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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

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「賢い大人の話し方」みたいなタイトルの本を本屋で見たが、宇宙人ルールでは以下のような話しぶりの人は大人と見做さず、距離を取るなり付き合わないなりするようにしている。
a) 相手に同意を求める話し方。「でしょ」とか「ね?」とか念を押すタイプ。
b) 人の意見や言葉をすぐオウム返しにして自分の意見のように振る舞うタイプ。その実内容はよく判っていない。
c) ずっとbの反応だったのに、予期せぬ意見が突然現れると言葉を失って沈黙する。頭が空っぽであることが露呈した。
d) 流行語を真っ先に使おうとする。例:「そだねー」。じつにみっともない。

皆さんは如何ですか。宇宙人が厳しいのでしょうか。宇宙人は a のタイプに同意を求められると「自分はそうは思わない」と即答するし、 b の人には「今言ったこと、もう一回言ってみて」と返して反応を見るし、 c の「予期せぬ意見」を大体私がしているし、 d の場面では眉一つ動かさず聞こえないふりをしている。だから総じて場が凍ってしまうのだ。総じてというからには、凍らない場もたまにはある。そういう場にいる人たちと付き合う方が人生の密度が濃くなると思っている。薄っぺらな人生など御免だ。薄くていい人だけがそうすればよい。しかし誰もが自分と同じ薄い人間だと思ったら大間違いだ。b0214800_18405156.jpg

画像はマティスの有名な絵をレザー用にアレンジしたハード本カバー。練習用に作ったので安いハギレを使用しており、足りない部分の紺の革は奇妙なつなぎ方をしている。色付けは染料と絵具の二本立て。革は地の色が肌色なので、染料だけでは白が作れない。そういう部分は絵具で補う。しかし絵具は革の表面に載っているだけで内部まで浸みこんではいないため、やがては剥がれてくるらしい。しかし剥がれたらまた上から塗ることができる。染料は剥がれないが、経年変化していく。だからこの鮮やかな色が楽しめるのは今だけで、五年後、十年後には渋い感じに全体が暗くなっているはず。
4月からロシアのプーシキン美術館がアンリ・ルソーのジャングルな絵を持ってくるので、レザークラフトにアレンジしてみようかな。何がどこまでできるのか模索中。

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by hikada789 | 2018-03-29 18:37 | その他 | Comments(0)
(※3月25日に無料鑑定依頼をされた男性の方、もう一度鑑定案内のページをよく読んで、必要事項を添えて再度ご依頼下さい。)
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男性からの依頼で思い出しました。運勢鑑定と云えば厳かに聞こえますが、要するに占いである当相談所は圧倒的に女性の相談者が多いです。恋愛相談お断りの看板を掲げているので女性相談者の数とてそう多いものではないのですが、男性は更に少ない。男性の方が一般に女性よりも論理的思考に依存するため、算命学を含む諸占い技法を熟知していない読者には論拠が見えず、頼る気にならないのだと思われます。そういう人が多数を占める世の中は正常だと思います。誰もかれもが占いに頼って、平安貴族のように出掛けるのにも方違えをしていたら、忙しい現代社会は回っていきません。占いを頼るのは一生にせいぜい数回くらい、どうしても迷った時だけでいいのです。ちょいちょい頼るような人は生き方に問題があるので、運勢ではなく自己決定の何たるかについて考える習慣をつけた方が開運すると思います。

かように考えている鑑定師であるので、相談者に対する態度は結構厳しいです。それは相談ページに「辛口です」と書いてある通りなので、依頼者は当然それを承知の上で敢えて叩かれる覚悟ができているものとして鑑定に臨んでおります。ダメ出しされるのが怖い人は、余所の占い師を当たった方が心が傷つかなくていいでしょう。でもそういう覚悟ができて敢えてこちらに相談に踏み切る人ほど、問題解決は早いです。そういう人は自身の生き方に問題があるのではなく、物の見方が一方向に固まっているだけなので、別の視点を示唆するだけでもう、自分がどうすればいいのか解決法が自ずと見えて来るのです。こういう依頼者からはとても感謝されますし、こちらも助言を出した甲斐があったと嬉しく思います。

男性の話に戻ります。そうだ、アレも男性だった。なかなかメインの話に辿りつけませんが、先日宇宙人を久しぶりに立腹させた依頼人が現れました。もうメールを消したから正確には再現できませんが、冒頭がいきなり「注意」で始まり、「以下の自分に関する個人情報の漏洩を厳しく禁じる」みたいな警告文が、まるで裁判所の出頭命令みたいに掲げられていたのです。これが見ず知らずの人間に何か相談事を依頼する態度かと、宇宙人は青筋を立て、その先の文章を読まずして依頼却下の返信を送りつけたのでありました。「お前は非常識だ」という理由もつけて。
そんなに個人情報の漏洩が怖いなら、得体の知れないメール相談なんぞ頼る方が間違っている。そんなことも判らない人間にどんな助言を出しても空しい結果に終わるので、こういう依頼人の依頼は受けないことにしています。しかしいかにも男性らしいカン違い人間だと思いました。女性のカン違いタイプはこういう種類ではないですね。

もちろん世の男性諸君がこんな人間ばかりだとは思いません。しかしその思考傾向には男女に差があるので、いきおい相談内容も男女では根本的にテーマが違います。その男性によくある相談テーマに関連して、有用な図書を紹介しておきます。平野啓一郎が2008年に発表した『決壊』です。
発表から10年目にしてようやく私も読みましたが、複数の社会問題を盛り込んだ濃密な作品で、多くの登場人物を丁寧に描いていながら「脇役」に脇役感がない。誰もが主人公のような描かれ方をしています。こういう視点の作品を読むと、自分ひとりが人生の主人公だというような感覚から脱することができます。他人には他人の人生があり、そこではその人が主役だということがリアルに見えてくる。
算命学は陰占も陽占も人間関係を表した図式で表現される占い技法なので、人間関係について細やかな理解や洞察、推察ができないと正確な鑑定ができないし、占ってもらう方もそういう視点を培わないと解決が一時的なもので終わってしまいます。私の印象では、男性の依頼人に特にこういう傾向が強く、その解決の一助に『決壊』が役立つと思うので、まだ読んでいない人で、人生に迷う男性たちにお勧めします。
もちろん女性が読んでも有効だと思いますが、平野氏の作品は文体が読みやすくとも内容は深くて硬質なので、この種の話を根気強く最後まで読み通す習慣のない人には苦行になるかもしれません。私が好んで読むドストエフスキーや埴谷雄高などに慣れている人なら難なく読了できると思います。時間のない方へのポイント抜粋は、いずれ改めて掲載します。

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by hikada789 | 2018-03-26 18:57 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
強すぎて対戦相手探しに苦労している那須川天心は、5月のRIZINの対戦相手も鋭意募集中であるが、なんとUFC逆輸入のカリスマ堀口恭司がオトナのけじめを見せるべく対戦相手に名乗りを上げた。といっても直近の5月ではなく12月の大晦日の企画で、当人たちはやる気満々だが正式にはまだ決定していない。
堀口は那須川君の土俵であるキックボクシングルールでやると言っている。えらいね、オトナだね。まあMMAなら堀口圧勝だよね。プロデビュー以来負けなしの那須川君に大人の厳しさを教えてやるんだそうな。宇宙人から見ればどっちも子供だけどね。ただしウェイトにちょっと差がある。那須川君が才賀紀左衛門とやった時は、才賀が15kgくらい落として57kgで合わせたが、その結果1RでKOされたのだった。実力差よりも減量が怖いのだ。那須川君のベスト体重は55kgだから、堀口がどこまで要求されるか。しかし是非見てみたいカードである。打撃だけの堀口も見てみたいし、キックだと宇宙人の嫌いなパウンドがないから清々しいよ、倒れ方が。
那須川君はK-1王者に再三対戦を申し込んで拒否されている間に、自分の方が有名になってしまい、いっそ井上尚弥とボクシング対戦させようかという期待も囁かれるほどまでに成長した。ナオヤとならサイズはぴったりだが、那須川君のキックが封じられるのは残念な気がする。昨年末の派手なKOも、三日月蹴りで相手を削った上での有効打だったのだし。ともあれ堀口戦が実現するなら楽しみだが、堀口はRIZINのエースなので、大晦日こそMMAで大物とガチ勝負してほしい気もする。え、エースじゃない? ああ彼はあまり華がないから…男子向け。

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by hikada789 | 2018-03-23 22:18 | その他 | Comments(0)
先日マツコ・デラックスの番組でペルシャ絨毯を紹介していた。ペルシャ絨毯といえば高級インテリアだが、その高いクォリティと百年はもつという耐久性を考えれば決して高くはない。仮に1枚百万円の大型ラグを買ったとしても、百年楽しめるのなら1年で1万円、1カ月千円以下。これでお部屋がリッチになるなら安いものではないか。くだらぬ百均グッズを繋ぎ合わせて満足するような輩は放っておけばよいのだ。
番組ではペルシャ絨毯の中でも高級品(絹製や人間国宝級の工芸品)から一般家庭向きのお値頃品までを紹介し、ペルシャ好きの私も知らなかった「ギャッベ」と呼ばれる遊牧民製の一点ものがブームになっていることを教えてくれた。その概要:

――ギャッベというのは「毛足の長い絨毯」という意味の遊牧民製品で、毛足が長いのは遊牧民が地面に直接座る時お尻が痛くならないための工夫。これを専門に扱い今世界で人気を博しているのが、ゾランヴァリという人が経営するゾランヴァリ社製のギャッベ。製作者は各地に散らばる遊牧民だが、圧倒的な品質を誇り、デザインも現代風に洗練されている。素材は全て天然ウールで、羊の毛刈りから糸つむぎまで全て手作業。染色は全て草木染めで、使うほどに色がよくなる。一枚平均4カ月程度で完成するが、売値は40万円程度とリーズナブル。その技術は世界無形文化遺産に登録されている。――

画像で紹介できないのが残念だが、伝統柄とは違ったお洒落で今どきのデザインが次から次へと提示され、眺めているだけで目の保養なのだ。はっきり言って芸術品である。絨毯というと高温多湿の日本には衛生的でない気がしていたが、ペルシャ絨毯は品質が高いので目が詰まっており、塵やホコリが入り込むスキ間がないため掃除も楽ちんなのだそうだ。液体をこぼしても天然ウールは水をはじくので、布巾で拭きとればシミにもならない。ペルシャ以外の外国製だとこうはいかない。品質が違うのだ。
イランの一般家庭では、一家の財産である大型絨毯を年中行事として川で洗濯するのだが、洗剤を撒いてデッキブラシで無造作にジャブジャブ洗うのである。でも品質がいいのでキズもつかず、当地は乾燥帯なのであっという間に乾く。日本で使うならそれほど巨大な絨毯は部屋に入らないから小振りになるし、洗濯機で丸洗いもできる。洗わなくても拭くだけでいい。草木染めのやさしい色合いのお洒落な一枚がわが家にあったら気分も爽やかになろう。なにしろ老朽化したわが家の畳はすり切れた上に微小な穴が空き、先日踏んづけてかかとが血を吹いたのだった。懐に余裕があれば畳をはり換えたいのだが、毛足の長いギャッベという手もあるのだな。マツコは45万円の1枚を気に入って即買していた。羨ましい。

去年の今頃はインドで身にそぐわぬラグジュアルな音楽旅を堪能していたが、そのきっかけとなったイスラム映画祭を今年もやっているので紹介しておきます。最新のイスラム圏の社会事情から、1970年代の文芸作品までを日替わり上映。ついでにソクーロフ・フェアもやっているのでこちらも案内します。

(1)イスラム映画祭3
渋谷のユーロスペースにて3/17~3/24、一日4作品を日替わりで上映。上映後のトークショーもあります。一般1400円。

(2)ソクーロフ特集2018
ロシアの巨匠ソクーロフの作品の中から、権力4部作と呼ばれる「モレク神」「牡牛座 レーニンの肖像」「太陽」「ファウスト」ほか10作品を日替わり上映。渋谷のシアターイメージフォーラムで3/17~4/13。こちらもトークショーが予定されています。

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by hikada789 | 2018-03-20 11:42 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
今回の算命学余話は、前回のブログ記事で取り上げた『罪と罰』から派生した平野啓一郎氏の分人主義の展開をヒントに、現代社会を脅かすテロの背後に存在する恥について、算命学の見地から考察してみます。鑑定技法の話ではありませんが、五行や五徳の性質を理解する一助となる内容です。

前回の記事では恥と暴力、そして分人と対話という四者の関係性を具体的に説明できなかったので、今回はそれを試みます。
東日本大震災から今月でちょうど七年が過ぎ、各地の追悼式の模様が報道されました。しかしその報道を見たからといって、当事者でもなければ、気の毒には思ってもわが身の如く涙を流して悲しむ人はいないと思います。それはその人が冷たいからでしょうか。そうではありません。亡くなった方が赤の他人だからです。今回のテーマに沿って言えば、「対話」のなかった人であり、対話がないということは「その人」に向けた分人を、一視聴者に過ぎない他人の我々は持ち合わせていないということです。

もし家族が死んだとしたら、よほど特殊な家庭環境でもない限り、遺族は嘆き悲しみます。故人と交友の深かった友人や同僚なども悲しむでしょう。なぜなら生前の故人と対話を積み重ねたことで、故人に対する専用のペルソナともいうべき分人を長年持ち続けてきたからです。
しかし顔見知りというだけで大した交流のない相手だったら、お悔やみは申し上げても悲しみは感じないのが普通です。ましてや一度も面識のない、互いの存在さえ知らない赤の他人であったなら、ニュースの死亡事件程度にしか感じられない。更に海の向こうの、我々には縁のない宗教紛争で命を落としている人々のことともなれば、事件の残虐性に衝撃を受けることはあっても、その死亡報告そのものを、死者の遺族のように嘆き悲しむことはありません。

こういう話は遺族の前ではしにくいせいか、大っぴらに語られることはありませんでした。平野氏が一流の知識人だと思うのは、こうしたデリケートな問題に切り込む勇気とそれに耐えるだけの論拠を持っているからです。彼に言わせれば、震災を毎年、場所によっては毎月繰り返し思い起こす行事が行われ、それが広く報道されるのは、震災の被害者が顔見知りでなく、対話がなかったので分人も形成できず、そのためその死を悲しむことができない多くの日本人が、悲しみに暮れる遺族を慮って「努力して共感しようとしている」姿だということです。
さて、そんな努力の末の共感なり悲しみなりを、遺族は赤の他人に期待しているのでしょうか。多分そんなことはないと思います。共感してほしいのはそれこそ対話のあった身近な人々に対してであり、得体の知れない見ず知らずの人にまで故人をとやかく言ってほしくないというのが本音ではないでしょうか。ここに報道と実情のギャップがあるように思いますが、皆さんはどのようにお考えでしょう。

算命学は自然思想ですから、こうした「努力して共感しようとする」行為はあまり意味がないと考えています。自然に悲しいと思えたら泣いたり追悼したりすればいいのであって、無理やり悲しいと思ってもその追悼はまがい物になってしまう。そんな追悼などする意味がない、というのが算命学の冷ややかな見解です。
共感に偽物はないはずです。偽物の共感とは、つまり共感してない、共感を装っているということです。一体誰に対して、何の為に共感を装う必要があるのでしょう。共感は感情であり、感情は努力して得るものではありません。努力して得られるのは知識や技術、場合によっては説得という他者の理解も努力によって得られるものではありますが、愛情でさえ、努力によって意図的に呼び起こさなければならないとしたら、それは純粋な愛とは別物の、何か他の目的を伴った不純な愛情です。そんなまがい物の愛情さえも真の愛情といっしょくたにしてしまうものだから、世の中に愛をめぐる齟齬や闘争、要するにカン違いが絶えないのではないか。算命学はこのように冷たく見放しています。

平野氏の分人思想を取り入れるのなら、我々が真の共感なり愛情なりを感じるには、その相手と交流し、対話し、分人を形成しなければならないのです。そして相手もまた、我々に対する特別の顔である分人を形成し、交流を重ねることで互いの分人が重なり合ったり混じり合ったりする。そうすることで初めて共感できるようになるのです。そうなればもう赤の他人とは言えない。一方が死ねばもう一方は自然に悲しむ。まるで自分の身体の一部を失ったような痛みを覚えるからです。それが分人の及ぼす力なのです。

算命学的表現をするなら、これは気の交流とか対流とかいうことになります。算命学には分人という思想はありませんが、宿命の中に陰陽五行の気の巡りがあるように、家系の中に気の流れがあるように、現今に生きる他者との接触の中にも気の交流がある。巨視的に見れば、世界の果ての赤の他人であっても関係性が皆無とは言えないのですが、日常的なレベルでは、一生顔も知らずに過ごす赤の他人は、こちらの人生に及ぼす影響は極めて小さいので、カウントするには及びません。それよりもっと大事なのは、今目の前にいる、こちらの人生に直接コミットしている人たちです。この人たちとどう付き合っていくか、或いは付合いを断つべきか、そういうリアルな現状を正しく認識して有効に作用させる方策を練ることが、算命学の適切な活用法です。

さて、ここからは恥と暴力の話です。「あらゆる暴力は1つのイデオロギー(又はアイデンティティ)に統一しようとすることで発している」という平野氏の見解によれば、分人である人間は通常いくつかの顔=ペルソナを持っているので、その1つでも相手と対話できさえすればコミュニケーションは可能だということです。
「政治的見解が真っ向対立している相手であっても、音楽の話で意気投合できれば対話は可能である」というエピソードの通り、人間を「個人」として捉えると、その個人が気に入らないともうどこにも取りつく島はなく、没交渉で決裂するしかない。しかし人間が「分人」であるとするならば、個人という全体を相手にする必要はなく、その人の個性の一部分だけを取り上げて、その狭い部分を窓口に対話を続ければ、いずれ個人総体に対する理解も進む可能性は広がるし、更には共感できるようにもなるかもしれない。

「順番を間違えると失敗する」危険性はあるものの、いきなり100%の個人を狙うのではなく、1%の共通項である分人から取り掛かることで活路が見出せる。その例が、『罪と罰』の意固地な主人公と、その意固地に1%の窓口からやんわりと風穴を開けたソーニャとの対話でした。
『罪と罰』が読み継がれているのは、その物語や登場人物があまりにリアルだからです。その普遍性は時代を超えており、作品の発表から150年経った今日の社会問題をそのまま映した鏡のようです。若者の鬱憤はいつの時代も変わらない。そしてそのはけ口には、しばしば暴力が用意されている。この誘惑に屈する若者とそうでない若者の差は何なのか。
この点について、算命学の五徳である福寿禄官印から官、つまり名誉運に焦点を当てて考察してみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「恥と名誉」です。「算命学余話 #R59」で検索の上、登録&桜最中1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-03-18 18:11 | 算命学の仕組 | Comments(0)
3月13日のドストエフスキー国際シンポジウム「ゼロ年代のドストエフスキー」で登壇したコロンビア大学教授デボラ・マルティンセン氏が提示した、「『罪と罰』における恥と罪」というテーマから、同じく登壇した作家の平野啓一郎氏が展開した「人はわが身の罪よりもわが身の恥の方が耐えがたい」という話が大変興味深かったので、シンポに参加できなかったお忙しい皆さんのために宇宙人的スポットを当てた概要を書き散らします。この種の話は「小難しくてよく判らない」とおっしゃる読者がたまにいるのですが、私は「難しくはないし大体わかる」や「いつも楽しく読んでいる」という読者に向けて書いているので、頭に入らない方はハタチまでの己れの読書生活を呪ってスルーして下さい。
デボラ氏と平野氏は意見が近いので、どちらがどの発言をしたのか分け難いのですが、ここ数年「分人主義」という新しい概念を提起している平野氏の話の方が日本人には馴染みやすいので、彼の意見を中心に書き連ねてみます。平野氏はドスト関連シンポにしばしば呼ばれるので、当ブログでもその「分人」思想を紹介したことがありますが、覚えている方はそれを参考に。更にドストエフスキーの長編小説と平野氏の小説をいくつか読んでいれば、話はなお早いと思います。

まず「分人」のおさらい。英語のindividual(個人)の否定接頭辞inを取り除くとdividual になるので、平野氏はこれを「分人(ぶんじん)」と名付けて造語した。現代社会を支配している西洋文明によって「個人」はもうこれ以上分割できない最小単位だとされているが、平野氏はこれを否定し、個人よりも細分化された分人を各個人はいくつも持っていると主張している。それは対人関係の中で、家族といる時に見せる自分、職場で上司に接している時の自分、恋人といる時の自分というように、人間はいくつかの顔=ペルソナを使い分けて生きているのが普通であり、それは多重人格でも何でもなく、我々は日常的に難なくこなしていて矛盾はない。しかもそのペルソナの構成比率は時と場合によってまちまちで、可変的であり、その数あるペルソナの漠然としたまとまりが「個性」なのである。

重要なのは、この分人というのは人との交流や対話によって生じるということ。接する相手が多いほど分人は激しく分化する。そして分人が少ない人というのは、好意的に言えば「ブレない人」かもしれないが、悪く言えば「コミュニケーション能力の低い人」「空気の読めない人」である。なぜなら誰に対しても同じ(粗雑な)態度や言葉遣いしかできない人は、社会人としてのマナーに欠けると評価されるからだ。
しかし今日のネット社会において、見ず知らずの人と容易に交流できるようになったと言いながら、その実対話は進んでいない。周知の通り、ネットでは意見の合う人たちが寄り集まって塊りを形成し、意見の合わない人とは一切交流しない。対立する意見を聞く耳は持たない。両者の関係は物別れに終始し、対話は全然成立していない。つまり分人は減退傾向にある。
一方で、近代は「移動」しやすくなった時代だ。交通・通信手段の発達により田舎と都会、地方と中央、国内と国外というように遠距離を容易に行き来し交流できるようになったが、それにより対人関係は活性化し、分人は促進してその落差も激しくなった。その激しさは、個人という主体が自分の個性の変化を余儀なくされるほどである。

平野氏はここで憲法や法律が相手にしている「個人」がもう現代社会では追いつかないのではないかという提議をするが、ここではスルーして、分人の話に戻ると、ネット社会が促す没対話の環境においては「ブレない自分」がよしとされ、「自分らしく生きる」ことが奨励されるのだが、一方で「移動しやすい」現代社会は、その物理的距離から相互理解が困難な相手に対して「多様性を認めて」「他者とのコミュニケーションを活発化せよ」と盛んに促す。平野氏の見立てによれば、こうした「自分らしさを出せ」という目標と「他者を理解せよ(つまり自分が折れろ)」という目標を同時に掲げる社会に対し、若者たちは戸惑い、疲弊しているのではないか。

こうした世相は、更に全世界的規模の紛争にも呼応している。あらゆる暴力は1つのイデオロギーなりアイデンティティなりに統一化しようとする動きのせいで生じている。意見が同じなら仲間だが、意見が対立するのは敵とみなして攻撃し排除する。全員が同じ意見になるまで攻撃は続く。そして攻撃されて排除された側は「敗者」として恥を負わされる。ここで恥の登場だ。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは正義感が強く道徳的にも優れた青年であるのに、実生活では自活できておらず、田舎の母親や下宿の女将から金銭的援助を受けて暮らしている。これは彼にとって恥ずかしい現実なのだ。この恥をすすぐには、やりたくない仕事を地道にやって自活すればいいのだが、ラスコーリニコフは一足飛びに解決しようとし、その結果金貸し老婆の殺害を思いつく。社会に害をなす寄生虫のような醜い老婆を殺して正義の味方になろうとしたのだ。しかしなれなかった。それどころか恥を更に上塗りする結果となった。

平野氏は、イスラム国に世界各国から集結するような若者たちは、貧困や失業によって自活できない実生活の恥に耐えられずに一発逆転を狙ったラスコーリニコフと同じだと指摘する。ラスコーリニコフの老婆殺しは明らかにテロの先駆けであり、ロシア史の中でもこの時代(19世紀後半)はテロの頻発した時代であり、その暴力は最終的にロシア革命に結実した。
しかしラスコーリニコフは最終的にしぶしぶ罪を認めて自首する。そう仕向けたのはソーニャとの対話であった。ソーニャは彼を恩人と崇めているので、彼の自尊心を傷つけるようなことはしないが、彼の犯罪が許されないものだという点は譲らない。二人の意見は対立しているが、ラスコーリニコフはソーニャの意見に耳を傾けている。つまり対話が成立している。やがてラスコーリニコフはソーニャを前に自分の意見を曲げることになるが、そこには葛藤はあっても敗者の屈辱はない。つまり対等な関係を保ったままの対話は可能だということだ。相手を屈服させることなく折り合うのに、対話は有効だという例がこれである。
現代のテロの原因を一元的な貧困に求めるのは浅薄で、その根底には若者達の自尊心と恥があるのではないのか。若者達の鬱屈は、自活できていない自分、子供ように人の世話にならなければ生きられない自分(人道援助もこれに入るだろう)、一人前として尊重されない惨めな自分に発祥しているのであり、これを一挙解決しようという甘言に乗ってテロ組織に入信してしまうのではないか。しかしその末路は結局ラスコーリニコフと同じであり、もしも運よくソーニャのような人との対話が成立すれば、更正の道は開けるかもしれない。

以上は登壇者の発言の一部にすぎませんが、こういう思考の展開が『罪と罰』から始めて可能だという好例でした。分人と対話については平野氏の著書を直接読んだ方が理解が進むと思いますが、「小難しかった」と頭をひねる読者のために、シンポで笑いが起こったエピソードを紹介して終わりにします。
平野氏はジャズが好きで、何某というジャズアーティスト(Xとしましょう)が好きなのだが、議論の席で政治的見解が真っ向対立する相手がいたとして、その人物が議論が終わったあとの別の席で「自分もXが好きなんだ」と言うと、平野氏は「何言ってんだ、お前のような奴にXの何が判る」と怒りが込み上げてくる。しかし、もしもこの順序が逆で、初対面でこの人物とXの話で意気投合し、その後で政治的見解の相違が露呈したとしたら、平野氏は怒りを覚えずにこの人の政治的見解を「そういう考えもありかもね」と静かに聞けたかもしれない。曰く「順番は大事です」。

つまり対話というのは常に肯定的結果をもたらすものではなく、順番を間違えただけで取り返しのつかない反発を生むほどデリケートなものである。だから単純に「対話しろ」とか言われてやっても、やり方を間違えれば効果は出ないどころか逆効果になる。また仮に順番を正しくこなして対話したとしても、場合によってはどうしてもたった1つの意見にまとめなければならないことだってある。政治的決断などはその例だ。
平野氏曰く、「僕はジャズが好きだけど、友人はポップミュージックが好き。二人が旅をしながら一緒に聴く音楽を選ぶ時、ジャズとポップを同時にかけるわけにはいかないから、どちらかが譲歩しなければならない。そういうケースは現実にはよくある。」譲歩できないとしたら、どちらかが屈するまで殴り合いをするしかない。それが現在のテロに象徴される暴力の正体なのではないか。
どうですか、脳味噌が活性化しましたか。恥と暴力については別途「余話」で取り上げたいと思います。

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by hikada789 | 2018-03-16 18:25 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
フィギュアスケートの世界ランク1位が男女とも怪我の治療で世界選手権を欠場するというので、男子は宇野君とネイサンの一騎打ち、女子は秋田犬にメロメロのザギトワの一人勝ちで決まりか、と思いきや、先行して行われた世界ジュニアではとうとう女子が4回転ジャンプを成功させた。しかも2本。サルコーとトーループで、サルコーにはGOEが2点もついた。もはやシニア男子とも戦える、アレクサンドラ・トルーソワちゃんの技術点は驚異の92点越え。その他のジャンプでも、あのザギトワの必殺技3ルッツ+3ループのコンビネーションを軽々とやってのけ、金メダルを獲ったばかりのザギトワの天下を早くも脅かしている。ちなみに日本の紀平は3アクセルに失敗して沈んだ。

世界は、というよりロシアは既に先を行っている。一体ロシアはどんな訓練をスケーターたちに施しているのであろう。シンクロナイズドスイミングの選手を訓練の末にアザラシへと進化させた国なのだ。何が行われていてもおかしくはない。国家ぐるみのドーピングだ? ふやけた事を。あの国は戦場で使える超能力を大真面目に研究して軍機密にしている国なのだよ。かの国の科学力を甘く見てはいけないのだ。人類を最初に宇宙に飛ばしたのはどこの国だ? 唯一の宇宙ステーションはどこの国のものだ? その宇宙開発を推し進めた動機ときたら、「地上はあまりに穢れているので、美しい世界を求めるならもう地球を捨てて宇宙に行くしかない」なのだよ。なんだよそれ、汚れたならきれいにすればいいじゃん、という発想の我々には及びもつかぬ方向へ心血を注ぐ国なのだよ。もしかしたら、宇宙飛行士訓練用の重力負荷ブースに子供たちを繋いで、朝から晩まで4回転ジャンプを跳ばせているのかもしれない。そしてシンクロの選手を図らずもアザラシにしてしまったように、フィギュア選手を図らずも宇宙人にしてしまうやもしれぬな。やりかねん。

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by hikada789 | 2018-03-11 21:12 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
私が子供の頃から読み続けている獣木野生の漫画『パーム』第40巻が発売されました。この作品は連載開始当時の1980年代を描いてゆっくり時間が進んでいるため、21世紀の今日において主人公らは既に死んでいる設定なのですが、物語中盤から環境問題に目が向けられ、最新刊では1980年代にはまだ登場していなかったAIや巨大企業による市場の寡占、それによって起こる今日的な弊害が取沙汰されており、時代の古さを感じさせない作風となっております。この作品は、連載開始時には既に完結までのあらすじが出来上がっており、作者はこれを何十年もかけてこつこつ漫画に描き上げていくだけという消化試合のような仕事ぶりなのですが、細部に多少の変更はあったとしても大筋は変わらず現代社会に即した内容を堅持できるというのは、やはり作者の先見性あっての賜物です。
我々の生きる現代では、成長著しいAIが人間の仕事を奪うのではといったリアルな未来が危惧されていますが、獣木氏がその先見性を以ってどのように近未来を予見しているのか、訊いてみたいものです。本作品に馴染みのない人のために、作者の思想を伺い知れる部分を、最新刊のセリフから引用してみます。

――…環境が破壊されて、結果金があっても水さえ手に入らない時代が来る。運が良ければ地球が滅亡する前に人類がそのことに気付いて、金や成功に価値観を見出さない人間が増え、誰も周りと競合してより大きな家や高級車を買おうとしなくなり、社会は直線的経済から循環的経済に乗り変えていく。…あなた方はなぜそれを脅威に思うのですか? もし世界が良い方向へ一変するのなら、その恩恵は最終的に我々にも及ぶ。そんなにも世間の悪役でいたいですか?――

算命学的に言えば、これは印星の発想です。金や成功に価値観を見出すのは禄星ですから、相剋関係にある印星の価値観と真っ向対立するのは当然です。そして直線的経済を是とする直線的思考の発祥地は西洋であり、循環的経済の元にある循環思想は東洋の発想です。
資源を食い尽くすだけの直線文明が人類を滅ぼすという図式がすんなり頭に浮かぶ人は、印を備えている人であり、より持続性のある循環型社会への移行の必要性を強く感じている人です。尤も、循環型経済・社会の中では、圧倒的な富の集中や急激な成功というものは期待できません。こういう環境では、今度は禄星が星を輝かせられなくなります。このように印と禄は同時に輝くことのできないさだめなのです。

前回の余話では、後天運、特に年運が宿命に与える影響によって、活躍しやすい年や時期に個人差があるという話をしました。毎年行われる世界選手権で何度も優勝しているアスリートが四年に一度の五輪になるとなぜか勝てない、というよくある話の背景に何があるのか、算命学的な視点から探ってみればある程度納得いく原因が見つかるかもしれません。勿論、逆に四年に一度の五輪以外はさっぱり輝かないという選手がいることも、同様の視点で読み解くことができるでしょう。
しかしいずれの場合も、その人が幸福かどうかは、その人が一生を終えてみないことには判断できません。たった一度の成功なり失敗が、その人の人生の全てだったと見做すことはできないからです。

今回の余話は、その幸福についてです。上述のように知性は印星が、財運は禄星が司っていますが、幸福は福星である貫索星と石門星のテリトリーです。福星は印星とは相生関係にあり、印星が福星を後押しする形です。つまり知性が幸せを呼び込むという図式になります。人間が知性を尊ぶのは、知性が幸せを掴むために必須であることを本能的に知っているからです。
誰だって大馬鹿者の男女と結婚したいとは思いませんよね。それは結婚によって幸せを掴みたいという欲求が、愚かな人間を配偶者候補から無意識に排除しているからです。従って、相手の中身の馬鹿さ加減に目を向けずに優れた容姿を重視する人は、残念ながら当人自身に知性が備わっていない、と判断せざるを得ないということになります。

しかしながら、当の幸福を司っているはずの貫索星と石門星は比和から生まれる星であり、それは強星を生み、変化を好みません。幸せと比和、強星と膠着状態。これが算命学の考える幸福のワンセットです。算命学を知らない人にとっては違和感のある組合せですし、算命学を知っている人にとっても、大いに考察を促されます。今回はこの辺りについて、算命学の考える幸福の一端について考えてみます。具体的には「芳順局」という局法に触れます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「幸せの土台」です。「算命学余話 #R58」で検索の上、登録&甘納豆1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

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by hikada789 | 2018-03-09 21:53 | 算命学の仕組 | Comments(0)
b0214800_22084136.jpgワゴンセールで春っぽい柄の有田焼マグカップを買った。飲み口がいつもと違うせいかコーヒーもひと味ちがう。安い気分転換である。気分転換といえば、区内のものづくりフェアで「一閑(いっかん)張り」という小物作りをやってみた。襖屋が指導する和の工芸品で、百均で売っているような竹細工のザルや器にちぎった和紙を貼り合わせて強度を与えるもの。選んだ和紙によって個性が出る。添加物なしの和のりを使用するので、煎餅などじかに食べ物を入れることもできる。和紙があればメンテナンスもできる。なかなか風情があるよ。
画像はNo.1042で製作途中だった伝統柄のレザーカービングをアンティーク染め(緑のあと焦げ茶を重ねた)し、ショルダーバッグに仕上げたもの。フタだけで製作時間10時間、バッグの仕立てに8時間。つたないが力作である。光沢があるのはアンティーク染料が油性だから。塗って乾かして磨くだけでかなりの光沢が出るが、これに更に保護剤を塗ってあるのでツルピカしている。肩紐はナスカンをつけて取り外せるようにした。この種のカービングは面積が増えるほど値打ちが上がり、このようにフタだけでなく前胴も背胴もマチもやると数万円の値が付くそうな。宇宙人も彫りがはっきり判る無色のヌメ革でやってみたかったが、ビギナーのミスタッチを隠すために濃い色を入れることにした。渋い仕上がりだ。5月の模擬店でディスプレイしよう。
画面手前にあるのはボールペンサイズの牛革ペンカバー。模擬店用に量産中。鉛筆も入るが、最近はシャーペンやノック式ボールペンが主流なので、どれほど需要があるのか疑問ではある。まあ手触りはいいし高級感出るし、製図やイラストを描く人の中には手が疲れにくいと愛用者もいると聞く。革ハギレで作れるので、ご希望の色などあればお作りします。

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by hikada789 | 2018-03-05 22:21 | その他 | Comments(0)
No.1050で案内した講演会「エイゼンシュテインと日本文化」の講師クレイマン氏は80歳を超える高齢ながら、実に美しく聞き取りやすいロシア語で、通訳が訳しやすいよう適度に話を区切る心遣いを見せながら語ってくれた。その内容は、普段はロシアや欧米人の聴衆に向かって話しているものを、初めて日本人相手に話すというものだった。とはいえ日本は初めてではなく研究者との交流は既にしている。なぜならエイゼンシュテイン自身が日本文化から影響を受けていたため、研究者たるクレイマン氏もその理解のために日本を知らなければならなかったからだ。以下はその充実した講演内容から一部を拝借して、もしかしたらまだ一度もエイゼンシュテインの映画を見ていないかもしれない土星裏読者のために、ロシアの巨匠作品の鑑賞手引きとしたいと思う。まあ、例によってビギナーにはあまり親切でない書き方ではあるが、基礎知識はそれこそネットでいくらでも調べて下さい。

日本文化、特にその背景にある独特の思想に関心のあったエイゼンシュテインは、初級日本語を学んで漢字やひらがなが書ける程度まで習得したが、その欧州言語とは明らかに違う文法形態や、象形文字である漢字の形態から、日本の思考が物事の総合的理解に方向付けられていることを知り、それが欧州的な分析思考とは対照的であることに気付く。
これを映像として表現することを思いついたエイゼンシュテインは、例えば「救い」という意味を表現するのに、「救い・救済」に関わる対象物を幾つもフレーム化して並べ、象形文字である漢字がそれぞれ意味を持つパーツで組み立てられることによって一つの意味を表しているように、各フレームをつなげることで一つの意味を映像化した。しかし同時に、漢字は漢字同士を組み合わせることで熟語となり、漢字単独の意味が変化していく。つまり文脈によって漢字の意味も使われ方も違ってくることから、フレームもまた「一義的なフレーム」というものはあり得ず、漢字と同じく文脈次第で複数の意味を持たせることが可能だと考えた。それがモンタージュ技法となったのだが、エイゼンシュテインはこの映像技術によってビジュアルな詩を作ろうとしていたのである。

1928年に日本の歌舞伎が初めてモスクワで上演されたが、これは歌舞伎の世界初の海外公演でもあった。ここでエイゼンシュテインは、歌舞伎における役者と舞台装置と音楽が、互いに入れ込むように構成されており、互いに平等な立場で競演していると指摘している。(例えば欧州の演劇やオペラは演者が主体であって、舞台装置や音楽はその引立て役に過ぎない。)
また写楽の大首絵によく見られる役者の「寄り目」についても、ドイツの評論家などはキュビズムの表れだと分析したのだが、エイゼンシュテインはそれが本当か確かめるため、歌舞伎役者に直接尋ねに行く。歌舞伎役者は、「昔からそのように演じているものなのでそのように習って演じており、意味は知らない。しかし寄り目は怒りを表現する時に使う」と答えた。エイゼンシュテインはこれを聞いて医学書を漁り、眼科の見地から、人間の目は内側(鼻寄り)の筋肉を使うと寄り目になること、そしてその筋肉は怒りやストレスを感じる時に使われるのだということを知るに至る。そしてこの「寄り目」を『イワン雷帝』の主演男優に演じさせ、身振りや叫び声で怒りを表すことなしに、沈黙したまま顔面だけで怒気を表現させることに成功した。

エイゼンシュテインはまた、歌舞伎の女形が花道で見せる舞いのような仕草に注目する。それは、足は前に一歩進み出ているのに体は後ろへ引き、また前へ出ようとするのに顔を背けるといった逡巡の動作であった。こうした前後左右の矛盾した動きというものは、当時の欧州の劇では見られないものだったが、実は時代を何世紀も遡ると欧州にも存在しており、「拒否し、その拒否を再度拒否する」という動作で心の惑いを表現していたのだった。それがやがて廃れてなくなってしまったが、日本の歌舞伎はまだそれが現役で生きていた。
ただ役者が舞台を素通りするだけでは、何の変化も面白みも生まれないが、このようにどっちつかずの行ったり来たりを繰り返すことで、人間世界にありがちな矛盾や闘争や葛藤を表現することができるのだと、エイゼンシュテインは指摘している。

『イワン雷帝』の衣装スケッチには、歌舞伎の衣装から着想した、床を引きずる裾に詰め物をして重みを出すというアイデアが見られる。しかし最終的にはこの案は却下され、鳥の羽のような袖を垂らしたシャツという衣装に落ち着いた。
歌川広重の版画の構図なども、画面フレームの構図としてずばりパクッたものが『イワン雷帝』に使われた。(雷帝の巨大な横顔の隣に民衆の長蛇の列の遠景が並ぶという構図など。このシーンでは、長蛇の列の民衆が各々十字架を掲げているが、ロシア民衆にとって「十字架」とは将来の苦難を暗喩しており、先述の漢字から得たフレーム技法を使っている。)

エイゼンシュテインはまた能の能面からもヒントを得ている。能面の「角度」による表情付けから、映像についても、一つは顔面への直接的なメイクで、もう一つは役者の顔へのライトの当て方で、奥行きを出そうとした。

まだまだとても書ききれないくらい話は尽きぬのであったが、時間の関係で講演は終了となった。彼の頭の中には何十日でも語り続けられるほどの、情熱に裏付けられた知識が詰まっており、求められればその知識や見解をいくらでも披露できるのであった。こういう人の話を聞くのは楽しくて飽きない。
皆さん、人の話に飽きる時とは、その話に大して深みがなく、浅くて狭いネタを水増しして無理やり引き伸ばしている時ではないですか。宇宙人などは知りたい情報を得るために情報番組を見ることがあっても(実際は聴いているだけ)、要約すれば5分で済むネタを1時間の番組に引き伸ばしているものだから、「早く話を進めろ」とイライラして聴いていられない。だから専ら録画しては手仕事中に早送りで聴いている。宇宙人の気が短いのだろうか。いや、中身の詰まった話なら大人しく標準スピードで聴いていられるのだよ。まだまだ聴いていたいから終わらないでくれ、と思いながら。そんな人の話を皆さんは最近聴いていますか。

余談。世界初の歌舞伎海外公演がロシアだったせいか、歌舞伎はすっかり当地に馴染み、「忠臣蔵」は固有名詞としてロシア語に定着しているようだ。クレイマン氏が「忠臣グール」と発音したのでニヤける宇宙人。No.1050で触れたようにロシア語には「格」があるが、忠臣蔵はアで終わる名詞なので女性名詞扱いとなり、対格変化するとウの語尾に変わる。通常、外国人の名前や地名などはロシア語文法に馴染まないため、格変化はしないものなのだが、忠臣蔵はもうロシア語の一部となり、格変化の栄誉に浴しているのであった。

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by hikada789 | 2018-03-02 21:42 | ロシアの衝撃 | Comments(0)