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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2018年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

アインシュタインの脳は死後、天才の脳がどういう作りになっているかを解明する手立てとすべく取り出され、今日まで保管されているそうです。ただ脳みそ丸ごとではなく、小分けにして複数の科学者がそれぞれの思惑で保管しているので、一部は既に散逸し、元の形に復元することはできないようです。
それでも現段階で導き出せるデータによれば、アインシュタインの脳は知的活動を司る部位の肥大発達が見られる以上に、左右の脳の間の激しいやりとりの痕跡が顕著だということです。一般に理性を司る脳は左脳とされており、優秀な科学者なら当然左脳の発達が予測されたのですが、アインシュタインの脳は左右の脳をバランスよく発達させ、何よりその右脳と左脳の間をつなぐネットワークが飛び抜けて発達していた。従って、天才とは脳の片側だけではなく、両側ともに一体となってフルに活用していることが条件であるらしい。そういう例をアインシュタインの脳は示しているということです。なるほど。

算命学の理屈からすれば、陰陽論に基づき、左右どちらかの脳だけが過剰発達した人間が天才になり得ないことは明白です。天才というのは自分の生まれ持った宿命を無駄なく遺憾なく発揮している人のことなので、何かの一部分だけ突出したバランスのとれていない人間は、秀才や有名人であったとしても天才には当たらない、というのが算命学の考え方です。
まあ世間一般はバランスのとれない人であっても、周囲を驚かせるような行為を成し遂げた人を容易に「天才」と呼ぶかもしれません。そしてそんな上辺だけの天才たちは、数年後には身を持ち崩して捕まったり、薬物に頼って今はなきかつての栄光を取り戻そうとしたりして、人々の嘲笑を買ったりしています。

このように、その評価が天才という「称号」にすぎない場合、それは単なる名誉運の突出です。名誉は五行のうちの一つ(金性)にすぎないので、ここだけが飛び抜けても残りの五行とのバランスがとれなければ、本当の天才とは見做さない。算命学はこのような立場なので、誰かを簡単に天才呼ばわりすることはないし、その人が死なないうちは、安易にその人生を総括しません。
たまに、天才の宿命を教えてほしいとかいうガッカリな質問を寄せる人がいますが、天才の宿命なんかありません。もしあったら、その同じ生年月日の人すべてが天才として世間に騒がれていなければ辻褄が合いません。そんな話は古今東西聞いたことがありません。そうではなくて、生まれた瞬間に自然から頂いた宿命がまず先にあって、それを完璧に全うした人が天才なのです。だから本来は誰だって天才になれるはずなのです。なれないのは宿命のどこかがお留守になっていたり、とんちんかんな人生を送ってせっかくの宿命を台無しにしているからです。

アインシュタインの話に戻ると、彼が宿命を完全燃焼したかどうかは各自判断して頂くとして、彼はいわゆるガリ勉型の秀才ではなく、ユーモアの欠片もなかったのでもなく、世捨て人のような孤高を貫いたわけでもなく、マッドサイエンティストでもなかった。人間としてバランスがよくとれており、それは即ち、人間の矛盾する側面を持ちながら自然と調和していた、ということです。
圧倒的頭脳を誇る彼の、子供っぽいおちゃめな写真やエピソードはよく知られていますし、原子爆弾を発明しておきながら後になって大後悔し、核兵器廃絶運動に参加するなど、何やら正反対な顔をいくつも持っている。それでいてその人物評は「矛盾している」とか「破綻している」とかではなく、「人間性が豊かだ」というものでした。矛盾した内面を持ちながらもこういう評価に落ち着くのが、自然と調和した人の特徴です。自然と調和しているということは、宿命に沿って生きているということですから、突き詰めればその先には天才が待っています。

繰り返しますが、算命学が注目したいのは、アインシュタインの脳における、左右の脳の緊密なやりとりであり、陰陽回転の高速と情報伝達の膨大さです。算命学は停滞を嫌いますが、われわれ一般も頭の悪い人間について「あいつは頭の鈍い奴だ」と言ったりします。同様に頭の良い人間を「あの人は頭の回転が速い」と言ったりします。これに比べて、学校の成績がいいとか資格を持っているとかは、人の頭の良し悪しを判断する材料としては定着していません。むしろ嘲笑の的になることさえあります。
つまり、アインシュタインの脳を解剖するまでもなく、われわれは本能的に、頭のいい人の頭は「すばやく回転している」ことを知っているし、その動きが一方通行ではなく相互往来であり、速いがために大量の情報を載せてあっちにもこっちにも連絡できることを知っている。当然脳の遠くの端っこの方にも情報を届けているから、脳はまんべんなく活動している。お留守になったままぼんやり衰微していく部位はない。脳のどこにも無駄がない。その風景は、天才が宿命を余すところなく完全消化した人生と同じです。
天才になりたいのなら、自分の宿命を見て、星々を余すところなくフル活用し、相互に刺激を与え合うこと、更には外界との接触を密にして、外界から新たな刺激や情報を次々ともらい、同時に自分からも刺激を返し、「豊かな人間」になること。それが近道です。

前段が長くなりましたが、今回の余話のテーマは恋愛についてです。「恋愛相談お断り」の看板を掲げている私としてはどうでもいいテーマですが、世の人、特に多くの若い女性にとっての関心事といえば恋愛です。男性はそうでもないのに、どうして女性ばかりがそうなのでしょう。
ところで先日テレビ番組で、妊娠後にできるアフターピルが海外で普及してことを紹介していたのですが、ある若手女性弁護士がこれに賛同し、日本での普及を「安易な性交を促す」として阻もうとする「年配の人たち」を批判、「少子化なんだからもっとセックスしまくったらいいのに」と豪語していました。弁護士というのはそれなりの教養や論理性を備えているものと考えていましたが、そうではないらしい。上述の「資格だけ」「学業だけ」の見せかけ先生だな、と私は嘲笑しました。レイプされた女性のためのアフターピルは必要でしょうが、少子化対策のために「しまくったらいい」とは論理的思考も品性も欠いた発言です。

少子化の原因は性行為の数が減ったからではありません。現代の日本人が子孫繁栄や子育てとは別の価値に目を向けているからです。そもそもAIが人間にとって代わろうという現代において、人口増加は本当に必要でしょうか。むしろ徐々に減った方が自然に則しているのでは。
なお、少子化の原因については、欧米人が白人社会の繁栄のために、有色人種の人口減少を目論んでおかしな遺伝子組換え食品を世界にばら撒いており、日本もその売り先の一つであるからという寒い事実も関係していますが、この点は苫米地英人氏その他の有識者の見解を当たって下さい。

算命学では、恋愛という事象そのものを軽んじています。恋愛重視の人は、恋に敗れると「死にたい」とか「死にそう」とか安易に口にしますが、失恋くらいで人間は死なない、というのが算命学の見解です。それに「死にたい」と口に出して訴える人ほど、自殺には至らないものです。逆に黙っている人の方が危ない。口に出すということは、周囲へのアピール行為であって、自己破壊行為とは別物なのです。
ではなぜ算命学は恋愛を軽視するのか。今回の副題はずばり、「恋愛は低級か」です。具体的には、男性と女性の陰陽差が、恋愛観の相違を生んでいるという内容です。算命学学習者には、鑑定技法として知っておいた方がいい思想の話になります。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「恋愛は低級か」です。「算命学余話 #R75」で検索の上、登録&月見団子一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2018-09-29 19:29 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回は良書と言いつつもくさしている書評じみた私見を述べたが、もっといい図書があるのでそちらを紹介しよう。書き手の熱意や偽りない率直な言葉がぎっしり詰まっていて、金儲け臭を気にせず読める『クマにあったらどうするか~アイヌ民族最後の狩人 姉崎等』。2002年刊を再編集して2014年に文庫本になったものだが、表紙がかわいい。姉崎等氏の体験談を片山龍峯氏が聞き書きするという体裁の共著なので、会話形式で読みやすく、子供にもお勧めだ。
表題に掲げたクマに遭遇した際のサバイバル法のほか、クマの生態を知り尽くした猟師の知恵や人間力、戦前戦後の北海道事情からアイヌの風習まで細やかに語られている。聞き手がいいのだ。聞き手に是非知りたい、記録として残したいという強い熱意があり、その熱意に語り手も共感して出来上がった本なので、その志が行間から滲み出ていて清々しい。なにより聞き手が予備知識を持って聞き取りに臨み、「クマにあったらこうすべし」という巷の諸説を目の前のクマ猟師にぶつけて真偽を問うと、猟師の答えは白黒はっきりしているのだが、それは「自分の経験ではこうだからこう思う」という言い方であって、巷の説を頭ごなしに否定はしないところに好感が持てる。「その方法は逆効果だと思うけど、こういう特殊なケースならばあり得るかもしれない」という1か0ではない物言いに、猟師の深い洞察や論理的思考が見え隠れするのである。前回記事の本の印象と比較してみて下さい。

例によって読書の時間のとれない方の為に、姉崎猟師の有難い教訓名言をかい摘んでいくつか。
――(猟で山に入ったら)ずっと1日二食で、ご飯一膳と味噌汁だけで10日ほどもつ。私は山に入っても入らなくてもあまり食べないようにしている。あんまり食う人だと体力が持続しない。大食する人は元気が出るかといったら、絶対に出ない。胃袋だけが大きくなって、少しでもお腹がすいたら全く、グダーッとゆでた菜っ葉のように弱いです。
――(アイヌがしばしば山のカラスと共働するという話で)山ガラスというのは町にいるカラスとは違う。町ガラスは人にばっかり頼って暮らすけど、山ガラスは人に頼らず山の中で虫を獲ったり(自力で)生活している(ので人間と対等の意識がある)。ハンターがクマを獲ると肺臓だけを残し、カラスが食べやすいように細かく切って木の枝に丁寧に刺しておく。するとそれぞれのカラスにひと口ずつでも当たるようになる。カラスたちは、ハンターについていくと必ず恩恵があるものと学習して、クマ猟に同行するようになる(クマがいる所ではカラスは集団で鳴く習性があり、猟師はこれでクマの居場所をつきとめられる)。
――(アイヌの魂送りの思想に触れ、クマを獲っても)獲ったという喜びではないんです。この肉の部分を持って帰る、ここは捨てていく、ということをしないで皆で大事にしてやろうと考えて、カラスにあげる部分以外はどの部分も持って帰る。(スポーツハンターがクマを倒すことに喜びを見出しているのとは違い、)クマを倒したらその後まで私らは責任を持ってやるんです。クマを獲れば獲るだけ、責任は重たくなります。

姉崎猟師はクマを山の師匠と仰ぎ、山における知恵はすべてクマの習性を模倣することで身に付けたという。口で言うのはやさしいが、他の猟師に聞いてもこんな手法は普通の人間はまねできないそうだ。「俺たち人間だからさ」。
ところで、クマが賢いことはよく知られているが、どれほど賢いかを示したエピソードをひとつ。研究目的で野生のクマに電波発信機をつけたところ、クマは人里近くの道筋すぐそばにいても、近くを通りかかる人間の目には触れない場所を選んでいることが判った。藪や高低差で人間の視界には入らないので気付かれることはない。しかし距離的には目と鼻の先である。クマは人間に気付かれると面倒になることが判っているので静かにしてやりすごしているのであり、人を襲う意志はない。姉崎氏曰く「クマは平和主義であり、人間との無用な争いを避けようとする」。
昨今は『新潮45』の杉田論文擁護云々の話題で、またぞろ差別だ、謝罪だ、何だと多くの人が首を傾げる権利の主張がメディアを賑わせているが、この種の権利は「表現の自由」をつきつめれば結着のつかない話であることをいい加減人間は悟って、クマのように無駄な争い事を避けて静かにやりすごしたり、人間(=意見の異なる他者)と平和に住み分けする知恵を磨いたりするべきではないのかね。クマよ、愚かな人間を熊パンチで諫めてくれ、なのだ。

by hikada789 | 2018-09-25 15:55 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
山小屋での肉体労働の利点として、坐骨神経痛の改善を上げておこう。土星裏の執筆も含めPCワークの多い宇宙人は三年程前から坐骨神経痛となり、15分も座っていると尻が痛むので立ち上がらねばもたない。椅子でも床でも同じだ。座布団を工夫してもだめなので、ここはもう加齢と観念して、総体的な健康維持も視野にちょいちょい立ち歩くようにしている。読書も立ってしたり。でも立ったままも結構疲れる。
ところが夏の山バイトを始めたところ、当初はあまりに座る時間のない就労に辟易していたが、いつの間にかすっかり慣れて、もう何時間歩きっぱなしでも大丈夫な体になった。お蔭で今や登山も座り休憩なしで日没まで歩ける。そしてついでに坐骨神経痛も治っていた。やはり自宅では座り過ぎていたのだ。
そんなわけでこの夏も山バイト中は坐骨は好調だったのだが、帰宅して半月も立つとまたぶり返した。PC作業を短くすることはできない。そこで思い切ってスタンディング・デスクにしてみた。いや、家具を新調したのではない。書籍ラックの天板の上のモノをどけてPCを置いたのだ。そして今立ったまま作業している。よさげではないか。背丈を合わせるために健康竹踏みをしながらなので、無意識に足踏みを強いられて血行も滞らない。これで何時間作業が続けられるか、しばらく様子を見よう。

暑さ寒さも彼岸まで。最近は涼しい日も増えて読書も億劫でなくなった。色々並行して読んでいるが、気付くことがあった。しごく真っ当な論理で展開した流暢な文章であるにも拘わらず、鼻につく文章というのがある。石平著『結論!朝鮮半島に関わってはいけない』がそれだ。これは日本に帰化した中国人研究者が日本人向けに朝鮮史を紹介し、その伝統文化としての血みどろの内部闘争や、儒教一辺倒による思想的弊害、政敵を倒すために外国を引き込む習性といった、必ずしも新しい話ではないが朝鮮の歴史を通じて「常にこうだ」という論証を積み重ね、朝鮮民族の国民性を明快に分析した読み物なのだが、著者は大学院までを中国で修了し、その後来日して帰化した割には、日本文が上手すぎる。訳者の名は出ていないが、おそらくリライトしている編集者に文才があるのだ。表現に単調さがなく、多彩な言い回しで言いたい内容がはっきり伝わり、説得力がある。
そう思って最初はスイスイ楽しく読んでいた。南北朝鮮には気の毒だが、宇宙人はどちらの国も嫌いだ。嘘ばかりで誠実さを示すエピソードが見当たらない。フィクションであるドラマや映画でさえも、話の論理性に全然納得がいかないので、最後まで見ていられない。その原因を、この図書は歴史を順番に紹介しながら提示してくれるので、大して明るくなかったかの国の歴史がわが頭の中ですっきりと整理され、その根幹を貫いている国民性やその国民性を形成した環境要因などが今日の国際政治にも脈々と受け継がれていることを納得できた。そういう意味で良書だと言っておこう。

しかし何が気に入らなかったのか。簡単に言えば、上から目線の文体なのだった。日本人編集者にリライトされているから中々気付けなかったが、いま半分ほどまで読み進んでペースが落ちて来たのは、著者が自説の正しさを信じきって悦に入っているのが鼻についてきたからだ。日本人の感覚として、研究者には自説や通説に埋没することなく常に研究対象に疑いの目を向け、その繰り返しによって疑う余地のない真実に迫っていくという、学術道ともいうべき姿勢が求められるのだが、それがない。しかもリライトしている人がそれを何とか隠そう隠そうと奮闘し、日本人の読者に気付かれまいと配慮しているのさえ感じ取れるほど、読めば読むほど著者の浅薄さが読み取れる、そういう不思議な文体なのだった。まあ試しに読んでみて下さい。買わなくてもいいから図書館ででも。朝鮮通史として読む分には手軽な本です。

ところで私はかつて中国に二年も滞在していたくせに、中国も中国人も嫌いである。中国語は話せるのだが、これを武器に仕事を探すとストレスフルな職場に当たるため、知らないふりをしている。嫌いな理由はあまたあるが、その中の一つはやはり上述の浅薄さだ。彼らは自分を省みるという習慣が全くないから自分が一番正しいと思い込んでいるし、そのため他者を貶める発言ばかりする。反省しないから同じ間違いを何度も繰り返すし、その過ちを認められないのですぐ人のせいにしたり、人のアラを探して自分への批判を逸らそうとする。最低な人間だね。よく中国人が先の戦争を日本人が反省していないとかほざくけど、あれは中国人自身が反省する習慣を持たないので、外国人もみな自分達と同じと思ってほざいているに過ぎないということを、二年の滞在で痛感した。日本人よ、世界でこれほど自省する国民は、私が知る限り日本人以外にはおらぬ。心配するな。

この種のエピソードはなにも中国に渡らなくとも日本でも味わえる。先日仕事で整体の覆面調査をした時、そうと知らずに中国人整体師の店に入った。そこでは整体の他に健康食品として蜂蜜を売っているのだが、整体師は施術中しきりにその効用を語って、こちらが自発的に買うよう誘導するのであった。しかも笑えることに、「日本の蜂蜜は農薬のせいで品質がよくない。中国は農薬の心配がないからこの値段はお買い得だ」だと。ばかめ、中国の野菜を買った現地の消費者が洗剤で野菜を洗わなければならないほど中国では危険な農薬を使っていることを、日本人が知らないとでも思っているのか。勿論調査報告書にはありのままを書いた。
もうひとつ最近はこんなこともあった。近所に豆をその場で焙煎してくれるコーヒー豆チェーン店ができたので行ってみたら、店員一人だけでやっており、大変流暢な日本語ではあったがわずかな訛りで中国出身と知れた。見た目では判らなかったが訛りに加えてトークでばれた。自分の勧める豆や淹れ方が世界で一番正しく、あとは全部間違っている、という口ぶりだったからだ。宇宙人はコーヒー好きなのでお気に入りの店が近くにできたら嬉しいと思っていたが、もう行くつもりはない。話しているだけで不愉快になる。日本人だったら自分の豆や淹れ方を自慢することはあっても、他者のやり方を否定するような発言は下品で逆効果だと判るので、自然に避ける。ネガティブキャンペーンを米国選挙でいくらお目に掛かろうと、日本人は体質としてそれを歓迎しないし、居心地悪く感じるのだ。そういう作法ひとつで国民性、いや思い切って品性と言おう、品性は露呈するものなのだ。

本の話に戻ると、いや実に不思議な文章だが、そこに私が見出した違和感は、おそらくリライトしているネィティブの日本人が、中国人である著者に100%賛同しているわけではないことによるのではないか。つまり原文のままでは日本人が中国人の浅薄さを嗅ぎ取って売れないと判断し、売るためにマイルドな日本語に仕上げた。けれども編集者は売るためにこの本をリライトしているのであり、著者に同調しているわけではないから、著者の原文ほどには熱意のない文章になってしまった。そう、これほど明快で、一般読者向けに奇をてらった感のある表現を散りばめた朝鮮人論であるにも拘わらず、そこに本を書く人の熱意が感じられないのだ。熱意でなければ誠意といってもいい。要するに金儲け第一の文章が、こういう風になるわけなのでは。
私もソ連時代のヘンテコなロシア語を読んで頭を悩ませた経験がある。当局が真実を隠すために書く難読の声明文や、知識人が検閲を恐れて駆使する回りくどいレトリック、或いは心の叫びを暗喩であちこちに散りばめている謎めいた評論文など、「もっと判りやすく言えばいいのに」と呆れる文体とは知らぬ仲ではないが、この本のような熱意に根っこがないというか、或いはリライトの横槍で熱意が微妙に削られている文体には初めてお目にかかった。まあ事実とはいえ研究対象の民族をディスる内容なんだから、内側から輝くような文章にならなくて当然かもしれない。No.1102の『ダーリの辞典』と参考まで比較下さい。

by hikada789 | 2018-09-23 18:45 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
テニスの大坂なおみが大人気との一律報道に疑問を感じている。自分がそうではないからだが、テニスに全く興味がないわけではない。錦織圭の試合はチャンスがあればTV観戦してきた方だ。日本人らしい体格の彼が、海外の大型選手にパワーでなく技術で打ち勝つ姿が痛快なのだった。彼が欧米人並みに大柄で、強力なサーブばかりで点を取るタイプだったら見ていない。そういう意味で、一番好きなテニスプレーヤーといえばロジャー・フェデラーなのだ。宇宙人は単調な力押しでなく、上手さや技の多彩さに感動するタイプなのだからしょうがない。

女子テニス界は永らくパワー押しのウィリアムズ姉妹の天下だったので見てこなかった。プレーが単調でつまらない。せめて細身のシャラポワを応援したかったがドーピングで引っ込んだし、眺めて気持ちのいい選手が見つけられぬまま、遂に日本人にはとても見えぬ外貌の大坂の登場となった。武器は錦織より速い強烈なサーブ。ああ、それは日本人の特技ではなかったはず。大柄な海外選手の十八番ではないか。それでは、やはり日本人の繊細さを押し出した技の力では世界一にはなれないということだろうか。そうしたわけで、大坂選手の活躍には何やらガッカリした気分にさせられるのであるが、皆さんはそんなことないですか。

唯一の救いは、彼女のコメントが非常に日本人的感性でできているということくらい。そのコメントさえも、「謙虚だ」という評価が多いけれども、それはジャイアンみたいな態度を30過ぎても取り続けて平然としている幼稚な米国人ウィリアムズと比べればの話でしょ。ああいう女性をリスペクトしてきたということ自体、大坂の人を見る目の無さを露呈しており、白けた気分になるのだが。尤も、錦織圭も誰をリスペクトして真似たものか、自分のミスをラケットに八つ当たりする性癖があった(大坂も以前はしょっちゅうやっていたという)。伝統行事として針供養さえしている日本人一般の感覚として、ああした行為はありえないことだ。活躍している人を持ち上げるのは結構だけど、その人が誰を手本とした結果何を真似てしまったのか、その真似た所作は果たして褒められたものなのか、という辺りを人間性を測る尺度として指摘する人がいてもいいはず。いないみたいだから宇宙人がやろう。繰り返すぞ。自分の至らなさを棚に上げてモノに当たるなど、低級な人間のすることだ。子供達よ、ここに明記しておくぞ。

by hikada789 | 2018-09-20 15:30 | その他 | Comments(0)
先日カンボジアを取材した番組を見ていて、ポル・ポトの死因が未だに謎であることを知りました。自殺とも他殺とも言われているそうですが、真相は確かにありますし、誰かが知っているはずです。しかしカンボジア国内でも公表されておりません。それどころか、ポル・ポトが引き起こしたカンボジア内戦や虐殺についても、当地では学校教育で教えないということです。
その番組の解釈によれば、ポル・ポトによる恐怖政治の言いなりになるしかなかったカンボジア国民は、多くが圧政や虐殺の加害者でもあり、そのいちいちを糾弾していたら既に激減している人口を維持して国を再建していくことができないため、被害者は復讐心を抑えてかつての加害者と共存せざるを得ないのだということです。決して赦したわけではないけれど、今は黙っていることにした。その状態を続けた結果、学校の教科書にはポル・ポト時代の内戦の事実が記述されず、子供達は自国で何があったのかを知らぬまま、戦争があったことなど知らぬまま、平和に日々を送っているというわけなのでした。
どこかで聞いたような話です。日本の子供達も戦後70年を経ては、もう先の戦争を遠い過去の出来事としてしか認識しないのが一般的です。学校の教科書では学ぶけれども、もはや壬申の乱や桶狭間といった歴史上の一事件としてしか把握しておらず、実感はない。そうした現状を見て、戦争の生き証人である老人たちが危機感を感じたものか、今まで口をつぐんできた自らの加害体験や、性的被害といった思い出したくない事実を、自分が死ぬ前に伝えておこうとする活動が細々と行なわれています。勇気のある活動です。

算命学の観点から言えば、こうした活動は大いに意義があり、また自然な行為です。算命学学習者にはご承知のように、実際に起きてしまったことは事実として後々まで影響し、隠したところで決してなくなりはしないのです。どんなに都合が悪くて隠蔽しようが、皆が口裏を合わせて歴史を改竄しようが、法律で無罪と認定しようが、焚書しようが、事実は事実です。その後の歴史は、その事実の上にしか積み上げられない。
それを、その事実がなかったかのように振舞い、その上で歴史書を上書きし続ければ、その歴史は自ずと辻褄が合わなくなるものです。繰り返しますが、事実を積み上げたものが歴史なのです。嘘を積み上げたものは歴史ではなく、誰かに都合のいい物語、つまり虚構に過ぎません。

困ったことに、人間は事実で出来上がった歴史よりも、物語の方を好む生き物のようです。そして物語の辻褄が合わないことを認めながら、「昔の話だから細部までは伝わらないのだ」と不明点に疑問を差し挟まず許容してしまいます。謎を謎のまま放置してしまう。
しかし事実はやはり物語とは違うのです。誰かが都合の悪い部分を削除したり嘘で塗り固めたりした結果、一貫した歴史の筋道の中に意味不明な穴があちこちに穿たれ、その穴のせいで我々は過去を正しく辿ることができなくなっているのであり、事実が消えてなくなったわけでは決してないのです。

算命学の効用の一つは、こうした穴に嵌まることなくまっすぐに過去への糸をたぐり、一貫した歴史を再現することです。その手がかりは自然が示してくれています。算命学は自然思想でできていますが、自然は嘘をつきません。そして自然の法則は宇宙の運行と同調しているので、宇宙の運行にそぐわない事件はこの世に起きません。
従って、算命学を正しく認識し熟練することで、宇宙の法則に反した事件を炙り出し、人間がどこかで始めた嘘や虚構、自然に反した行いを暴くことができるのです。学習者には、そうした側面にも目を向けて鑑定技術を向上させてほしいと思います。

今回の余話は、前回の特殊な星並びの話につなげて、宿命の消化がどうして重要なのか、果ては宿命未消化が社会全体に与える影響について、巨視的な視点を鍛える内容です。もちろん狭義的にも、運勢鑑定における助言の出し方の方向性について考えを深める内容でもあります。その導入に、天災を例に挙げてみます。
今年は天災の多い年ですが、大きな地震によってしばしば液状化現象というのが起きます。あれは地面の奥に水が砂と一緒に溜まっていて、それが地震の揺れによって上下左右にシャバシャバと揺すられた結果、重い砂が下に沈み、軽い水が上に上がり、その上に来た水が地上に浸み出して周囲を水浸しにするという現象です。それを知らずに家を建ててしまうと、地震で地盤が水浸しとなり、家が傾いて住めなくなるというわけです。
このメカニズムは、上述の穴の空いた偽りの歴史に似ています。どうして家は傾いたのか。それは水の溜まっている地面と知らずにその上に家を建てたからです。どうして人間は同じ失敗を繰り返して痛い目を見るのか。それは嘘という穴ぼこだらけの歴史が正しい歴史なのだと勘違いして、その上に安心して生活していたからです。地盤は崩れるべくして崩れたに過ぎない。算命学ではこのように見えています。

実践的な話に移ります。前回#R73では、周囲を同じ星で囲まれた命式について論じました。算命学余話を以前から読み続けている読者にはお気付きかと思いますが、この星並びは、同時に「八相局」に準じる形です。「八相局」は余話#U108を皮切りに、#U110、111、112で五性を個別に考察しました。また#U119では、星並びによる同化について論じましたので、合わせて再読して頂ければ理解が深まるかと思います。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「宿命未消化と災厄の関係」です。「算命学余話 #R74」で検索の上、登録&水出しアイスコーヒー一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2018-09-18 12:37 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回続き。イーゴリ・マルケヴィチの古い音源にかくも衝撃を受けた宇宙人といえども、密度の濃い話なり音楽なりに常に過敏に反応するわけではない。日常的に聴いていれば感動も薄れる。しかし今回は40日間を山中に暮らし、山らしい無音であったのなら良かったのだが、そうではなくて、くだらない人間のくだらない会話(他者への中傷を含む)をそこにいるというだけで聞かねばならず、くだらない人間が好む騒音のようなざらついた音楽をそこにいるというだけで聞かねばならなかったので、わが耳はすっかり疲弊して、きれいな音や美しい言葉、魂の込められた高尚な音楽を強く欲する状態にあったというわけなのだった。
宇宙人は都会で疲弊した肺と魂のクレンジングのために登山をする習慣があるが、俗世から離れた山は耳にも威力を発揮していたのであった。そういえば宇宙人はもうすっかり一人登山が定着しているが、静かな山を堪能するためには同行者はいない方がいいからなのだ。喋っていたら山のざわめきや鳥獣の鳴き声も聞き逃してしまう。どうですか皆さん、あなたの耳が喜ぶような言葉や音を、それなりの間隔で聴かせてやっていますか。それとももうとっくに麻痺して、味噌もクソも同じようにしか聞こえませんか。
耳が喜ぶロシア文化関連イベント9月のお知らせです。

(1)ロシア国立交響楽団(スヴェトラーノフ・オーケストラ)
◆日時:平成30年9月17日(月・祝)14時開演
◆場所:東京オペラシティコンサートホール
◆演目:ストラヴィンスキー/交響詩「火の鳥」、ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番、チャイコフスキー/交響曲第5番
◆入場料:B席7,000円~(全席指定)
◆見どころ:指揮はストラヴィンスキーの血縁者であるマリウス・ストラヴィンスキー。ピアノは神童としてキーシンと並び称されたリリヤ・ジルベルシュタイン。

(2)セルゲイ・レーディキン ピアノリサイタル
◆日時:平成30年9月15日(土)14時、17日(月・祝)14時
◆場所:15日=浜離宮朝日ホール、17日=川口総合文化センター・リリア
◆演目:バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ストラヴィンスキー
◆入場料:3,800円(全席指定)
◆見どころ:チャイコフスキー・コンクール3位の実力で売出し中の若手演奏家。古典から前衛まで幅広くこなす正統派ピアニストです。

(3)ユーラシアフェスタ2018
◆日時:平成30年9月16日(日)~17日(月・祝)11~19時
◆場所:東京ロシア語学院 (小田急線経堂駅より徒歩5分)
◆内容:旧ソ連諸国の食品や民芸品の販売、カフェ、映画(11時)、コンサート(15時。要予約)、ワークショップ等。入場無料。

by hikada789 | 2018-09-14 14:17 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
夏休みの避暑地からの帰宅早々、算命学余話で宇宙人節を炸裂させてしまった。暑くてそんな余裕はまだないはずなのに。皆さんよろしく頼むよなのだ。暑さに弱い刺身な宇宙人に鞭を打たないでくれなのだ。まあ今日は涼しいので落ち着いた文章を綴ろう。
暑さのあまり喉に腫瘍をこしらえて切開した過去をもつ宇宙人は、その痛み忘れがたく、再発防止のため避暑地へ避難する習慣となっているが、長期間ブラブラしているのは性に合わないし、零細なんだしで、下界より10℃は低い山へ行って労働しつつ滞在するという過ごし方が定着しつつある。この時期になると無性に肉体労働がしたくなるのだよ。普段がPC作業ばかりだから。宇宙人なりの陰陽バランスの取り方なのだ。なので山の労働は楽しんでやっている。この夏の下界の40℃の地獄を味わわずに済んだし、有難いことだ。今回の仕事は浴場を備えた快適な山小屋での一般業務、つまり掃除や配膳で、宇宙人は経験者なのでどうということはない。しかし初めての作業として歩荷(ぼっか)というのを体験したので、それを解説しよう。

こんな日本語は知らなかったのでボッカと聞いて「牧歌」を想像した呑気な宇宙人、ああ荷担ぎのことね。まあ給料分は働きますよ、と何のてらいもなく従事していたのだが、夏が終わってびっくり、宇宙人ムキムキになっているではないか。冬の間に消えた腹筋がまた割れているではないか。期間終了間際に登った剣岳も奥大日岳も、同僚が驚くタイムで登頂したではないか。あれは歩荷で日々鍛えられたからではないのか。
そんな効果をもたらす歩荷でどういうことをやったのかというと、馬力がなくて従業員中一番軽い荷しか担げなかった宇宙人の場合、マックス20kgの水やら食料やらの段ボールを背負子に真っ直ぐに積み上げ、ロープで正しく縛って固定し、自力では立てないのでベンチがあればそれに背負子ごと載せ、リュックのように両腕を通したら立ち上がる。立てれば歩ける。立てなければ無理なので荷を減らす。要領のいい宇宙人は自分の限界が判るので、大体これくらいという荷をみつくろうと凡そ20kgであった。ペットボトルのジュースとボディソープの詰め替えの箱に重量が書いてあったので判ったのだよ。これ以上は無理。切り立った山道を歩くので転落しないのが先決だ。

だがベテランたちは平気で40kgとか60kgとかそれ以上の、もう意味不明にうず高く積み上げられた箱タワーを平気で背負って歩くのだ。ネパールとか登っている人たちだからね。宇宙人には真似できぬのだ。ある時は43型テレビや業務用冷蔵庫を背負っていた。冷蔵庫はともかく、テレビは本当に必要ですかと茫然と見送る宇宙人。なぜ大型家電が続いたかといえば、当地は火山帯で硫黄ガス噴出地域であるため、ガスによる金属の腐食が早く、家電は2年ともたないのだ。スマホやiPadも放置しておくとやられる。女性は来た早々銀のアクセサリーが真っ黒に変色して嘆いていた。金やプラチナは大丈夫なのだが、銀、銅、鉄が顕著に錆びる。しかしお蔭で毎日硫黄温泉に浸かれるのであった。毎日山と温泉。極楽というべきであろう。
毎日こんな作業をやっていたら鍛えられて当然である。宇宙人もよろめいていた初日よりは遥かに思い荷を担げるようになったはずだが、最終日に任された荷は生ビールの樽で、それまでは空になった樽を運ぶだけだったが、とうとう中身の詰まった樽を背負うことに。もうすっかりロープの扱いに慣れた宇宙人。雨の降る中さっさとくくり、重さを確かめるため持ち上げてみる宇宙人。あ、だめかもこれ。ベンチまで運べそうにないので同僚に介添えを頼んで立たせてもらう宇宙人。よろめく宇宙人。あ、これは20kg越えたかな、と歩き出す宇宙人。後で調べると樽の中身は19リットルだった。樽は2kgくらいだと思うので、記録は更新されたようである。宇宙人、よい経験ができたな。

ともあれ毎度のことながら山は素晴らしい。涼しいし、空気はきれいだし、視界も爽やかだし星空は見えるし。近年登山客は増えたが山小屋はどこも人手不足なので、夏休みの短期バイトに興味のある方は是非お試しを。半年とかの長期も受け付けている。
とはいえ山小屋には不満もある。宇宙人の場合は常に人間に不満だ。田舎といえばそれまでだが、中身のお粗末な人間が多いことは明記しておく。こういう所に行くと都会の人間の中身の豊かさを痛感するのだが、日常会話の話題のバリエーションがない。宇宙人の嫌いな食い物の話ばかり。芸能界や身近なゴシップばかり。米原万里の言うところの「それで平気なの?」なのだ。脳みその抽斗に何も入っていないから話がマンネリなのだ。実に退屈だ。都会の人間は何しろ周りに人が多いので、仕事のできない奴やくだらない奴と見做されると、もっとマシな人材と簡単に取り替えられてしまうので、淘汰されたくなければそれなりに自分を磨かなくてはならない、そういう緊張感がある。山にはそれがないので、自分がいかにくだらぬ人間かという事実に気付かぬまま生き永らえている、そんな人間がいつも目につく。宇宙人には腹立たしいが、皆さんはそう気にならないかもしれない。

この点の不満がいかに宇宙人を疲弊させたのかが判るエピソードで終わりにしよう。業務完遂して山を下りた日、せっかくなので観光をしようと下界のホテルに一泊した。いや内装が和モダンで洒落たいい宿だった。知りたい人がいればお教えしよう。そこで久しぶりにテレビをつけたら、偶然クラシック音楽番組をやっていた。しかもお宝映像特集で、故イーゴリ・マルケヴィチが指揮するチャイコフスキーの「悲愴」の伝説の演奏をノーカットで流してくれたのだ。風呂上りの缶ビールを呑みながら固まる宇宙人。魂を込めた至高の音楽に釘付けになる宇宙人。かわいそうに、それほど精神世界が飢えていたのだね。たんとお聴き。こうしたわけで、宇宙人は夏休み以上の期間を山で過ごすことはできないのであった。ああ東京がもう少し涼しい夏であったなら、出掛ける必要はないのにな。誰かエアコンに頼らず東京の街全体を涼しくする発明でもしてくれなのだ。

by hikada789 | 2018-09-12 14:46 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
ロシア文学が誇るドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』に今も議論の的となっている「大審問官」問題というのがあることを、以前の記事にも書きました。ごく端折って言うと、人間は自由とか尊厳とかよりも腹いっぱい食べられて快適な生活が保障される方を望むのだから、いっそ自由や自己決定権といった煩わしい権利は放棄し、万事うまくやってくれる王様なり将軍様なりに献上して差し支えない、実際そういう国や社会はいつの時代も存在しているではないか、という「人類ガッカリさん」説です。どうですか、皆さんはガッカリすると感じましたか、それとも「それの何が悪いの」と何かを食べ続けながらスルーしましたか。

私は算命学の立場から、一日の起きている時間の大半を食べているか食べ物のことを考えるかして生きている人の人生を、寿(算命学で寿は「食」とも言います)の異常偏重と見做し、対極にある印(知性)を著しく欠いた低級人間だとバッサリ斬り捨てておりますが、残念ながら寿に心地よく束縛される人々は物質的に豊かな社会ほど多く存在し、世の関心事は食べ物に尽きるとばかり食い物の話題が横溢する現代社会は、「大審問官」の人類ガッカリ説を裏付ける見本市といったところです。
私などは、日常会話に食べ物の話しか出て来ない人をもうはっきりと軽蔑していますし、そういう基準で人をランク付けすることを躊躇しません。そうしないとストレスになるからです。彼らの話に相槌を打つことすらもう我慢できないくらい、ウンザリしているしガッカリしている。

もちろん食事は大事です。食べずに人は生きられない。でもそれは他の五徳も同じです。人間は福寿禄官印という五種類の本質のうち、どれを欠いても人間ではいられないのです。寿と印は「水火の激突」により特に激しく対立する五徳ではありますが、どちらにも偏らずにバランスのとれた者が人間と呼ばれるのです。
残りの福・禄・官も同じで、どれかに偏った人間は人として奇形であるか、そもそも一人前の人間扱いすべきでない。算命学による運勢鑑定では、これくらいの気概でアドバイスする姿勢を鑑定者に求めたいものです。でないとこの世にガッカリさんが充満して、陰陽五行のバランスが取れない人類を自然がさっさと淘汰してしまうでしょう。

このように食べ物で頭がいっぱいな人たちの非難は判りやすいのでちょいちょいやっておりますが、昨今は自由や自己決定権を放棄したがる人たちも目につくようになりました。私に運勢鑑定を依頼してくる人の中にも、以前はいなかったタイプが最近多い。その人たちの特徴は、おかしな依頼文を寄越すことです。
どうおかしいかというと、自分の命式を鑑定するよう依頼しているはずなのに、「よかったら鑑定お願いします」と鑑定する決定権をこちらに放り投げてしまう文言が並んでいるからです。もちろん鑑定には料金がかかるので、支払うのは依頼人の方です。私は鑑定という技術を駆使した作業をする代わりに報酬をもらう側です。

私はこの作業を天職だと思っているのでイヤイヤ鑑定しているわけではありませんが、正直言って、見ず知らずの赤の他人の命式に対する興味はほとんどありません。人生にお困りの人が、料金を払ってでもアドバイスが欲しいというので、それはお気の毒だと思って料金分の鑑定をしているに過ぎないのです。でもそもそもが知らない人なので、その人の人生に積極的に係わろうという意欲はもとよりなく、よほど特異な経歴の人でもない限り命式に興味は湧きません。
そういう人たちが「よかったら鑑定してくれ」と言ってきても、興味はないから鑑定したくない、する必要がない、というのがこちらの本音です。嘘を並べても役に立たないので本音を述べますが、自身の命式に興味があるのは依頼人本人のはずです。鑑定者ではありません。だから依頼をしたいのなら「これこれこういう事情なので是非鑑定してくれ」と頼むべきなのです。そのための料金だって自分が払うのだから、料金に見合った作業をしてくれと、対等な立場で取引を打診するべきなのです。

それを「よかったら」とはどういう了見なのか。自分がお金を払うのに? 払った後で「やっぱりやりたくないので鑑定しません」と言われても構わないということですか。日本語がヘタとかいう問題ではないです。上述した「自己決定権」もしくは人としての尊厳を放棄している以外の何ものでもありません。五徳で言えば、福と官と印の欠如です。五つのうち三つもなくしてしまっては、人として淘汰寸前の末期症状と言わざるを得ません。
こういう文章を寄越す人はもうすみからすみまで判断力が利かなくなって、「俎板の上に寝そべるから煮るなり焼くなりご自由に」という気分になっているわけでしょうか。そんな人に与える有効なアドバイスなど見つかるのでしょうか。あ、もしかして、この人自殺したい人なのかしら。死ねって言われたら、言う通りに死ぬ人なのかしら。やあねえ、死にたいなら勝手に死になさいよ。他人に決めさせて、自殺も他人のせいにしようって魂胆ですか。いやらしい。どこまで責任放棄すれば気が済むのだ。今すぐ人間やめちまえ。

私はこんな風に考える鑑定者ですから、依頼人の皆様にはくれぐれも軽蔑されないよう配慮した依頼文を書くことをお勧めします。難しいことではないはずです。年齢に見合った分別ある大人でありさえすればいいのです。アンチエイジングとかに血眼になっている幼稚な人には難しいかもしれませんが。
余談まで、最近『発達障害と言いたがる人たち』という本が出て、中身を読んではいませんがタイトルを見てにやけました。内容も何となく判ります。まさにこういう依頼人も増えていて、面倒臭い人たちだなと辟易していたところです。発達障害と診断されることが人生の免罪符になるとでも考えているのでしょうか。精神障害と診断された殺人犯が無罪になるのと同じように。
彼らには是非この本を手に取って読んでもらって、宿命や成育環境や病気(そもそも発達障害とは病気なのでしょうか。医者が金儲けのために勝手につけたネーミングに過ぎないのでは)に原因を見出すよりまず自分自身の生き方、具体的には、悪いことは全部他者が引き起こしたことで、自分に責任はないという間違った姿勢から改善することをお勧めしたい。PTSDだって自己克服できる人とできない人がいますが、その明暗を分けるのは結局のところ、その人の生き方・考え方なのです。
他者に責任を押し付けようとする人に開運の見込みはありません。この点を算命学は譲りません。自分の人生は自分で責任を持って下さい。他者に預けたり、自分は悪くないと責任逃れするのはやめましょう。大人げなく、みっともない行為です。(大人げない行為は印=知性の欠如、みっともない行為は官=名誉の欠如です。参考まで。)

さて長口上になりましたが、今回の余話のテーマは上述の話に関連して、思い込みや責任転嫁について考えてみます。人間には自己決定権があり、それを行使せず放棄する人は責任逃れを望んでいる人なのですが、例えば独立独歩を旨とする貫索星から見れば、こうした無責任で他人任せな人間はヘドが出るほど耐えがたいし、そもそも理解できないでしょう。貫索星だって本質からいえば思い込みの激しい人ですが、そこには自分の意志を貫こうとする姿勢が必ずありますから、他人任せでよいという考えにはなりません。
では石門星はどうでしょう。石門星は柳のように柔軟で、強い意志を前面に出して突き進むタイプではないところが貫索星との差異ですが、その実、右に左にしなりながら自分の目的を最終的に完遂させようとする本能はあります。但し、最終的な目的をただ「生き残る」ことに定めた場合には、自己決定権を強者に委譲して放棄し、集団に紛れることで責任逃れをしようという考えに至ることもあります。
しかし今回はそうした石門星なり特定の星についてではなく、星並びから見た思考傾向について考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「自己決定できるか」です。「算命学余話 #R73」で検索の上、登録&生ビール一杯分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2018-09-09 13:30 | 算命学の仕組 | Comments(0)
上手い具合に夏休みをとって山奥へ避難したお蔭で、この夏の地獄のような酷暑を下界で味わわずに済んだ宇宙人、現在は帰宅して営業を再開しております。しかしまだまだ暑い9月なのだ。目蓋が日差しで溶けそうなのだ。革カバン製作は彼岸明けまで待つとしよう。
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今年の避難先は立山で、標高3,000mの立山連峰を間近に望む山小屋で避暑と労働の夏を過ごしてきた。最大の目的は剣岳頭頂で、九年前にチャレンジした時は雨天で断念したためリベンジに燃える宇宙人。台風の合間を縫って登山日を選び、天候に恵まれた安全登山を満喫できた。画像は剣岳の雄姿。男前のかっこいい山なのだ。足元に見える赤い屋根が剣山荘という頂上最寄りの山小屋で、ここに一泊して翌早朝から頂上を目指す。見ての通りの岩肌をいくつかの鎖場を経ながら登っていく。樹木がいくらもないので前を行く登山者の姿は登山道からよく見えるのだが、これが雨や強風だと危険な前途を目の当たりにすることとなり、九年前はこれで断念したのだった。悪天は危険だよ、見るからに。しかし今回は前日からよく晴れて、背後から朝日を浴びての登山だったので、両手は真っ黒に日焼けした。手袋は暑くて外したのだった。これから登山される方、鎖やハシゴに備えて手袋は必携です。
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晴れた頂上は360度のパノラマで、日本海に伸びる能登半島から南は富士山まで見わたせる。下山は気が抜けるので要注意で、実際事故も下りの方が多いそうである。何しろずっとごつごつした岩と石の道なので、うっかり転びでもすればどこを打っても打撲以上なのだ。滑落しなくても大いに痛い目を見るので、尻もちもつけない。このため登りも下りも等しく二時間半かかった。登山客はベテランの60歳前後のグループから、父親に引率された小学生までと幅広い年齢層が見受けられた。雨天はお勧めできないが、好天なら十分安全に登れるアスレチックな山です。左の画像は東向かいの別山頂上から撮影したもの。このようにふたコブのピークがあり、右側(北側)が頂上なのだが、霧に紛れるとどちらが頂上か判別しがたくなり、二重に見えたりもする魔の山である。

ところで、この一週間後には剣岳西方の奥大日岳と大日岳を縦走したのだが、この時は下山で大雨に見舞われ、滝のように水の流れ落ちる登山道を三時間に亘って下り続ける羽目となり、その結果15年ものの登山靴をダメにしてしまった。大切に使って長もちさせてきたので残念だが、買い替えの時期でもあった。次の15年をもちこたえる高品質の靴をまた探すとしよう。

by hikada789 | 2018-09-06 14:38 | その他 | Comments(0)