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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2019年 01月 ( 11 )   > この月の画像一覧

当ブログでも何度か紹介しているウラジーミル・メグレ著『アナスタシア』シリーズが提唱するロシア版スーパー・ナチュラルライフの一環として、メグレ氏自身が事業を立ち上げたシベリア杉オイルが果たしてどんなものかと、昨年秋に取り寄せてみた。どのような製造過程を経て生産されたものであるかは本に書いてあるので読んで頂くとして、食用の際は食前30分にスプーンひと匙、日没前のみとし、金属に弱いので木製スプーンを使うべしと但書がある。効果はいろいろあるが、総じて免疫力アップ、疲労回復、老化防止といったところ。薬ではないので即効性はないが、3か月ほど続けると効果が自覚できるようになるという。
宇宙人は特に患いがあるわけではないが、老化が原因と見られる坐骨神経痛や老眼の進行に難儀しているので、どこかに効けばいいなくらいの気持ちで始めてみた。もとより1日1.5食のファスティングをしているので、日中服用できるのは1回かせいぜい2回。100mlのボトルでもなかなか減らず、使い切るのに2か月かかった。果たして効果のほどは。

巷ではインフルエンザが流行っているそうだが、自宅就労の宇宙人は外出機会が少ないせいか未だ罹っていない。この季節はうっかり満員電車に乗ってしまうと誰かの病原をもらって風邪その他を一度は発症するのが常だったが、この冬はまだない。またこの季節は肌が乾燥しやすく、朝の洗顔は真水のみにして自然油脂を残すようにしてはいるが、それにしても顔に何も塗らずにいるのに粉が吹かないのは例年にないことである。
しかし何より気付かされたのは、髪の毛だ。それまで洗髪や櫛を入れる際に正常と言われる範囲の本数(代謝のため)が毎日抜けていることに疑問はなかったのだが、ひと月程経った頃からいくらも抜けなくなった。以前の1/3か1/4くらいだ。宇宙人は髪の嵩が多いので抜け毛に悩む必要はないのだが、当ブログの閲覧者の中には真剣にお悩みの方もいるかもしれない。とりあえず試してみてはどうでしょう。

ネットで「アナスタシア・ジャパン」を検索し、メイン製品であるシベリアン・シダーナッツオイルかその姉妹品を注文すれば、クール便で届けてくれる。シベリア産なので要冷蔵なのだ。賞味は開封前で1年、開封後は約1カ月だが、私は2か月かけて飲んでも問題なかった。味はなく、強いて言えば木の香り。金属のスプーンがダメというのが新鮮だ。陶器とかでもいいのだろうが、やはり木製が推奨されている。自然を意識して頂けということなのだろう。
宇宙人はその後追加注文をして現在も使用中。ロシア人には恩があるので、鼻持ちならない西洋かぶれのロシア人ではない、地に足の着いた実直なロシア人の事業を微力ながら応援するのだ。

by hikada789 | 2019-01-31 15:51 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
平成最後の年が間もなく明けます。新年のスタートは2月4日の立春です。干支暦に基く新年は立春が起点になりますが、毎年2月4日とは限りません。たまに前後1日ほどずれる年もあります。なぜなら、立春とは昼の長さが一番短い日である冬至と、昼夜の長さが等しい春分とのちょうど中間のことであり、地球の運行に起因する一年の長さの伸縮が立春の位置を前後させるからです。
一年が常に365日でないことは閏年が証明していますし、我々が日々使っている時計でさえ、数秒ずれたから全世界で一斉に調整しますというニュースが流れることでその不正確を曝しています。こうした数秒の時計調整や閏日の存在によって、我々の住む世界は人間の都合のいいように割り切れないこと、そしてそのずれを合わせるのは常に人間の側であって、宇宙の側から人間に合わせることはないのだということは、揺るがぬ法則として、算命学を学ぶ者なら熟知しておく必要があります。
よく「自分中心に宇宙が回っている」と人を評することがありますが、そこに皮肉や侮蔑が込められるのは、その人物が宇宙の法則に反して生きていることに対する否定的感慨の表れなのです。

では新年を前に、一年を占う2019年大予想に移りましょう。この大予想は毎年やっているので、時間のある方は前年の大予想を読み返して、実際にどの程度的中したのか見比べてみて下さい。こう言うのは、自信があるからではありません。予測が当たったか外れたかは私にとっては重要ではなく、考察から生まれた予測がどの程度現実と重なり得るのか、その事後分析の方が今後の実践の役に立つからです。

今年は己亥年です。土と水の組合せで、土剋水の関係です。天干が地支を剋しているので、天災が予想されます。具体的には土砂災害、洪水、地盤沈下などが挙げられます。つまり近年の異常気象によって頻発している自然災害は、今年も続くという予測です。
日常生活に視点を下げてみましょう。政府や報道がいかに経済の好調を伝えようとも、この年の経済は総じて冷える見込みです。少しでも懐を温かくしたいのなら、自ら動くのが有効です。世界全体が冷えているからといって、個人生活までじっとしている必要はありません。大いに活動し、動き回って、体温を上げましょう。
また、部分的には経済が好調な分野もあることが予測されますが、その好調は、人間の知性の減退を促して成長するものです。最近、業績を急激に伸ばしている企業やその経営者が、人としての品性に欠けると酷評されるようなパフォーマンスが取り沙汰されていますが、そういう種類の好況はあり得るでしょう。
年干支の暗さに抵抗して、派手な格好をしてみるのも悪くはありません。普段やらないような奇抜な発言やパフォーマンスも、周囲の反感を買わない種類のものであれば歓迎されるでしょう。またそのようなトレンドが持て囃されることが予測されます。

折しも日本は天皇の退位・新天皇の即位の年に当たり、慰労と祝賀のイベントが続きます。年号も変わることで、あらゆる方面での変化や活性化も予見されます。それは必ずしも経済の冷え込みを覆すものではないかもしれませんが、暗くなりがちな一年を彩る華やかな光輝となるでしょう。
また亥は十二支の終末を司り、次の十二支の一旬を迎えるための準備の期間でもあります。この一年の間に、今までうやむやにしてきたことや未完成の仕事を仕上げると、翌年の十二支の開始がスムーズになります。ここで怠けて周囲を散らかしたままにしておくと、次の12年間もその澱んだ気を引きずるので、この機会に後片付けを進めておくと良いでしょう。

また何か新しいことを始めたいのであれば、この機会にじっくり材料を集めて熟考すると、翌年からの十二支の新気に乗って事が順調に発展していくことが期待できます。その場の気分で始めるのではなく、予め計画を練ってから実行に移すという実直な態度が幸運を呼びます。
逆に、この雌伏の時期に何もしないでぼんやり過ごすと、せっかくの新しい十二支の一旬を澄んだ気分で迎えられません。そういう意味でも大いなる可能性を秘めている年なので、自ら可能性を潰すような生活態度は控えるのが賢明です。

ではこの先は、己亥という干支の組合せについて、やや専門的な分析をしてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「己亥を考える」です。「算命学余話 #R87」で検索の上、登録&干し柿1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

◆補足◆
本編の内容を一部修正しました。亥の蔵干を書き間違えたので、その部分を訂正したものを更新版として再掲載してあります。既にご購入の方は、更新版にお差し替え下さい。大変失礼しました。

by hikada789 | 2019-01-28 15:18 | 算命学の仕組 | Comments(1)
平野啓一郎著『マチネの終わりに』を読んだ。映画にもなったと記憶しているが、この小説の内容では映像化しても陳腐な恋愛悲劇にしかならないような気がする。映画と小説の両方を知っているという方、如何でしたか。
小説の方は前半があまりに素晴らしかったせいもあって、後半が苦痛でならなかった。主人公の恋路を邪魔した卑劣な女が気持ち悪くて、しかしこの女が報いを受けることをテーマにしては三文小説になってしまうから、そうしなかった作家は立派だが、やっぱり納得のいかない話だった。自分が算命学者だからかもしれない。だってこの卑劣な女はどうあっても幸せにはならないよ。子供に影響が出ないわけないから。勿論作品は子供の成長後まで描いていないからこういう終わり方でもアリだけど、算命学者はこうした子孫に対する影響については結構シビアな因果を織り込んで、起こるべき未来を分析的に眺めてしまうものなのだ。一種の職業病である。
卑劣な女の気持ち悪さについては本編を読んで頂くとして、前半のどこが素晴らしかったのか、宇宙人のウキウキアンテナが那辺にあるのか、以下の引用から皆さんに知って頂こうと思う。というのは、最近腹立たしい出来事があり、その腹立たしい事件の原因となった人物(突き詰めれば先の「卑劣な女」と似ている)と、以下の引用にかかる人物像とが、きっかり真逆だったからだ。「以下の引用と自分は真逆だ」と思ったなら、宇宙人に話しかけてはいけない。地雷を踏むことになるからな。

――そんなふうに、誰かと一緒にいること自体を、人に自慢したいと思ったことなど、これまで一度もなかった。

――他の誰と喋っていても、あんなふうに笑みが絶えないということはなく、彼との会話のどこを探してみても、自分が心から話したいこと、聴きたいこと以外には、何一つ見つからなかった。

これは主人公の男女が互いから受けた感銘の大きさを描いた箇所なのだが、別に相手の見た目とか名声とか財力とかでこういう感銘を受けたのではないし、いきなり恋に狂ったから我を失ってそう思い込んだというのでもない。ただ相手から受ける知的刺激によってこのように感じたのである。要するちょっと話しただけで相手の力量――知性や経験、思考の深さ、感性の豊かさ、清涼さなどが自分の内面と共鳴し、その共鳴や刺激があまりに心地いいので、どんな話題で話していても無駄と思われる瞬間は一瞬たりともなく、従ってただ一緒にいて受け答えをしているだけで、話が澱むことなくどんどん先へ進み、思考は深まり、新たな発見に歓びが湧き起こり、二人でどこまでも上昇していくような幸福感に浸れる。そういう状態を描いている。
私はこういう気分にさせてくれた人物と過去に出会っているので、コレだよコレ! と膝を打って共感したのだが、皆さんはどうですか。こういう人に出会っていますか。ただ一緒にいただけなのに無駄な瞬間は一秒もなかったと断言できる人に。それはきっと運命の人というやつなのだ。

そして、その真逆の人とは、ほんの数分しか一緒にいなかったのに、一年くらい拘置所に入れられていたかのような苦痛を覚える相手のことだ。そんな相手と望まぬ会話をし、聞きたくもない話を聞き、言いたくもない受け答えをした。その時間は人生の中の無駄な時間――人生を浪費した時間なのである。同じく『マチネ』から、主人公の男女が結局破局し、女性は別の男性と結婚してその伝手で米国財界人のパーティに出席し、金持ち達の自慢話にウンザリするシーンを引用しよう。

――要約すればそれだけの話で、三分で聞かされれば興味深い話も、三十分以上も口を挟む間もなく続けられると、さすがに耐えられなかった。

つまり、後半の何が苦痛かって、主人公の男女が相思相愛のまま結婚していればその後の人生は隅から隅まで無駄のない充実と内的上昇が約束されていたのに、破局したばかりに二人とも人生の浪費、鬱屈と停滞の時間をあまた過ごすことになった、という点なのだ。もうずっと拘置所に入っている気分なのだ。しかも破局の原因は二人にはなく、外的要因のためだったので、彼らの上昇を阻んで足を引っ張る輩に腹を立てながら読み進めなければならなかった。
勿論、この小説の主眼はそこではなく、そんな状態の二人がどうやって鬱屈と停滞から脱出するかを細やかに追った経緯こそが本論なのだが、私は人の足を引っ張るのも自分が足を引っ張られるのも嫌いなので、読んでいていい気分にはならなかった。いや、しかし名作です。さすがの平野作品です。世に溢れる恋愛小説とは比べものにならない類の恋愛小説です。最後に偽物ではない、本物の恋愛とは如何なるものかを論じた部分を紹介して終わりにしよう。

――なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。(略)人はただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを(いつしか)忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体何だろうか?

宇宙人は常々、一方的な愛情を押し付ける人間を手前勝手で未成熟な奴と見做してまっすぐ軽蔑し、そのような態度で応じているが、そうした手前勝手な感情は単なる私欲であって恋ではない。そのことをこの引用のように言語化してもらえて嬉しい。共感者がいてくれて嬉しい。孤独ではないという勇気をもらったので、これからもせっせと地雷埋設に努めるとしよう。

by hikada789 | 2019-01-26 22:50 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
宇宙人のひとり思考。
あるナポリのクラシック音楽家がインタビューで母国を自慢し、「イタリア人は古い建築物や遺跡があちこちに見られる街に住むことでごく自然に歴史に触れ、そうした歴史に囲まれた環境は精神文化を育む上で恵まれている」と芸術家としての意見を述べていた。しかし宇宙人に言わせると、その歴史とやらを象徴する建築物は石造りで固く、見た目は美しくとも人が住む空間としては適していない。人間は表面ひとつをとってもそんなに固くはないし、冷たくもないからだ。ましてや精神など。
宇宙人が西洋の石造りの歴史的建築物を見る時、その直線や鋭角のせいで和むことがない。醜いとは思わないが、暮らすにはイタイと思うし、尖った心が益々尖る気がする。つまり触りたいとは思わない。唯一美しいと思うのは、廃墟になった時だ。誰も住まなくなって放置され、草木に浸食されて直線も鋭角も崩れて丸みを帯びた時、石造りの残滓は映える。そしてその廃墟としての寿命は長い。それを彼らは歴史と呼んでいるというわけだろうか。

対極の木造建築ならどうかと思い浮かべると、廃墟となった木造家屋など目も当てられない。風雪に晒されてみすぼらしく朽ち果て、いかにも貧乏くさい。放っておいても昆虫が解体してくれるだろうが、見苦しいので早々に撤去した方がいい。歴史にしなくていい。
木造建築はやはり人が住んでこそ活きる。木造建築の建材は伐採した木材とはいえ、湿気の吸収・放出や芳香、防虫作用など樹木としての機能が生き続け、まだ完全に死んではいない。勿論石造りに比べれば弾力もある。柔らかいから部分的な修理もしやすい。日常の掃除で日々手入れをするだけでも、木造建築の寿命は結構延びる。柱や床や家具を布で磨くという方法も寿命を延ばすのに効果的だが、何より効果があるのは人間の存在である。人間は呼吸しているが、元々生命のあった木材も呼吸している。居住民と家屋は、呼吸を通じて気の交換をしている。両者は似ているのでそれが可能なのだ。

こんなわけで、人間は木造家屋に住んだ方が自然に適っているし、人が住まなくなった木造家屋は取り壊した方がいい。死んだら自然に還して、次の再生を待つ。循環思想が育つのは木造建築文化においてであって、石造建築文化ではない。石造建築は人が住まない目的の、宗教施設やら劇場やら、廃墟となってもとっておいていいような、眺めるための建築物としてはありだと思う。でもここで人間が暮らしたら、思考は直線で鋭角的になり、冷たくなって自然から離れて行く。これが西洋の直線思考文化を生んだのではないか。

先日「ロマンティック・ロシア」絵画展を紹介する美術番組を見ていてそう思った。19世紀末前後のロシア絵画は「移動派」など一般庶民や農村の風景を題材とした絵画がよく描かれたのだが、その中で家屋は木造であり、欧化に明け暮れた貴族ではないロシアの大多数の人口の暮らしは木造文化であったと指摘されていた。だからロシアのこの頃の絵画は日本人に親しみを感じさせるのだと。
私は絵画だけでなく、貴族趣味ではないロシア文化全体が、自然に囲まれて暮らす日本人の感性と親和性があると考えている。どちらもくんなりと柔らかく、匂いに敏感で、ほんのり温かく、押せば弾力がある。これらは樹木の特徴であって、石の特徴とはかけ離れている。
ちなみに、算命学では五行の木火土金水のうち、一番人間に近いのは木性だとしている。

by hikada789 | 2019-01-23 20:13 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
猫も杓子も「カワイイ」で片づける昨今の若者の語彙力・思考力の低下を日々苦々しく感じている宇宙人は、もう何年もカワイイと言ったこともなければ感じたこともないのだが、今回ばかりは「可愛い、スゲー可愛い」を連発している。正月から放映開始したアニメ『どろろ』のことだ。手塚治虫原作の伝説の漫画がモノクロアニメとなってから、実に半世紀ぶりのリメイク。製作は虫プロ及びMAPPA。
MAPPAといえば『この世界の片隅に』や『いぬやしき』の製作会社だ。とりあえず映像としてのクオリティの高さを期待して見てみたが、期待以上の出来栄えに加えて、主人公のどろろと百鬼丸がセット売りで可愛い。原作やモノクロ版では百鬼丸は成人男子っぽいが、今回は16歳まで落として女の子顔にした上、当面ヘレン・ケラー状態で表情もセリフもないのを、辺りをウロチョロして世話を焼こうとするどろろがほど良くカバーして釣合いが取れている。
その最たるものがエンディング映像だ。ほぼ静止画に近いシンプルな構成なのにスタイリッシュで、やっぱり可愛い。二人の関係性が可愛いのだ。更に別のイラストレーターが描いている挿入画(可愛いなあ)も効果的に挟まっているし、エンディング・テーマも歌詞から編曲までが画像にマッチしている。日本古来の五音階の懐かしい旋律で、歌詞は日本語のみだからよく聞き取れる。「〽さよならごっこは慣れたもんさ、でも手を振ったら泣いちゃった」だって。どこまで可愛いんだ、どろろ。まあ一度見てみて下さい。癒されるから。

このアニメ、全体的にCG使ってない感じで、見せ場に緩急があり、色も抑えてあるので見ていて目が疲れない。時代劇を意識してBGMには邦楽を多用しており、琵琶の音なども楽しめる。そういえばオープニング・テーマも五音階だ。相当和にこだわった作りである。
しかし何と言ってもこの作品の妙味は百鬼丸で、欠損した両腕に仕込んだ刀を振るって闘う盲目の姿は座頭市のようでもあり、鉄腕アトムのジェット噴射の腕にも重なる。手塚治虫、やはり只者ではない。鬼神を倒して欠損した目玉や声帯を取り戻さないうちは無表情のまま行くしかない百鬼丸に、魚介類の如き乏しい表情を誇るタコ・クラゲ型宇宙人は親近感を覚えるのであった。しかし原作では、目玉を取り戻した百鬼丸からそれまで入っていた義眼がボロリと落ちるのだが、今回もあの可愛い顔から目玉を落とすつもりなのかね。同じく原作では48体の鬼神と闘っていたが、今回12体になっていたのは、アニメを1クールの12回で終了させるためだろうか。原作は未完だったらしいし、どういう終わり方になるのか期待しよう。

by hikada789 | 2019-01-20 21:59 | その他 | Comments(0)
友人の医師からこんな医療現場の話を聞きました。不眠症に苦しむある患者さんが、睡眠薬の処方を求めて診察にやって来た。しかし今日では睡眠薬は認知症の原因の一つになっていることが判っており、医者としては勧められない。そう伝えると患者さんは、「アタマおかしくなってもいいから私は眠りたいんです!」と訴えて、容易に引き下がらなかったというのです。
実に切実な心の叫びです。この人にとっては将来の認知症より、眼前の不眠症の方が忌まわしい事態だったのです。目先の利益を優先している、と笑うわけにはいきません。我々人間はいまを生きているのであり、いまをクリアできなければ将来も何もないのです。

とはいえこの話を聞いた時、私は不謹慎にも快く笑いました。この患者さんの正直さが、世間一般が支持している通説を押しのけたからです。つまり認知症は万人が忌避したいはずのエース級の病だという固定概念を、認知症になる前に不眠症で死ぬかもしれないという恐怖、或いは単に眠ってすっきりしたいだけといった矮小な生理欲求が凌駕したという事態に、眼前の課題に真摯に取り組む人間本来の活動姿勢を見出したのです。
どうして将来罹るかどうかも判らない認知症のために、いまの苦痛を耐え忍ばなければならないのでしょう。どうして生きているかどうかも判らない老後のために、現代人は保険やら資産運用やら、果ては年金やらに財産を注ぎ込んでいるのでしょう。いまここで忍耐しさえすれば、その対価は必ず将来手に入ると、一体誰が保証しているというのでしょう。それほど現代医療を、営利企業を、国家を、行政を、信じるに足りるだけの証拠を、我々は充分に並べることができた上で、その取引に応じているのでしょうか。実際はよく調べもせずに、社会の風潮や根拠の希薄な意見、言葉巧みで無責任な宣伝に安易に流されているだけではないのでしょうか。

まあ睡眠薬について言うならば、これは算命学者としてあまりお勧めできない解決法です。睡眠薬に限らず、薬物とは適度に使うからこそ健康に有益なのであり、濫用すれば逆に健康を害します。一回や二回といった限られた分量の処方で治るのなら、その薬は解決法として正解ですが、恒久的に服用が必要ともなれば、もはやそれは処方が間違っているのです。いくら服用しても治りはしないし、逆に人体の正常な回復機能を歪めていきます。
こういう病は結局薬では治らない。ではどうやって治すかといえば、生活習慣を変えるしかありません。食事が悪ければ改善し、部屋の空気が悪いのなら清浄にし、衛生環境が悪いのなら向上させ、ストレスがあるなら転職や引っ越しをする。家族が原因なら家を出る。山に行く。外国へ行く。いつもと違う顔ぶれと会う。趣味や交際を広げる。或いは引き籠る。何でもいいです。病気の原因となっているものと疎遠になれれば。
薬を飲んで一時的に症状が緩和されたところで、病気の原因がそのままではまたぶり返します。それよりも病気の原因そのものを取り除いた方が近道ですし、根治療にもなります。算命学にはこうした病気の原因を突き止める手立てがいくつかあるので、薬物に頼る前に宿命を探ることは意義があります。
病気になったらまず医者に相談するのは正解ですが、勧められた治療を始める前に、自分がその処方に納得しているかどうか、充分考慮した上で踏み切ったものかどうかくらいは、明確にしておくべきです。もし心が疑いを差し挟んでいるのなら、治療を断る勇気も必要になるでしょう。医者とあなたは違う人間なので、医者の最善があなたの最善だとは限らないからです。それがあなたの最善かどうかは、あなたの本能に訊いた方が確実です。その本能さえイカレてしまったのなら、もう先は短いのだと覚悟を決める時なのです。

冒頭の話に戻りますと、「将来の安泰より目先の利益」と言われると深慮の足りない浅はかな人間のように聞こえますが、この場合の「将来の安泰」が本物かどうかも判っていないのに目先の利益を無視するのは、やはり同様に深慮不足というものです。
例えば住宅などの長期ローンや長期間払い続ける保険料。高齢化社会における年金問題。近代の学校教育。昨今の話題としては遺伝病に対する断種という思想。LGBTの非生産性云々発言。いずれも将来はこうなる、という前提で話が進められているものですが、その将来とは本当に疑いなく、一分の狂いもなく予測通りにやってくるものなのでしょうか。科学技術が発達したと言いながら明日の天気予報さえ外している現代社会に生きる我々は、描かれた将来のために今の苦痛を我慢することを是とするべきなのでしょうか。もしかしてそれは誰かが仕組んだ罠かもしれないと、疑う必要はないのでしょうか。
今回の余話はこうしたテーマについて考察してみます。例によって鑑定技術の話ではありませんが、「未来を予知するためのツールではない」と銘打っている算命学の思想面の理解を深めるための内容です。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「過干渉の時代」です。「算命学余話 #R86」で検索の上、登録&豆菓子一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-01-19 01:37 | 算命学の仕組 | Comments(0)
渋谷の文化村で開催中の「ロマンティック・ロシア」絵画展に行ってきた。ロマンチックの目玉であるクラムスコイの「忘れえぬ女(ひと)」と「月明かりの夜」はそこだけ壁の色を変えて特別扱いされていたが、その他の作品も有名画家の傑作がまんべんなく並んで、19世紀末の情緒溢れるロシア絵画をひと通り堪能できた。
わがおススメの海洋画家アイヴァゾフスキーの作品も、波濤と凪の二点が来ていたよ。透ける波や朧な陽光がファンタジーないい色なのだ。先月まで八王子でやっていた別のロシア絵画展でもアイヴァゾフスキーの大型作品が展示されていたが、絵画愛好の友人の鋭い色彩眼によると、同じ絵でも土産用に印刷されたものは許しがたいほど色が違うらしい。宇宙人は言われてみるまで気付かなかったが、確かに違うね。なので是非会場に足を運んで、印刷ではない本物をご覧下さい。

ところで会場内のショップではマトリョーシカはじめロシアの可愛い民芸品や板チョコなんかが売られているのだが、書籍コーナーで『呪われたナターシャ』なるおどろおどろしいタイトルの本を発見。絶版の匂いがしたので即購入した。なんだこの本は。人文書院が出しているからただのオカルト本ではないぞ。著者はロシア専門の文化人類学者。要するに研究書だ。ソ連時代に迷信として片付けられていた呪術の習俗がソ連崩壊後にあちこちに噴出した実例を並べ、考察を加えた硬派な学術書である。しかしタイトルは勿論、表紙もイケている。呪いに相応しい黒地の中央にほのぼのした伝統柄のマトリョーシカが二体立ち、その一方には顔がないのだった。のっぺらぼうのマトリョーシカとはかように不気味なものなのか。ドキドキするなあ。いずれ読後感想を書くとしよう。
その他ロシア関連の書籍は、絵画展らしく美術関連や音楽関連、可愛い雑貨の紹介、ロシア料理本などアートなものが並んでよく売れているようなので、この機会に是非お買い求め下さい。勿論ロシア文学も新訳を中心に置いてあります。わが愛するマルチ翻訳家、小笠原豊樹の訳によるマヤコフスキーの戯曲もシリーズで一挙放出。玄人向けです。

by hikada789 | 2019-01-15 22:09 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
ご本人の許可を受け「あなたの山水画」を掲載します。ご協力ありがとうございます。
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1991年3月28日生 男性の山水画
丁 辛 辛
酉 卯 未
鉱石に囲まれた坑道には苔が生え、カンテラが輝いている。
【解釈】
金性の多い命式で、周囲に硬質な印象を与えます。あなたは坑道を照らすカンテラで、鉱石は採掘されて研磨されれば輝きを放つ可能性があります。しかし採掘される前にまず発見されなければ用を成しません。このため、カンテラのあなたが的確な灯火として役に立っているか否かで、周囲がガラリと変わります。
鉱石は父親又は上司、兄弟友人又は部下、そして配偶者であり、あなたが役に立つ人物であれば彼らもまた輝き、あなたがそうでなければ、彼らは岩の中に埋もれます。
金銭に振り回されるほど人格を落とす命式なので、道徳や常識には注意を払いましょう。

by hikada789 | 2019-01-12 21:40 | 宇宙人の鑑定実績 | Comments(0)
食糧豊富な自然環境に暮らすアマゾンのある先住民族は、男性が競争的で雄弁、勇敢、虚勢を張る(つまり嘘つき)という特徴があるそうです。この場合の嘘つきとは、「提供できるリソースをあたかも多く持っているかのように」振舞うという種類のものです。また同時に乱婚でもあり、両親は乳離れした子供の世話をせず、放置された子供は自活する方法を自ら迅速に身に付けて大人になるといいます。食糧の手に入りやすい環境がそれを可能にしているのです。
一方、カラハリ砂漠に暮らす某民族は食糧調達の厳しい生活環境に置かれているため、人々は互いに協力するのが良いという価値観で生きています。狩りは共同で行い、その成果は平等に分配され、嘘は厳しく禁じられる。嘘による混乱は自らの生存を脅かすので忌避されるのです。また婚姻は一夫一婦制であり、配偶者は慎重に選ばれます。子育ても一族で行い、子供の親への依存度は高い。食糧が乏しいため、子供に対する投資は相対的に大きくなり、それ故に出生率も低く抑えられています。そうした環境下では、互恵利他主義が各人に徹底されます。

これは以前『算命学余話R43』でちょっと取り上げて腐した中野信子著『サイコパス』からの引用です。この部分については傾聴に値すると感じたので拝借しました。これは民族研究のフィールドワークから得られた実例報告なので、これをどう分析するかはともかくとして、食糧の豊かさ・貧しさが人間の価値観を左右しているというシンプルな因果関係は大いに納得いくものがあります。

時代は平成の世も最後の年となりました。日本国皇室は男系の伝統を守り続けてきましたが、当面もとりあえずこの伝統は維持できそうです。しかしほんの数年前は皇室に男児がなく、女性天皇を認めるかとか、いっそ側室制度を復活させるかとかいう議論がなされました。こうした議論が以前の皇室になかったのは、皇室の伝統が一夫多妻だったからです。要するに子供が生まれなかったら、健康そうな側室を迎えて子孫繁栄に努めれば良かったわけです。
かといって日本全体の伝統が一夫多妻だったというわけではありません。いくら子供が欲しいからといっても、大勢の妻たち子供たちを養う経済力がなければ一夫多妻はそもそも成り立ちません。つまり冒頭のような「食糧豊富な環境」になければ、多くの女性を娶って無制限に子供を儲けるという行為は自殺行為になるのです。従って一般庶民にとっては一夫一婦が相応しく、それはとどのつまり、庶民は総じて食糧豊富な環境にはなかったということになります。食糧はじめ物資が比較的豊富で、そのため複数の妻を養うことができたのは、支配層である殿様クラスか羽振りのいい商人等に限られていました。

現代の日本人は近代の法律によって一夫一婦の制約を受けていますが、実際のところ法律上の妻が一人であっても同時に愛人を囲っているという例は無数にあります。経済力のある男になら可能です。だから日本は表向きは一夫一婦の国ですが、実情は一夫多妻が許されている国だということです。え、法律? そんな人間が作ったあやふやなもの、ナマの現実を生きる人間の営みの前では紙切れですよ。守る義理がありますか。人間が是非とも守った方がいいのは、自然の法則だけです。これに反すると寿命が早まるからです。

というわけで今回の余話のテーマは、一夫多妻と一夫一婦についてです。近代の価値観では一夫多妻など狂気の沙汰だ、恥を知れ、といった扱いですが、それは表向きであって実際はこの通り、カネ次第です。勿論カネに靡かない堅実な女性もいますし、複数の男性との性交が子供の気を濁らせることは、既に過去の余話で述べた通りです。それを本能的に嫌う男女なら、一夫一婦で生涯浮気なしという夫婦関係を望むでしょう。これもまた真実です。
実際のところ、人類の歴史は一夫多妻と一夫一婦のせめぎ合いで、どちらに軍配が上がったとも言えません。時代によってこちらが勝ったり、あちらが勝ったりしている。結局は、どっちが正しいのでしょうか。算命学はどのように考えているのでしょうか。その辺りを考察してみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「一夫多妻の是非」です。「算命学余話 #R85」で検索の上、登録&揚げ餅一皿分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-01-08 23:28 | 算命学の仕組 | Comments(0)
ここ数年、正月は人ごみを恐れて初詣もすいた頃を見計らって出掛ける宇宙人は、三が日を自宅で大人しく過ごす習慣になっており、朝は寝起きからあてどもなく駅伝を眺めているのだが、CM中に裏番を物色していたら昨年の流行語にノミネートされていたドラマ『おっさんずラブ』が一挙再放送されていたので、箱根駅伝と掛け持ちでこれまたあてどもなく眺めてしまった。1クールの短い作品だったので展開が速く退屈はしなかったが、世の書店に溢れるBL漫画の平均値を知っている我が目には何とも少女趣味というか、清く正しい宝塚的な男子恋愛に拍子抜けした。正直リアリティは1ミリも感じなかった。昨今はこういうのが流行るんだ。ふーん。
リアリティといえば、ロシアドラマ『エカテリーナ』のリアリティはまた度が過ぎていた。「王冠を被った娼婦」というコピーのエカテリーナ二世は、愛人筆頭のオルロフ伯爵の男性機能の低下を知って、早くも次の獲物ポチョムキン少尉に狙いを定める。ポチョムキンは純朴で一途な教養ある青年軍人として描かれており、オルロフの教養のなさも女帝を興ざめさせたという動機付けを担っている。女帝は啓蒙君主なので知的水準が高く、こういう女性は得てして精神世界の乏しい男に冷淡なものなのだ。とはいえポチョムキン役に起用された俳優はラグビーのフォワードと見紛うようなガタイの持ち主で、見るからに絶倫なのだった。実にあけすけなリアル恋愛表現なのだ。日本のドラマとはえらい違いだ。

正月早々シモな話になってしまったので、口直しに読書の話題。サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』から楽しく笑えた辛口な真理をいくつか抜粋しよう。興味が湧いたら是非本編をお読み下さい。読み応えあります。悪童ものとして佐藤亜紀の愛読者には楽しいと思います。

――財産が人間にランクを与え、富が徳と同等視され、情欲が男女の唯一の絆となり、虚偽が成功をもたらす時代(こんな時代にあっては、私の善悪の観念が混乱してしまうのも当然かもしれない)

――正気の人なら誰でも他人の解釈を自分の解釈ほど信用しない。

――学をひけらかすことによって、また純粋なアクセントで話すことによって、私は相手を恥じ入らせ、自分達には到底この人を指図する資格はないと感じさせた。あまり立派なやり方とはいえないが。…とはいえ私は一つの戒めを大切にしていた。自分の考え方を他人に押しつけようとするのは危険だということを。

――確信しきった男というのはひどいことをするものだ。女だって同じさ。

――彼らの頭は、両親、金銭、食べ物、土地、財産、名声、権力、神といった平凡な事柄でいっぱいだった。

by hikada789 | 2019-01-04 16:34 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)