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土星の裏側

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宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2019年 03月 ( 11 )   > この月の画像一覧

算命学の鑑定では、生年月日からまず宿命(陰占)を出し、そこから人体図(陽占)を出し、並行して天中殺と大運を出しますが、前回余話#R92で取り上げた六親法もこれに加えると、鑑定に使える基本情報がひと通り揃います。この先の守護神や局法・格法、合法・散法、六親法に付随する十二親干法等、数ある技法も鑑定の実践では勿論重要ですが、依頼人の相談内容によっては使わない場合もあります。
しかし六親法は、何を占うにしても欠かせない技法です。それほど血縁者との関係は重要で、その人の人生も人となりも左右し得るほどの威力があるからです。特に子供時代に誰に育てられたか、誰の影響を受けたか、受けなかったかという情報は、その人の人格形成に大きく関わってきます。言い換えれば、人間がどう成長するかは、その子を育てる近親の大人たちに依っているということであり、その代表としての親の責任は重大だということです。その重責について考えずに子供を作る大人を量産する社会は、道徳以前に劣化の一途を辿っても致し方ありません。親としての責務は、単に物理的な衣食を与えれば済むというものではないのです。では誰が何を子供に授けるべきなのか。それが六親法はじめ宿命の中に、それほど難しくもないヒントとして描かれているのです。

説教臭い導入になってしまいましたが、今回の余話のテーマは「まっとうな人間」の姿についてです。陰占はその人が生まれた時の自然の姿を表したものですが、その人がどういう手足や思考傾向を持った人間であるかは、陽占を見た方が具体的です。陽占は別名「人体図」であり、人間の姿そのものを表しているためこの名があります。
人体図の算出法や基本的な読み方については以前の余話で述べたので、今回はこの人体図をどう活用しないと、どういう不具合のある人間が形成されるのか、そうした辺りを考えてみます。
思考の話なので、前回のような込み入った技法の話にはなりません。しかし昨今は公的に高い地位にある人が破廉恥な犯罪を犯したり、非難されることが誰にも予測できるような幼稚な動画をネットに流しては痛い目を見ているお粗末な輩や、果ては子育ての能力もないのに子供を生んで結局虐待に行きつく親など、冒頭の話題につながる人間の劣化事件が後を絶ちません。尤も、私はこうした事件が現代に限った新しい現象だとは思っておらず、いつの時代も、どの国でも繰り返し起きてきた人類共通の事件だとの認識でいます。それは、算命学が成立した数千年前も同じだったということです。
では算命学は、こうした劣化した人間の仕上がりをどう認識しているのでしょう。算命学の技法は多種多様なので、あらゆる技法を通してこの課題を説明することはできますが、今回は人体図に絞って考えてみます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「心臓を貫く」です。「算命学余話 #R93」で検索の上、登録&桜おかき1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-03-29 18:16 | 算命学の仕組 | Comments(0)
世界フィギュアで三位に返り咲いた元世界女王メドヴェージェワの印象が変わったのは、今シーズンの曲フラメンコに合わせて飾り気のない髪形やメイクにしたせいかと思っていたが、実は今シーズンからヴィーガンになった影響らしい。もしかしてすっぴんだったのか。確かに唇は赤く塗ってはいなかったが。ロシア情報によると、メドヴェージェワは今シーズンから練習拠点を羽生結弦らと同じカナダのクラブに移すと同時に体質改善にも取り組み、今ではすっかりヴィーガンなのだという。ヴィーガンとは、単なる菜食主義にとどまらず、思想的に動物殺生を拒否して動物性食品を摂らず、衣類も動物性の素材を着ないという徹底したもの。
宇宙人も日頃の食事は野菜中心だが、卵や魚はたまに食べるし、会食では肉も食べる。趣味のレザークラフトはもろに動物皮革だからヴィーガンとは言えない。でも肉の代わりに大豆製品を摂るようにして、一日1.5食にしてから、体重は若干減ったまま体調は良いし、食事の時間までの空腹も気にならなくなった。たまに菓子類も食べるが、原材料がシンプルなものほど食欲が止まることが最近判った。袋に入ったスナックや洋菓子のラベルには原材料欄に意味不明のカタカナ添加物が多数並んでいるが、この種のカタカナのない和菓子やシンプルなポテトチップ(というのを最近見つけた)は、お茶うけ程度の分量を摂るとそれ以上欲しくなくなるのだ。逆に言うと、カタカナ物質の多い菓子ほど食欲が止まらない。そういう効果が本来ある物質なのかもしれない。消費者に多く買わせるために。いずれにしても現代人は食べ過ぎにより病さえ発症しているのだから、食欲を適度に止められる食品というのは今後トレンドになるかもしれない。メドヴェージェワのような著名人による効果も悪くはない。でもロシア人はそもそも極端から極端に振れる性質なので、真似をするには注意が必要だ。日本人なら和食を食べていればとりあえず肥満は回避できよう。
春のロシア文化イベントのお知らせです。

(1)ワレリー・ベリャコーヴィチの「マクベス」
「どん底」「ハムレット」「検察官」と劇団東演で演出を続けてきた故ワレリー・ベリャコーヴィチの遺作。3月24日(日)~4月7日(日)、三軒茶屋のシアタートラムにて。開演時間はマチネーもあるので事前にご確認を。一般5,500円(全席指定)。

(2)交響楽団はやぶさ&ストラヴィンスキー
作曲家ストラヴィンスキーの一族であるマリウス・ストラヴィンスキー指揮による演奏会。この楽団は全国の医学生によって発足したもの。演目はグリンカ、ラフマニノフ、チャイコフスキー、ストラヴィンスキーとロシア尽くし。5月6日(月)14時半開演。東京オペラシティコンサートホール。A席3,000円から(全席指定)。

(3)ワークショップ「ポスト革命期ロシア文化のまなざし」
若手研究者による研究発表。3月30日(土)14時より早稲田大学戸山キャンパス36号館6階681教室。入場無料。

by hikada789 | 2019-03-27 11:49 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
学生時代に興味本位で履修していたペルシャ語の先生の影響で、宇宙人はトルコ人に対する評価がそもそも低い。アケメネス朝ペルシャをはじめ巨大帝国を人類史に何度も打ち立ててきたペルシャ人(=イラン人)にとっては、その周辺遊牧民族であるトルコもアラブも非文明人扱いであったという事情もあるが、何と言っても先生がトルコを貶す最大の理由は、トルコが近代化に当たってアラビア文字を捨ててローマ字表記に乗り換えたことによる。ケマル・アタトゥルクの時代だからぼちぼち百年になるところだが、「お蔭でトルコ人はわずか百年前の自国の文章を読めないのだ。何て馬鹿なことをする奴らだろう」というのが先生の口癖だった。
イラン人は歴史ある文明人としての矜持から、アラブ人はアラビア語で書かれたコーランを一文字たりとも変えてはならないという宗教的制約から(このためコーランは翻訳も禁止で、現在出回っている翻訳は「註釈」扱いなのだ)、それぞれアラビア文字を維持する道を選んだが、トルコは欧州に隣接しているせいで西洋の近代化の波をもろに受け、立ち遅れまいと陋習と一緒に文字までかなぐり捨ててしまった。お蔭で識字率は上がって経済も発展したが、かといってイランやアラブ諸国を大きく引き離したかといえば、そうとも言えない。逆にかつての文字を失ったせいで自国の伝統文化が判らない国になってしまった。

8億人が視聴したというトルコ製ドラマ『オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム』はオスマン朝の後宮を描いた陰謀時代劇だが、そこに出てくる文字は当然ながらアラビア文字で、シーンによっては身分の高い女性からの恋文を読んだりする場面もあった。しかしその恋文は、確かにアラビア文字で書かれてはいるが、宇宙人のようなネイティブから一番遠い所にいる外国人の目にさえ判読できるほどのガチガチの活字体で、高貴な身分の女性がこんな無味乾燥な文字など書くかァ! と喝を入れたくなるほど無骨なのだった。
断っておくが、アラビア文字にも様々な書体があり、日本語でいえば草書や行書といったくずし文字を美しく書ける人ほど身分が高い。つまり文字から教養が知れるのである。しかし現代トルコ人は特別な教育を受けない限りアラビア文字を読めないし書けないから、時代劇の雰囲気を壊さぬようアラビア文字を連ねた小道具を作るのに活字体を持ってくるしかない。だからあんな新聞みたいな恋文を教養溢れる皇女様が書くというトンチキな演出になるのである。いや嘆かわしい。あのシーンを見た時、確かにペルシャ語の先生のご立腹に納得がいったわ。

宇宙人はかつてイラン人の上流出の女学生らと付き合いがあったが、彼女らの自筆のペルシャ語は各人でタイプが違っていて、川のように流れる書体もあれば、メリハリの利いた丸みで統一された書体もあったし、基本ラインからはみ出る部分にデザイン性を込めたスタイリッシュな書体もあった。ビギナーにはどれも判読しにくいとはいえ、それぞれ個性があって美しかった。国を問わず、文字には書く人の個性と同時に美的センスも滲み出るのだ。
昨今は文字を書く機会が減ったが、宇宙人は昭和の生まれなので、人の教養を量る手段として文字の美醜は結構ウェイトが高い。文字の汚い奴は、人間扱いはしてもリスペクトはしないのだ。ましてや漢字が書けないなど言語道断。しょうがないよ、昭和の人だもん。宇宙人が子供の頃は、明治生まれのじいさんばあさんを化石扱いする言動が方々で聞かれたが、あと一カ月ちょっとで宇宙人も化石になるのだよ。どんな言われ方をするのかな。「鉛筆で文字を書いていた世代」とか、「店でしか服を買えなかった世代」とか言われるのかな。どうせなら「文字を見て人間の中身が高級か低級か量っていた世代」と言われたいものだ。

by hikada789 | 2019-03-24 17:50 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
b0214800_19535196.jpgNo.1172で案内したイランの新年コンサートに行ってきた。今年は3月21日の日本時間朝6時過ぎが厳密な春分点で、イラン独自の暦では新年は1398年である。当地では日本同様西暦も並行して使われている。四人組の伝統音楽ユニット「ビーストゥン」はメタボ体型や白髪の進んだベテラン演奏家で構成されていたが、「70年に結成されました」と紹介されたので、まさかこの人たち70代後半なのかと疑った。実際はイラン暦の1370年の結成だから、まだ50代と見た目通りであった。やっぱりね。イラン人が日本人より若く見えることはまずない。なぜメタボなのかというと、イスラム革命以来飲酒を禁じられたイラン人は、口寂しさをドライフルーツやナッツ類で埋め合わせるようになったせいで、肥満が広まったのであった。しかしさすが熟練ミュージシャン、楽器をわが身の一部のように自在に扱うその指は、メタボに似合わぬ細さなのだった。
上の画像はイランの正月ノウルーズ(「新しい日」という意味)で各家庭が準備するのお正月飾りで、今回のコンサート会場の一角に展示されていたもの。アングルの事情で画面に入りきらなかったが、正面の鏡、お灯明、お花、コーランの他に、ハフト・スィーンというアイテムを揃える。ハフトは数字の7で、スィーンはアルファベットのSに当たる。Sのつく7つの縁起物ということだ。詳細は以下の通り。私も初めて知ったよ。
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1)リンゴ(sib):健康、美、実りの象徴
2)にんにく(sir):健康薬味
3)ソマーグ(somaq):同上
4)お酢(serkeh):忍耐(人生は酸っぱいのだ)
5)柳葉グミ(senjed):愛情、生命
6)青草(sabzeh):再生、自然
7)サマヌー(samanu):豊穣

サマヌーとは、麦芽を煎ったり練ったりして長時間かけて作るミロのような甘い麦製品。何ゆえSが縁起物になるかというと、「イスラム」という言葉の中に子音はS、L、Mの三つが入っていて、このどれもが安寧を保証してくれるらしい。Sの他にもLを7つ集める縁起物シリーズが存在する。伝統文化だねえ。日本にも春の七草や秋の七草があるからねえ。
下の画像はコンサート終了後の出口で参加者全員に配られたお土産のお菓子。バナナはご愛嬌だが、小袋はイラン特産のピスタチオやアーモンドといったおいしくてメタボに誘うナッツ詰合せに、ココナッツのビスケット。下に敷いたパンフの通り、日本とイランは国交樹立90周年なのだった。今回の催しも、東京国立博物館で行われた回のはイラン大使館主催の新年会で、来場者のほとんどは在日イラン人である。勿論日本人も自由に入れるのだが、認知度が低くて関係者ばかり。お土産だってもらえるのにな。毎年開催しているらしく、閉会の辞では文化参事官が日本語で「来年の3月21日のスケジュールに『上野でノウルーズ』と書き込んで、その後はアメ横でお散歩を」と締めて笑いを誘っていた。イランはロシアと同じく、親日なのに日本人からはイマイチ愛されない片思いの国なのであった。あ、音楽は良かったよ。リズムが多彩で、5拍子や7拍子が挟まっているおかげで普段届かない耳の血管に血が通った感じだ。イベント情報は「イラン文化センター」のHPで案内しています。

by hikada789 | 2019-03-21 20:43 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
前回の余話#R91では、天印星の性質がどういう理屈から成り立っているのかを考えてみました。天印星は赤ん坊の星ですが、宿命に天印星を持っている人なら誰しも赤ん坊のように無垢だとか、無知無力であるとかいうことではありませんし、それでいいということでもありません。人間は成長する生き物なので、夭折しなければ成人しますし、成人すれば子を生み育てます。或いは子供を生まなくても知恵や技術を身に付け、それを次世代に伝えることで社会に貢献します。これも立派な「育てる」行為です。
しかし、もし天印星を持つ人が赤ん坊のままでいいとするなら、それは大人にならないということであり、成人しているのに次世代を「育てる」役目を果たさない人間は、この世界に必要のない存在として、自然による淘汰の対象となっていきます。人間が生まれてから成長を続けて大人となり、死ぬまで成長・成熟を続けることは、自然の法則に適ったことなので、それを拒む人間は自然に逆らっている、だから淘汰されるというわけです。

赤ん坊である天印星が大人になることを拒んだまま大人になるとどのような醜悪な事態となるかは、前回説明しました。そして、それを回避するためにどのような教育が必要なのかも述べました。それは、天印星の特徴である天真爛漫さを活かしたまま、自ら行動することの苦手をいかに克服するかという手立てであり、成人した天印星を輝かせるための方策なのです。そして算命学は、そのような赤ん坊の資質を持って生まれる人間を認めながら、人生の大半を赤ん坊ではいられない人間がどうすれば社会に存在を許され、この世に役立つ人として歓迎されるか、「育てる」側の人間になれるかを示唆しているのです。

算命学の知識の浅い人の中には、「自分の宿命には(例えば)天印星があるのだから、自分はベッドに寝そべって、周囲の人間に着替えも食事も娯楽も用意してやってもらえばいいんだ」と勘違いしている人がたまにいますが、算命学の思想を正しく理解するのなら、そんなことをすれば運勢を下げに下げて、宿命にさえ書かれていないほど早くて不可解な死を招くことになるので、やめた方がいいですし、実際そのような生き方をしている人は淘汰されています。
例えば昨今取沙汰されている介護施設での殺人事件などは、何もかもを人の世話になって生きる大人がどういう末路を迎えるか、その一例について我々に厳然と提示しているものと、算命学では考えています。自然死ではない異常な死に方は、自然に反する生き方が招くことなので、加害者だけに責任があったとは言えない。このような冷ややかな算命学的視点は一般社会のそれとは異なるものですが、そうした異なる角度から世界を見つめることもまた、算命学の役割なのです。

さて今回の余話のテーマは、人との縁のある・なしについてです。縁という概念は仏教的な因果応報や輪廻、前世との関係性といった認識のされ方がありますが、算命学の云う縁はこれとは少し違います。前世との因果関係の有無については論じず、現世において、誰と関係が深いか浅いか、具体的には配偶者を含む家族の誰と縁があり、その影響によって運勢がどう上下するか、星が輝くかどうかを考えるための技術として使います。そのため、まず算命学で使われているところの「縁のある・なし」が何を指しているのか、正しく認識しておく必要があります。
技術的に込み入った話なので、予めご了承下さい。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「縁がある、ない」です。「算命学余話 #R92」で検索の上、登録&桜最中1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-03-19 14:42 | 算命学の仕組 | Comments(0)
前回紹介したアゼルバイジャン作家カマル・アブドゥッラは、当然のことながらロシア語堪能なバイリンガル知識人で、現在二冊出版されている彼の作品の邦訳はいずれもロシア語からの重訳である。アゼリー語からロシア語に翻訳するに当たっては作家自身が監修をしているので、細かなニュアンスも正確にロシア語へと転換されており、そこからの邦訳は原文にかなり忠実と言える。今、もう一冊の『魔術師の谷』という作品を読んでいるが、邦訳者は異なっても作家本人の文体は損なわれていないように思われる。それくらい似た邦訳文なのだ。しかしロシア語には絶対にない表現や修辞がところどころ見受けられ、やはりロシア文学とは異質の出自なのだと知れる。
ともあれ旧ソ連諸国は経済的に西側に大きく遅れをとって不運だったとの評判が高いが、こと文化に関しては逆に西側より保護育成の進んだ施政だったから、旧ソ連のイスラム圏がソ連時代に宗教的縛りを脱して、ロシア文学の影響を受けながら今日このように独自の文学を自由に打ち出しているのは、嬉しい歴史の皮肉である。イスラム以前から中東の文化を牽引してきたのは圧倒的にペルシャだが、今日のペルシャ即ちイランがイラン革命以降宗教の縛りの強い社会になってしまったおかげで、イスラム圏の自由な創作活動が阻害された感が否めなかった(イスラムの専門家から見れば、トルコやアラブの文化は洗練度が数段落ちる)。しかしその間に旧ソ連のイスラム国家群、イランから見れば辺境地域が頑張ってイスラム文学を牽引してくれる程にまでなったのだ。その背景にはやはりロシア文学の存在が大きかったと思われる。だって日本を見てみれば、なるほど米国の経済システムや消費生活は日本も真似たけれど、同様に米国の乏しい文化面をも日本が持て囃した結果、この70年の間に我々はどれほど深淵で重厚な現代文学なり精神世界なりを世界に発信できただろう。元気なのは薄っぺらいサブカルチャーばかりではないか。
というわけで経済力をつけてきたイスラム圏の映画特集のお知らせです。

(1)イスラム映画祭4
定期的に開催されている渋谷ユーロスペースのイスラム映画祭ももう4回目。今回はイエメン関連作品が多く出品されており、その他も社会派のドキュメンタリーものが多い。上述のような文学性の高い作品が含まれているかは不明だが、異文化との接触という意味では大いに役立つフェアだと思う。3/16(土)~3/22(金)日替わり上映。1400円。火曜サービスデー1200円。

(2)ノウルーズ・イラン伝統音楽祭「ビーストゥン・ケルマンシャー」
ノウルーズとは新年を意味するペルシャ語。当地の伝統では新年は春分だったので、今でも新年行事をこの時期にやっている。今年は都内で伝統音楽コンサートをやってくれるらしい。3/18(月)10時半から横浜市立大学、3/20(水)に14時から芝浦区民センター、19時からイラン大使公邸(要招待状)、3/21(木)14時から東京国立博物館平成館大講堂(西門からのみ入場可)。入場無料。同じ頃、高円寺にあるペルシャ・レストラン「ボルボル」でもノウルーズのイベントを開催するようです。

by hikada789 | 2019-03-14 15:08 | 宇宙人の空飛ぶじゅうたん | Comments(0)
テレビアニメ『どろろ』が回を重ねるごとに神秘性を失っていく。放映開始時は顔面の皮すら作りものだった主人公の百鬼丸も、鬼神を次々に倒して聴覚や声帯を取り戻し、だんだん普通の人間ぽくなるにつれて魅力が薄れてきた。当初のヘレン・ケラー状態の方が超然としていて良かったな。俗世と一切関わらずに生きている感じが非日常を醸していたし、無言で表情の乏しいところがソクーロフの映画みたいにこちらの想像を掻き立てていたのに。(ソクーロフ特集、まだ上映中です)
というわけで、想像を掻き立てる大型海外文学を紹介しよう。日本にはまだ馴染みのない現代アゼルバイジャン作家、カマル・アブドゥッラ著『欠落ある写本 デデ・コルクトの失われた書』は和訳が2017年に刊行されていたが、一度本屋で見かけて気になり、図書館にあったら読もうと思って探したら置いておらず、再び同じ本屋で見かけた時に思い切って買った。マイナーな国の作品なのでお値段高めだったが、充実の内容に満足している。訳者あとがきを引用しつつざっくり紹介すると、こんな話である。

この作品は『デデ・コルクトの書』という15世紀に纏められた中世アナトリア語の民族叙事詩を素材にした現代小説であるが、単なる歴史小説ではない。いうならば虚構の中世叙事詩を文学的想像力によって現代に蘇らせた、一種の歴史心理推理小説だ。
物語は、著者自身を投影した現代人作家が、古文書館で未知の写本を発見する場面から始まる。その写本はデデ・コルクトという中世の語り手が一人称でオグズ族の内乱寸前の状況をリアルに語る内容だった。この写本に語り手として登場するデデ・コルクトは、中世アナトリアに伝えられた実在する叙事詩『デデ・コルクトの書』の登場人物であると同時に、この叙事詩の作者に擬せられる吟遊詩人であり、シャーマンである。
実在する『デデ・コルクトの書』はアゼルバイジャンと中央アジアのオグズ族の間で生まれた史詩で、現在のトルコ、イラン、アゼルバイジャン、ジョージアに跨る地域が主な舞台である。15世紀末に東アナトリアで古アナトリア・トルコ語で書き記されたが、その起源は十世紀まで遡れる。トルコ文学史上の傑作と言われ、ドレスデンとヴァチカンの図書館に本物の写本がある。

この史詩に描かれたオグズ族の内紛については、その原因がはっきりせず、故意に記述を避けた気配もある。『欠落ある写本』本編はその謎を文学的に解明しようとする試みなのである。そもそも元ネタである『デデ・コルクトの書』は民族叙事詩の常として登場人物の心理描写は描かれないため、『欠落ある写本』では逆にこうした人間のナマの心を推理しながら細やかに描くことで、「真相はこうだったのではなかろうか」という可能性に信憑性を持たせている。
しかも一人称の語り手はシャーマンで、夢と現実の間を行ったり来たりしながら世界を鳥瞰し、このオグズ内紛事件の審議に書記として参加しながら、同時に世紀を跨いでサファヴィー朝ペルシャの創始者イスマイール一世の影武者事件をフラッシュバックさせるという、念の入った重層構造をしている。

サファヴィー朝といえば知る人ぞ知る、イスラム神秘主義(スーフィズム)の雄である。イランを代表する世界遺産の都イスファハーンを彩るペルシアン・ブルーの建築群は、当王朝の神秘主義が生み出した精神世界の具現化なのである。アゼルバイジャンは現代イランの北西部に接し、言語的にはトルコ語圏だが文化的にはペルシャの色濃い地域だ。イスマイール一世が王朝を建てたのもタブリーズというイラン北西部の街で、当のイスマイールはアゼリー語で詩を書くほどアゼルバイジャンに近い人だった。
ともあれ王朝自ら神秘主義を掲げている摩訶不思議なサファヴィー朝なので、その存在そのものが神秘に包まれており、シャーマンである吟遊詩人が幽体離脱して浮遊するからには避けて通れない世界の裂け目と映ったのかもしれず、イスマイール一世も実に神秘主義というか意図不明な描き方で小説に登場している。

表題の通り、この発見された写本は「欠けて」おり、ところどころ読めない箇所があるという設定なので、部分的に話が通じなくなっていたり結局真相が判らないままになっていたりするのは織り込み済みである。それが巧みに神秘性を高めている。会話も、繰り返しかと思えばちょっとずつ変わっていて、油断ができない。読み手に緊張を強いる文体なのだ。ズィクルなのだ。(※ズィクルとは、イスラム神秘主義でお馴染みの周回歩行というかダンスみたいなもので、神と交信するために念仏を唱えながら同じ円をグルグル回るという、トランス状態に入るための基礎動作のこと。)

この本を読んでいて、手前味噌ではあるが自作小説『メタフォーラ・ファンタジア』を思い出した。あれは中央アジアを舞台にした歴史小説とも音楽小説ともとれるホニャララ小説であったが、この『欠落ある写本』と手法が図らずも似ていた。虫食いのように欠けた地方史を「こういう可能性もある」という程度に補足して一枚の絵を推理構築していくが、結局のところ想像に過ぎない、真相はもっと別のところにあるのでは、という堂々巡りの終わり方になるのは、かの地域と文化を題材とした小説のさだめなのかもしれない。これを機に『メタフォーラ』も再読してみるのもいいかもね。あの作品は、ほぼ40日間トランス状態で書ききった奇跡の産物なのだよ。どう考えても、毎夜毎夜何かが降りて来て私の体を使って誰かが書いた気がするのだ。夜しか書かなかったし、40日間あまり寝ていなかった。『算命学余話』と一緒にパブーに掲載してあるので、興味のある方はご購読下さい。でも『欠落ある写本』の方が断然読み応えあります。また『デデ・コルクトの書』は和訳が出ております。図書館にないから、また買おうかなあ。

by hikada789 | 2019-03-12 15:39 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
算命学の専門用語の中で一番世に知られている「天中殺」の理解が、我々専門家の解釈から逸脱して世に広まっていることに危機感を覚えます。やっぱり文字面が悪いからでしょうか。このおどろおどろしい「殺」の文字の威力に惑わされて、何が何でも悪い事件に結びつけなければ気が済まないといった素人の人たちの勝手な思い込みが、天中殺の災いを何としてでも避けたいと思わせるらしく、自らにいらぬブレーキをかけたり、せっかくのチャンスをみすみす見逃したりして、有難くも自然が与えてくれている恵みをわざわざ拒絶して生き、結果的に運勢を落としているという例がしばしば見受けられます。
お気の毒ではありますが、目の前の情報が正しいのか正しくないのか判断できていないのにその情報に乗ってしまうという今日の情報氾濫社会の弊害の中に、算命学の思想も組み込まれているという風に解釈したいと思います。つまり算命学にも天中殺にも罪はないということです。罪があるのは、情報の真偽を確かめようとする習慣が身についていない人なのです。そんな人には、どんなに有用な情報も知識も、猫に小判です。現代のネット情報だろうと古代の思想だろうと、正しい情報や知識を識別できる人とそうでない人とでは、生き方に差が出るのは当然です。

算命学的に言えば「印の運用」ということです。正しく運用できない知識ならいっそない方がいいし、間違った知識の運用をするくらいなら運用しない方がましです。なぜなら知の悪用は、大きな悪を生むからです。
知性の星といえば龍高星と玉堂星ですが、これらの星々があるから単に頭がいいとはしゃいでいる人は、算命学の知識の浅い、おめでたいオツムの持ち主です。なぜなら、本気になった龍高星と玉堂星を敵に回した場合を考えて下さい。ましてやその敵が悪意に満ちている場合を。知能の高い印星にとって、警察や法律の目をかいくぐることなど朝飯前です。そして道徳を振りかざして衆人の心理を誘導することも、その気になればいくらでもやれます。

しかし世に役立つ印星ならば、そんなことはやらないはずです。五徳のうち、印の生じる先は福です。幸福に結びつかない知恵がまがい物だということは、心ある印星になら自明の事です。ではその心ある印星とは何なのかといえば、それは数ある情報を正しく振り分けて正しい知識を選別し、それを正しく運用できる、真の意味での賢い人ということになります。
そんな印星であるのなら、専門家でない自分がよく知りもしない天中殺の、字面に騙されて右往左往するということはありません。知らないものは知らないものとして、脇に置いて過ごすでしょう。このように、知らないものは知らないのだと明言し、知ったかぶりをしないのも、正しい知の運用のあり方なのです。世の印星の皆さん、あなたは勿論、自分がよく知りもしないことを安易に信用したりはしませんよね。

今回の余話は天印星の基礎知識です。基礎は大事です。ここが間違っていると、その上に積み上げた理論まで狂ってしまうからです。十二大従星も、その文字面に惑わされて一人歩きしているのかもしれません。この辺りでそのぼやけた像をしゃっきりと整え、何を根幹として押さえておけば判断がブレずに済むのか、考察しつつ読み解いていきます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「天印星を基礎から考える」です。「算命学余話 #R91」で検索の上、登録&梅ジャム1瓶分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-03-09 20:19 | 算命学の仕組 | Comments(0)
宇宙人はあまり短編小説を読まない。サイズも中身も物足りないと感じるからだ。ヘビー級の読み物には、それなりのサイズがないと描ききれないものがある。だから必然的にロシアの長編小説に行きついてしまうのだ。ロシア以外でも長くて中身のぎっしり詰まった(と評判の)作品を読むことはあるが、話が横に広いだけで深部に深く突き刺さっている感じがしないと、途中で辞めることがある。辞めないまでも、この先この作品を再読することはないだろうという印象を持って、読み終える。宇宙人は、死ぬまでにもう一度この作品を読みたい、或いはきっと読むことになるだろう、という気分にならない作品には、高い評価をつけないのである。

そういう読書姿勢であるので、日本の芥川賞作家の作品はたまにしか読まない。特に昨今はタイトルからして深くなさそうな作品が受賞しているので、入口からしてヘビーさを感じない。それでも誰か信頼のおける読書人がお勧めしている場合には読むことがある。そうした縁で村田沙耶香著『地球星人』を読んでみた。
これは、自分を宇宙人だと信じている主人公らを扱った文芸作品で、社会の画一的なシステムに馴染めないはぐれ者から見た地球人の生態を、斜めから批判した警鐘小説である。宇宙人である私としても、ところどころ共感する点や厳しい指摘が散見できたので評価したいところだが、やっぱりもう一度読みたいとは思わなかった。なぜだろう。似たようなテーマではロシアが誇るSFの古典、ザミャーチンの『われら』があるが、あれはまた読みたい気分になった作品だった。普遍性のスケールの違いかなあ。あと『地球星人』の終盤は作家の息切れが伝わる内容だった。適当な終わり方というか、手抜きな感じがした。『われら』はちゃんと宇宙船が宇宙に飛び立って行ったからねえ、風景が壮大だったよ。終わり方は大事なのだ。ともあれ、興味のある方は両方読んで比べてみて下さい。損はしないと思います。

宇宙つながりでもう一件。まだ読んではいないが、漫画『ダルちゃん』という全2巻の作品がやはり宇宙人を扱っているという。肉体がダラリとしたダルダル星人である主人公は、地球人に変装してOLをやっているのだが、正体がバレないように化粧も覚え、相手に合わせる対話技術も身に付けた。しかしそうして常に誰かに合わせて付和雷同している生き方に疑問を抱き始め、そのことを地球人たちと考えるようになる、そういうストーリーだそうである。『地球星人』とテーマはかぶっているが、日本の漫画は侮れないから、もしかしたら芥川賞作家を凌駕した作品やもしれぬ。ともあれ宇宙人を扱うと、昨今の創作はこのような着地点に落ち着くようである。

ところで、宇宙からは離れるが、先日ラジオのアーカイブで大仏次郎が「日本人は雷同しやすい」と警告していた。「戦時中もそうだし、明治維新もそうだった。例えば水戸藩の藩士らは、攘夷攘夷と叫んで江戸に上るが、実際は攘夷などやらなかった。ただ騒いだだけだった。幕末は腰の落ち着いた士族が沢山いて、こういう堅実で大人の人材が維新政府を支えたから良かったが、これに乗っかってただ騒いでいるだけの人間も大勢いた。現代(1960年代)の学生運動は、水戸藩士のように腰が軽くて中身がない。周囲に流されて騒いでいるだけ。それでも戦時中よりはまだましな気がする」という内容だった。この辺りの批判が上述の宇宙人ねた作品のテーマと重なり、耳に残ったのだった。

by hikada789 | 2019-03-06 15:52 | 宇宙人の読書室 | Comments(0)
総合格闘技団体UFC所属の英国人格闘家がインスタグラムで、ロシアの女性店員が迷惑客をノックアウトする動画を掲載し、絶賛している。この動画はロシアの某店に設置された監視カメラ映像で、レジに並んだ男性客の一人が前に並ぶ男性客をひっつかみ、自動販売機に叩きつけていたが、これを見たレジの若い女性がレジから出て、確固たる足取りで男の前に立ちふさがる。怯んだ様子の男の顔面に右ストレートを浴びせ、すかさず下腹部を前蹴りする女性店員。打撃が効いているのか酔っているだけなのか判別しかねる男性客は、よろけながら女性に向かって文句を浴びせる。ご立腹の女性店員の精確な右ストレートが再び顔面に炸裂し、男はもんどりうってダウン。レジに並んだ客たちは女性店員を称賛し、そのうちの一人は女性に握手を求めていた。愉快なおバカ映像であった。ロシアの女性は日本程度には格闘技愛好人口がいるし、軍隊にも女性兵士はいるので、小顔だからって甘くみてはいけないのだ。

文化文化。ロシアはやっぱり文化だよ。芸術アニメ監督として知られるユーリー・ノルシュテインのドキュメンタリー映画「ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる」が3月下旬から上映予定である。ドストエフスキーが、「我々はみな、ゴーゴリの『外套』の中から生まれた」と称したように、ロシア文学の原点がこの『外套』に詰まっているのだが、ノルシュテインはこの『外套』制作に30年をかけて未だに未完なのであった。その制作過程をつづった本作品と、ノルシュテイン作品を集めた「アニメーションの神様、その美しき世界」を再上映する企画だ。どうせ見に行くからと早々に前売券を劇場へ買いに行ったら、ノルシュテイン描き下ろしのハリネズミのイラストの入ったミニ手ぬぐいがおまけでついてきた。ロシア語の入った珍しい柄。数量限定なのでお早目にお求め下さい。シアター・イメージフォーラムにて前売り1,300円。

by hikada789 | 2019-03-04 14:54 | ロシアの衝撃 | Comments(0)