物と区別のつかぬ雄叫びを上げるようなファイターを楽しく眺める趣味はなく、血しぶきが上がってもレフリーが止めるまでマウントで殴り続けていいルールは、社会にはびこるリアルな暴力を彷彿とさせて好かなんだ。だからヒョードルが皇帝と呼ばれていた頃の総合格闘技の取組みはあまり見ておらず、選手の顔ぶれもよく知らない。ロシアに至ってはソ連時代に興行としての格闘技があったかどうかも疑わしく、少なくとも私の当地滞在中には小耳に挟んだこともなかった。五輪や世界選手権を目指す格闘種目は盛んだったが、現役を退くとコーチになるか軍隊に入るのが通例だったように覚えている。そんなわけで、日本で人気のあったヒョードルはじめ職業ファイターの記事がロシアの大手新聞に載るということ自体が新鮮に感じられたのだ(確かイズヴェスチアだったかな)。
大晦日は彼の他にも確か引退したはずの往年の有名選手らが各番組に登場し、若手の人材不足が思いやられたが、私はもとより内山の試合だけが目当てだから残りはオマケだ。本を読みながらナナメに眺めて勝敗も確かめずに年を越し、正月になってから思い起こしてYouTubeを検索したところ、なんとロシア語解説の付いた動画がアップされているではないか。これが最近のロシアの格闘技事情なのだな。

このつながりで自動的に出てくる「あなたにお勧め」動画にはヒョードルとは無関係の試合も並び、ちょっと気になっていた所英男×才賀紀左衛門の試合をロシア語解説で眺めてみた。この試合は寝技中心だったのでワザの名前がどうロシア語になっているのか聞き耳を立てたが、全然聞き取れない。或いは英語をそのままロシア語にしただけかもしれないが、英語名を私が知らないのでやっぱり掴めない。腕ひしぎ十字固めの英訳など知らぬのだ。聞き取れたのは、この試合で化鳥のような黄色い悲鳴を終始上げ続けた才賀の妻が映ったところで、「この娘の金切り声は選手を助けているのか。いや、逆に邪魔をしている」という解説者の厳しい苦言であった。あの声はうるさかったが、さすがに日本の解説者はこうした批判をマイクの前で述べたりはしない。お蔭でこれが今年の初笑いとなった。

ところで勝者となった所英男は、数年前に武者修行でリトアニアの格闘競技会に参加しており、どうやらロシアの業界でもそこそこ知られているらしい。なのに一向に名前が聞こえてこない。よく聞くとヒデオタコーラと呼ばれていた。トコロをロシア語式に読むと発音の規則上タコーラになってしまうのだ。タコラ・ヒデオは寝技の専門家で、この試合でも予想外の動きで相手の足に絡みついて場内をどよめかせ、そのクナクナした回転連続技がタコを思わせたので、これまた初笑い。
どういうわけかこのタコな足さばきが気に入って、他の画像も検索し、お蔭で正月はタコラ一色になってしまった。彼がブレイクしたのはもう十年も前のことだが無論私は知らなかった。ブレイク前のフリーター時代とそのあととでキャラが変わらず、リングの外では一貫してちょっと頭はわるいが躾のいい小綺麗な雑種犬といった印象だ。嘘や虚栄心が嫌いな宇宙人は、タコラの作り笑いさえできない演技力のなさや、それでいて無愛想ではないワンコのようなキャラクターが、上下の人々から愛されつついじられるのを見て、心が癒されるのであった。頭が怜悧でないお蔭で、リングの上では思い切った大技を繰り広げて時に大金星を上げ、時に墓穴を掘ってKOされる画像が目白押し。ああ面白い。

しかし何より気に入ったのは、試合中は喩え相手をボコボコに殴っていてもわれを失うことはなく、試合終了と同時にコロッと仔犬モードに戻って、たった今ぶちのめした相手を心配して両耳が垂れてしまうところなのだ。勝ったのに敵に寄り添ってオロオロしている格闘家は珍しい。優しい子だよ。ある動画では試合直後のバックヤードを映し、勝ったにも拘わらず何度もワザをかけても決まらなかった試合運びの悪さに肩を落とすタコラが、思い出したように顔を上げて仲間を見上げて曰く、「セコンドの三人がすごい怖かった」。決めきれずに焦るタコラを自陣のセコンドが怒号で叱咤したことを言っているのだ。お前が怖がる相手はセコンドではなく対戦相手だろうが。しかしそんな記憶が残っているほど理性が勝っているというわけだ。行儀がよく、謙虚で躾がいい。この点はわが内山高志と共通している。まあ風格は大分差があるが。あ、タコラの方が内山より年上だ。この先何年楽しませてくれるか判らないが、どうも大晦日に勝ち星を上げる傾向にあるようだから、内山の防衛戦と合わせて年末のお楽しみにするとしよう。
by hikada789 | 2016-01-04 17:45 | ロシアの衝撃 | Comments(0)