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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2017年 12月 ( 13 )   > この月の画像一覧

今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏は長崎生まれで、5歳の時一家と共に英国へ移り住みます。当時は旅行のような感覚で、日本にはすぐに帰れるものと思っていましたが、その後英国の子供の通う学校で教育を受け、家では日本人、外では英国人という二重生活を積み重ねた結果、もう日本語も日本の習慣も判らない大人になったことを自覚して、英国籍を取ることを選びます。
当然のように帰るべき場所であった日本という国が、もう届かない淡い記憶になってしまったその経験から、彼の作風はノスタルジックで美しく、しかし誰にも知られない秘密を抱えた者がその秘密と共にひっそりと生き、人知れず死ぬような独特の悲哀や死の影を湛えるものとなりました。こうした追憶や悲哀は、移民ではない生粋の英国人には決して書けないものですが、イシグロ氏は寡作であるにも拘わらず英国で高く評価され、もしかしたら近年の国際問題としての移民・難民の立場を「忖度」して今年のノーベル文学賞に選ばれたのかもしれませんが、世界中で読者を魅了し続ける確かな作家として位置づけられています。

そのイシグロ氏が興味深いことを言っていました。既に英国人としての思考法を身に付けている彼の発想は我々日本人にはちょっと違和感がないでもないですが、西洋的直線思考に則って、人間は成長と共に完璧に近付いていくものだという前提があります。生まれたばかりの赤ん坊はサルといくらも変わらないが、成長と共に学習し訓練され、理性と知性を磨き、動物とは明らかに違う(優越する、と西洋人は言いたいのでしょう)存在となる、それが人間として成長を成し遂げた「大人になる」ことだというわけです。我々日本人にはこうした前提はありませんが、イシグロ氏は英国でそういう教育を受けてきたし、そう思ってきた。
しかし作家となった彼は、この前提を覆す考えに思い至ります。それは「人が完璧ではない自分に気付き、そうした不完全な自分自身を許すことが、大人になるということだ」という考え方です。つまり大人になるということは、進歩を続けて完璧になることではなく、逆に退化を受容するものだと。これは西洋的直線思考からは随分逸脱していますし、東洋的循環思想や陰陽論に通じるものがあります。私はこれが算命学の思想に非常に近いと思い、イシグロ氏の思想に興味を持ちました。

というわけで、今回の余話のテーマはカズオ・イシグロ氏の命式です。といってもノーベル文学賞を受賞した理由を探すものではなく、彼の思想やその作風がどうして上述のような形を取るのか、その内面を探るのが主眼です。
毎度繰り返しますが、彼と同じ生年月日の人が誰しもノーベル文学賞を受賞するわけではありません。作家になる人だっていくらもいないでしょう。だから「この命式だから作家だ、ノーベル賞だ」という考えは間違いです。しかし「この命式だとこういう傾向になるだろう」という見立てができるのは確かです。今回はそうした標準的な見立てから、イシグロ氏のような思想や作風に至る道筋を考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「名誉と死と記憶の作家」です。「算命学余話 #R51」で検索の上、登録&年越しそば一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
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by hikada789 | 2017-12-31 17:46 | 算命学の仕組 | Comments(0)
お勤めの皆さんはそろそろ仕事納めでしょうか。図書館も閉まる頃なので、宇宙人は年末年始の溜め借りをしてきた。ラインナップは以下の通り。
・丸谷才一『笹まくら』
・森鴎外『渋江抽斎』
・オルガ・トカルチュク『逃亡派』
・佐藤亜紀『1809』
・米原万里『終生ヒトのオスは飼わず』
・同『偉くない「私」が一番自由』
・同『オリガ・モリソヴナの反語法』
・小関勲×甲野善紀『ヒモトレ革命』

脈絡がない? 『笹まくら』は米原万里の推薦で、『渋江抽斎』は須賀敦子の推薦。どちらも読み始めているが、所々笑えます。『逃亡派』は東欧文学者の推薦で、ポーランド文学なのだがおそらくロシアと無縁でない異端信仰を扱っている。『1809』は佐藤亜紀の作品の中で唯一笑いの要素の無い作品と覚えているが、もう一度読んで確かめたくなったもの。米原万里の三作品は未読のもの。『ヒモトレ』は鍼灸師の薦めで最近始めた、ヒモをタスキ掛けにして過ごすだけで歪みがとれるというお手軽整体の対談本だ。ほらちゃんと繋がっているでしょう。これで年末年始は退屈知らずなのだ。
なに、毎日が日曜日の宇宙人に年末年始もないだろう? こういうのを「ニートにプレミアムフライデー」って言うのかな。これはわが愛するMX番組「五時に夢中」がやっている「ことわざアップデート」というコーナーで、「豚に真珠」を今風にアップデートしたもの。他にも「犬が西向きゃ尾は東」を「全裸で町出りゃ手は後ろ」とか、「安物買いの銭失い」を「安物国有地買いの小学校失い」とか世相を反映した楽しい言い換えがあった。世間への忖度のない良い番組である。

皆さんはこの冬休みはどんな読書をされますか。No.1025で紹介した米原万里の特集雑誌には、1998年の米原氏とオペラ演出家ボリス・ポクロフスキーとの対談が掲載されています。ソ連崩壊に続く資本主義の導入で社会が激変しても、なお芸術の力や役割について揺るがぬ信念を持ち続けるソ連仕込みの芸術家の意見は、20年経った今聞いても全く遜色ありません。こういう読書を是非年の始めにしてほしいものです。少し抜粋します。

――(ソ連崩壊後の体制の変化によりイデオロギー上の制約はなくなったが)ポルノや暴力礼讃をやってもよくなった。でもそういう「自由」を僕はあまり認めたくはない。つまりすべてが「商品」として扱われ、ただ「売れればいい」という精神で、末梢神経を刺激するような下劣で物欲しげな作品を量産していくことに、とても抵抗を感じます。そんな風潮が荒れ狂う中で、情緒とか良心、正義といったよき「センス」を守っていくのはとても難しくなってきました。
…ソ連時代のように俳優が俳優業で食べていける境遇ではなくなったが、切符の売上収入はあてにしていません。あてにしようとすればもっと高くしなければなりません。するとそれだけのお金を払える人たちに合わせて、作品の質も変えなくちゃならない。自分たちの意志を曲げて、裸の女性を登場させたりしてね。でもそういう金持ちたちは別にモーツァルトやツルゲーネフを聴きたい、観たいとは思っていない。趣味のいいものを見ようとする人たちは、大抵貧しいのです。そういう人たちにこそ来てほしいので、切符は高くできない。…俗悪低級に走るのは簡単です。
…オペラはじめ芸術作品そのものに「美」があるわけではなく、「美」は人間生活の真実の中に、人と人との関係にあるのです。その神髄がオペラはじめ作品に表現されているのです。それをつかみとり、人々に伝えていくこと、魂の深奥のところで感動させること、それが僕たちの仕事なのです。――

こういうセリフを日本の芸術家なり文人なりに吐いてもらいたいものだと、思い続けてやはり20余年が経ってしまったよ。
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by hikada789 | 2017-12-28 20:13 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
子育て中の同窓生は、わが子の夢を壊さぬようサンタクロースが存在する芝居をとり続けているという。一体何の為にそんな絵空事を信じ込ませる必要があるのかと宇宙人がいぶかっていると、同窓生は自分も小学校高学年まで信じていたと告白した。宇宙人は仰天し、その場にいたもう一人の同窓生にも尋ねたところ、似たような回答が返ってきたので二度びっくり。そして、宇宙人の家庭ではサンタクロースは絵空事という前提でクリスマス行事をこなしていたため、そもそもサンタクロースの来訪を待った経験がないことを告げると、今度は同窓生たちの方が仰天したのであった。皆さんの幼少時は如何でしたか。
幼少期の家庭教育の威力は絶大で、その内容は子供の成長は勿論のこと、更にその子が成人して自分の子を成した際の子育てにまで影響する。見よ、宇宙人を。絵空事を排除し厳しい現実を直視する家庭教育の影響で、リアリズムに立脚したロシア文学を十代から読み始め、読書の秋には収容所文学なぞを読み漁り、ご都合主義やお涙頂戴のドラマや映画、その原作小説などには見向きもしない。お蔭で話の合う友達がいくらもいない人生を邁進中である。こうした人生が幸せかどうかは意見が分かれようが、宇宙人は幼少時から「絵空事を子供は喜ぶ」と決めつけている大人を馬鹿にしていたから、そんな風に幼稚園児にさえ軽んじられるような大人を量産する社会を肯定することはできぬ。

宇宙人のこまっしゃくれた幼年期の記憶によれば、七夕で短冊に将来の夢を書けという課題があり、その場で考えて書かねばならなかったのだが、「急に言われても困る。なぜ前日に考えてくるよう宿題にしなかったのか」と幼稚園の先生の段取りの悪さに苛立ったものだ。しかし何も書かないというのは許されず、されど既に「ウソをついてはいけない」教育が沁みついていたためウソも書けない。なので適当な「正解」を書くしかない。この場合の正解とは、周囲の大人が満足し、速やかに課題をクリアする回答のことである。
段取りの悪い先生はそんな宇宙人の子が、まだ頭が回らない年齢なので助け舟が必要と思ったらしく、「幼稚園の先生はどうかな?」とかほざきよる。宇宙人は、「おんどれのような段取りの悪い大人になぞなってたまるか。幼稚園の先生など頭の悪い人種がなるものだ。わが将来にその選択肢はない」と、言葉ではなく厳しい視線で報いたのであった(世の幼稚園の先生、悪気はありません)。結局こすい宇宙人は周囲の同輩の短冊を盗み見て、それらしい子供らしい夢とやらを記入して課題をパスしたのであるが、そんないい加減なことを強いる社会と、それを動かし満足している人間の大人たちに早くも不信感を募らせたのだった。

宇宙人のこうした姿勢が家庭教育による影響か、それとも宇宙人個人の性質によるものなのかの判断は微妙である。おそらく両方なのだろう。いずれにしても、宇宙人は自身がこのような子供であった記憶があるので、物心のついた年齢の子供をあなどるということはしない。世の中には幼稚園の先生より遥かに大人びた考えを持ち合わせている子供が何割かいて、そうした子供には大人と対等な目線で話しをするべきだと考えている。そうしないと、子供たちは大人を軽んじ敬意を払わなくなる。
日本の伝統的教育では、子供は親や大人を敬わなければならないとされているが、それには前提条件があるのだ。それは大人が子供に馬鹿にされない程度の知恵や分別を備えている、ということである。年端もいかない幼児にさえ軽蔑されるような大人を、成人しているというだけの理由で敬う必要は本来ないはずだ。日本の伝統では、大人は洩れなく立派だった。だから洩れなく敬われるべきであったのだ。その前提条件が崩れた今日、親や大人の言う事に無条件に従う義理は子供にはない。宇宙人はかように考えている。

ところで、先日幕末の長州と会津の命運を比較した歴史番組をやっていて、そこで会津の子供達が今日も受け続けている伝統的教育法を紹介していた。まだひらがなも習っていないような年齢の子供に独自の教育訓を大声で暗唱させるのだが、その文句の中に「ならぬことはならぬ」というのがあり、宇宙人は眉を顰めた。そのくだりでは番組出演者がコメントし、「これは思考停止を促す教えだ」と率直な批判を述べた。宇宙人も同意見である。
番組では会津バッシングにならないようその後いろいろフォローしていたが、結局幕末の風雲の中で会津が負け組になったのは、こうした幼少教育が思考停止を促す会津藩士を量産したからではないだろうか。だとしたら、会津の不幸を招いたのは会津の大人が子供に施した、立派とはいえない教育指導だったということになる。しかし会津にはこうした大人の思考停止教育に反発する子供はいなかっただろうか。いやきっといたはずである。そしておそらく彼らは世界のどこかで生き延び、子孫を繋いで活躍している。そして、かつて自分の同輩が犯した思考停止の愚を繰り返さぬよう、平均以上に思考を高める教育を、わが子に施しているかもしれない。そうであることを期待したい。
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by hikada789 | 2017-12-26 21:24 | その他 | Comments(0)
b0214800_191320100.jpg掛布団カバーの片面が破けたので布を購入し、終日リメイクに精を出す宇宙人。ネット通販で日本製のカバーもまあまあの値段で見つけたが、高級感溢れる光沢が売りで、素朴なわが家には合わないのでやめた。時間だけはあるのだから自分で縫うことにする。厚手だが1m180円と安価なので多めに買った。そして買ったそばから今度は敷布団カバーが破けた。やれやれ、新年を前にもうひと踏ん張りして敷布団もぴしっとしよう。余分に買った布もこれで消費できる。この年安さにつられて買い漁った牛革とリサイクル服のせいで、押入れにはもう布を入れる隙間はないからな。キタサンブラックの疾走を耳にしながらちくちく縫い進める宇宙人。きれいになった掛布団に満足する宇宙人。
画像は押入れの隙間を少しでも広げるべく製作した「黒ヘビ型押し牛革の大型トート」。爬虫類好きな能の先生の出稽古用カバンとしてご注文頂いたもの。でかいなあ。でもこれで紋付き袴と和装の付属グッズが丸ごと入るのだから、宇宙人も自分用に作ってみようかな。ファスナーをつければ旅行カバンにもなりそうだ。
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by hikada789 | 2017-12-24 19:13 | その他 | Comments(0)
無類の本好きであった故米原万里は、1960年代にチェコのソビエト学校で基礎教育を受けたため、一般的な日本人が受ける日本の学校教育に違和感をぬぐえなかった。マルバツ式の試験問題や読書感想文がそれだ。当地の教育は論理的思考を育むものなので、試験は論述と口頭質疑だったし、読書は感想を述べるのではなく何が書いてあったかを相手に伝えるためのツールだった。「読書感想文などくだらない。この本を是非友達にも薦めたい、という書評を子供達に書かせた方が、本を好きになる子が増えるだろう」と米原氏は述べている。私も同感だ。
しかし同じロシア専門の沼野充義氏が冷や汗をふきふき論じるところによれば、「米原さんは文学的素養は広く深かったけれども、その趣味はいささか古風というか、あまりに正統的であって、難解なレトリックで人を煙に巻くような評論や、実験的な「崩れた」ポストモダン文学などのよき理解者ではなかったことは確かである。…彼女は近代批評の頂点として崇められている小林秀雄に対しても容赦なかった」。

米原氏は、「理路整然とした、人を説得しようとする情熱のある」文章を好んだ反面、レトリックの羅列のような(小林秀雄の)文章を軽蔑していたが、それはチェコで受けた学校教育の影響でもあった。こう聞くと米原氏が外国かぶれかのように聞こえるが、彼女はまたこんな言葉も残している。
「ロシア語通訳時代は、「火に油を注ぐ通訳」などと呼ばれていました。これをよく言えば、欧米人の攻撃的な話し方と、日本人の対立を避けようとする言い方の裏に潜む対立点を浮き立たせようとしていたのです。字句通りに訳してはいらぬ誤解と混乱を招くばかりなので、文化の差異を織り込んで訳すわけです。」
ただの外国かぶれではなく、日本人のことも正しく理解していた。だから自動翻訳のように字面を訳すのではなく、文化背景も含めて訳そうとしていた。こういう芸当がAI翻訳にできるだろうか。
尤もその後作家になった米原氏は、当時の自分の翻訳姿勢を反省し、やはり字句通りに訳して聞き手に判断を委ねた方が良かったかもしれないと述べている。そうすると、聞き手も話し手も共に責任が重くなる。話し手は聞き手がどう理解するか判らないから正確な伝達を心掛けなければならないし、聞き手はリテラシーや予備知識、教養が問われるようになる。そのような双方の緊張感があった方が、知的交流としては相応しいということだろう。

来年は米原万里の没後十年になるが、彼女の人気は未だ根強い。今年の夏に河出書房新社が出した特集雑誌『米原万里 真夜中の太陽は輝き続ける』に以上のような論評を含む回顧文が多数掲載されているので、お時間のある方は是非お読み下さい。そして読書のための本選びに迷っている人には、当ブログで既に取り上げている米原氏の書評集『打ちのめされるようなすごい本』を重ねて推奨致します。ハズレなし。ちなみに几帳面な米原氏は書評に取り上げた本の目録を残しているが、そこに村上春樹の名前はないそうだ。
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by hikada789 | 2017-12-22 15:38 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
本屋を物色していたら、『攻殻機動隊』の映画監督で知られる押井守氏の『ひとまず、信じない』というユニークなタイトルの新書が目につきました。中は見ませんでしたが、この人とは意見が合いそうだと思いました。
最近は人と知り合う機会もめっきり減りましたが、そんな少ない出会いの中にも珠玉の邂逅があるかと思えば、驚くほどのガッカリさんにも遭遇したりします。今年のガッカリさんは前回余話で論じた「無意味な人生」を全身で表現しているような人物で、もう三十路を越えたというのに人の意見を全て鵜呑みにし、常に他者に迎合することで自分が非難されることを避け、故に何の責任も取らないという姿勢を貫いている人でした。まるで幼児です。
私は昨今のアンチエイジングに奔走する人々に嫌悪感を覚えていますが、彼らのメンタルはあたかも大人になりたくない子供のようで、それは外見を若く見せることにより内面の幼児性を少しでも免罪してもらおうとしているかのように映ります。何か失敗をした時にはぶりっこをして無能ぶりを示し、自分には責任能力がないのだと主張することで責任を免れようとしている、そういう心理が働いているように思われるのですが、皆さんは如何でしょう。今の法律では責任能力なしと認められれば免罪になりますが、これを是とする社会にそのような人間が増えるのも道理かもしれません。

先のガッカリさんはそうしたぶりっこがある程度功を奏する外見の持ち主だったので、この先も年齢より若く見せることによって周囲に愛想を振り撒き、責任回避に終始したお気楽人生を満喫できるかもしれません。しかし算命学的に言えば、こうした生き方は宿命の消化を著しく妨げるので推奨できません。
陽占に表出される十二大従星を考えて下さい。十二大従星は人間の一生における成長を、生まれる前と死んだ後も含めて順番に表したものです。毎日干支がひとつずつ進むことが示すように、時は止まることなく刻々と流れ、人は変化を強いられます。その変化とは成長のことであり、正しい成長を促す要素として苦悩や挫折、試練や悲哀があるのです。そうした要素を体験していくのは苦痛ではありますが、成長するためには必要なのです。
これらを一生避けて通る人生があり得るでしょうか。仮にあったとすれば、それは自然な時の流れを押しとどめたり逆行させるものなので、運勢は発展せず、気の流れない澱んだ人生となることが予測されます。何より人間の叡智とは、五徳の中で印が末尾にあるように、人生をこなして年月を経なければ、つまり成熟した大人にならなければ到達できない境地なのです。成長にまつわる痛みを嫌がって回避し続ければ、それは成熟した大人になることを拒否するということであり、知性から遠く離れた人生を構築することになるのです。
誰しも愚かな人間ではありたくないはずです。なぜなら愚かな人間は不幸を呼び寄せるからです。幸せを求めるならば、若いうちから苦労や苦悩を厭わず経験することです。責任ある言動のできる成熟した大人になることが、運勢向上の近道なのです。

上述のようなガッカリさんの種族は、その話し方からしてすぐに見分けがつきます。最近のテレビ番組は大したことない番組内容をさも大したことあるように見せるために、へ~とかホ~とかエ~といった効果音声を入れていますが、あの音声は使い回しているため何度聞いても同じトーンです。なので頭が空っぽな人ほどその音が脳内に刷り込まれてしまい、まるでコピーしたような同じヘ~やホ~を連発します。自分の意見がないからそういう反応しか示せないわけです。
また一般に口癖とされる「マジで?」とか「そうですよね~」とか「やばい」とか「カワイ~」とかも同類です。こういう単語をいつも同じトーンで連発している人はあまりおつむが強くないので、交際する際はリスクを承知でお付合い下さい。彼らが真の幸福をもたらすことはありません。

さて今回の余話のテーマは、この種のガッカリさんが鑑定依頼をしに現れたらどうするか、です。結論から言って私は依頼をお断りしています。つける薬がないからです。私の運勢鑑定はその人の人生の向上のための助言をすることが目的なので、向上の見込みのない人に出す助言はありません。向上の見込みのないことは、その人が成長や成熟を拒んでいる態度から知ることができます。
対面鑑定であれば上述のような同一トーンの口癖からすぐ見分けがつくのですが、メール鑑定だと音声はありませんから、文面から推し量ることになります。今回の余話は、これまでの鑑定で遭遇した依頼人の中から、実際にこちらから鑑定を断った人たちをタイプに分け、どうして断ったのかを論じてみます。もちろん商売第一というのならこうした人たちの依頼も受けるべきだと思います。これから算命学を習得して運勢鑑定で身を立てようとお考えの方は、どういう方針で仕事を受けていくのか将来の参考になさって下さい。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「依頼人を見きわめる」です。「算命学余話 #R50」で検索の上、登録&ごま煎餅一パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
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by hikada789 | 2017-12-20 21:14 | 算命学の仕組 | Comments(0)
b0214800_20565948.jpg友人が上野でやっている「古代アンデス文明展」の余りチケットをくれたので有難く行ってきた。今の時期は「怖い絵展」目当ての客が殺到しているせいか、古代アンデスにはいくらも人がいない。会期は始まったばかりとはいえ、敗因は目玉展示品の欠如だろうか。ツタンカーメンほどのインパクトは要求しないが、何か「これを見に来てくれ」というイチオシがないと。ちょっと地味だったかもね。エルドラドな黄金が足りなかったかも。
とはいえ宇宙人は赤土色をベースにしたアンデス土器カラーはまあまあ好きな方である。原色ではない落ちついた赤や茶色がナチュラルで良い。高位のミイラをくるんでいたという連続模様の織物の色合いも好みであった。何よりあれほどの旧さであの鮮やかな色が残るというのが驚きだ。同時代の日本の出土品などいくらも色は残っていないし、それ以前に激しく朽ちている。乾燥のなせる業なのだ。
ミイラも何人かご来日していたが、以前のアンデス展でも見たような。だんだんお馴染みになってきたのかも。アンデスは広範囲なので発掘はまだまだこれからだそうだが、せっかく新しい発掘があっても、我々素人には以前の展示品と見分けがつかない。

b0214800_20574098.jpg宇宙人の好みの色といえばペルシャの青である。小説にするくらいだから視覚的にもペルシャの洗練されたデザインが心に沁みる。サファヴィー朝の青がいいね。宇宙人はロシア贔屓のくせに、美術やデザインはそれほどロシアに愛着がない。ロシアの工芸デザインは「偶然」の産物を尊ぶ性格が影響してか、洗練されているとは言い難い。インパクトやとぼけたポップさが際立っている。洗練さを求めるとお堅い教会美術になってしまうのだ。
というわけで画像は宇宙人作・ペルシャシリーズ「八芒星」の文庫本カバー。ターコイズブルーの色革とのコンビで、黄金色に光るのはパールカラー絵具「きらら」。コーランの装丁みたい。紺革の方は友人より依頼の手帳カバーで、右側の見返しは透明ビニールを縫い付けている。透明ビニールは百均にある軟質カードケースをハサミで切ったものだが、ここに菱目打ちを打つと縫い目が裂けるため、わざわざ革本体とは別に針穴を丸い目打ちでひとつずつ空けた上、紺革を1センチ幅のコの字に裁断したものを上から被せて縫製。耐久性を考慮するとこのようなデザインに。手縫いなのでいろいろ制約があります。
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by hikada789 | 2017-12-16 21:07 | その他 | Comments(0)
宇宙人の能稽古の模様。
宇宙人「(『通小町』の謡稽古の後)あれ、通小町ってこんなに短いんですね」
(※『通小町』は小野小町(ツレ)と深草中将(シテ)の恋バナで、百度参りをしてくれたら付き合ってあげる、という小野小町の課題をこなそうとする健気な男心がテーマ)
先生「そうなんです。前半はツレばかりで、後半のシテは出てきたらすぐ終わっちゃうの」
宇「もっとこの後、シテがごちゃごちゃ恨みツラミを垂れ流すのかと思ってました」
先生「そうね、他の曲だとここらへんでクセとかがダラダラ続いて、時間かかるんだけど」
宇「なんででしょう。あっさりしすぎじゃないですか。通小町って恋患いの男の話じゃないですか。もっと言いたい事いっぱいあるのでは」
先生「男だからじゃないの。女より口数少ないし」
宇「あ、そうか! 男は口下手だからいろいろ言いたくても舌が回らないんだ。女がシテだと言いたい事全部言わなきゃ気が済まない。しかも主題から離れた思い出の風景の話とか延々と語っちゃったりして。その話、どこまで脱線するつもりなのよって。だから三番目物(女がシテの演目)ってどれも長いんだ。いつの時代も女の話は長いんですね」

稽古ではこのような雑談を楽しむことができます。能稽古は小学生からでも始められます。ぜひお子さんのお稽古事に。
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by hikada789 | 2017-12-14 19:45 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
都内有数の由緒ある神社、富岡八幡宮で恐ろしい骨肉の争いがありました。加害者も被害者も死亡したため事件の解明は憶測の域を出ないものとなるでしょうが、こういうお宅は算命学の家系論に掛ければ興味深い符合がいくつも見つかりそうです。
今回の事件については論じませんが、長く続いている家系で、その土地に大きな影響を与え続けた家系というのは、その歴史の中で何らかの不都合な事情を抱えているものです。それは重く長い歴史を受け継ぐ過程で生じる家系の澱ともいうべきもので、華やかな栄光の影に泣いた名もなき犠牲者が後世へ残す一粒の種です。この種はいつ芽吹くとも知れませんが、消えてなくなるものではありません。家系が栄えている時はじっと動かずあたかも歴史に埋もれたかに見えますが、時機到来と見ると急に芽を出してこう叫ぶのです。「王様の耳はロバの耳」と。
こうした叫びを青天の霹靂のように感じてあたふたするようでは、歴史ある家系は務まりません。よく見て下さい。あたふたしているのは世間やマスコミだけです。事件のあった家系は慌てているでしょうか。そこは報道されませんが、慌てているのであれば、この家系は終焉を迎えるでしょう。慌てていなければ、この種の事件に一族はもう慣れっこということです。長い歴史の中で既に経験済みなので、今更驚かない。「王様の耳はロバの耳」がどうした、そんなこと誰も隠してはおらぬわ。こんな感じです。これぐらいの肝の太さがないと、伝統家系は続きません。

伝統的な家系が尊ばれるのは、一般人が及びもつかないような異常性を内在させたまま、崩壊もせず存続しているからです。耐性のない家系はこうした異常事態に慄いてしまい、その後健全な子孫を憂いなく残すことができない。その感覚はマトモですが、マトモさが仇となって家系を長期継続できないのです。それだけ家系を長く保つということは難しいことなのです。
古今東西「玉の輿」に乗りたがる男女は絶えませんが、いざ乗ってみたら内部の異常性に耐えきれず病気になったという例はよくあります。算命学からすればそれは当たり前のことであり、古い家系というものを甘く見ている、考えの足りない嫁なり婿なりが悪いのです。病気になりたくなければ、自分の身の丈にあった相手と結婚すべきです。
それでもうっかり伝統家系に飛び込んでしまったらどうなるか。その人の命式が嫁や入り婿として強い輝きを放つものであるなら、家系にうまく馴染むでしょう。そうでない場合は、上述のような名もなき犠牲者となって何らかの禍根の種を後世に残すのではないでしょうか。

今回の余話のテーマは、そんな人生の意味についてです。上述のように家系、或いは国家や集団の犠牲となって歴史の闇に葬られてしまうような人々は、その人生が無意味であったと言えるのでしょうか。無意味な人生というものが、果たしてこの世にあるのでしょうか。この点を算命学の視点から考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「無意味な人生はあるか」です。「算命学余話 #R49」で検索の上、登録&ざらめ煎餅一パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)
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by hikada789 | 2017-12-11 19:07 | 算命学の仕組 | Comments(0)
年の瀬も迫って参りました。皆様のお蔭で宇宙人は今年もどうにか年を越せそうです。合掌。
お世話になった方々にささやかながら手土産を買おうと菓子売り場を物色していたら、クリスマスを当て込んだカンフェートゥイの量り売りブースが立ち上がっていた。カンフェートゥイとはロシア語で、アメやチョコやキャラメルといったバラの菓子包みの総称のこと。色とりどりの包みで子供達を魅了し、何種類も取り混ぜ透明な袋に詰めて量り売りするものである。これを表す日本語を知らぬのだがそれがあった。ブランド名はROSHEN。スウェーデン辺りのメーカーだろうか。お披露目価格で安かったので買ってみた。裏返すとラベルには「原産国ウクライナ」の文字が。まさか。
というわけで、とうとう旧ソ連からウクライナのブランド菓子が日本に上陸したのだが、ウクライナのチョコといえばアレですな。え、判らない? ポロシェンコですよ、ウクライナ大統領の。クリミア併合を含む一連の対ロシア外交で、自分から喧嘩を売っておきながらいざプーチン親分と対面すると、握手する手がブルブル震えて小者ぶりを露呈してしまったあの政商です。商人の分際で極道の親分と対等に渡り合おうなど百年早いのだ。そのポロシェンコ、ソ連崩壊のどさくさでウクライナの主幹企業を次々買収して経済界に君臨し、やがて政界入りしたが、もとはチョコレート企業の社長だった。だからウクライナのチョコと聞いてもしやと思ったのだが、ネットで調べたら創業者ポロシェンコとあった。

宇宙人は複雑だ。商人根性でウクライナ国民に富を還元しないポロシェンコを喜ばせたくはないが、ソ連崩壊から25年を経てとうとう当地のブランド品が西側先進国の店頭に並ぶ日が来たことには感慨ひとしおである。これがロシアのブランドでないことは残念だが、ウクライナもポテンシャルの高さとその活用不良とのギャップが激しい気の毒な旧共産国である。実力のある分野は世界で高く評価されてほしいのだ。
そういえば宇宙人がロシアにいた頃、ソ連崩壊直後で経済破綻していたロシアにはロクな商品が売られていなかったが、宇宙人が血糖値アップにカンフェートゥイを買い求めたところ、ロシア人の友人が「以前のロシア産カンフェートゥイはもっとおいしかったよ」と嘆いていた。宇宙人はそれほどまずいとは思わなかったが、ただチョコにしては固いと思った。氷点下の路上で買ったせいだろうか。とろけるチョコが好まれる日本とは嗜好が違うのかもと思ったものだが、ロシア人はソ連がまだ元気だった頃はチョコのクオリティも高かったと主張するのである。資本主義が導入されて四半世紀、そのチョコのお味は復活したのであろうか。どれ。
うん、おいしいじゃない。外国のチョコ菓子だよ。ベルギーとかとはまた違うけど、日本のチョコとは風味が違う。中身のゼリーとかヌガーとか。好みの問題だね。このクリスマスに皆さんもお試しを。これを買うとあのトランプより強欲なポロシェンコを儲けさせるのか、癪だ、と思いを馳せながら堪能下さい。

演能会のご案内です。
-----金春円満井会特別公演-----
◆日時:平成29年12月10日(日)13時より
◆場所:国立能楽堂
◆演目:能「桧垣」、仕舞「田村」「松風」「融」、狂言「昆布売」、能「石橋」
◆料金:B席8,000円~
◆見どころ:「桧垣」は「伯母捨」と並ぶ最奥義の老女もので、金春流では35年ぶりの上演だそうです。シテの本田光洋師は金春流の重鎮で、宇宙人の目には限りなく「円」に見える姿と所作の持ち主。月輪の中に入っているのように見えるのだ。なので今回もそれをあてに見に行きます。「石橋」は女流で固めた群勢です。仕舞は2番が強吟です。強吟が苦手な愛好者の方はこういうプロの仕舞を見て修練に励んで下さい。
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by hikada789 | 2017-12-09 21:29 | ロシアの衝撃 | Comments(0)