人気ブログランキング |
ブログトップ

土星の裏側

doseiura.exblog.jp

宇宙人と呼ばれた人達の診療所

<   2019年 04月 ( 12 )   > この月の画像一覧

前回の『算命学余話基礎編#6』では人体図の読み方の基礎を解説し、それまでの陰占と合わせて鑑定の基礎情報がかなり出揃いました。とはいえ、ここから得られる情報は他にもまだまだあります。
今回の基礎編では、エネルギーにまつわるいくつかの技法と理屈を解説し、やがては理論拡大して応用技法へと発展するエネルギー論の根本を身に付けて頂きたいと思います。具体的には、以下の項目について論じます。
(1)旺相休囚死
(2)十二大従星指数論
(3)エネルギー論

(1)旺相休囚死
算命学と概ね同時代の易学として、易経というのがあります。古代中国の四書五経のうちの一つで、周易との呼び名もある通り、周の時代に大成した易学です。易経は論語などの人生訓と違って占いの書なので、今日読み直されることは稀ですが、内容は算命学の思想と非常によく似ていて、ほぼ同根であることが判ります。算命学も易経も、自然思想が基になっているからです。
自然といえば四季です。春夏秋冬はそれぞれに役目があって寒かったり暑かったり、花が咲いたり枯葉が落ちたりするのですが、単純な人間は、花の季節や作物の実る季節をもてはやし、自分の人生もそうあれかしと願います。そのため寒くて実りのない冬のような人生にはなるまいと、不運や不遇を避けて通ることに躍起になったりします。

しかし易経は、冬という季節にも重要な役目があって、ここで休まなければ春に花を咲かせることも秋に実をつけることも叶わない、と説いています。自然が恒久的な循環運動を続けるためには、活動だけでなく休息も必要であり、その休息を如何に効果的に取るかによって、その後の花果の出来栄えに差が出てくるというわけです。
人間の人生もこれと同じで、自然の中で生きる人間は、人生の春夏秋冬を経験しなければならないし、もし花や実りを享受したいのならば、その前の冬の停滞期に力を蓄えておかなければならない。だから人生にとって冬は必要だし、どう冬を過ごすかが人生の明暗を分けることになるし、冬の時代を忌み嫌ってただ避けているだけの人には、人生の実りは永遠にやって来ない。易経はこのような思想を持っていますが、算命学も全く同じです。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「基礎編#7 エネルギーを読む」です。「算命学余話 #R96玄」で検索の上、登録&新茶1パック分の料金をお願い致します。なおパブーでの購読は6月末で終了となります。7月以降は別のサイトでの販売を予定しておりますが、バックナンバーの再掲載には時間がかかると思われるので、お急ぎの方は終了前のパブーでお買い求め下さい。)

by hikada789 | 2019-04-29 20:17 | 算命学の仕組 | Comments(0)
『いまさらですがソ連邦』なるマニア本が昨年秋に出版され、増刷されている。ソ連崩壊から27年、日本は平成も終わって令和になろうというこの時代、ソ連も冷戦も教科書でしか知らない若い世代のために、ソ連を知る年代の作家と漫画家が挿絵入りの共著という体裁で世に出したものだが、なかなかいい。ソ連の歴史から庶民の生活、軍事情から西側にはない不思議な風習までひと通り、笑いを誘う解説で楽しませてくれる。特に漫画家の視点によれば、ソ連の兵器や機械のデザインは西側にない斬新さで、「可愛く」「カッコよく」見えるらしい。なるほど、今までそれほど注目してこなかったが、言われてみれば単なるレトロを通り越してソ連独特の共通の特徴が感じられる。イラストにすると更にはっきりするのだが、フリーハンドの絵になりやすいデザインなのだ。あたかも子供がマネして落書きできるような。

どこがどう落書き風なのかは本書を読んで理解頂くとして、例によってお時間のない方のために、宇宙人の笑いの琴線に触れたポイントを幾つかご紹介しよう(「註」は宇宙人のコメント)。冷戦時代、米国の宣伝によって必要以上に悪の帝国としてのイメージを広められたソ連は、日本ではよからぬ話ばかりが報道されて、可愛いとかカッコいいとかいう形容詞が使われることはまずなかった。せいぜい芸術分野で深いとか重厚とか言われたくらいで、あとは収容所の恐ろしさとか物資の乏しさとかばかり取沙汰された。本書はそうした暗黒部分にも触れながら、冷戦期には報道されなかった等身大のソ連の実情(その中には陽気な笑いやおちゃめもあった)を回想し、それほど異常な社会でもなかったという客観的歴史観と、やっぱり異常だよというツッコミで、かの亡国の全体像を描き出そうとしている。そしてあとがきでは「全体像を描くなど到底ムリだった」と白状している。態度が誠実だ。

――冷戦期育ち世代なので、ソ連といえば軍事系ニュースのイメージが強いよ。…ソ連兵器は「謎めいている」のが魅力のひとつだったと思う。ネットがないあの当時は謎は本当に謎だった。学生の時にT-72(戦車)をフルスクラッチした時資料が少なくて本当に困ったよ。…こんな具合にソ連戦車に入れ込んだ挙句、戦車擬人化とか始めたらおしまいだよ!(註:日本には戦前の日本海軍艦艇を少女の姿に擬人化したアニメがあり、これをソ連の戦車でやったらこんな感じかというイラスト「ロジーナちゃん」(rodinaはロシア語で「祖国」)が添えられている)

――(史上初の人工衛星)スプートニク1号のデザインは今見てもステキ。ひと目で人工衛星を象徴する形。実際(開発者の)コロリョフが「夢のある形」と指示したそうな。(註:当時宇宙開発競争は米ソでしのぎを削っており、どちらが早く人工衛星を打ち上げるかで開発者たちはきりきり舞いしていたというのに、そこに「夢のあるデザイン」という余計な注文を平気でつけるのがソ連という国の感性であった。西側なら合理主義一辺倒で、性能とコスト以外目に入らないところだ)

――1961年4月12日、ガガーリンを載せたボストークが人類初の有人宇宙飛行に成功します。「笑顔の爽やかな青年」という理由で最終選考に残った彼は、文字通りの英雄となり、世界を巡ってソ連の優位性をアピールしました。(註:ロシア人には「正しいものは美しい」という観念が沁みついているため、能力の拮抗した候補者の中から一人を選ぶ場合に、見た目は重要なのだった)

――米国のように強力な空母を持っていないソ連海軍は大型爆撃機を備え、米国の空母機動部隊に対し大量の対艦ミサイルを発射し、相手の迎撃能力をパンクさせる「飽和攻撃」を目指しています。この一戦の勝負に懸けるという思想は、戦前の日本海軍にちょっと似ていて親近感湧きません?(註:米国がソ連の軍事力を恐れていたのと同じように、ソ連も米国の軍事力を恐れていたという重要なエピソードなのだ。敵は巨大に見えるもの)

――特殊部隊スペツナズで有名なアルファ部隊は、1985年にベイルートで起きたソ連外交官誘拐事件で世界に衝撃を与えた。アルファ部隊は誘拐犯たちにつながる人物を洗い出して拉致すると、頭部と〇×を切断し、その口に〇×を突っ込み、誘拐犯との交渉場所に晒しました。ビビった相手は人質を即座に解放したそうです。以前、ロシアの出版物でその頭部の写真を見てしまいました。マジで怖いです。

――ソ連製品とえいば、品質が悪いというのが一般的なイメージです。中でもカラーテレビは評判の悪い家電製品の代表。「虹色の悪魔」と呼ばれる家庭用スーパーウェポンです。なにしろいきなり爆発して半径5mを火の海にするというから、穏やかではありません。テレビがよく爆発したのはコンデンサーに問題があったからで、火災原因の上位に上がっていました。(ここでソ連時代の実際のポスターの写真を掲げて)モスクワを散策中に見つけた消火器の宣伝用看板。「購入しましょう、火災に備えて!」みたいな文句が書いてある。やはり火事=テレビが一番イメージしやすいらしい。(註:ポスターの絵は勿論、消火器が燃えさかるテレビを消火している図なのだった)

by hikada789 | 2019-04-26 22:13 | ロシアの衝撃 | Comments(0)
b0214800_20440438.jpgせっかく10連休のGWだというのに、人ごみを恐れる宇宙人はどこへも出かける予定がない。高い山なら空いてそうだが、高いほど雪が溶けてなくて危険だ。残雪の山には怖い思いをしたことがある。街歩きするならこの時期、益子陶器市を以前から狙っているのだが、東京からの直通バスに乗れないと疲れるだけの旅になりそうで躊躇っている。誰か車を持ってて一緒に行ってくれる地球人はいないかな。でもやっぱり混んでいるのかな。平日に行くべきなのかな。読書やレザークラフトを大人しく自宅でやってた方が快適かな。『算命学余話』のパブーからの移転先もぼちぼち決めないといけないし。皆さん、人ごみに悩まなくて済むお手軽イベントなどあればお知らせを。なお画像は23日に散策した皇居東御苑の二の丸庭園の様子。手入れされたツツジが満開なのだ。入口で荷物チェックがあるが、入場は無料。いい所だなあ。月・金休園なのでご注意を。

素人演能会のお知らせです。GW初日ですが、観覧無料なので参拝がてらご覧下さい。
----------第28回八歩会仕舞発表会----------
◆日時:平成31年4月27日(土)13時~15時半
◆場所:井草八幡宮神楽殿(荻窪駅よりバス10分「井草八幡宮」下車)
◆内容:お弟子による仕舞、連吟
◆入場料:無料。境内につき厳粛に。雨天決行。ベンチあり。
◆宇宙人出没情報:
14時頃から地謡を端っこで謡います。終演後の打上げには参加しませんが、お茶くらいなら有志で行きましょう。

by hikada789 | 2019-04-24 20:48 | 宇宙人の能稽古 | Comments(0)
昨日は友人の注文カバンの制作に没頭して選挙に行かなかったが、これでよかったと思っている。現状に大きな不満はないし、選挙カーによる騒音にも腹を立てていたし、街の景観を損ねる選挙ポスターにもウンザリしていたし(京都の観光名所などはセブンイレブンでさえ景観を壊さぬようトレードカラーを茶色に塗り替えているというのに、当地の選挙ポスターはどんな色指定を受けているのだろう)、特に応援している候補者もいないし、何より興味が湧かなかった。興味もないのに興味のあるふりをして投票するのは間違っている。それは嘘だ。嘘はいかん。それが誰かの強制であるなら尚更いかんのだ。
カバン作りで凝った体をほぐしに、選挙の前日の夕方散歩に出掛けたら、駅前に人だかりが。みだりに停まってはいけない選挙カーを下りた候補者が広めの路上で、勿論マイクを使って「最後のお願い」演説をしている。駅前は演説をしていい場所だから違反はないが、周囲はマンション群だから住民は迷惑しているはず。よく苦情が出ない、しかも聴衆まで40人ほどもいるなと思いながら脇を通り過ぎようとしたら、候補者が公明党であることが判った。つまり人だかりは信者だ。道理で。だってその40人ほどの聴衆は、子連れも含めて、何というか直立不動に近いのだ。行儀よく立って、拝聴している。よそ見もおしゃべりもしない。要するに通りすがりではない。サクラだよ。訓練された。

そこで好ましからぬ記憶を思い起こす宇宙人。昔ロシアに暮らした頃、留学仲間に創価学会の学生がいて、羽振りのいい人だったので色々お世話にはなったが、最終的に気味悪くなって付合いを辞めた。気味悪さの原因は、偽善だ。最初すごくいい人で、あれこれ親切をしてくれるので元々そういう人なのだと思って接していたが、だんだん本性が現れて来て、その親切が誰かに命じられた作りモノであることを知った。イヤイヤやっていることが露呈してきたのだ。
というのは、親切というのは受け手が慣れるものなので、親切に対する期待値はどんどん高くなっていく。あれこれ頼るようになるからだ。すると親切する側がだんだん損をしていくようになる。その学生は、恐らく教団の指導で誰にでも親切するよう仕込まれていたが、それは自己鍛錬でもあったかもしれないとはいえ、教団としては自分たちの評判を高める意図があったはず。オウムみたいな扱いは受けたくないだろうからね。それでその学生はほとんど無差別に、日本人に限らず出会う人すべてに親切の大盤振舞いを振舞っていたのだが、お蔭で次第に窮乏してきた。でも親切された人たちはこの人が色々骨を折ってくれるだろうと期待して問題を持ち込むので、当人は遂にキャパを越えてブチ切れてしまった。それが本性だったのだ。修行が足りなかったのかもしれないが、実に見苦しかった。そんなに苦しいのなら、最初から偽りの親切などしない方が誠実で良かったのでは? 誰に対して点数を稼ぎたかったのだ。そうやって本性を見破った人たちはその学生信者とは距離を取るようになったのだが、こうして付合いの途絶えたかつての「友人」のことを、その学生信者は方々で中傷するのだった。教祖様はお嘆きではないのかね。
その頃にはもうこの人に耳を傾ける人間は随分少なくなっていたが、疎遠になった元「友人」の一人である宇宙人は、ある日モスクワの創価学会の集会に偶然居合わせた。日本人の集まる情報交換の場だと思っていたら、信者主催の集会だったのだ。なので適当に挨拶だけして帰ろうとしたのだが、そこは宇宙人、タダでは帰らない。土星アンテナを頭上に振り立てて信者たちを観察する宇宙人。観察したのは主に目だ。知性はありや? 自分の意志で親切する人か否か? 人に言われたことしかできないロボットではないか? 命じられたことならイワシの頭でも信仰するタイプの人間の目をしていないか? そしてそれを他人にも強いることを布教と称する輩ではないか? 結論は、その目に知性の光はないということだった。

そうしたわけで、宇宙人は個人的に創価学会の信者も公明党も信用しない。偶然通りかかった駅前の演説でも、聴衆の顔をそれとなく覗いて見たが、何十年も前にモスクワで見た信者と同じ、操られた喜びに輝く狂気の目をしていたよ。人に言われたことを自分の意志だと錯覚した目だ。この種の目は、実は創価学会に限らない。信者でなくとも我々の周囲にしばしば見受けられる。自分で考える習慣が身に付いていない、ママとパパの言う事を聞いてご褒美を貰う幼児と同じ目だ。
子供たちよ、こういう目を見極められる大人になるのだぞ。政教分離が聞いて呆れる現代日本であるが、実際は世界のどこを探しても政教分離できている国などありはしない。米国はどうだ。欧州はどうだ。イスラム教徒の国々を非難できるほど政教分離しているか。ソ連時代のロシアでさえ「無神論」という信仰を国民に強要していた。自分の属する集団の正当性を妄信するということは、他者の集団を見下すということなのだよ。その心の卑しさが目の輝きに現れるのだ。「他者に寛容な態度」を心掛けるという発想自体、最初から他者を自分より下位の者として見くびっているのだよ。本当に寛容で親切な人は、そんな自覚もなしに自然にそれができるものだ。そういう人の目は澄んで美しい。
子供たちよ、誰にでも親切な人には何らかの下心があることを念頭に置いておけ。自分の得になるから親切をするという人間からは距離を取れ。本当に親切な人は損得抜きで行動するし、親切でなくとも頭のいい人ならば、自分のできる範囲内で人を手助けすることは何でもないはずだ。合理性から出た行為なので、お礼さえ求めないだろう。そういう人と付き合うのだぞ。

by hikada789 | 2019-04-22 16:14 | その他 | Comments(0)
現代の不愉快イベント、選挙運動もあと2日で終わる。毎度のことながら忍耐力が試される。走行中の車から発せられる候補者名の連呼は、相変わらずやめるつもりはないらしい。名前を大音響で連呼すれば票を稼げると思っている候補者の愚鈍な感覚と、そんな候補者の中から自分らの代表を選ばねばならぬという虚しさに心がへこむので、なるべく聞きたくないのだが、家の前を通るから避けられない。この悪しき風習を禁止する法律なり条例なりを作ってくれる政治家はいないのだろうか。
b0214800_21262915.jpg選挙カーが名前を連呼して走るのには理由があるとどこかで聞いた。決められた場所以外で野外演説をしてはならぬという決まりがあって、この条件を満たすために車を走らせたまま拡声器で話をするしかないのだが、すぐに通り過ぎる車が長演説を垂れても誰も聞き取ってはくれぬので、せめて通りすがりの人にも記憶してもらえるよう名前を連呼するのだとか、確かそんな理由だったと思う。実にばかげている。目的を見失ってるよ。議員に求められているのは良い社会を作ることであって、選挙で勝つことではないはずだ。優先順位がおかしいのだ。選挙で勝つためにご町内に騒音被害を強いる候補者ってなんなのだ。そんなことをやっているから益々投票率が落ちるのだ。

国民の政治への関心が低いのは意識が低いからではなく、今の社会にさほど不満がないからなのだ。結構なことではないか。不満のある人ほど積極的に政治にコミットしようとするのだよ。平均的な日本人はそれなりに人生を楽しめているから、強いて政治に望むことは、今より悪い世の中にしないでほしいという程度ではないか。払った税金を正しく使ってくれれば不満はないのではないか。税金を正しく使わないのは有権者ではなく政治家だから、ばからしくて選挙に参加したくないのではないか。そんなことを考えながら、明後日の予定をあれこれ組み立てる宇宙人なのだった。画像は今年初めに友人の依頼で制作したレジ袋型レザーバッグ。ちゃんと牛革なのだ。今週は別の友人が注文した本格クラフトバッグを鋭意制作して、久しぶりに1日8時間も仕事をした。完成すれば力作だ。ちょうど選挙日に仕上がりそうなんだよな。

by hikada789 | 2019-04-19 21:31 | その他 | Comments(0)
前回の余話#R94では、命式に現れていない通干を生き方によって作動させる例を挙げました。既に何度も触れているように、宿命が人生の全てを決定しているわけではないことは、この例でも、それ以前の余話でも示しております。こういう事実を突きつけると、「じゃあ宿命なんが見たって何にもならないじゃないか」と声が上がっても不思議ではありません。そうです。算命学者は、宿命が全てを語っているなどとは露ほども考えておりません。そう考えているのは依頼人だけです。
従って、算命学の鑑定依頼を受ける者は、依頼人のこの種の誤解を最初に解いておく必要があります。さもないと、「あなたの宿命は素晴らしいものですが、現状不遇をかこっているということは、あなた、よっぽど生き方が間違ってますね」と鑑定途中に正直に洩らして逆ギレされることでしょう。しかし逆ギレを恐れてはいけません。真実をそのまま伝えることもまた、鑑定者の務めだからです。
嘘はいけません。鑑定者自身の運勢を下げないためにも、間違ったことだけは伝えてはなりません。せめて素知らぬふりをして黙っているくらいの知恵は許されますが、依頼人の逆ギレに恐れをなして鑑定結果を違えることだけは避けて下さい。それができない人は、他人様を鑑定する資格はありません。

今回の余話のテーマは、恒例の基本シリーズの天貴星です。天貴星は十二大従星の天印星(嬰児)の次の星で、児童を意味しています。年齢は三歳から大体十歳くらいまでを想定しています。
既にお気付きとは思いますが、十二大従星は人間の一生を精神世界も含めて十二分割したものであり、十二の星それぞれの特徴は、それぞれの年頃の人の特徴を基にしています。例えば前回の天印星は、赤ん坊の時期の人間がどのようであるかを考えれば、自ずとその特徴が読み取れました。天貴星も同様に幼児を考えて見れば、その特徴が見えてきます。

三歳児といえば物心のつく歳であり、赤ん坊とは違って自意識があり、自我も備わってきます。また猛烈な勢いで知識を吸収する時期であり、「三つ子の魂百までも」の通りその記憶の定着は一生ものです。つまりここで記憶されたもの、体験されたものは、その人の人生全体を左右するほどの影響力があるというわけです。
これは一般論でもそうであり、算命学の基礎としてもそうです。もし子育てを安易に考えている親がいたら、このことは知らせてあげた方がいい。児童の年齢の子供に、或いは天貴星の持ち主である幼児に、いい加減で浅薄な知識や経験を授けたならば、その子は大人になったらいい加減で浅薄な振る舞いをするであろうことが予測されるからです。それほどこの時期の記憶、つまり教育や経験はあとあとまで響くということです。悪い経験であるなら、立派なトラウマになることでしょう。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「天貴星を基礎から考える」です。「算命学余話 #R95」で検索の上、登録&ルイボス茶1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-04-16 19:58 | 算命学の仕組 | Comments(0)
緊急告知! DLマーケットに続きパブーも近日閉店のお知らせが来ました。予感的中! 『算命学余話』をご購読の皆様には、6月30日までの閲覧・購入となりますのでご注意下さい。困ったな、200冊以上あるバックナンバーを含め、7月以降はどうやって販売しよう。どこか評判のいい引越し先をご存知の方は、コメントなりメールなりで宇宙人までご助言下さい。まあ、宇宙人にメールアドレスを渡してもいいという方には、ワードファイルか何かで記事を直接お届けできますので、ご利用中の方はご検討下さい。やれやれ。
by hikada789 | 2019-04-10 21:09 | 宇宙人の診察室(営業窓口) | Comments(2)
数年前に澤野弘之の壮大な音楽と斬新なギャグ表現で嫌味なく笑わせてくれたアニメ『キルラキル』の再放送が突如として始まったと思ったら、同じスタッフでまたおバカ作品を今度は劇場版で作ったらしい。その宣伝のためのキルラキル再放送なのだった。5月公開の劇場作品は『プロメア』といい、主要声優に松山ケンイチや堺雅人ら俳優を起用している異色作だが、CMを見た限りではキレ味鋭いギャグカットが『キルラキル』を思わせる。なるほど同じアーティストが作っているのだな。音楽まで澤野だというから、とりあえず音楽目当てで見に行こうかな。
宇宙人はカネを払ってまでアニメを見に行く趣味はないのだが(普通の映画だって見に行かない。行くのはソ連映画とかレアものだけだ)、音楽目当てなら話は別だ。澤野は暫く聴いていなかった。『進撃の巨人』の新シーズンがもうすぐ始まるからどうせ聴けるのだが、久しぶりに『キルラキル』を見たら、画像と音楽の壮絶なマッチングにやっぱり笑えた。脚本もすごいな。声優もよくもまあバカバカしいセリフを上手く回す。プロの技だ。宇宙人を笑わせるってなかなか容易ではないのだが。とりあえず『キルラキル』を毎週見ながら考えておこう。

宇宙人は耳注文がうるさい。新作アニメをチェックして、気になる作曲家を使っていると取りあえず第一話を見る癖がある。澤野弘之は筆頭で、菅野よう子、梶浦由記、大島ミチル辺りが入っていると耳が反応する。とはいえ作品自体が気に入らないとその先は見ない。四月の新作アニメで川井憲次が起用されていたので第一話を見てみたが、絵が雑なので多分この先は見ない。宇宙人の嫌いなCGを使っている。実際の人間の動きをトレースしたリアルデータ画なのだが、猫背の人間をベースに使うなと言うのだ。立ち姿が見苦しいだろ。
最近のアニメーターはもやは絵を描かないらしい。絵を描く人間なら、もっと人間を細かく観察して描き分けるはずなのだ。その点『キルラキル』のスタッフはガリガリに描いていてやり過ぎなくらいだ。昔のギャグ漫画のタッチを再現しようとしているから、画面から迫力がはみ出している。こういう画力は昭和の遺物になっていくのだろうか。名残惜しいな。

by hikada789 | 2019-04-09 21:13 | その他 | Comments(0)
細菌やウィルスといった病原は、病原にとって一番居心地のいい場所や時を選んでごく自然に人間に取りつくのだそうです。居心地の悪い所、生存環境の悪い場所には病原だって行きたくはないし、そこに棲みついたところで繁栄できません。だから病原が蔓延るということは、そこにいる人間や人間集団が病原にとって都合のいい条件を提供しているのであり、またタイミングとしても病原の繁栄に適していることを物語っているのです。逆に言えば、人間の生き方が自ら病気を招いているとも言えるでしょう。
これは病原に限らず、目に見えない霊的な作用や運勢の高低も同じで、その人の生き方や社会集団のあり方が、病気・霊作用・運不運を自ら招いているのです。

算命学は自然の大本である宇宙のあり方を考える学問ですが、宇宙という二文字は時間と空間を表しています。また干支は十干が空間を、十二支が時間を表しています。つまり算命学は、どこから見ても時間と空間の二本立てだということです。
人が病気になるのは、上述の病原の話と重ねるなら、人が病気を呼び寄せるような環境(栄養状態や衛生環境など)を空間として提示している時に、病気が蔓延するような時節(季節による温度や湿度の違い、戦争や災害といった非常時、社会の劣化、個人の老化など)がちょうど当たっているからだということになるでしょう。そして、人間ひとりではなく集団として病気が蔓延する時は、そうした病気を招くに相応しい時間と空間が、集団の側から大々的に提供されているという風に解釈できます。

算命学がしばしば病人や弱者に対して冷淡なのは、病人や弱者は外的要因による被害者なのではなく、本人に、或いは本人が属する集団に問題があるからだと考えているからです。集団に問題があるのなら、個人はその集団を脱すればよいのです。それをする勇気もなければ努力もしない上で病気になったと被害者ぶるのは、筋違いだというのが算命学の考え方なのです。
病気や弱者になりたくないのなら、それなりの努力と工夫をしろ。巡る四季(つまり時間)に逆らうことはできないが、居場所(つまり空間)を変えることはできるはず。もし物理的に空間を移動できない場合でも、その場所の性質を変える手立てはあるはずです。部屋が散らかっているなら整理整頓をし、病原が減るよう床や家具を磨き、窓を開けて換気をし、陽光を入れる。人間が菌を持っているなら全身を洗浄し、服は洗濯し、湿気をとる。健康的な食事をし、運動をし、睡眠をとる。誰もが日常的にできることです。この空間を狭い部屋から家全体、職場や社会全体に広げても同じことです。病気や不運を招いているのは、全てそこにいる本人の責任なのです。安易に宿命のせいにするのは間違いです。

さて今回の余話のテーマは、最近現役を引退して、国民栄誉賞も辞退したスポーツ選手の命式です。国民栄誉賞は三度目の辞退というから、よほど名誉欲のない命式なのだろうと見当をつけましたが、賞をもらわなくても既に十分名誉は上げている人です。ではこの人にとって名誉とは何なのか。その辺りに焦点を当てて命式を眺めてみます。
まだ生きている人なので、人生を総括するのは早すぎます。今後の半生がどう展開していくかは判りませんが、冒頭の話の通り、この人の前半生の成功は命式だけの功績だとは言えない、という点に着目していきます。

(この続きは「ブクログのパブー」サイト [http://p.booklog.jp/] に公開しました。副題は「ないはずの名誉」です。「算命学余話 #R94」で検索の上、登録&桜茶1パック分の料金をお願い致します。登録のみは無料です。)

by hikada789 | 2019-04-07 15:46 | 算命学の仕組 | Comments(0)
現在上映中の『ユーリー・ノルシュテイン《外套をつくる》』では、もう70歳を過ぎたノルシュテイン監督がなぜ製作開始から30年経った今も《外套》を完成できないのかを、この映画を撮影した才谷監督自ら問いただすシーンがあるのだが、ロシア語話者の耳には聞き方が悪くてつまらぬ応答になっている感が否めなかった(通訳が悪いのではない。通訳も「また同じ質問をくり返しているわ、この日本人は」とノルシュテインに弁明していたくらいだ)。高齢のノルシュテインが《外套》を未完のままこの世を去るのではという心配は判るが、ノルシュテインはソ連時代の芸術家なのだから、もっと内面的な話や人生を仕事に捧げる誠意について突っ込んで訊いてくれれば、興味深い回答が得られたに違いないのに。これだから資本主義出身の映像作家は中身が薄いと言われるのだ。目の高さが合ってない。
ノルシュテインが仕事を再開できないのは、ソ連時代のように資金面での心配なくアニメを作れる環境でなくなったからだけではないのだ。ソ連の社会は厳しい検閲があって自由な表現が制限されていたけれども、それでも人の心に強い印象を残す様々な芸術作品を生み出す環境はあったのだ。価値観と言ってもいいだろう。ソ連崩壊によって資本主義に移行した今のロシアでは、そのような作品は採算が見込まれずに企画段階でボツになる。採算を考えるとハリウッドの如き作っては捨てるような、見世物としての映画しか形にならない。ノルシュテインは運が悪かった。ソ連がまだ元気だった時代に《外套》を完成させておけばよかったのだ。資金面は、今どき流行りのクラウドファンディングでも充分集まりそうな気がするが、製作スタッフの高齢化と世代交代による技術継承の不調はかなり厳しい条件だ。芸術家ノルシュテインは語る。「自分が満足いかないような出来栄えのものは作りたくない。誠意のない仕事などできない」。この種の芸術作品は、ノルシュテイン共々、過去の遺物となるさだめなのだろうか。

時期を同じくして「ソヴィエト映画の世界」特集が同じく渋谷で上映中だが、まだ観たことのない『ミスター・デザイナー』を見てみたところ、エライ不可解な気分で鑑賞を終えた。1988年の作品なのだが、ソ連風のオカルト・サスペンスで、何とも評しがたい。88年といったらソ連末期のゴルバチョフの時代で、かなり検閲は緩くなっている頃だから、それまでより自由な表現ができたということなのかもしれないが、自由過ぎて意味不明だ。ソ連の検閲って結局政権批判さえしなければ何でも通ったってことなのか、よく予算が降りたな、と首を傾げたくなるほどシュールな内容だったが、西側の意味不明シュールとは違ってそこはソ連、妙に重厚だから印象には残る。いや、どうせ重くて意味不明ならアレクセイ・ゲルマンを見ればよかろう。
ともあれ、必ずしも芸術性の高くない作品であっても、やっぱり金儲けとは無関係な作品群を排出してきたのが、ソ連という社会だったのだ。もうあの社会が再び地上に現れることはなかろうから、この種の作品群も絶滅種となるのだろう。人類の可能性の一部を垣間見に、或いは非日常を堪能しに、是非ソ連映画をご鑑賞下さい。

by hikada789 | 2019-04-05 19:21 | ロシアの衝撃 | Comments(0)